禁断CLOSER#130 第4部 アイのカタチ-close-

4.Missing love -5-


 有吏家を出ると、拓斗と和惟はいったんマンションに行った。三人ともの身のまわり品やら服やらを、手っ取り早く荷造りした。那桜が心的にも身体的にも一段落安まるまで、しばらく篤生会病院に滞在することが最善だろう。

「おまえが『知るべき』と言ってたことはさっきの……二十六年まえのことか」
 再び車に乗って流れに乗ると、拓斗はただでさえ重い口を開いた。
「そうだ」
 ため息と一緒に肯定した一言が漏れた。
「どこまでが――あとはだれが知ってる」
「前首領夫妻と衛守家の伯叔父(おじ)たちだ」
「おまえはなぜ知ってる」
「おれもその場に、いた、からだ」
 和惟は拓斗が思いもしなかったことを吐いた。無意識のうちに計算して、和惟が六歳のときだと(はじ)きだした。
「……どういうことだ」
「いちいち状況を説明しても仕方ない。たまたま母と詩乃おばさんとおれと出かけていたときに遭遇したんだ。母がいないときの一瞬だ。『大雀(おおさざき)の娘だな』――あいつらはそう云って詩乃おばさんをさらった」
「なぜ云わなかった」
 戒斗が和久井を問いただしたように、拓斗もそうした。それを知っていたら、何かが違ったかもしれない。また拓斗は不毛な“もし”を呼び起こす。
「それが“一族狩り”だったということを知ったのは四年まえだ。犠牲者がだれか知らなかった和久井でさえ云えないんだ。知っているおれが云えるわけがない。おれは詩乃おばさんを救えなかった。首領をそれ以上に裏切りたくはなかった。和久井にはおれが話した。おまえと那桜のことがあって、約定がいずれ破棄されるのは目に見えた。おまえも戒斗も、分家へと身代わりを押しつける気はなかっただろう。和久井家と瀬尾家なら、蘇我と顔を合わせている以上、動向がつかみやすいだろうし、汚い手を使ってもなんらかの案を出してくる」
 確かに案は出てきた。和久井は、初動が遅れた、とそう云ったが――それは“汚い手”であり、けして正しい道ではなく――隼斗が、そして一族が、結論を出すのがさきだったか、二度めの一族狩りがさきだったか。いまとなってはやはり意義もないことを考える。
「おれは誓ったんだけどな。……また同じ不祥を呼んだ」
 続いた和惟の声は平坦すぎて、だからこそ、抑制した感情を表す。一時間もたたないまえ、隼斗がそうだったように。

 おまえのせいじゃない――とその言葉は呑みこんだ。それがなぐさめではなく心底から思っている言葉でも、痛みを(えぐ)ることにしかならないというときがある。いまの拓斗にも、そんな言葉はだれからもいらない。
 詩乃がどんな目に遭ったのかも、“間に合った”のかも、聞いたところで何もどうにもならない。聞かないことのほうが詩乃への敬意になるような気がした。
 自分だけではなく娘まで――血は繋がらなくても詩乃がそういった気持ちでいるのは確かで、二重に苦辛を背負っている。病院に駆けつけ、命に別状はないとわかっているというのに、衛守家の別荘で見せたように、『那桜は?』とたった一言からも詩乃は声のふるえを隠せていなかった。
 癒えることはないのだ。だれにとっても。



 薬のせいとはいえ午後からずっと眠っていた那桜は、くっきりと目が覚めていた。涙を見られたくなくて、だからお喋りを避けるために眠っていいかと詩乃に云ったものの、いろんなことが入り乱れてよけいなことを考えてしまう。
 よけいなこと――そのなかに赤ちゃんのことも含まれている。そんな言葉で表すのは冒涜(ぼうとく)であり、正しくはよけいなことではない。
 独りで考えればくよくよしてしまう。そんな気持ちを赤ちゃんに押しつけたくはない。(とむら)いは那桜独りではなく、拓斗と一緒に――そうしてあげたい気持ちがだんだんと強くなっている。そうしたら、心音も聞けなかった赤ちゃんがさみしがることもないような気がした。
 せめて、心だけは純粋なまま守ってあげたい。ただでさえ穢しているのだから。

 つと、穢すという言葉からまたよけいなことがよぎる。
 (きたな)らしい手の感触を思いだして躰全体が(あわ)立った。連鎖して、見知らぬ男が向かってくる瞬間も、見知らぬ男が乗った車のなかにいると知った瞬間も、鮮明に目のまえに甦ってくる。
 安全な場所にいるとわかっているにもかかわらず、那桜はふとんの下で萎縮した。この部屋と同じで病院らしくなく、ベッドはふわりと躰を包むような暖かさがあるのに、硬い金属の冷たさに変わってしまった。無意識に握り拳をつくっていて、胸もとで交差した手首の下から鼓動が伝わってくる。逃げ惑うときの自分の心音が耳もとに迫ってきた。

 拓兄……。
 安泰という檻から遠く離れ、非力な餌食(えじき)に外敵が群がる地でずっと呼び続けていたように、いままた呼びかけた。とたん――
『どうした』
 那桜のなかで、二時間近くまえの拓斗の声が応じた。
 いつもの『なんだ』よりやわらかくなった問い方は、やはりいつもより気にかけてくれている。どんなことでも聞いて、そして叶えてやる、とそんな意が潜んで聞こえて、守られていると実感できた言葉だった。手術まえの問い――間に合ったのか、間に合わなかったのか、少なくとも拓斗にとってはきっと間に合っている。『どうした』は、そんな大事な言葉に感じた。
 その三十分後にかかってきた“帰るコール”もはじめてかもしれない。
 壁時計は十時を指そうかとしていて、まもなく拓斗と顔を合わせられる。那桜はそろそろと起きだした。

「大丈夫?」
 すかさず詩乃が声をかけた。ずっと那桜に付き添っているだけで、詩乃は何もせず、テレビはドラマを映しているがそれを見るわけでもなく、ぼんやりしている。何を考えているのか。そんな単純さではなく、思いつめているように見えた。
『だれかが悪いというんだとしたら――』
 そのときは自分の感情のほうが遥かに優先されていて、後悔という気持ちしかすくえなかったけれど、詩乃の何が悪くてそう云わせたのだろう。生んじゃいけないかもしれない、と云ったことに、詩乃は明確に答えてくれていないと気づいた。
 それは兄妹だから?
「違和感はあるけど、痛いっていうのはないから」
「だからといって無理しないでちょうだい。もとの躰に戻るまで時間はかかるわ」
「うん。お手洗い、行ってくる」
 スリッパを履くと、那桜はゆっくり立ちあがった。薬に慣れたのか、効力が切れたのか、一度めのときのようにふらふらすることはない。出入り口の近くに備えられたパウダールームに向かった。

 病室内は、木製のドアという外側から見た雰囲気に違わず、ホテルのような佇まいだ。床は絨毯が敷いてあって、セミダブルのベッドが二つ、その足もとのほうの窓際の一角にはテーブルとソファ、そして机が並んでいる。出入り口のすぐ横にはクローゼットスペースがあって、奥のベッドを置いたスペースとはパウダールームで仕切られている。パウダールームは両端にあるトイレと浴室を繋いでいるから、どちら側からも入れる。
 自分がなぜここにいるのか、まるで特別な日をすごしているような錯覚を起こしそうだ。あえて、病という意識を追い払うためかもしれない。

 お手洗いをすませてパウダールームに行き、何気なく目のまえの鏡を見てみると、起きがけのときよりは肌の色がよくなっている。あくまで、そんな気がするという程度だ。間に合わせで詩乃が実家に置きっぱなしにしていたパジャマを持ってきてくれたのだが、服やら靴やらと女の子のアイテムをうるさく散らした模様がばかばかしく見えるほど、那桜は自分でもぼんやりした顔つきだと感じた。
 拓斗だってケガをしている。それは那桜のせいで――厳密にいえば、有吏一族だからというせいだが――もし拉致されたのが那桜でなかったら拓斗がケガをすることはなかったかもしれないということもわかっている。そんな拓斗の気持ちを疑うことはない。いまだに感触を思いだせるほど、救いだしたあとの那桜を抱きしめる腕がずっときつかったこと、それが拓斗の傷みを映していた。
 だからできるだけしっかりしなくちゃ、と意識してみてやっと輪郭がくっきりと意思を表す。

 少し乱れた髪を手で整えていると、病室の出入り口の方向に足音が聞こえた。そのこと自体が拓斗じゃないことを裏づけている。がっかりしながらため息をつく一方で、耳は軽い金属音を捉えた。血圧計とか体温計とか薬とか、そんなものを載せたワゴンを押してきた看護師だろうと見当をつけた――と、そのとき、那桜は車輪が転がるような軋む音を聞きつけた。
 その瞬間に、時間と場所は境界をなくし、躰は条件反射のように硬直した。無意識に自分の躰に巻きつけた腕はやはりおなかをかばうためか、息が詰まりそうな感覚に陥る。
 だめ! 来ないで!
 声にはできず、耳もとでは、自分の鼓動が急き立てるように激しく高鳴っている。現実から遠ざかり、窮屈な箱に閉じこめられたように鼓動だけがクローズアップされた。どれくらいそんな苦しさに縛られていたのか――
「那桜」
 求めた救いの声が那桜を呼ぶ。切望したあまりの幻聴か、トイレ側のドアが開いてそこに拓斗を認めたとき、何が現実なのか混乱していたかもしれない。
「拓兄……赤ちゃんが死んじゃう……夢を見たの!」
 囁くような声で訴えると、射貫くように那桜を見つめた拓斗の顔が一瞬だけ険しくなった。
「拓斗」
「大丈夫だ。食べるまえにシャワーを浴びる」
 詩乃の声をさえぎるようにそう答えた拓斗は、後ろ手にドアを閉めた。

 拓斗の手が那桜の頬をくるんで仰向けさせる。
「那桜」
 触れられて、確かな声がすぐ上から聞こえて、救いにきたはずの拓斗は那桜の脳裡に残酷な現実を還らせた。
「わか……ってる、の」
 のどの奥が痛み、那桜の口から堪えるまもなく嗚咽が漏れた。
 無法者を許せなくて認めたくないのか、自分の(とが)から逃げて認められないのか。真の気持ちは自分でもはっきりしない。どっちも同じでどっちも当てはまるのだろう。
 逃避する弱さが次々と目からこぼれる。止まらなくて止められない。こんなふうに泣いたことはない。失うということを知らなくて、それだけ安全地帯にいたのだということをあらためて知らされる。
 拓斗は涙を拭うこともせず、ただ那桜を見下ろしている。もしくは見守っている。やがて――
「きれいにしてやる」
 那桜の頬から手を離すと、拓斗は浴室のほうへと背中を押して促す。カーテンを引いてパウダールームと仕切り、拓斗はさきに服を脱ぎだした。思いだしたように頬を伝う雫と同調して呼吸はふるえている。それがおさまりきれないうちに、今度は那桜のパジャマと下着が脱がされていった。

 那桜を浴室に連れていくと、拓斗はシャワーの温度を調整し始めた。
 そのとき、はじめて那桜は拓斗の傷を目にした。正確にいえば、テープが貼りつけられていて傷口は見えない。右の肩胛骨(けんこうこつ)の傍から左の脇腹のほうへと斜めに走っている。拓斗はなんでもないように云ったけれど、ちょっと間違えば神経に(さわ)るようなケガだったかもしれない。
「拓兄……」
 涙が止まったかわりにショックが突き抜け、それがあからさまに声に出る。
 察せられない拓斗ではないだろうに、なぐさめは口にせず、入り口で立ち尽くした那桜の腕を引っ張った。
 病室はどこも空調が効いていて寒くはないのに、シャワーの下に那桜を立たせたまま、拓斗は自分の頭から洗っていく。背中を避けて手っ取り早く足先まで洗い終わると、またシャンプーを手にすくった。手が那桜の目のまえへと向かってきたかと思うと、額の髪の生え際から冷たいシャンプー液が塗りこめられる。うなじからもそうされた。髪を洗ってもらうのははじめてではないけれど、拓斗の洗い方はいつも乱暴すぎる。何も考えられないくらい頭がぶれて倒れそうになる。
「拓兄!」
 抗議しながら、那桜は拓斗にしがみついた。すると、右手が背中に貼ったテープに触れ、那桜はぱっと手を離して拓斗を見上げた。
「痛くない?」
「疼くくらいだ」
 なんでもないという嘘じゃないことにほっとしながら、那桜は拓斗の腋の下から逆手で肩につかまる。鼓動までは届かないからその下のいちばん近い場所にくちびるをつけ、目を閉じて拓斗が洗うのに任せた。
 頭の泡を洗い流したあとは背中から引き寄せられた。それは、衛守家の別荘であった記憶を彷彿させる。
 拓斗はいったんシャワーを止めた。

「寒くないか」
「うん。拓兄の躰、あったかいから」
 耳もとに息がかかったと感じた次には耳の下の首筋に、暖かい以上に熱を含むくちびるが触れた。
 キスは一瞬で、拓斗はボディシャンプーを含ませたスポンジを絞って泡をすくい、那桜の躰をくるむように手のひらについた泡で洗っていく。髪を洗った乱暴さとは対照的で、拓斗の手で余すところなく覆い尽くされていくような感触だ。きれいにしてやる――その方法はいつもと違っている。ただ、浄化されていく気持ちになるのは変わらない。那桜の肌に刻印を付けるようにゆっくりと這うしぐさは、だれにも侵せないという領域を纏わされているように感じた。
 くるりと躰をまわされると背中を同じようにされた。しっかりと腰を括る腕の強さも心地いい。シャワーを再び出しっぱなしにすると、拓斗は那桜の足もとにかがんだ。
 流れる泡に任せて脚を洗った拓斗はひざまずいたかと思うと、ふいに那桜のお尻を引き寄せる。おへその下に口づけられた。赤ちゃんの存在がはっきりした日も拓斗はそうした。
 誕生と、そして、別れと。それが拓斗なりの敬意の表し方だというのなら。
 那桜が思っているよりももっと奥底で拓斗はいろんな感情を抱いている。別れることでそんな拓斗の気持ちが目に見えるのはやるせない。

「拓兄……赤ちゃん、見た?」
 拓斗のキスがゆっくりとおなかから離れる。
「確かにいた。それだけでも充分だとおれは思ってる」
 ひざまずいた那桜の顔を拓斗の手がくるむ。大きいのに繊細だと思わせる手は、濡れた髪を顔の周りから払い除ける。那桜の表情がよく見えるようにとそうしたのか、拓斗の瞳は、なんらかを訴えるように、なんらかを焼きつけるように、那桜の瞳を射貫く。その気配と相まって、シャワーがひまわり畑の雨を思い起こさせた。呼吸を止めたいと思うほどの激情、いまはきっとその反対側にある熱情が向けられている。
「うん。拓兄……ありがとう」
 たった一つのキスに、いつか認められて癒やされそうな気がした。拓斗は首をひねって那桜を引き寄せる。シャワーの下で、何かを語るわけでもなくしばらくそうしていた。雨のなかの激しさのかわりに、微睡みを誘う熱っぽさに庇護されて。

「風邪をひく」
 懐かしい言葉は――いつまでも、何があっても――変わらないという拓斗の心底を曝した。

BACKNEXTDOOR