禁断CLOSER#135 第4部 アイのカタチ-close-

4.Missing love -10-


 忘れろ、と拓斗が云った日から一カ月をとうにすぎた。季節はまもなく春から梅雨へと移り変わる。
 もっとも、那桜にとって早かったかというと、よくわからない。四月に戻れたら――そう思うと時間が止まった気がする。もしくは後戻り。そんな心と違って、躰は勝手にサイクルを取り戻して、何も気をつけることないわ、と先週の診察で由梨から太鼓判を押してもらった。それなのに。
『そういえば、那桜。古雅(こが)社長のところ、一昨日、赤ちゃんが無事に生まれたんだって。香堂先輩から聞いてる? 予定よりちょっと早いらしいけど男の子。会長からすれば、これでグレイスも安泰ってホッとしてるだろうね』
 こんなちょっとした報告に泣きたくなってしまう。
 郁美が無神経なわけではない。彼女は知らないから。郁美だけではなく、那桜が赤ちゃんをなくしたことを――妊娠していたことすら知っている人はごく限られた身内だけだ。翔流も美鶴も知らない。立矢はさすがに気づいていたけれど。

「……そうなんだ」
『……どうかした? あ、有沙さんの話になるよね。那桜が嫌ってるのを忘れてた。ごめんね』
 問いながら自分で答えを出した郁美はすまなさそうに謝罪した。沈んだ気持ちは電話越しでも伝わるほど声に出ていたのか、長く付き合っている郁美が鋭いのか。
「そういうことじゃなくて……ずっとまえは、いまのまま変わらないでいられればそれだけでいいって思ってたけど、なんとなく……変わらないのは、拓兄が変わらなくしてくれてたからってわかったの。それで……わたしは拓兄に何もしてあげられることがない って気づいたかもしれない」

 曖昧な云い方は自分でも心もとなさをあらわにして聞こえた。郁美は何を推し量っているのか、もしくは他愛ないことだとうんざりしているのか、しばらく黙った。
 自分でも他愛ないことだとわかっている。代償を求めるような拓斗ではないから。わかっているけれど、そう思えないときがある。檻を一歩出れば外敵がいると身に染みた瞬間から。

『もしかして後継ぎとか、そういうこと?』
「それもあるけど、それに付随した“何か”も。なんだか、すっきりしないことがあるの」
『何よ?』
「それがわかるならすっきりしてるよ」
『まあね。那桜の場合、子供は難しい問題だよ。学生の頃、そういうこと考えてなくてわたしも煽ってたけど』
 郁美はやはり率直で、肩をすくめていそうな口ぶりで云い終える。
「ごめん。郁美に云えてすっきりしたかも」
『謝られるようなこと、何もないけど。それより那桜、実家にはいつまでいるの? ゴールデンウィークは前触れなしの旅行してるし、今度はおばあちゃんのお世話で実家にいるしで全然一緒に出かけられないじゃない? おばあちゃん、そんなに具合悪いの?』
「ううん。もうすぐ沖縄帰るって。たぶん、マンションにももうすぐ帰れると思う」
『たぶん、て』

 呆れていそうな声だ。いまの那桜は、出かけたい、という気持ちがまったく起きなくて、それどころか出かけるのに躊躇してしまう。郁美や翔流から飲み会の誘いがあるけれど、ふたりにはそれを説明しようがない。
 ため息をつきそうになったとき、部屋のドアが開いた。
「だから、そのうちね。また電話するよ」
『拓斗さん、帰ってきたんだ。わたしは時間潰し?』
 責めた口調のなかにはわざとそうしているニュアンスも感じとれ、那桜は笑った。
「そういうこと。じゃあね」

 携帯電話を枕もとに放ると、ちょうど拓斗がベッドまでやってきた。かけぶとんの上に座った那桜を見下ろして、拓斗はちょっと首をひねる。
「おかえりなさい。電話は郁美」
「ああ」
「戒兄と叶多ちゃん、今日はツアーの前祝いで遅くなるって」
 拓斗の手が熱を測るときのように那桜の額にとどまる。やがて拓斗は息をついた。呆れているのではなくて、ちょっとした笑みが混じっていそうな吐息だ。けれど。
「風呂、入ってくる」
 那桜にとってはまったく期待はずれの言葉が返ってきた。
 拓斗は無頓着に、ネクタイを外して放るように椅子にかけた。シャツをスーツパンツから引きだしながら、ベッドを足側へとまわりこんだ。クローゼットを開いて着替えを取りだす拓斗を見守りつつ、那桜は小さくため息をついて口を開いた。
「拓兄、ごはんは?」
「食べてきた」
「疲れてる?」
「いつものとおりだ」
 わかっているだろうと拓斗は云い聞かせるようで、少々うんざり感が見えなくもない。

 蘇我のことが落ち着いて――正確に表すなら、転機が来て、何か世間が変わったかといえば何も変わっていない。こそこそするのをやめたといっても、あくまでも蘇我に対してであって、先立って戒斗が一年先のバンド活動休止宣言をしたみたいに、何も日本を動かすのは我が一族だとか隼斗が会見を開いたわけでもなく、やっていることは以前と変化がない。
 翔流や立矢は優良大企業のオーナー子息だから、世間の陰の事情というのも、那桜と、延いては拓斗と係わらなかったとしてもいずれは親世代から引き継がれて知ることになったのだろう。けれど、例えば郁美のように一般の公務員家庭では、陰で動いている一族などまず縁がない存在だ。
 だから、変わらない世間と同じで那桜にとっても何も変化はなく、けれど、拓斗は蘇我とのバランスをとらなければならなくなったぶん忙しくなった。落ち着くまでだ、と拓斗は云う。実際のところ、そうなる目途が立っていないことは那桜にも察せられる。ずっと裏でいることにこだわっていた理由はそれなりにあるはずだから。
 退院した翌日以来、拓斗の帰りは今日みたいに九時をすぎるという日ばかりになった。

 拓斗がクローゼットを閉じると同時に、那桜はベッドからおりた。拓斗の行く手をふさいで、シャツのボタンに手をかけた。
「拓兄、お風呂のかわりにわたしがきれいにしてあげる」
「那桜」
「お返し」
 ボタンは二つまですでに外されていて、三つめを外しかけていると手をつかまれた。拓斗はじっと見つめてくる。
 逃げないかわりに無を通して、相手に判断させる。そんな拓斗をずるいと思うけれど、那桜に関するかぎりノーではなくて、プラスマイナスの何かしら意味を含んでいる。
 いまはもしかしたらマイナスかもしれない。そう思うのは、やはり那桜が思いだしたくもない日から引きずっている気分的なものだろうか。
 那桜が手から力を抜くと、拓斗の手まで緩む。
「わたしはやっぱり汚れてる?」
 拓斗の時間が制止した。そんな一瞬のあと、拓斗は怪訝そうに目を細めた。
 那桜はアンダーシャツの下に手を忍ばせて、なだらかにでこぼことした腹部から背中へとまわす。傷の辺りに触れた。
「和惟も背中に傷があるの。知ってる? 拓兄の傷はわたしを守るため。和惟はトレーニング中にケガしたって云ってたけど……だれを守ったの?」
 その瞬間、拓斗の意識が那桜の誘惑(セダクション)から逸れたのがわかった。何か思い当たったように、那桜を見る目は那桜を通り越す。

「拓兄?」
 問いかけるとようやく拓斗の瞳が那桜に焦点を合わせる。
「おれは汚いものみたいにおまえを扱ってるのか」
「そんなことない! でも……」
 セックスしないから。
 求めるのは快楽ではなくて、躰を繋ぐこと。それは那桜にとって何よりも心強いお守りみたいなものだ。
 拓斗は、那桜の中途半端にした訴えを問いつめることもなければ、微動だにもしない。那桜の真意は通じているのか、迷いではなくて、好きにしろと云われているように感じた。
 背中に置いた手を逆戻りさせ、へその辺りから下におろす。ベルトを外しにかかると、その金属音がひどく扇情的に聞こえた。見上げている瞳がくすんだせいかもしれない。
 ファスナーをおろしてスーツパンツをはだけると、ボクサーパンツを下にずらした。拓斗の慾は少しも以前と変わらず、触れるまえから意思表示をしている。手を添えたとたん、はっきりと硬く猛っていく。
 そんな欲情をあからさまにしながら、拓斗は気を変えたように那桜の手をつかんで止めた。
「さきに風呂に入る」
 それからだ――同じことでも、今度はそんな言葉が付随していそうな云い方で、那桜が「はい」と即座に返事をすると、拓斗のくちびるがため息をつきながらも緩む。

 拓斗が浴室にいる間に、いつものごとく詩乃から誘われるまえにと、那桜は自分からコーヒーをもらいにいった。すると、隼斗に持っていくように頼まれて、まずは書斎に行った。隼斗は電話中で、「置いてくね」と那桜がこっそり云うとうなずいて応じた。
 隼斗とは、不幸な日からそれまでよりもっと気安くなった。皮肉にも、ということではなく、隠れていたやさしさが見えて素直にうれしいと感じている。
 それでも、どうしてだろう。退院してここに帰るまでは実家に住んでも平気だと思っていたのに、帰ったとたん、どこか居づらさを感じるのだ。
 隼斗からも詩乃からも拒絶は感じられないし、戒斗と叶多がいることに気を遣っているわけでもない。
 書斎を出てドアを閉めると、その向こうにある和室にちらりと目が行く。その場所はなぜか苦手なのに、那桜はなぜかそうしてしまう。そこで拓斗がふたりのことを隼斗に打ち明けるのに立ち会っていた間、混乱して怖くて衝撃的だったこと、それだけの理由ではない何かが存在する。なぜなら、あのときも、和室を出た瞬間にひどい怯えに襲われた。
 那桜は訳のわからない不安から顔を背けるようにしてリビングに戻った。

 コーヒーを二階に運んでから、ちょっとした悪戯心でパジャマと下着を脱いでいるときにドアが開いた。
 拓斗は一瞬だけ足を止めて、それから近づいてくる。那桜の裸は見慣れているはずなのに、それでも平気じゃなくさせているのだろうか。
 ベッドからおりるのと同時に拓斗が正面に来た。上半身は裸で、緩やかに隆起した胸に触れると、胸筋がぴくりと那桜の手のひらを押し返す。
「拓兄、じっとしてて」
 拓斗が何か云って拒絶するまえに、那桜は手を胸から腹部へと滑らせながら、ハーフパンツとボクサーパンツを一度にずらす。そうしてからひざまずいた。
 しばらく触れていなかった拓斗のものは大きく感じた。その先にキスをする。根もとにもそうしたあと、そこから舌を少し覗かせて滑らせていく。徐々に這いあがっていくうちに拓斗の手が那桜の首もとに添った。やめさせるわけでも自分のペースを強要するわけでもなく、むしろ一体化したように思わせるしぐさだ。
 那桜の思うまま先端まで上りつめると、拓斗の慾を含む。とろりとした互いの粘液が絡み合い、いっぱいになった口のなかを掻くようなうねりと、拓斗の堪えきれなかった声が那桜を酔わせる。
 那桜は拓斗のもの。わかっているからこそ、拓斗は那桜のもの――そう思えるような、対等な瞬間を授かるセックスは那桜にとって至福の時だ。
 深く浅く、ゆっくりと慾に絡むうちに呼吸が少しつらくなって、那桜は息を呑む。舌が自ずと拓斗の慾にきつく纏わりつく。拓斗が呻き声を立て、那桜の頭を遠ざけた。

「もういい。ベッドに上がれ」
 かけぶとんを剥いでぺたりと座ると、下半身まで裸になった拓斗が那桜のまえに腰をおろす。片脚を立て、もう片方は那桜を囲むように背中にまわした。拓斗は顔を近づけてきたかと思うと、ちょっと離れた場所で止める。待っているようで、那桜はちょっとまえのめりになった。くちびるとくちびるが触れる。舐めたり吸いついたり、戯れるようなキスは心地よくてうっとりする。
 ふたりの接点はくちびるだけで、拓斗の手がまったく自由であること、自分が隙だらけの恰好をしていることを忘れていた。わずかに開いた脚の間に手が忍びこんできたかと思うと、躰の中心が襲われた。全身がわななく。小さな悲鳴は、侵入してきた拓斗の舌がふさぐ。隙は拓斗にもあるが、那桜はそんなことに気づく余裕がない。
 セックスを夢に見ることはあっても、所詮それは脳内に染みついた快楽の記憶にすぎず、遠ざかっていた感覚が直に躰に甦って侵食されていった。
 拓斗の指先はどんなふうに触れているのだろう。那桜の感覚を高めていく。愛でるようにやさしいから、じわじわと発熱していって、その熱に気づいたときはもう手遅れ、そんな快楽だった。引き返したくないし、引き返せない。
 拓斗の手に蜜をこぼして、拓斗の口のなかには淫らな気吹(いぶき)を吐く。攻撃的なセックスを飛び越えた泣きたくなるセックスは、抱きしめられているわけでもないのに拓斗にくるまれているように感じて、那桜に守られていることを浸透させていく。
 痙攣が躰を突き抜けて二度め、那桜は拓斗に躰を投げだした。

「拓兄、もう……いい。でも……もっと!」
 拓斗の首に巻きついて那桜は息切れしながら、矛盾したことをつぶやくように訴える。
「那桜、避妊――」
「今日はいらない。拓兄と融け合ってるって感じたいから。気をつけてくれたらそれでいいの」
 拓斗の腕が那桜の腰を引き寄せる。
「このまま?」
「好きだろ。我慢できなくなるまでだ」
 避妊しにくいからなのか、めったにやってくれないけれど、鼓動を重ねるような抱かれ方は那桜のお気に入りだ。それを叶えてくれるうれしさと、拓斗のイントネーションが余裕がなさそうに聞こえて、那桜は拓斗の脚を跨ぎながらひっそり笑う。それでも伝わったかもしれない。いきなり膝の裏をそれぞれ腕にすくわれた。バランスを崩してしがみついているうちに躰の中心を慾がつつき、那桜は身ぶるいする。
「合わせろ」
 拓斗が腕を緩めると、云われるまでもなく自然と腰がよじれる。
 あ――。
 先端が体内に潜った。笑ったことを懲らしめるためか、やさしさは欠けがちで、拓斗は掻き分けるように那桜のなかに自身をうずめた。抉られるような感覚に息が詰まる。自ら生成した那桜の蜜液が潤滑剤になって、かろうじて窮屈さを緩和している。それくらいきつく、拓斗をいっぱいに感じた。

「大丈夫か」
 喋る振動にも敏感に反応して、勝手に快楽へと変換される。那桜は喘ぎながらうなずいた。
 那桜の脚を放した拓斗はかわりに背中と腰を抱く。緩やかに那桜を引き寄せ、今度は腕を緩める。その繰り返しは、()いだ海に浮かぶ舟に乗っているような錯覚に陥らせ、ふたりが堪えきれずに漏らす吐息は舟を漕ぐオールのように感覚を(はや)らせる。拓斗の限界をしっかりと見届けたかったのに、那桜のほうがさきに我慢できなくなった。
「拓に……」
「ああ」
 呻くように応えた拓斗はぐっと那桜の腰を引き寄せると同時に、腰を突きあげてくる。那桜の最奥が久しくなかった刺激に侵された。
 んあ、くっ――。
 きゅっとすぼまった感覚がしたあと、痙攣が派生したと同時に躰がベッドに横たえられた。
「那桜」
 振り絞るような声の直後、引きずられるような感覚にふるえ、それからおなかが熱く濡れた。

 湿り気を帯びた呼吸音が少し落ち着くと拓斗は隣に横たわり、那桜の頭の下に腕を潜らせ、もう一方の手で肩を引き寄せた。拓斗の胸はまだ大きく上下して那桜の額をつつく。うれしいような心地になって、那桜のくちびるが自然と笑みを浮かべる。
「拓にぃ」
「寒くないか」
「風邪ひく季節じゃないよ」
 頭上の吐息から笑っていそうな気配を感じた。





 翌日、家の外に出た那桜は、十時をすぎて高くまで昇った太陽の熱に包まれた。アンクル丈のスキニーパンツ、そしてノースリーブのカットソーに五分袖の薄手のカーディガンという、今日の恰好はちょうどいい。まもなく雨日和ばかりになるとは考えにくいくらい、空は水色に染まった光を反射している。

「目が疲れちゃいそう」
 あまりの眩しさに那桜が顔をしかめると、隣を歩く和惟が笑う。
「家にこもってるからだ。一歩も出ようとしない。かと思えば、いきなり出かけたいって何を企んでる」
「何も。ちょっと出かけたいって気分になっただけ」
「気まぐれだな。那桜のせいで仕事をすっぽかした」
 ふと、那桜は和惟のまえにまわりこんだ。和惟は足を止める。
「蘇我のこと、ほんとに心配なくなったら、和惟はわたしのお()りやめるの?」
 実家に帰ってから和惟とは離れて暮らしているが、家を出てから三年もたてば和惟がいるのはあたりまえのことで、例えば、右手があればどうにかなると思っていてもやはり左手がないと背中のファスナーが閉められなくて自分を守れない、そんなすかすかした気分になって、このまま離れてしまうのではないかという疑いが芽生えている。
 和惟は黙りこんだ。実際はすぐに口を開いたのだが、一瞬の間に感じたのはそんな気配だった。
「それをおれから取りあげるなら、おれは生きた屍だな。そうする気か?」
 和惟の云い分は大げさすぎる気がして、どこまでが本気なのか判別できない。那桜は首をかしげた。
「わたしがそうしたいって云ってるんじゃないの」
「なら、おれがそうしたいって云ってるのにだれも阻むことはできない」
「だれも?」
「首領がこのことに口を挟むことはない。それを心配してるなら。一心同体だって云っただろう。おれの優先順位が変わることはない」
 那桜が知らず知らずのうちに笑うと、和惟はくちびるを歪めて首を傾けた。

「拓兄の背中、縫ったから傷痕が残りそう」
「そんなものを気にする拓斗じゃないだろう」
「和惟は?」
「おれがなんだ」
「拓兄の傷はわたしを守るため。和惟の背中の傷はだれを守ったの?」
 和惟は刹那だけ表情を止めて、それから口を開きかけた。何を云うつもりか想像はついていて、那桜は否定させまいと先手を打つ。
「フリーランニング中のケガなんて嘘! 果歩は云ってた。傷に触らせてくれないって。ただのケガなら和惟がそんなこと云うはずがない」
 和惟はしばらくじっと那桜を見下ろして、やがて息をついた。
「守った傷じゃない。守るべきものを刻んだ傷だ」
「守るべきものって?」
「おれには一つしかないだろう」
 勘違いじゃなく、それは那桜のはずだ。
「ケガ、ひどかった?」
 ストレートに問いかけても答えてくれそうになく、那桜は遠回りな質問に変えた。
「輸血するかどうか迷ったらしいっていう程度だ」
 それが命を落とすか否かの選択だとわかっているだろうに、和惟はなんでもないことのように肩をすくめると、那桜がどう責めていくべきか思いつくまえに「どこに行くんだ?」と露骨に話題を変えた。

「会社。拓兄と一緒にお昼ごはんが食べられたらと思って。そのあとは美鶴さんとティータイム。朝、電話があって誘われたの」
「お嬢さまたちはこのご時世でも優雅だな」
 和惟は呆れたふうに云いながら、「拓斗と約束してるのか」と訊ねた。
「ううん、してないけど、拓兄に連絡なんかしないでいいから! ずっと出かけてなくて気にかけてくれてるのもわかってるから、大丈夫だっていうサプライズ。昨日、お父さんの電話を聞いてたら、相手はだれだか知らないけど、拓兄は今日ずっと内勤だって云ってたの」
「耳ざといな」
「盗み聞きじゃない」
「那桜はかくれんぼ好きなわりに得意じゃないからな。盗み聞きしてもすぐ発見される」
「違う! わたしがすぐ見つかるのは拓兄のせい」
 和惟はプラスティックスマイルを見せた。その下に見えるのが孤独と映るのは那桜の考えすぎだろうか。
「そうだ。那桜は拓斗にすぐ影響される。例えば、今日出かけることも。昨日の夜、“愛された”んだろう」
「いけないこと?」
「愛してもらえって云ってるだろう。それでいい。男には――拓斗には拓斗の思うところがある。那桜が不安になることはない」
「和惟にも?」
 思わず問いかけたものの、和惟は可笑しそうに笑っただけだった。


 有吏LTDに着いて、さきに車を降りた那桜は不審人物のように会社のなかを窺う。慎重に近づいていくと、和惟がすっと通りすぎて堂々とエントランスに立ったから那桜はがっかりする。
 仕方なく、待っている和惟の横を通ってなかに入ると、拓斗の姿は見えない。拓斗のかわりに那桜の登場に驚いたのは孔明だった。あと内勤しているのは矢取家と仁補家の伯叔父たちと惟均だけでほかの従兄たちは見当たらない。

「那桜さん! 大丈夫ですか」
「孔明さん、こんにちは。大丈夫に見えない?」
「いえ。お元気そうです。怖い思いをさせてしまって本当に申し訳ありません」
 孔明は気の毒になるくらい深々と頭を下げた。これで、蘇我の現頭領や総領を打ち負かすことができるんだろうかと思うけれど、拓斗はそうさせると云っているし、本人が相当その気だと聞いている。実は、孔明がすごい二重人格者ということも考えられなくはない。叶多の話では、初対面の印象といまは全然違っているという。
「孔明さんが悪いんじゃないでしょ。ね、和惟」
 怖さが消えたわけではないけれど、病院行きのような必要なことではなくてもこうやって出かけられていることは、少しずつでも癒えているということかもしれない。できれば、事件のことに触れてくれないほうが助かる。話を切りあげようとしたにもかかわらず。
「延いては孔明のせいじゃないとは云いきれない」
 和惟に振ったのが間違いだった。那桜がフォローするまえに孔明は再度一礼する。
「そのとおりです。すみません」
「謝罪の言葉はだれの身にもならない。そうする暇があったら有吏をわずかでも学べ」
「はい」
 孔明はぴんと背筋を伸ばすと、敬礼をするような勢いで返事をした。

「惟均くん、拓兄は?」
 和惟と孔明の会話を監視するように見守っていた惟均は、那桜に視線を転じると、駄々っ子をたしなめるような眼差しに変える。
「上にいる。首領と会議中だ。邪――」
「邪魔してくる!」
 惟均の忠告に被せて、おそらくは惟均と真反対のことを宣言すると、処置なしとばかりにカウンターの向こうからも隣からもため息が聞こえた。
「待てないのか」
「ちょっと顔を出してくるだけ」
 那桜は和惟の言葉にかまわず階段に向かった。

 踊り場で折り返すと、那桜は足音をひそめながら会議室を目指す。二階の廊下に出ても話し声は聞こえず、どの会議室だろうと思いながらゆっくり進んだ。
 ふたりきりということは部屋が広い必要はない。会議室というよりは応接室っぽい部屋を目指した。案の定、三つめの部屋に近づいたところでぼそぼそとした声が聞こえだす。何を話しているのだろう、と無意識に好奇心が湧いた。

『……午後からの会議には貴仁も?』
『ああ。孔明も同席させる。気に入らないのか』
『その反対だ。一族内のように、云わなくても通じるまでに息を合わせたいと思っている』
 隼斗はうなずくなりしたのか、しばらく沈黙が続いた。ノックするかどうかを迷ったすえ、ドアノブをつかもうとしたそのとき――
『那桜はどうだ』
 隼斗の口からいきなり自分の名が出て、那桜は手を引っこめた。
『何が』
『詩乃もそうだった。外に出ることを拒んでいた』

 ……“お母さんも”って?
 那桜は眉をひそめて耳をすました。

『母さんはいまでも独りで出かけることはない。父さんがそうしてると思っていた』
『そのとおり、半分は私の意思だ』
『……なんでだ』
 拓斗の声は疑問であると同時に責めるように聞こえた。
『那桜を同じ目に遭わせたことは、詩乃のときと同等に悔やんでいる。そうとしか云えない自分に苛立つ。判断が間違っていたと糾弾されればそれも受け入れる。それらを忘れることなく抱えて挑んでいくのみだ。それしかできることはない』

 同じ目……?
 隼斗自身が那桜のことで悔やむとしたら、蘇我が係わったあの事件しかない。二度繰り返された、共通点を思わせる言葉が詩乃と那桜の間を指しているのなら、詩乃もまた――?

『父さん』
 そこで区切ったのは、ためらいか、それだけの重大事だからなのか。
『なんだ』
『追及しないほうがいいというのはわかっているつもりだ。何かが変わるわけでもない。けど、那桜のことなら知っておきたい』

 わたしのこと?
 異様に鼓動が高鳴っていく。こんなふうに大事なことを、自分に関することを、いつか聞いた気がする。どこで? いつ? 何を?

『……なんのことだ』

 慎重な隼斗の声のあと――。

『那桜の父親はだれだ』


 ――どうしてなの?

 悲鳴じみた問いかけが追いかけてくる。

 ――貴方の娘じゃないから?

 すぎた時間に引きずられるような感覚が那桜を襲う。耳の奥に鳴り響く、詩乃の叫び声はだれの記憶にあるのだろう。

 ――有吏の子じゃないからって……。


 わたしは有吏の子じゃないの?

 自分の声が脳内にこもり、二重に木魂した。


 拓にぃ……。


 那桜のくちびるが拓斗を呼ぶも、音にはならなかった。

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