禁断CLOSER#132 第4部 アイのカタチ-close-

4.Missing love -7-


 和惟が一歩踏みだすか否かのうちに、那桜の病室の、奥まったドアスペースから拓斗が出てきた。
 和惟はとっさに詩乃との会話を回想する。
「どうしたんだ。那桜は?」
「眠った。話し声が聞こえたから出てきただけだ。なんだ?」
 きわどい会話をした憶えはなく、拓斗の雰囲気から何かを悟ったふうには見えない。もっとも、拓斗は百パーセントに近く自分の感情を――嫌味さえも表さないが。
 那桜を傷つけたというのに、和惟の落ち度を責めることもしない。それよりも自分を責めることのほうを先んじた結果だとは察するにたやすい。拓斗の傷を招いた失態も和惟にとっては心外にほかならず、男の襟首をつかむのがもう少し遅ければ、いま頃はまだ手術中かもしれなかった。もしかしたら最悪の結果も――。
 どんな心の内も語ろうとしない拓斗が、云い訳を口にしたことなどない。にもかかわらず、傷を負ったのは和惟のせいだと拓斗が責めたのは、こっちの気をらくにするためにあえてしたことだろう。
 守る立場にある者が守られて、何をやってる、おれは。
「詩乃おばさんと話してた。那桜のことを気にするのは当然だろう?」
 拓斗は肩をすくめた。
 二十六年まえ詩乃に何が起きたのか、拓斗は聞こうとしない。それはどんな意向があってのことか、ただ、そこに那桜を結びつけていないことは確かだ。那桜に関することなら一から十まで把握したがる拓斗が、追及しないなど看過するはずがない。那桜の出生はごまかされている。気づかないとしてもおかしくはない。
「よく眠るな」
「薬のせいだろう」
 拓斗は踵を返して病室へと戻っていき、和惟はあとを追った。

 那桜は奥のベッドで、入り口に背中を向ける恰好で眠っている。念のためにと、那桜の側にベッドガードを取りつける間も起きることはなく、熟睡しているようだ。
『わたしを守って』
 那桜もまた責めることをしなかった。普段は平気でわがままそのもので責任をなすりつけるくせに、肝心なところでそうはしなかった。
 責めてほしいと思うのは、和惟の弱さなのか。

 警告するがごとく回転翼の音が不気味に取り巻くなかで、縋るように握りしめられていた和惟の手には、那桜の爪痕が傷として残っている。それほどの、痛みよりは“悲痛”だったのだ。悲鳴が耳の奥にこびりついている。
 和久井からの情報を頼りに那桜へとたどり着いたとき、その構図から、詩乃が穢されたように――という認められない最悪のことを覚悟した。状況を把握したか否かのうちに、那桜が目に入ったとたん走りだした拓斗のあとに続くと、那桜も男も衣服を身につけたままであることをすぐさま認識した。那桜の様子からもどうにか間に合ったということを消化できたときの気持ちは筆舌に尽くしがたい。
 だからこそ和惟は油断し、拓斗が傷を負うことになったのかもしれない。
 失態の連続に追い打ちをかけるような、男の顔を見たときの衝撃に――いや、衝動だ。拳を喰いこませるくらいではすまないという情念を覚えたのは、幼かったあの日あの時以来のことだった。
 那桜にわかるはずがない。そして、男が不用意な告白をしていないことを、あまつさえ、男自身が核心に迫ることはなかったと信じつつ、和惟は目が眩みそうなほどの吐き気と闘わなければならなかった。

 那桜から――父親を奪いたくないの。
 そのとおりだ。何よりも。那桜から隼斗という父親を取りあげるわけにはいかない。
 那桜に顔が合わせられないという気持ちが強く、遠慮がちになったことは那桜にも見抜かれていた。何気なく振る舞えないほど、おれには資格がない、という幻滅に囚われた。至るべきところはそこじゃない。どんなに心底が醜くなろうと、たとえ堕落しても、守るべきものを守り続ける。それしか自分には残っていない。

 シャワーを浴びて戻ってくると、那桜は身動き一つしていないようで、隣に寝そべった拓斗の胸に顔をうずめるような恰好で眠っている。
 かつて――快楽を貪欲に求め合っていた頃、那桜がそうする相手は自分だった。抱きしめられることが、あるいは蒸気する躰と吐息を合わせることがセックスの真意であるかのように、那桜は寄り添っているのが好きだった。
 それが、だれも当てにすることのできないさみしさの裏返しだったとしたら、那桜が離れていったのは和惟自身のせいにほかならない。那桜の未来に待っていることを知っているがゆえの、和惟の立場ゆえの、踏みだせない一線が自分のなかにあった。
 拓斗は一線を越えた。いや、それ以上だ。兄であり――拓斗はそれを表面上のことと受けとっていても、何より総領として先例のないわがままを通した。
 だからこそ、第二の一族狩りを招いてしまったのは皮肉な結果であり、拓斗の後悔は計り知れない。和惟とてしかり。だが、和惟のように一歩下がるよりも、拓斗は抱きしめることを選ぶ。何一つとして曇りなく那桜に向かう。
 どんな気持ちが違うのだろう。拓斗に託したのは和惟だ。絶対の権限をもって那桜の立場を守れるのは拓斗しかいないと判断した結果だったが、根底には、自分のなかに守りきる自信がなかったのかもしれない。
 苦しくなるほど拓斗を羨んでいる。ともすれば、その表現は生ぬるい。

 ベッド脇に立つと和惟は躰をかがめ、緩く波打つ髪を那桜の頬から払った。止めるかと思いきや、拓斗はそうしなかった。庇護するように那桜の腰辺りに置いた腕をぴくりともさせない。まったく眠気の飛んだ目が和惟を見上げてくる。
「どう思う」
 筋道となる前置きもなく、拓斗は和惟に問いかける。
「なんについて応えればいいんだ」
 和惟は隣のベッドのふとんをはがし、腰をおろした。
「翼下を守る――父はいつもそう云ってきた。そのために蘇我との約定に踏みきったというのも理解できなくはない」
「けど?」
 明らかに反論があるにもかかわらず拓斗はいったん言葉を切り、和惟が拓斗を促すも、そうするほど考慮するべき事項なのだろう、口を開くまでには時間が要った。

「有吏は隠れている必要があるのか」

 拓斗の言葉は、何もない真空への入り口を開いたかのような感覚に陥らせた。
「……どういうことなんだ?」
「なぜ、堂々とできない? 守ることすら、こそこそやらなきゃならないってなんだ」
「有吏はそうやって役割を果たしてきた」
「時代は常に変化している。有吏は身を以て体認し、考慮してきた」
 総領として在る拓斗の意志も変化しつつあるということか。云うまではためらっていたわりに、その声音には断固としたものが気取(けど)られる。
「晒すべきだ、と?」
 古来、だれもなし得なかった決断を、この時に。
「閉鎖的であることが、必ずしも良と出ているわけじゃない。一族狩りはその典型だ。裏分家を表に出すつもりはないが、本家が出れば当然、表分家は晒されることになる。けど、和久井家、瀬尾家と、そして和惟、衛守家がいる。それで充分だろう」
 今日のことがあってもなお、本家は衛守家に信頼を置く。分家をみだりにはけっして扱わず、そういう本家だからこそ、名もなき分家は有吏という名もなき主の下で結束してきた。
 かつてない決断がどんな前途を招くのか予想もつかない。仮の名を本名(ほんめい)としたそのときからこそ、有吏一族の真価が問われるのかもしれない。

「春の集結で、蘇我に関しては表分家も裏分家も、本家の判断に任せると云っただろう。本家が一本化すれば問題ない。ただし、おれたち分家にとって、本家を守ることに充分ということはない」
「ああ」
 意を固めたような一言だった。



 篤生会病院ですごすのも四日め、那桜は出血が少しあるだけで躰の痛みを訴えることもなく、順調に快復に向かっている。だが。

「拓兄、背中、痛くない?」
 ベッドに腰かけた拓斗の背後から那桜が呼びかけた。
 この三日間、正午もとっくにすぎてからやっと着替えるという、だらけた生活をするのは憶えているかぎりはじめてのことだ。悪くない、と思い始めたものの、今日で終わりだ。
「なんともない」
「じゃあ、ちょっと待って」
 ベッドが揺れたかと思うと、那桜はサイドテーブルに置いた除菌用ウェットティッシュを一枚取りだして自分のくちびるを拭く。次には拓斗の後ろにまわり、アンダーシャツをたくしあげた。
 肩甲骨の傍にふわりと触れる感触がした。そのやわらかさは離れたかどうかというくらい浮いたあと、ほぼ同じ位置でまた触れる。そうやって、那桜のくちびるはわずかな移動を繰り返し、拓斗の傷を追う。性的なタッチではないのに、躰が疼くのは不謹慎なのか。傷の終点までもう少しという脇腹に近づいたところで拓斗は立ちあがった。
 振り向くと、パジャマ姿の那桜が首をかしげて拓斗を見上げた。何が見たくてした行為なのか、その瞳は挑むようにも勝ち誇ったようにも取れなくはない。だがそれは表面的なことで、真意は、きれいにして、と切実に訴えているような気がしている。なぜなら。

「おまえも着替えろ」
「ここでお洒落してもしょうがないと思うけど?」
「どこでもいい。おまえが行きたいところに連れてってやる」
 パジャマのボタンをはずされるままだった那桜が、拓斗の手をつかんでそうするのを止めた。
「行かなくても、拓兄といられるんだからここにいるほうがいいの」
「那桜」
「わたしのお()り、いいかげん飽きた?」
 那桜はおどけたふりをして肩をすくめた。軽くあしらうことでごまかそうと思っているのか。
 那桜は入院して以来、一歩もこの部屋を出ようとしない。それがどういうことか。

 那桜の首筋を両手でつかみ、すくうように顔を上向かせると、拓斗は顔をおろした。くちびるが触れ合う瞬間に、花のつぼみが開くように那桜の口が綻ぶ。ふさいだすき間から那桜のくちびるを舐め、ぴたりと吸着すると、那桜が舌を覗かせて拓斗のくちびるにお返しをする。一度、息を呑んだあと、拓斗は那桜の口のなかを侵した。
 しばらく受け身でいた那桜は満足げに喉を鳴らすと、混じり合ったふたりの蜜を飲み下して、(ついば)むように舌を交えてきた。つついてすぐ引っこめた那桜の舌を追い、捕らえ、這いずるようにして突き放すと那桜が拓斗を追ってくる。繰り返しているうちに、じれったさにたまりかねたように那桜が拓斗のなかに侵入してくる。
 もっと、という叫び声と、もっとだ、と吐く声が無言のまま通じ合う。
 やがて、たくにぃ――声にならない声とともに那桜が力尽きる。未練がましいだけの吸いつくようなキスのあと、呼吸に変えた。

「拓にぃ……」
 くちびるを離すと、のぼせた声とともに潤んだ瞳が拓斗へとまっすぐ向かってくる。
「パジャマのままでいい。そこのレストルームに行くぞ」
 それでもためらった那桜の手を取った。
「和惟は?」
「あいにくとここにいる。気づかなかったようだけどな、ずいぶんと待ってる」
 皮肉っぽく吐いたのは和惟本人だった。正面の入り口を見ると、和惟は壁にもたらせていた右肩を起こした。
「注意を払う必要ないだろ」
「あたりまえだ。これ以上の失望はいらない」
 云い放った和惟は、四日まえの後悔をどう消化したのか、見かけは完全に以前の和惟に戻っていた。

「三時のおやつの時間だ。何か頼んでくる。那桜お気に入りのフルーツパーラーから取り寄せてもいい。何がいい? 苺、マンゴー、メロン、プラム――」
「マンゴーいっぱいのフルーツパフェがいいかも」
 フルーツの名が並びだしたとたん入り口のほうを振り返った那桜は、和惟をさえぎって注文をした。
「オーケー」
 和惟は片方だけ口の端を上げると肩をそびやかして出ていった。

 那桜の扱いは、和惟の右に出る者はいない。和惟のことだ、だれのこともそんなふうに操るのだろうが、それは拓斗の心底をなだめる材料にはならない。時に那桜の夢のなかに和惟が入りこむことさえも、なんともないと云ったら嘘になる。拓斗の知らない場所で、という自分の思考の理不尽さに自分自身が苛立つ。
 記憶をなくした那桜の心底に孤独が根付いているのなら、拓斗が目を背けていた間、和惟の目を当てにしたとしても、そして、いまでも和惟を頼みとしていても、那桜を責められない。記憶がないからこそ、またいつか置きざりにされる、そんな怯えを拭い去ることはかなわず、那桜から和惟を断ちきれない。
 躰のなか、拓兄にしか許さないの。
 その言葉を頼りに独占権を誇示したくなり、逆にそんな卑小な自分に嫌気がさして、和惟に触れさせる。結果、残るのは醜く無様な感傷だ。

 拓斗に向き直った那桜に再び、行くぞ、と声をかけると、おずおずとしながらも嫌がることはない。
 パジャマのボタンを留めてやって病室から廊下まで出ると、那桜はいったん立ち止まり、隅から隅まで見渡す。知らない場所に連れてきたときの子供のような反応だ。ふと那桜が拓斗を見上げ、目が合うと、ためらうように視線を宙にさまよわせ、それから首をすくめた。
「ちょっと怖いの」
「わかってる」
 那桜は一言の返事から何を見いだしたのか――
「うん。大丈夫」
 と、あからさまに肩の力を抜いて笑った。拓斗もまた安堵する。

 外に出ること自体はなくてもいい。これまでも、できるだけそうしたくてそうさせてきた。ついさっき誘いだそうとしたのは、少しでも恐怖という感情から抜けだしてほしいからだ。
 那桜には忘れたくないと云ったものの、本音を云えば思いだしたくもない日の夜、拓斗が病室に帰ってまもなくしてもパウダールームから出てこない那桜を迎えにいった。そのときの拓斗を見つめる瞳には怖れしかなかった。現実を拒むように、那桜は遭遇したことを夢にしかけた。

「レストルーム、あそこだよね」
 那桜はナースステーションの奥を指差した。サンテラスのような佇まいで、日差しがコントロールされ、温かさを醸しだしている。
 そんな雰囲気とは真逆の恐怖。どうやれば刻まれた烙印から那桜を守ってやれるだろう。
「ああ」
「拓兄にもパフェ分けてあげる」
「いら――」
「――ないって云いっこなし! デートはしばらくできなかったし、少しくらいそんな気分にさせてくれてもいいと思わない?」
 誘いを断ったのを棚に上げ、那桜は那桜らしく身勝手な主張をした。

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