禁断CLOSER#128 第4部 アイのカタチ-close-

4.Missing love -3-


 堪えたつもりだったのにたまらず漏らしてしまった――そんな呻き声が那桜の頭の天辺にこもる。
 那桜を全身でくるんだ拓斗の身に何が起きたのか。
 何も見えなくて、拓斗の鼓動が額を通じて那桜のなかに響き、直後に呻いた男の声も、床に何かが落ちて跳ねているような軽い音も遠くに聞こえた。
「おまえは――」
 ふと目に留まり、つい発してしまったというような和惟の声は、一言だけで途切れる。そうしたのも和唯なのか、小さな舌打ちが続いた。
 直後、再び吠えるように呻いた声がした。

「拓斗」
「なんでもない」
 和惟の呼びかけを軽くあしらった拓斗は、背中から腕を解いたかと思うと、身をかがめて膝の裏をすくいながら那桜を抱きあげた。反射的に拓斗の顎の下に額を潜りこませる。
「和惟、ここはいい! おふたりを!」
「わかってる」
 離れた場所から叫んだのは和久井だろう。和惟は素早く答えた。
「行くぞ」
 和惟が返事し終えたか否かのうちに拓斗が耳もとで声をかけ、うなずいた那桜は拓斗の負担を軽くしようと、伸びあがるようにして背中にしがみついた。すると異変を感じる。背中のシャツに触れた手のひらから濡れた感触が伝わってくる。
「拓兄……」
 さっきの動作で汗を掻いたのかと無自覚に理由を探しながら、那桜は心もとなくつぶやいた。拓斗の背中から離した自分の左手を見てみると――那桜は一瞬、息を詰めた。
「拓兄、血が!」
 悲鳴は自分でもヒステリックに聞こえる。手のひらは、(くぼ)みを除いて一面、赤く染まっていて、那桜のなかでおなかにいる子供と拓斗の運命が直結した。
「暴れるな」
 降りようとした那桜の躰を締めつけて拓斗が阻止する。
「でも――!」
「那桜」
 拓斗は鋭くさえぎった。
「なんでもないと云ってる。自分のことは自分でわかる。子供のことが心配なら落ちないようにちゃんとつかまってろ」
 拓斗と子供――いまはどっちが大事なのか、那桜にはその境目がわからなくなった。どちらも得られるのか、一度になくすか、そんな対極の二択が迫ってきて寄る()のない心細さに襲われる。

「那桜」
 和惟の声に顔を上げた。拓斗のすぐ斜め後ろから手が伸びてくる。和惟の右手が那桜の左頬をくるんだ。薄らとした記憶のなかにあるしぐさと同じだった。あのひまわり畑のなかの嵐の夜、なだめるようで、それでいて後悔、あるいは懺悔(ざんげ)が潜んでいるような触れ方だ。
 浅ましい躰に絶望した夜。浅ましくなかったと知ったいま。確かに余所(よそ)者の雄が那桜の聖地を侵すまでには至らなかった。けれど、本当に浅ましくないのだろうか。神聖な誕生を穢されている。体内からこぼれる血は、守りきれなかった那桜にそう訴える赤ちゃんの涙かもしれない。
「拓斗が大丈夫だと云ってるんだ」
 那桜の顔から何を読みとったのか、和惟は一度頬を撫でると、励ますように云ってから力尽きたように手をおろした。

 陰惨に広がる(わめ)き声もすすり泣きも建物を出た瞬間、ヘリコプターの回転翼の音とそこから発生する風のなかに消えた。
 暴風のなかを急ぎ足で進む拓斗は、ヘリコプターの脇に来ると那桜を和惟に引き渡した。さきに乗りこむ拓斗の背中は、怖いくらい真っ赤に染まっていた。
 きっと断罪だ。
 望むことがすぎて、おなかの子も拓斗も傷つけた。
 懺悔すべきなのは、那桜、だ。
 和惟からまた拓斗へ戻ると、その腕に抱かれながら座席におさまった。痛みはあるはずなのに、拓斗は顔をしかめることすらしない。
 ぅく……っ。
 漏れてしまった嗚咽が聞こえないようにと儚く願った瞬間、おなかのなかがどくんとうごめいた。
「那桜」
 躰がこわばったのを察した拓斗は、横抱きにした那桜を覗きこむように顔を下げた。腰が疼いて、喋ることさえ怖くさせる。
 那桜が応えられないうちに、乗りこんだ和惟がドアを閉めるが早いか「急げ」と指示する。直後、回転翼が大きく唸った。これが遊覧ならわくわくする音に聞こえたのだろうか。いまは不気味で、否応なく戦地に駆りだされるという覚悟を迫られている気がした。

「那桜」
 拓斗と同じように異変を察したらしい和惟が、座席には座らず、那桜の足もとにかがんだ。空いた左手がくるまれる。
 んっ。
 返事のかわりに出たのは呻き声だった。
 普通にある痛みという観念からすると、那桜を襲うのは痛みとは呼べない。きりきりと締めつけるような疼きだ。
 それが、続くのではなく、定期的に起きるということの意味。
 今度は下腹部が痛んだ。くちびるを咬んで耐えるように眉間にしわを寄せ、那桜は縋るように拓斗の腕を握りしめる。
「だめっ」
 きっと。拓斗に訴えてももうどうにもならない。
「拓兄、赤ちゃん、死んじゃうっ」
 つぶさに那桜を覗きこんでいた拓斗がわずかに顔を歪めた。那桜の潤んだ視界がそう見えさせたのか。拓斗はかがめていた上体を起こしながら、那桜の頭を首もとに強く引き寄せた。
「い、やっ」
 躰の一部が剥がれていくような感覚に襲われた。
「あっ……だめ! ぃやっ、あ、あぁ――っ」

 止めようとしても止められなかった。自分の躰なのに――そんな傲慢な気持ちを断罪するように――躰のなかに誕生した生命は那桜のものではなく、だれのものでもない僕のものだよ、あるいは、わたしのものよ、そう主張して躰のなかから消えた。
 喪失感よりもひどく、剥奪(はくだつ)された感覚が那桜を現実から遠ざける。うるさすぎる回転翼の音はただ風がかぼそく唸るように聞こえて、だれかのむせび泣く声が纏いつく。同化しようとしているかのように那桜の躰を縛る腕と、指先が喰いこむほど、しがみついてもびくとも揺るがない腕の温かさと、何かを伝えるように左手がくるまれる痛みと、それらがかろうじて那桜を引きとめる。ここにいろ、と。
 言葉を発すれば、自らで弾けてしまう気泡のように何かが破裂しそうな気がする。それは拓斗も和惟も同じなのか。病院に到着するまでの機内は、回転翼のまわる音が姿の見えない獣の咆哮のようで、森のなかに閉じこめられたみたいに深閑(しんかん)としていた。

 やがて屋上のヘリポートに着陸すると、いつからそうしているのか、由梨がスタッフを率いて待機していた。ストレッチャーに乗せられようとして那桜は拒否した。
「もう少し赤ちゃんを抱いてて」
 心音はすでになく、だから那桜の体内からいなくなったのかもしれない。けれど、それでもきっとまだ温もりは残っている。
 拓斗は無言のまま那桜を掻き抱く。
「これでくるんだほうがいいわ。出血が続いているかもしれない」
 由梨がブランケットを腰もとに当て、拓斗は那桜を抱き直した。その首にしがみつくと、拓斗の肩越しにやはり斜め後ろに控えている和惟と目が合った。
 愛してる――そうつぶやいて、と願ったのに和惟は口を閉ざしたまま、那桜をただ見つめる。確かめたいと思って伸ばしかけた右手はすくわれた。だれのせいでもなければ自分のせいでもない。そんな支えを必要とした、わきまえのない気持ちが少しだけ安らいだ。

 連れていかれたのは、産婦人科の病棟でも外来でもなく、屋上から二階ぶんおりてすぐ、十階の病棟だった。ずっとまえに祖母が入院したときに訪れたことがある。病院という雰囲気とはかけ離れて、ドアが木目だったり、織物のクロスだったり、まるで高級ホテルのような佇まいだ。
 ただ、那桜が連れていかれた場所は、手術台を中央にかまえて無機的な感じがした。こんな冷たい場所で――そのやるせなさが伝わったように、那桜を台におろした拓斗は、縋って外したがらない那桜の腕をつかんで脈を打つ首もとに口づけた。
「那桜、おれは間に合ったか。子供のことは別だ」
 拓斗は自分から腕を引き剥がすと、そのまま滑るように手先へと伝って那桜の手のひらをくるむ。遠回しな言葉が何を意味するのか、正常に頭がまわらない那桜は、理解するまでに少し時間を要した。
「……手……だけ」
 それが間に合ったことになるのかどうかはわからない。拓斗の手が、折れそうなほど那桜の手のひらを握りしめた。
「ちゃんと付き添ってる。いいな」
 金属の触れ合う音のなか、額に手を置きながら拓斗がつぶやいた。はだけられた胸もとに心電図をとるための電極を貼りつけられ、その冷たさにびくりとしながら、那桜はうなずいて答えた。
「和惟……は?」
「そこに――ドアの向こうにいる」
 看護師に腕をとられながら那桜は再びうなずく。
「那桜さん、しばらく眠ってもらうことになるわ。大丈夫だから」
 由梨が気の毒そうに、そして、すまなそうに声をかける。
「はい」
 看護師はちくりと腕に点滴の針を刺した。
「出血がひどいみたいだから、血液バッグを持ってきて――」
「ドクター」
 なんのためか、看護師に指示を出す由梨を拓斗がさえぎった。
「拓斗さん、念のため、です。こうなったのはわたしの失態です。これ以上、わたしは後悔したくはありません。それよりも、拓斗さんのほうこそ治療をしないと――」
「おれのことは心配いりません」
 由梨の忠告は那桜を不安にさせる。そう知ってのことだったのか、拓斗はまたもや由梨をさえぎった。
「拓兄」
 呼びかけると同時に、「麻酔薬を入れますね」と看護師が伝えた。
「拓兄」
「ここにいる。見届けてからちゃんと治療してもらう」
 那桜の不安を察して拓斗は云い添えた。うん――そう答えたつもりが声にはならなかった。
「由梨先生、血液型は」
「固有ラベル、“衛守和惟”。血液型は――」
 和惟――…………。
 那桜の意識は疑問を疑問と思わないうちに途絶えた。

 *

「那桜」
 拓斗の声がぼんやりと意識の奥底に届いてきた。
「拓にぃ」
 喋るのは億劫で、もっと眠らせてという寝不足感はないにもかかわらず、目を開けるのも面倒なほど躰も意識も気だるい。
「ちょっとの間、ここを離れる。母さんもいるし、すぐ戻ってくる。いいな」
 目が開かないうちに拓斗はなだめるように云い、那桜は額を撫でられた。
「は……い」
 間延びした返事をすると、「眠ってろ」という言葉が麻酔の役目をして、那桜は目を開けないまま再び思考も夢も閉ざされた、時間だけしか存在しない空間に沈んだ。

 *

 目を閉じていればいつまでも眠っていられそうで、ちょっと目が覚めてはまた眠る、そんなことを何度か繰り返した。
 すぐ戻ってくると云った拓斗は、もうどこかへ行って戻ってきたのか、時間は曖昧に前後してよくわからない。けれど、目を覚ますたびに、眠れるだけ眠ればいいと云う拓斗の声がする。
 ようやくはっきりと起きられたとき、少し開いたカーテンの間から見える屋外は、すでに暗くなっていた。
 目を開けながら無意識にぴくりと手が動き、すると、そこから温かく安堵をもたらしていた原因が拓斗の手だったと知る。ずっとここにいてくれたのだろうか、見入るようにした拓斗の瞳が那桜の視界を占めた。

「拓兄」
「どこか痛むか?」
 痛みはない。ただ、そう訊ねる原因が無理やり浮上して、心底が苦しくなる。
「赤ちゃん……」
 熱い塊がのどまで込みあげてきて言葉が詰まる。
「おれのせいだ」
 しばらく何も云わなかった拓斗はつぶやくように漏らした。
「……拓兄?」
「那桜、おまえがつらくなることはない。守れなかったのはおれだ」
 那桜の懺悔を知っているかのようだ。そのぶん、拓斗もまた同じくらいの気持ちを背負っているのかもしれない――もしかしたら、那桜よりも遥かに深く。
 拓斗が守ろうとしているのに、深刻に考えることもなく、それは拓斗の気持ちに反逆しているのと同じだった。拓斗に危険が及ぶことを怖いと思っていた。それなのに、そうしたのは自分だ。
「拓兄、背中は?」
「縫った」
 その一言を聞くなり、飛び起きようとした那桜を拓斗が引きとめる。
「ひどいわけじゃない。早く治すためだ」
「ほんとに?」
「何度云わせる。なんでもない」
「よかっ――」
 たった一言さえも最後まで云えなくて、かわりに嗚咽が漏れる。那桜の気持ちが鎮まるまで、拓斗の手が涙をすくっていた。

 どれくらいたったのか、ドアが開いて人が入ってくる気配がした。拓斗の手が涙の痕を拭う。
「目が覚めたの?」
 詩乃の声だった。振り向くと、和惟も詩乃の後ろからやってきた。
 拓斗は「ああ」と詩乃に答えたあと、「那桜」と呼びかけた。頭を巡らして拓斗に目を戻す。
「父さんたちと話がある。また戻ってくる」
 一瞬だけ無意識で手に力が入り、それから緩めて拓斗の手を離すと那桜はうなずいた。
「和惟も?」
「ああ。和惟も外せない。この階は一族専用のフロアだ。完全に上下からの入り口はロックされるし、惟均を待機させている」
 那桜の不安を見抜いた拓斗は云い添えた。
「うん」
 那桜が返事をしたあと、拓斗はめずらしく後ろ髪を引かれるようにしばらくとどまっていた。
「すぐ戻る」
 拓斗は那桜の手を離して立ちあがった。
「拓兄、気をつけてね」
「安静にしてろ」
 拓斗は暗に心配はいらないと那桜に教える。

 不安は拭えず、それどころか、不安がなくなることはあるのだろうかと、いままでにない怯えを抱く。
 なぜなのか、その理由を探しだしたところで怖くなって中断した。
 何かがあったのに、置き去りにできない大事なことがあったのに思いだせない。そんなわだかまりが痞えている。正確には、思いだしたくないのだ。だから、自分で探すのをやめた。
 そして、もう一つの怯える理由。和惟が沈黙していること。もしくは、那桜から距離を置いていること。

「那桜、痛むところはない?」
 詩乃がさっきまで拓斗がいた場所に座る。
「痛くない。お母さん――」
 那桜は云いかけて口を閉じた。
「何? なんでも云ってちょうだい」
「妊娠してること……してたこと、びっくりした? わたし、拓兄の赤ちゃん、生んじゃいけないのかもしれない」
 冷静にしていた詩乃の顔が歪んだ気がした。苦痛、あるいは苦辛のような、それでいて後悔が混じっている。
「那桜。憶えておきなさい。あなたが悪いっていうことは何もないわ。だれかが悪いというんだとしたら、それはわたしよ」
 詩乃の云う真意は少しも理解できない。わかるのは、後悔という気持ちが根付いていること。
 何を思っているのか、詩乃は物憂げに黙りこんだ。
「お父さんにお弁当食べさせてあげられなかった。明日、誕生日だけど出張だから今日って思ってたのに」
「ちゃんと夕食で食べたって、さっき電話があったときに云ってたわ」
「ほんと?」
「美味しかったって」
「それは嘘!」
 即座に叫ぶと、詩乃は静かに笑った。那桜の努力が功を奏する。
「そうね。そういうこと、云う人じゃないから」
「拓兄と同じ」
 そうなの? と問うかわりに詩乃は首をかしげる。普段に戻った様子を見て那桜はほっとした。
「少し眠っていい?」
「ゆっくりしなさい」
 那桜はふとんに隠れるように顔をうつむけた。

 きっと、だれもが後悔している。
 拓斗も和惟もわたしも。お母さんも、蘇我が係わったことなのだから、お父さんも――。
 それがどんなふうにだれもを変えていくのだろう。
 空っぽになったおなかのように、心底に空洞ができているような気がして、那桜独りではどうやっても埋められない。
 拓兄。
 ふるえるくちびるを痛くなるほど咬みしめた。

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