禁断CLOSER#126 第4部 アイのカタチ-close-

4.Missing love -1-


 ついていくべきか。
 那桜が中待合室に消えたとたん、和惟は息をついた。
 それよりも、あの日が受胎の日なら、和惟の熱を飲み干した那桜のなかに自分もまたしるしを残したのだという倒錯した考えがよぎり、できるなら立ち会いたいという意思が動く。それとともに、実際に子供という存在を目にしたときに自分がどう思うかという不健全、あまつさえ醜態的な気持ちもある。
 那桜は、ここに和惟が残るということに疑問を持たなければ、ついてきてほしいという懇願もしない。
 那桜が和惟に求めるものは、変わることがないという安定した場所であり、それで充分なはずだが――ここに立ちとどまった理由として、拓斗、そして那桜の拓斗を希求する気持ちを尊重した、というのはやはり建て前だろう。

 待ち時間は長い。案じていればこそなのか。中待合室のスライドドアが内部から開いたとき、無意識に見た腕時計は、那桜がなかに入ってから五分しかたっていないことを示す。
 中待合室から出てきたのは若い女だ。那桜より一足さきに入った妊婦の付き添いをしていた。何気なく見守っていると、どこかで見た女だ、と直感した。
 だれだ?
「那桜は?」
 ふらふらと漂うように産婦人科外来を出ていく女を追いながら、和惟が記憶を探っていると、人影とともに頭上から声が降りかかった。見上げて確認するまでもなく拓斗だ。
「なかに行った。さっき呼ばれたばかりだ。もう診察中かもしれないし、那桜は待ってる。行ってやればいい」
「なんで那桜を一人にする」
 拓斗は即座に和惟を咎め、かと思うとこっちの云い分を聞かないうちに中待合室に向かった。
 和惟が出しゃばることよりも那桜の安全を優先する。那桜が拓斗にとってどれだけ優先事項になっているか、それを証明する発言でもあった。
 拓斗への尊重はまるきり不要だったようだ。和惟はため息をついた。同等に張り合えても、勝てるまでの材料は見つからない。
 多少、那桜を一人にした後悔を憶えつつ、さっきの女を探した。すると、携帯電話が震動しだす。ポケットから取りだすと、相手は香堂立矢だった。

「衛守だ」
『立矢です。那桜ちゃんは一緒ですか? 昨日、こっち来るって云ってましたよね』
 立矢はいきなり不審な質問をした。那桜に用事があるなら、那桜に直接かければいいことであり、つまり、異常を示唆している。さっき、あの女を見たときの感覚に、はっきり“胸騒ぎ”という名がつく。
「一緒だ。どういうことだ」
『いま、姉の見舞いに来たんですが、昨日、衛守さんたちと別れてからのことです。母が来ておれはまもなく帰ったんですが、女が姉を訪ねてるらしいんです』
「女? それで?」
『那桜ちゃんで間違いないかって、写真を見せられたそうです。すみません、姉は何も考えてなくて――』
「どんな女か訊いたか」
『派手な恰好だったと云ってました。金髪に蛍光柄の入った黒いシャツ、ピンク色のパンツに――』
「わかった。またこっちから連絡する」
 立矢をさえぎり、一方的に云うと和惟は電話を切った。それとどっちが早かったかというくらい素早く立って、中待合室に向かう。同時に、病院内の警備室に電話をかける。
 立矢が教えた女とさっきの女は同一人物だ、と思った。今日は、目立たなくするためか服装は派手ではなかった。だが、見たことがある気がしたのは、雰囲気をクローズアップするとそっくりだからだ。

『はい、警備室です』
「おれだ。カメラチェック。一時間内で産婦人科外来。昨日の午後、産婦人科病棟、金髪、黒いTシャツ、ピンクのパンツ。対象は、我立(がりゅう)玲美の従妹だ。外見、相似。至急」
『了解』
 和惟は素早く電話を切ったのち、通話中にキャッチした電話に折り返しながら、中待合室に入る。拓斗がこっちに引き返してきていた。独りだ。そんな簡単なことを認識すると、和惟はなかに進んでも無駄な労力にしかならないと悟った。
「おれだ。なんだ」
 和惟は足を止め、単独で足早に来る拓斗を見守りつつ、電話の相手、瀬尾啓司に話しかけた。
『和瀬ガードの顧客から数件、子供が行方不明だとの連絡が入ってる』
 その報告は、正面に来た拓斗の気配と相まって和惟に最悪の事態を確信させた。携帯電話を握る手に力がこもる。
「那桜も消えた。緊急配備だ」
 電話の向こうから舌打ちを響かせながら通話は切れた。
 直後、拓斗と対峙した一秒は永遠に感じるほど、なぜおれは――そんな、何も生まない後悔と闘わなければならなかった。

「何が起きてる」
 拓斗の声から感情は一切欠けている。長としてか、それとも、そうしていなければくずおれそうになる心の均衡を保つためか。
「和瀬ガードの顧客が似たようなことになってる」
 拓斗はそこを見ればなんらかの答えが示されているかのように、和惟から横に視線を逸らす。そうしたのもつかの間、拓斗は顎をしゃくって中待合室を出るよう和惟を促した。
「那桜は手洗いに行くと云っていたそうだ」
 監視カメラを据えるにしても、そこだけは、という場所がある。そこを狙ったとするなら、さっき出ていった我立玲美の従妹は、だれかの付き添いを装って、外部と連絡を取るためにそこにいたのだ。あまつさえ、那桜が手洗いという密室に行かなければ、目撃者は排除できなかったはずだ。異様を異様だと思わせない方法はなんだ。

「拓斗、おまえは警備室に行け。おれは女を追う」
「女?」
「我立玲美の従妹だ。おそらく手引きしてる。まだ院内にいるかもしれない」
 まず那桜を連れ去った奴が病院に留まっているとは思えない。二分もあれば逃亡は可能だ。だが、あの女の歩調がゆっくりしていたことを思うと、手引きという役割だけだったかもしれない。
 拓斗もまた、すぐにでも動きたいところだろうが、何も情報がないまま動くことがいかに無駄かを知っている。和惟を睨めつけるように見ていた拓斗はうなずき、手にした携帯電話にワンタッチして耳に当てながら身をひるがえした。
 和惟はもどかしいほど急ぎ足でエントランスに向かった。エントランスホールへの自動ドアが開く寸前、携帯電話が鳴る。ワンコールも鳴り終わらないうちに和惟は応じた。
「どうだ」
『我立玲美の従妹と思われる女、地下駐車場、B寄りのA区域内』
 和惟はそう訊くと同時に、エントランスホールの地下へと行く階段を駆けるようにおり始めた。
「了解。ほか」
『二階の内科、資材室で意識喪失の男性看護師を発見。録画より、男二人侵入。女が監視。制服、セキュリティカードとも紛失。産婦人科外来セキュリティドアから、紛失したIDで車椅子を押して入る男が一人。顔認識システム(FRS)で部分照合により未登録者。一分後、引き返す。車椅子に乗っているのは女性と思われる』
「那桜だ」
 さえぎるように云った和惟の声は、電話の向こうにいるだれかと――拓斗にほかならず――重なり、和瀬との連携はとれているはずでシステムスタッフもおよそ見当をつけていただろうに、送話口からは息を呑む音が電話越しでも伝わってくる。和惟か、という距離を置いた声が聞こえたあと、再びスタッフの声が鮮明に聞こえだす。
『了解。続けます。地下で車椅子と男二人、十二時四十五分に乗車を確認。四十七分、ゲートを通過』
「車番手配。追跡だ」
『はい――和瀬から連絡。情報網、開かれました。車番連絡済み』
 わさわさとした気配のなか、一瞬云い淀んだあとスタッフは手早く報告した。
「了解。いったん切る」
 和惟はジャケットのポケットに携帯電話をしまいながら、地下のB区域に出た。地下ゆえに響く足音をなるべく消しながらA区域に向かう。幸いにして甲高く喋る声がその努力を手助けしている。同時に、その話し方は聞き憶えのある下品さだと気づく。
「姉さん、うまくできたよ。……うん。約束の車、我立のおじさんに頼んでよね」
 あまりの軽々しさに、和惟の迂闊さが浮き彫りになる。

 那桜のたまたまの行動が相手に好機を与えるという、そんな必要がどこにあったのか。いや、問題はそこじゃない。
 おれ、だ。

 A区域に入ったとたん、女の姿を捉えた。
 和久井家と瀬尾家が組織するネットワークは強固で手堅い。手配が早ければ早いほど有効に働く。
 わかっていても――。
 和惟の眉間に険しくしわが寄る。
 女が車体の低い車のドアを開き、運転席に乗りかけたところで追いついた。ドアと車枠の間に女の躰を挟み、悲鳴をあげさせる間を与えることなく、背後から手を伸ばしてそれぞれ額と顎を同時に捕らえた。
「ここの警備だ。おまえがしたことはすべて監視カメラに写っている。目的はなんだ。首の骨を折られたくなければ答えろ。手を離す。いいな」



 和惟と別れ、警備室へと歩きながら拓斗は電話をかけた。耳に携帯電話を当てたとたん通じる。
「那桜がいなくなった」
「いま和久井主宰から連絡を受けた。万全を期す」
 拓斗が唐突に告げるも、呼びだし音が鳴ったかというくらい素早く電話をとった隼斗の声はいつもと変わらず、仕事をしているかのように落ち着いて響く。
「蘇我は明らかに戦意の表明をした。首領、那桜は助けます。何があろうと」
 隼斗の返事を聞くまえに拓斗は通話を切った。
 首領――そう呼んだのは、何があろうと――最善を尽くしたすえに有吏が表に曝されるとしても、真正面から挑む、とそんな覚悟が、那桜と引き離されたと知った瞬間に自分のなかに芽生えたことを伝えたいがためだ。

 警備室に行くと、慌ただしく会話が飛び交い、あるいは電話の相手と話しながらも、余念なく周囲の声に耳を傾けている。
 端的に単語を並べ、オーバーヘッドタイプのヘッドホンマイクを使って喋るスタッフのまえにはテレビ画面があり、そこには車椅子を押す男が映る。
「……車椅子に乗っているのは女性と思われる」
「那桜だ」
 横に立ち、そう云うと、スタッフはすっと息を呑みながら拓斗を見上げた。
「和惟か」
 訊ねると、スタッフはうなずいたあと、画面に向き直って話しだした。

 駐車場を背景に、ぐったりした躰が車に乗せられる画面が流れる。
 無事、なのか。そうでなければ連れ去る必要はない。
 自分に問い、自分に云い聞かせる。
 那桜。
 幼い頃の自分が顔を出し、拓斗は拳を握る。その無意識のしぐさは、すぐにでも駆けだしたがる衝動の証しだ。
 自覚しているぶん、おれは冷静でいられているのか。

「和久井だ。網を張った。情報提供を」
 室内に和久井家の長男、一寿(かずひさ)の声が広がる。スタッフの一人が車両ナンバーを告げた。
 和瀬の顧客が狙われるなかで、なぜ那桜が……、と考え始めたところで一つの推論が頭をもたげる。
 我立玲美に監視がついたのは一昨日で、戒斗の要請からだ。叶多と玲美は、二年まえの拉致事件を巡って面識がある。ちょうど三日まえ、那桜が美鈴を通して玲美と会ったように、叶多のまえに現れたという。
 戒斗と叶多のガードにつくのは和瀬だ。和瀬の顧客が狙われているというなら――なんらかの要因で、叶多から那桜へと標的が変えられたのかもしれない。
 拓斗はスタッフが持ってきたイヤホンマイクを受けとり、携帯電話と繋いだ。耳全体を覆うタイプのイヤホンを左の耳につける。胸ポケットに携帯電話をしまうと同時に――
「高速にて自動車ナンバー自動読取装置(Nシステム)でキャッチ。新宿方面」
 イヤホンをつけているせいか、鼓動が共鳴しているのか、わんわんと躰の奥にまで轟いてくる。
「拓斗さん」
「和惟と合流する。あとは衛守主宰の指示を仰げ」
 呼びかけたスタッフに云い残し、拓斗は警備室を出た。
「わかりました。気をつけて!」

「和惟」
 呼びかけているうちに拓斗はだんだんと歩くスピードを加速していく。
「聞こえてる。車を出した。エントランスだ」
「那桜は叶多の――」
「身代わりだ。我立玲美はなんらかの理由で叶多ちゃんを避けたらしい」
 拓斗をさえぎって代弁した和惟の声音に、どこか隠ぺいを感じとる。避けた、という前提は何か。
 拓斗が廊下を走りだすなか、和惟は続けた。
「玲美が自分で動くはずがなかった。前回もそうだった。浅はかに人を使う」
「和惟、何が起きてる」
 再度、拓斗は訊いた。
「いまは説明してる暇がない。蘇我が宣戦布告した以上、おまえは知っていいはずだ。いや、知るべきだ」
 人を避けて走りながら、拓斗はエントランスを出た。ちょうど和惟の車が正面に止まる。
「急げ」
「云われるまでもない」
 拓斗の命に応え、そう吐き捨てた和惟の手は、関節を白く変えるほどハンドルを握りしめている。
 冷静になれと自分に云い聞かせるよりも、和惟のその様がより効果的に拓斗の動揺を抑制する。
「和惟、戒斗は気づくだろうが、叶多には絶対に云うな」
「だれのせいでもない」
 拓斗の忠告を和惟は一笑に付した。その実、横顔はこわばっている。

 なぜ、那桜が――と、そうではなく。
 いつのときも、隠れてではなく、堂々と、なぜ守れなかった。

 だれのせいでもない。
 おれ、だ。

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