禁断CLOSER#131 第4部 アイのカタチ-close-

4.Missing love -6-


 拓斗からバスタオルでざっと全身の水滴をすくわれ、那桜はさきに浴室を出た。着替えがいつの間にか棚に置いてあった。拓斗のものまであるのを見ると、詩乃ではなく和惟が準備したというほうがしっくりくる。和惟がいないことのほうがおかしいのだろうが、来ているのだと思うとほっとする。
 那桜がショーツだけ身に着けたところで、拓斗が浴室から出てきた。
「背中、ちゃんと拭いてあげる」
 拓斗の手からバスタオルを奪うと背中にまわりこんだ。見ればしがみつきたくなるほど広背筋はきれいに起伏していたのに、いまは触るのを躊躇するほど痛々しい。
「那桜」
「大丈夫」
 那桜が答えるにはどう聞いてもちぐはぐした言葉を発して、拓斗の振り向きそうな気配を制した。
 バスタオルを軽く押し当てるようにして水気を吸っていく。早く治りますように――そんなことを願いながら、隠すのがもったいないくらいバランスのとれたお尻まで進んだとたん、拓斗は振り返る。今度は、拓斗が那桜からバスタオルを取りあげた。そのまま棚に放ると、おかえしなのか、拓斗は那桜にキャミソールとパジャマを着せた。
「ありがとう」
 拓斗はわずかに肩をすくめて応じると、ボクサーパンツを手にした。

 那桜はカーテンを開けてパウダールームの椅子に座り、髪を乾かし始める。まもなく、服を着終わった拓斗がドライヤーを取りあげた。自分でやると面倒くさいと思う時間も、拓斗にしてもらうとずっとそうしていてもらいたいと思うほど心地いい。
「拓兄……」
 拓斗は鏡越しにためらいがちな那桜を見て、ドライヤーのスイッチを切った。鏡に映る拓斗は、なんだというかわりにいつもと反対側に首をひねった。
「和惟もいるよね?」
「……何を気にしてる」
 問い返す拓斗も、一瞬だけ、表情がないのではなく表情が止まったように見えて、何か気にしているような雰囲気を覗かせる。
「いつもと……違ってる気がするから」
「おまえのせいじゃない。和惟の問題だ。ちょっとは想像できるだろ」
 拓斗の云うとおり、まったく想像がつかないということはない。ただ、後悔という言葉にはおさまりきれない何かを感じる。
「うん」
 うまく説明もできなければ、拓斗から明確な答えが得られるわけもない。再びドライヤーを当てられるなか、那桜は悶々とした気分が続いた。

「拓兄、今日のこと……赤ちゃんのことじゃなくて、後悔っていう気持ち、いつか忘れられる?」
「子供のことは切り離せないし、忘れたくはない。二度と――それだけだ。けど」
 拓斗は中途半端に区切った。
「拓兄?」
「おまえは……忘れろ」
 銀杏の木、雫、湿った呼吸、息苦しさ、熱っぽい腕、そんな映像と感覚が瞬時に那桜を取り巻いた。
「……拓兄?」
「おまえが憶えている必要はない。つらいことも嫌なことも、おれに預けていればいい。全部」
 後ろから拓斗が那桜の顎を持ちあげる。自然と口が開くと、拓斗が同じように口を開いてふさぐ。キスではなく、重ねたくちびるの間で、なくした何かを補うように呼吸を共有した。


 拓斗の後ろをついてパウダールームを出ると、病室には詩乃と和惟のみならず、隼斗がいた。
 待ちかねていたように三人の目が一斉にこっちを向いて、那桜はわずかに怖じ気づいた。思わず立ち止まると、そうした那桜とは反対に、隼斗が真っ先に近寄ってくる。正面に立った隼斗はふっと息をつき、それはため息ではなく安堵に聞こえて那桜の緊張をほぐした。
「躰はどうだ」
 いつもと違って語尾がかすかに上がる云い方は、気配のとおり、思いやるような気持ちが表れている。
「うん、大丈夫」
「よかった」
 即座に答えた隼斗だったが、ふと何か思い当たったように一度瞬きをして那桜を見直した。
「子供のことは残念だったと思っている。忘れろとは云わないが、那桜、あまり気に病むようなことにはなるな」
 そう付け加えたのは、万事が『よかった』わけではないから、自分が口走った、ともすれば無神経な発言を自らでフォローしたのかもしれない。ただ、那桜にとっては隼斗の最初の言葉だけでらくになれている。それに、『忘れろ』と云った拓斗とは真逆の言葉が、那桜をおもしろがらせて、また少し気分が軽くなった。
 拓斗を見上げると、同じことを思っているのか、おれの云うことをきいていればいい、とそんな言葉が聞こえてきそうな眼差しが向いた。

 那桜は隼斗に目を戻してうなずく。
「お父さん、ありがとう」
 隼斗は目を細めた。しかめ面とは少し違う気がした。
「弁当はうまかった」
 ありがとうと云われるのも云うのも苦手らしい隼斗の返答は、反応をごまかすためかまったく違う方向へと飛んだ。あまつさえ、その言葉もまさか聞けるとは思っていなかったものだ。
「詩乃、部屋に行くぞ」
 目を見開いた那桜の顔を見るか否かのうちに、隼斗は詩乃に向き直って促した。詩乃は、一方的な命令に不満が見え隠れするようなため息を小さく漏らす。
「那桜、大丈夫ね?」
 驚きさめやらぬまま那桜がうなずくと、詩乃の目は拓斗に向かう。
「心配ない」
 拓斗は詩乃が何も口にしないうちに機先を制した。
「拓斗、明日の仕事は出てこなくてもかまわん。何かあるときは人をやる」
 隼斗は、拓斗の意向を尊重しているようで、実際は押しつけている。拓斗は口答えすることなく「ああ」と肩をそびやかし、それを見届けた隼斗と詩乃はそろって出ていった。

「一時間近く出てこないし、冷めてるかもな」
 ドアが閉まるなり、和惟はソファの手前にある大きなワゴンに向かった。あのとき聞こえたのは、看護師の巡回ではなく食事が運ばれてきた音だったようだ。ワゴンには、クローシュを被ったお皿がいくつも載っている。
 おなかが空いた気はしてきたが、それよりも気になるのは和惟が那桜を避けているように見えることだ。さっきも目が合ったのは一瞬だけだった。
 さみしいような虚しくなるような気分になってくちびるを咬んだのもつかの間、那桜はためらうよりも早く和惟を追った。
「和惟」
「すぐ用意する」
 和惟はわかっているはずなのに勘違いしたふりをして矛先を転じた。都合が悪いと話を逸らすなんて、さっきの隼斗と一緒だ。隼斗と違うのは、まったくのマイナス要因からきていること。那桜は和惟の腕をつかみながら、そうしても拒絶されれば到底力では敵わないとわかっているから、和惟とワゴンの間に無理やり躰を入りこませた。

「和惟、怒ってる?」
「怒る? なんのことだ。せっかくの料理を落として台無しにしたくないだろう」
 和惟は目を合わせずに、自分の腕をつかんだ那桜への手へと視線を落とした。手首をつかまれたとたん、那桜はさらにそうした大きな手の甲をつかむ。
「和惟、わたしは汚い?」
 そう云ったとたん、和惟の目がぱっと那桜を向いた。
「……なぜそんなことを云う?」
 探るように那桜を見つめたあと、和惟は険しい声で問いつめた。
「汚い手で触られたから」
「ばかげてる」
 和惟は、まるで口にしてはならない忌むべき言葉を発するかのように吐き捨てた。
「でも、和惟はわたしを見てくれないから」
「おれは、那桜を、危ない目にも、怖い目にも、つらい目にも遭わせた。子供を殺したのは、おれ、だ」
 和惟が一つ一つ刻むように区切るのは、那桜にそうしているのか自分自身にそうしているのか。那桜に対してであれば、それは隔絶するためだと思えた。

「だったら。和惟、わたしを守って。拓兄のことも。これからわたしが一つも、何も、なくさなくていいように。失うのはもう嫌」

 プラスティックではなく、ただ制止した表情で、それでいて何かを堪えるような苦辛を纏い、和惟はしばらく那桜を見下ろしていた。
「赤ちゃんが欲しいって云ったのはわたし。産婦人科じゃなければ、嫌って云っても和惟はついててくれたってわかってる」
 それでも和惟が口を開く気配はなく、那桜はほかに何を訴えればいいだろうと考え巡る。すると思いつかないうちに、ふと和惟が鼻先で笑った。呆れたようにも気が抜けたようにも見える笑い方だ。
「和惟?」
「那桜はわがままだ」
「だめ?」
「それでいい」
 つぶさに見上げていると、そうする意味を察したのだろう、「おまけに欲張りだ」と続けたあと、和惟は“口癖”をつぶやいた。
「欲張りなのはそう。でも、飛びださないことにする」
 ほっとした那桜と同じように、和惟も肩の力が抜けたように小さくすくめた。
「まえからそう要請してる。それより、いまは躰を休めるべきだ。そこに座って」
 和惟はすぐ傍のソファを指差した。
「うん」
 那桜は答えながら拓斗を振り向いた。
「拓兄も早く来て」
 和惟のことで不安にしていた那桜を知っているから、拓斗は口を挟むこともしなかった。那桜の誘いで近寄ってきた拓斗は、手のひらで那桜の額を小突くようにしたあと、ソファへと促した。

 手際よく和惟によって料理がセッティングされる。ソファーのテーブルは低いから食事をするには不向きで、那桜だけ床の絨毯に座って食べ始めた。
「お母さんたち帰ったの?」
「隣の部屋にいる」
「首領もこのまま泊まるそうだ」
 拓斗に次いで和惟が答えた。
 ふたりがいるだけでも怖くはない気がするけれど、隼斗と詩乃がいてくれると聞くと、もっと気が軽くなった。そのことで、思っているより自分がショックを引きずっていることを知る。那桜の安堵はあからさまだったのだろうか。
「和惟も泊まるし、心配ない」
 と、当然だとすでに那桜が思っていることをわざわざ拓斗はフォローした。
「隣のベッド?」
「三人で寝るには狭くないか」
「広くても無理だ」
 部屋は別かと訊いたつもりが、和惟の返事も、それに咬みついた拓斗も、一緒の部屋というのが前提にあるようで、それもまた那桜を心強く安心させた。
 拓斗は那桜のすぐ横でソファに座っていて、和惟は那桜のまえにいる。家にいるときと変わらない。ずっとまえ、別荘では拓斗と和惟が逆の位置にいて、気分はといえば、わけがわからなくて不安だらけだった。それでも、ふたりのなかに那桜がいるからこその仕打ちだったことを、いまではなんとなく理解できている。
 自分のことを大事にしてくれるだれかが傍にいることといないこと、思いだしたくもない孤独な時間が脳裡をよぎるなか、那桜はその違いを心底から感じた。


 日付が変わる頃、拓斗とふたりでベッドに寝そべる一方で、和惟は見回りだと云って部屋を出ていった。
「拓兄」
 ためらいがちに呼びかけると、こめかみの下で拓斗の腕がぴくりとする。
「なんだ」
「コーヒー……なんともなかった。つわりってこんなものなのかな」
 拓斗の手が那桜の額を撫であげる。なぐさめて欲しいわけではなくて、同じ気持ちでは量れなくても、やはり共有していられたらと思ってのことだ。拓斗は何も云ってこないから、きっと伝わっているのだろう。
 那桜が首を反らすと、合わせて拓斗はうつむきかげんにして見下ろしてくる。
「拓兄、拓兄は自分のせいだって云ったけど、わたしが赤ちゃん欲しいって云ったから、拓兄は叶えてくれただけなんだよ」
「おれの意思がなければ、おまえが云ったとしても叶うことはなかった」
「じゃあ、両成敗?」
「罰じゃない」
「……うん。ありがとう、拓兄」
 拓斗の口もとがわずかに歪む。

 罰ではないのなら、ふたりのところにやってきた赤ちゃんもきっと救われる。
 口数が少ないだけに、いい意味でも悪い意味でも拓斗の言葉には振りまわされることが多い。ただし、どちらにも大事な意味が隠れていて、それはいまも同じだった。



 篤生会病院の十階は、すべての出入り口で衛守セキュリティガードによる二十四時間態勢の警備を配置している。
 和惟はそれぞれで衛守家分家のガードマンたちと確認を取り合う。病室へ戻ろうとしたとき、ちょうど詩乃と鉢合わせをした。

「那桜はどうかしら?」
 詩乃たちが宿泊する部屋も設備は不備なく整っていることを考えると、その問いかけのとおり、那桜の様子を窺いに出てきたのだろう。
「おれをなぐさめるくらいです。那桜はちゃんとしてます」
「そう。那桜は母親を必要とする歳ではなくなったのね。拓斗とちょっと一緒にいただけで……」
 詩乃は最後まで云わずに肩をすくめた。
 那桜のことを心配している一方で、今回のことが詩乃の古傷をつついたことも事実で、その瞳には違う場景が映っているのではないかと思う表情が時折漂う。

「姫の宮詩乃さま、那桜さまを守ると約束をしておきながら、取り返しのつかない過ちを犯しました。弁解の余地もありません」
「かといって、和惟くんのせいじゃないわって云ってほしいわけでもないんでしょう」
 和惟が何も答えず、頭を下げるという応じ方をすると、「有吏の男って面倒くさいわね」と、ため息混じりで追い打ちがきた。
「わたしは、わたしが選んだことの結果を後悔として那桜に押しつけたくないの。子供がいると知って……複雑だったわ。女系の大雀家は那桜で終わると思っていたから。拓斗とのことを知ったとき、那桜はそんな宿命を背負って生まれてきたんだと思った。生まれてくる子供が女の子だとは限らなかったけど」
 静かに心情を明かした詩乃は、自分をコントロールするすべを知り、和惟をなじることもしないたおやかさを持つ。深く息をついたあと、詩乃は続けた。
「那桜から、さっきみたいな父親を奪いたくないの。生涯、那桜とあのひとを守ってくれるかしら」
「御意」
 和惟は再び深々と頭を下げた。
「和惟くんもちゃんと眠らないとだめよ。おやすみなさい」
「ありがとうございます。おやすみなさい」
 詩乃が部屋に戻り、ドアが閉まったあと施錠の音がするまで和惟は見守った。
 小さく息をつき、那桜の病室へと躰の向きを変えた刹那、ふと、影が見えた。

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