禁断CLOSER#127 第4部 アイのカタチ-close-

4.Missing love -2-


 ん……。
 鈍痛とともに薄らと意識が返っていく。携帯電話の振動よりも弱く躰が揺れて、時折、遠心力を感じて躰が(かし)ぐ。そのたびに頭の右側が硬いものに押しつけられたり、離れてはぶつかったりした。
 人の気配を感じる。
 拓にぃ。
 呼びかけたものの、接着したようなくちびる間にほんの少しすき間ができるくらいで、声にはならなかった。それでも傍にいるなら気づいてくれるはずなのに、なんだ、と呼びかける声もなければ、額に触れる手もない。
 躰のなかから押さえつけられるような感覚は何? 泣きたい気分になるのはなぜ?
 起きなきゃという気持ちと、このまま眠ったふりをしているほうがいいという気持ちがせめぎ合う。なぜだろう――また疑問に思った刹那。
 躰ががくんと揺れ、振動が止まった。

「おら。嬢ちゃん、起きんだよ!」
 さっきまでの振動よりも遥かに大きく、那桜は自らでびくっと躰を揺らした。
 無理やり那桜を起こしたのは見知らぬ声で、そして、何よりも怒鳴り声で乱暴すぎた。いまだかつて、そんな声が那桜に向かってきたことはない。気持ちと躰が萎縮する。
 ぱっと目を開けると、まったく知らない車に乗せられていた。視界に映るものが声と同じでまったく見知らぬ場所であること、見知らぬ男が正面の運転席にいること、それらすべての状況が那桜の理解を超えていて夢かもしれないと思った。そのわずかばかりの安堵はつかの間、下腹部が重たいような感覚がして無意識に手を添えた瞬間、現実が甦り、押し潰されそうな恐怖が迫った。
 那桜とは反対側にある、助手席の後ろのスライドドアが開いて男が一人降りた。その間に、運転席の男は車を降りて左側にまわってきた。目を見開いた那桜に向かい、男の手が伸びてくる。避けようと躰を丸めながら男に背中を向けた。車のなかはけっして安全ではないが、連れていかれるそのさきのほうがもっと危険なのだ。
 それに、下腹部の違和感は動かないほうがいいと那桜に教えている。
「おらおら。楽しいとこに連れてってやるよ」
 だみ声は(にわか)に和らぐも、『楽しい』という言葉が真逆の意味を持つことは明らかで、那桜にはなんのなぐさめにもならない。
 嫌――と、そんな一言も那桜は発せられずにますます身を縮めた。
「やり甲斐があるなぁ。嬢ちゃんたちみたいにきれーであればあるほど、汚したくなるのが男なんだって。好きにしていいらしいんだよなあ。大丈夫だ、嬢ちゃん。“好きなこと”っつーのに殺すってことは入ってないからよお。ひひ」
「おい、早くしろ」
 下賤(げせん)な笑い声を漏らした男に、語気を鋭くして指示を出したのはさきに降りた男――那桜を殴った男だった。
 五十代半ばくらいだろうか、無意識に見やると、じろりと向けられた目は殺伐としながら、那桜を舐めまわすようにまじまじと見る。ふっとその眉根が寄せられる。それからゆっくりと薄汚い冷笑が気味悪く広がった。男の何がそう感じさせるのか、那桜は急所を握られたような感覚がして心底からぞっとした。
「うっす、すぐ連れていきますよ」
 二十代半ばくらいの、明らかに手下という男は、姿勢を正したような返事をしたあと、「おら、来いやぁ」と那桜の左肘のすぐ上をつかんだ。肩をすくめて拒絶を示しても、男の力に敵うことはなく、那桜はワンボックスカーから引きずりだされた。

 ここがどこなのか那桜の目に入った景色は、これから自分の身に降りかかることを暗示しているかのように荒廃していた。おそらく駐車場だったのだろう、だだっ広く敷かれたアスファルトのあちこちから雑草が伸びだしている。建物は工場なのか倉庫なのか、使われていないという、うらぶれた空気が壁から染みだしていた。
 その向こうには高いビルが見え、活気を表すように太陽の光を反射していて、それら二つの対照的な様がよけいに普段から遠ざけられたように感じた。
 車が何台も止まっていて、そのことがますます那桜の恐怖心を煽る。

 拓兄……。
 助けにきてくれる。文化祭でそうだったように。そうは思っても、あのときにあった心強さが欠如しているのは、携帯電話も和惟に預けたバッグのなかで、だれも那桜の居場所の見当をつけるすべがないからだ。
 拓兄……。
 もう一度内心で呼びかけ、那桜は下くちびるを咬んで絶望を振り払う。躰がこわばっていて腹部の違和感が薄れている。気を失うくらいに強打されたのだから、内部に感じていた重みもあたりまえなのかもしれない。
 赤ちゃんは大丈夫。
 那桜は自分に云い聞かせた。きっとその案じた気持ちがあるから、恐怖心を紛らせて理性を保てているのだ。

 車の間を進んでいると、男の手があまりにも那桜の腕を強くつかんでいて、そのさきに血が通っていないような痺れを感じる。抗議するには心細すぎる。割れたアスファルトにつまずかないように気をつけながら、すくみそうな足をやっとの気力で押し進めた。
 やがてシャッターのまえに来ると、示し合わせていたように上へと開いた。とたん、聞こえてきたのは、単独ではないいくつかの呻き声と悲鳴だった。
「やあっ助けてっ」
 女性の声に重なるように男の罵声や笑い声が重なって、薄暗いなかにエコーする。
「おらおら。じーっとしてたら姉ちゃんもいい思い、できっからよ」
 気味悪いくらいに悦に入った声が響く。さらわれたのは那桜だけではなかったのだ。何人くらいいるのか、車の数のぶんだけと考えると十人はいるはずで、あちこちから「痛い」とか「放して」とか拒絶の声ばかりが飛ぶ。それは、青南祭のときに聞こえていた果歩の声と同じだった。おのずと、予想したことは現実味を帯びてくる。
 耳をふさぎたくても、そうする身動きすらできないくらい、那桜は呆然とした。目に入ってくるのは、打ち放しのコンクリートの床と壁、それに冷たくくすんだ金属の色だ。
 建物のなかは、工場だったようで、仕切りや大型の機械、そして作業台らしきものが並べられている。そのせいで、悲鳴のあがる場所で何がなされているのか、那桜の視界には入らなかった。那桜のほかに同じ目に遭っている人がいることだけはわかっても、それで心強くなるかといえば、まったくそうはならない。見えないからこその恐怖がある。
 逃げるなら、シャッターまですぐそこという、いましかない――そんな本能が働く。男は油断していたのか、つかまれた腕を意外に簡単に引き抜いたまではよかった。けれど、同時にシャッターのひどく軋む音がして、逃げ道は希望とともにシャットアウトされた。

 逆らわないほうがいいのか、逃げ惑うほうがいいのか。混乱しながらそんなことを迷っているうちに、若い男のほうから背中を突かれた。
「あっ」
「おら、来い」
「嫌っ」
 再び腕をつかまれた瞬間、見えない彼女たちと同じ言葉を放って、無意識にその手を振り払った。
「おとなしく……」
 伸びてきた手に背中を向け、那桜は作業台の間に逃げこんだ。
「おい!」
「こらあっ」
 どすの利いた声は那桜に向けられたのか、続いて若い声が追ってくる。追い立てられるように工場のなかに入りこんだ。心膜がはちきれそうなくらい、那桜の鼓動が激しさを増す。
 作業台の列を抜けて奥まで行き、二列に並んだ、長く幅広いコンベアにまわりこむ。那桜がいる側とは反対側になるコンベアの端で、床にひざまずいた男の背中が見えた。そっちに逃げても行き止まりだと判断するまえに、ハイヒールの脱げかかった脚が目に入る。どういうことか。思考が止まるくらい那桜には衝撃的だった。膝の裏を抱えられ、脚がぶらぶらと揺れるのに合わせて男の躰が波打っている。違う、逆だ。男の動きに合わせて脚が揺れている。
「いい濡れ具合だ。姉ちゃん、セックス好きだろ」
「お願い! 放して……お金だったら――」
「あいにくと、金じゃないんだよな。けど、いいこと思いついたぜ。おい、記念写真だ。お嬢さんも淫乱じゃないとはかぎらねぇ。働き口を探してやるよ」
 高笑いのなかに嗚咽が混じる。
「早くしてくださいよ」
 付き添う男が、いまかいまかといったような興奮混じりのそわそわした声を出す。
「時間はゆっくりある」
「おら、観念しな」
 下品に腰を振る男の返答に重ねて横から引導を渡したのは、那桜を連れてきた若い男だ。

 声のしたほうに顔を向けたと同時に、男は正面でひょいとコンベアに飛び乗った。見上げた瞬間、こっちにおりてくる気配を察して、那桜は行き止まりとは反対に逃げた。
 作業台の間に戻ったが、さっきみたいに作業台の上を移動されたら、捕まるのは時間の問題だ。それでも時間は稼がなくてはならない。
 拓斗が、和惟が、来るまで。
 けれど、ふたりの気配も感じられないうちに、那桜は作業台の間で挟み撃ちにあった。結果は明らかという那桜の遁走(とんそう)を興じていたのか、しばらく傍観していた年配の男が目のまえに立って行く手を阻んだ。
 とっさに逃げ場を作業台の上に変えた。が、日頃から運動不足の那桜が機敏にとはいかず、鉄棒をするみたいに台にのりかかり、片方の膝をついてもう片方を上げかけたところで追いつかれた。
 両側からそれぞれに足を捕まれて引きずられた。下半身の支えがなくなってバランスを崩し、腕で突っ張ることもかなわないで肘が頼りなく折れる。那桜はなすすべもなく上半身を強かに台にぶつけた。顎を打って舌を咬むという状況はなんとか避けられたものの、衝撃に息が詰まった。

「鬼ごっこは終わりだ」
 まともに息もできないうちに、反対側にまわった年配のほうの男が腕をつかみ、那桜の耳の近くで脅した。
 それよりも那桜が怖いと感じたのは、おなかの鈍痛が甦ったことだった。
「赤ちゃん……」
 無意識につぶやいた声を男が拾う。
「そうだったな。産婦人科にいたんだからそういうことだろうし。子供がいるんなら妊娠する心配もない。よかったな、嬢ちゃん。嬢ちゃんはついてる」
 何を意味するのか――考えるまでもなく、ついさっき見た彼女と同じ目に遭うのだ。那桜はおののきながら目を見開いた。
「やめ――!」
「そうなんっすか。んじゃ、遠慮なくぶちまけるか。へへ」
 那桜の叫び声をさえぎって、背後からぞっとする声が降りかかる。
 世のなかが善人ばかりとは限らないことを知っている。むしろ、那桜も自分は悪人だといつか立矢に云ったとおり、心からの善人なんていないかもしれない。けれど、笑いながらなんの疾しさも覚えずに、無差別に人に恐怖させる――そんな人種を目の当たりにするとは思わなかった。蘇我は蘇我だ、と云いきった拓斗の言葉がいま頃胸に応えて、これまでどれだけ安全圏のなかで守られていたかが身に沁みた。
 ためらいもなくがさつに膝丈のワンピースがたくしあげられる。

「嫌っ」
 悲鳴をあげながら身をよじれば、おなかが重たいような違和感を訴える。
「だめ――やっ!」
 男の手がショーツの上から敏感な場所を撫でる。
「すぐによくなるさ。女はな、避けられない場所ってのがあんだよ。子供できるくれぇだから知ってるだろ」
「触らないで――あっ」
 ショーツの端から男の手が侵入してきて、じかに剥きだしの襞に触れた。びくっとお尻が跳ねる。
「ほら、なぁ」
 男が諭すような『よくなる』感覚などない。神経が通った場所だからきっと反応は避けられない。けれど、にやついた声にも男の手にも嫌悪しか感じず、那桜は身ぶるいした。

 拓に……。
 拓斗しか触れてはならない場所だ。もっと厳密にいうなら、拓斗が許すときに限ったら和惟とふたりしか。
 拓兄……助けて。
 拒む気持ちが強すぎて、吐き気に襲われる。泣きだしたら止まらなくなりそうで、那桜は下くちびるを咬みしめた。
 男は手加減なく襞に指を絡ませる。男の指先がざらついているように思うのは、穢されていると感じるせいだろうか。突起をつつかれると腰がふるえる。それは快楽からではなくてただの条件反射だ。そこはだんだんと乾いていって、指の摩擦でやわらかい表皮が引きつれて痛みしか生まない。
 嫌。そう訴えても容赦なく那桜を懲らしめた和惟と何が違うだろう。拒んでも和惟の指からは快楽を得ていたのに。
 兄妹でセックスだなんて、と不道徳な後ろめたさを抱えていたときも、拓斗に触れられると自分から求めてしまって抑えられなかった。乱暴な指使いでも。
 那桜はとめどなく躰の奥から潤って、和惟は感じやすいと云う。そう那桜自身も思っていたのに。
 この男からは吐きそうな不快感しか得られない。心と一緒で、躰は殺伐としていく。
 心――きっとそう、なのだ。気づいていなくても、そこに大事にするべき気持ちがあるか、ないか。
 一時期、隔たったときも和惟をけっして毛嫌いしているわけではなかった。その証拠に、那桜はいま、欲張りにも和惟にもいてほしいとわがままを吐いている。
 拓斗も和惟も、こんな押しつけるような無機質感はなくて、どんなに攻撃的でもそこには那桜を想った結果としてのなんらかの気持ちや、守る気持ちはあったに違いなくて。
 だから。いたずらになしてはいけなくて、そんな気持ちに報いるには守ること。
 わたしの躰は浅ましくなんかない。わたしの聖地はだれにも侵させない。
 その意志のもと、腕をつかむ男の手を振り払おうとしたが、台に押さえつけられたままびくともしない。

 ちっ。
 背中から舌打ちが聞こえた。苛立ったように躰の中心への入り口を探られる。反射的に躰がこわばった。
 嫌! 拓兄っ!
 爪に引っかかれているように痛む。潤うどころか湿るということさえ程遠い入り口から体内へと無理やり、指先が入ってきた。
 うくっ。
「くそっ」
 思った反応が得られていないせいか、男は悪態をつき、那桜の呻き声を掻き消す。
 そして、失笑やら、からかった笑い声やらが近づいてきた。
「下手くそだなぁ」
「だから万年女に飢えてんじゃねぇのか」
「うるせぇ。こいつはおれが一番だ。黙って待ってろ」
 何人が集まってきたのか、対等らしい男たちが俗悪な会話を交わす。
 一度に攻めてこないらしいことは救いなのか。那桜の躰がわなないた。それでもあきらめてはならない。あきらめなんてつかない。
 腕がだめならと、那桜は鈍痛を我慢しながら腰をよじると、今度は片手で腰が押さえつけられた。腰の重たさと相まって、身動きがとれなくなった。一方で、抉るように躰の奥へと男が指を突っこんでくる。
「やっ!」
 痛み、それよりももっと触られることが我慢できなくて口が開く。
 赤ちゃん……に……触れないで……!
 内心の叫びは空しく、乱暴に掻きまわされて傷だらけになっている気がした。堪えきれないで涙がにじみだしたそのとき。
「濡れてきたな」
 そんなはずはないのに、自分でも内部に濡れた感触がじわじわと広がっているのがわかった。囃し立てる声に血の気が引く。
 快楽なんてゼロ以下なのに、なぜ?
 嗚咽が込みあげる。

「へぇ……あんときの女の娘かと思ったが、違ったか? あの女は妙に最後まで高貴だったが」
 年配の男は意味のわからないことを吐く。
 自分で自分の意思を踏みにじるという躰の反応がショックで、那桜は考えようとする気力も奪われていた。
「濡れなくてなあ。早漏野郎のスペルマ塗ったくってヤったんだ」
 続けた男が嗤う。
「そういう手もあるってか」
 納得したらしい若い男は、「じゃあさっそく試してみっか」と吐いた。汚らしい異物でしかなかった指が躰のなかから抜けだしたところで、那桜がほっとすることはなく、むしろ、絶望を感じた。
「拓兄っ」
 無意識に出た叫び声に重ねるように――
「うえぇっ血、だ!」
 と、男が気味悪そうに叫んだ。
 ――血?
 そう疑問に思ったと同時に下腹部の痛みは腰へと広がる。生理痛に似ている。その症状が何を意味するのか、知識はなくても直感で悟った。
「嫌っ、拓兄っ」
 認めたくなくて、ここにはいない拓斗に縋る。
「おやっさん、どう――」
 若い男の声は、ぐしゃぐしゃと畳むように軋んだ金属音のなかに消えた。シャッターの開閉音だ。

 つかの間、置かれた状況も痛みも忘れ、那桜は顔をもたげた。
 遠くから聞こえてきた轟きは、不気味な、なお且つ毅然(きぜん)とした怒りを顕示しているようで、加えて外の光は、そこに立った四つの姿を神々(こうごう)しくくるんでいるように見えた。背後から射す光のせいで暗く影が差した顔は判別がつかなくても、那桜には立ち姿だけで求めた拓斗だとわかる。その横に添う和惟の姿も。

「拓兄っ」
「だれだ、おまえらぁっ」
 叫んだ声は、呼吸二つ分くらいのわずかの間に近づいてきた機械音――プロペラの音と、怒鳴り声に紛れてしまう。
 それでも影は動いた。
 その影の一歩が合図だったかのように、残った三つの影も散った。さらに入り口には新たな影が現れる。
 最初の影――拓斗は何をステップにしたのか軽々と作業台に乗ると、その弾みをつけたまま、次の作業台に飛び乗る。同じように和惟が一つ隣の作業台をやってくる。それを繰り返して五回め。
「なんだ、こいつらは」
 年配の男は唸りながらすぐそこに来た拓斗に向かい、一戦に及ぼうと身構えた。
 拓斗は台の上から飛びおりながら片足を突きだして、男を文字どおり足蹴にする。コンクリートの床に着地したかと思うと、勢いそのままに拓斗は那桜の脇に両手をついて躰をひねり、そのまま流れるように那桜の背後にいる男に脚を伸ばす。
 予定外のことが起きて気をとられ、惰性で那桜の腰を押さえ続けていた男の手が離れた。直後、男は床に倒れたのだろう、どさりとした音が聞こえ、呻き声がした。一つ向こうでは和惟が男たちをあしらい、離れたところでも同じように唸り声や叫び声があがっている。

「那桜」
 もう大丈夫だとわかっていても、那桜は動けなかった。かわりに、拓斗が那桜の躰を支えて起こす。その腕は確かで間違うことのない感触だ。
 躰を反転させられて向かい合うと、拓斗の右手が那桜の左側のこめかみに添い、指先が髪のなかに隠れる。拓斗の瞳には那桜の顔がいっぱいに写り、冷たいのか熱いのかわからない眼差しが射貫くようだ。腰を抱く腕はしっかりしているけれど、こめかみに添う手からはかすかな戦慄が伝わってくる。ただの気のせいだろうか。
 抱きつきたい。願うと同時に躰が異常を訴えて、那桜はまた恐怖に縛られる。
「拓兄、赤ちゃんが!」
「ヘリが来てるからすぐに連れていく」
「でも、出血してるの!」
「那桜――」
「おなか痛くて。だめかも――!」
 叫び声の続きは拓斗のくちびるが受けとめた。キスではない、呼吸を繋ぐ。拓斗の気吹(いぶき)は那桜の生命の源かもしれない。()りあげてくるような怖れが癒やされる。くちびるが離れると、拓斗はこめかみから耳の後ろへと髪を梳くようにしながら那桜を慰撫した。
「那桜。大丈夫だ。いいな」
「はい――」

「舐めた真似しやがる!」
 どんよりと威嚇した声が向かってきた。ハッとして見た年配の男の手が、きらりと光を放つ。

 それが何かと認識するまえに拓斗が覆い被さるように那桜を抱く。

「拓斗!」

 和惟の警告が響くなか、躰の向きを変えられたとたん、拓斗の腕が痛いほどきつく那桜の背を締めつけた。

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