禁断CLOSER#125 第4部 アイのカタチ-close-
3.Shaded love -11-
那桜が姿を捉えた直後、立矢もまた、驚きが伝わったように那桜たちに気づいて足を止めた。和惟は那桜の視線を追って振り向くと眉をひそめる。立矢は再び歩きだして、那桜が立ちあがるのと同時に傍に来て立ち止まった。
「立矢先輩! こんにちは。どうしたんですか、こんなとこで」
那桜のびっくり眼を見て、立矢は苦笑いをする。
「那桜ちゃん、こんにちは。確かに『こんなとこ』で会うとは思わなかったな。けど、それをいうなら衛守さんもだ。男は、産婦人科にはめったに用事がない」
可笑しそうに応じて立矢は和惟に向き直ると、「こんにちは」と会釈した。
「それで、“めったなこと”ってなんだ?」
うなずいて挨拶に応じた和惟は険しさを消し、飄々として立矢を促した。
「姉が入院してるので見舞い、兼、下僕としている、というところでしょうか」
立矢は自分がやってきた方向を指差しながら云い、おどけた様で首をひねった。
那桜は、「有沙さんが?」とつぶやくように問いながら、彼女も妊娠中だったことを思いだした。赤ちゃんが欲しいと思ったきっかけになったのに、すっかり忘れていた。
「赤ちゃん、生まれたの?」
「いや。予定は六月の終わりだ。前置胎盤とかいうので出血したらしくて、昨日の朝、救急車で運ばれて緊急入院てことになった」
「大丈夫?」
「ああ。寝たきりでいるわけでもないし、落ち着いてる。当面――最低でも二週間、入院するらしい」
「ご主人は?」
「昨日も今日も午前中は付き添ってたし、案じてはいるようだけど、心配してるのは姉のほうだろうね。自分のいない間に妻の座を分捕られないかって。妊娠している以上、古雅社長はむちゃな“趣味”を控えなくちゃいけないから、フラストレーションが溜まってるだろうし」
「分捕られる……って、望まれて後継ぎの子を産むんだし、妻の座はますます頑丈になりそうだけど。あ、男の子?」
「らしいよ。那桜ちゃんの云うとおりなんだけど、それがわからないくらい、姉さんは古雅社長の支配下にあるってことだろうな」
そんな有沙を見てみたい気もするが、それよりも拓斗と鉢合わせさせたくないと那桜は思った。カノジョという立場じゃなくても、“まえのオンナ”なんて拓斗には必要ない。
「古雅社長にとっても彼女にとっても、何より、だ。だろう?」
和惟が口を歪めて賛同を求めると、立矢は右側だけ肩をすくめて「でしょうね。人にどうこうしようって考える暇がないようですから」と少し皮肉めいた。そして、那桜に視線を戻すと――
「那桜ちゃんに衛守さんは付きものだけど、ここにいるってことは那桜ちゃんがどうかしたってことになる」
と、立矢は勘繰っていそうに首をかしげた。
「大したことなくて、ちょっとした貧血があるだけ。急患があって先生が診られなくなったから今日はもう帰ろうと思って。明日、また来るつもり。和惟、云ってきてくれる?」
那桜は、広めに設けられたロビーの斜め向こうにあるナースステーションを指差した。突然、那桜が帰ると云いだして意表を突かれた和惟は、ちょっとだけ眉をはねあげ、すぐに了承を示して肩をそびやかすと立矢を見やった。
「わかってます。ちゃんと護衛しますよ」
立矢は、和惟の無言の要求――もっと正確に表すなら命令を察して、気分を害することもなく承諾した。和惟はかすかにうなずいてナースステーションに向かう。
「立矢先輩、もしかして聞いてる?」
「あとは見当つくだろうって、大まかなところは聞いたけど。有吏一族のなかでちょっとは昇格したかな」
立矢は軽口を叩いた一瞬後、神妙な面持ちに変わった。案じたような眼差しが那桜に向く。
「ますます窮屈そうだね。郁美さんが、マンションに城郭ができてるって云ってた」
「拓兄が心配性なだけって思うけど……わたしもいろんなこと聞かされたの。そしたら、自分のことより拓兄のことが心配な感じ」
那桜はわざと軽い調子で云って首をすくめた。立矢は残念そうな表情を見せ、口先だけで微笑む。
「とことん愛があるとそうなるんだな。姉さんは自分の心配しかしてないけど」
「守られてるばかりで、それが普通だから、いなくなったら……」
ふと、ナースステーションとは反対側になる、斜め向かいのコインランドリーに人影を感じて、那桜は云いかけたまま目を凝らした。
「那桜ちゃん?」
しばらくして立矢が怪訝に呼びかけたそのとき、ドアがなく両側通り抜けになっているコインランドリーから出てきたのは、那桜のまったく見知らぬ人だ。病院に似つかわしくない、ショッキングピンクの服が目に入ったのだが、おなかの大きいその人が抱えている洗濯カゴはピンク色で、服だと思ったのは見間違いだったかもしれない。二日まえに会ったばかりという彼女のインパクトが強すぎたのだろう。失礼ながら、産婦人科とは縁がなさそうな女性だったけれど。
「あ、なんでもない。知ってる人かなって思ったけど違ってたみたい」
云いながら立矢を振り向くと、その背後にある廊下の奥から、ゆっくりした歩調でこっちに来る人影が視界に入った。
記憶にある姿とはまったく見かけが違う。それなのに、那桜はぴんと来た。会いたくない気持ちもあるが、やはり拓斗が戻ってくるまえに立ち去りたいという気持ちのほうが強い。
「明日、午前中って云ってる」
戻ってきた和惟が云い終えるか否かのうちに、那桜は訴えるように見上げる。目ざとく何かしらの異変を察した和惟が、理由を探して那桜がついさっき見ていた方向に目を向けた。ため息をつくが早いか、「下僕が必要なんじゃないか」と和惟は立矢に云い、廊下に向かって顎をしゃくった。
振り返った立矢のため息は和惟よりもひどい。
「立矢、ママはまだ? 明日から面会は午後だけになるっていうの。あのひとでもパパでもいいから、解いてくれるように云ってくれない?」
果たして、こっちに近寄ってきた有沙の目には立矢しか映っていないのか、まるで那桜たちに気に留める気配もない。
「姉さんだけ特別っていうわけにはいかない。そうやって歩けるわけだし、なんの不自由もないだろう」
「独りじゃ心細いわ。何か訊かれたとき、あのひとの気に障るようなこと云いたくないの」
「ここは一流だ。私生活に口出すほど、この病院は暇じゃない。また出血がひどくなったらどうするんだ。子供いなくなったら困るんじゃないのか。病室に戻れよ」
立矢はずいぶんな云い草だが、有沙はめっきり自立心が欠如したような様だ。拗ねたように口を尖らせている。
「わかったわ」
固唾を呑んで見守っていると、その投げやりな返事のあと、やっと有沙の目が和惟へと向き、那桜へと移った。
有沙は相変わらずきれいだが、妊娠しているせいか、全体的に太っている感じだ。それなのに、どこかやつれた印象を受ける。今し方の会話も、周囲の発言に鑑みても、夫婦関係のいびつさが有沙をそうしているのだろうか。
「……衛守さんに、那桜ちゃん?」
有沙は目を見開き、ためらったようにしたあと立矢を振り仰いだ。「立矢、わたし、何かいけないことしたかしら」と不安そうにしている。
「知り合いのお見舞いだってさ。戻るよ」
立矢は有沙の背中を押しながら、那桜たちを見やった。お見舞いと云ったのは、貧血で来院していることを説明するのが面倒くさかったのか、もしくは本当のことを察しているのか。立矢は軽く会釈した。
「じゃあ、失礼します。那桜ちゃん、また連絡するよ」
「はい。さよなら」
有沙は何かに気を取られているようで、那桜たちをそっちのけにして立矢を見上げている。病室のほうへと背を向けた直後。
「フレビューは大丈夫なのよね? フレビューがなくなったら、あのひと、わたしを捨てちゃうわ! なんにもできなくなるのよ」
「だから姉さん、古雅社長の云うことを聞いていれば問題ない。古雅社長が欲しいのはそれ一つだ。それに、人前では礼儀正しく、そう云われてないか。いま、姉さんは挨拶もしてない」
「病院でも?」
「一歩外に出たらそうすべきだ」
「わかったわ」
立矢と有沙はなんともいえない会話を交わしながら離れていった。
文化祭の日、最後に見せた、立矢への有沙の云いぐさは子供っぽいと思ったが、それが進行しているような、あまりにもの変容ぶりに那桜は唖然とした。
「気にするほどでもないだろう」
和惟は那桜の“理由”を見透かしていたように云った。すぐに那桜を有沙から避難させようとしなかったのは、いまの有沙を知っていたからだろうか。
「あんなふうになってるって思わなかった」
気の毒といった気持ちさえ湧いた。そんな同情を察したのか。
「根本は変わらない」
和惟は釘を刺した。
「わかってる――」
「どうした」
拓斗がいつの間にか戻ってきて、那桜はハッと顔を向けた。
「診察、明日に延ばしてもらったの」
「古雅有沙が入院してた」
和惟が重ねるように報告すると、拓斗は暗に事情を教えろといわんばかりに首をひねった。
「妊娠中のトラブルだ。昨日、救急車で運ばれてきたそうだ」
「立矢先輩がちょうど病室から出てきてわかったの。有沙さんとも会った」
那桜が視線を廊下に向けると、拓斗もそれを追う。すでにふたりの姿はない。
「診察、延ばした、って?」
「拓兄に……有沙さんと会ってほしくなかったの」
「心配するようなことは何もない」
拓斗もまた、いまの有沙を知っているのか、案じた様子もためらいもなく断言した。
「心配してるからじゃなくて……嫌なだけ」
那桜が首をすくめると、拓斗は何か振り払うようなしぐさで首を振った。
「明日は予定どおり朝から外回りで、付き添いはできない」
「知ってる。病棟と外来は離れてるけど、万が一でも有沙さんと鉢合わせするよりいい。また次があるし、そのとき一緒に心音、聞いてくれるよね。それに、和惟がいるから。ね?」
「早朝から要人が控えてるけど、シフトを調整すればなんとかなる」
躰のなかに、在るべきとして在る生命体が共存しているだけで、つわりのことを除けば那桜は至って健康だ。和惟の言葉を聞くと、さすがに申し訳ないと思う。
「それなら、一族の病院だし、惟均くんとか送ってくれるだけでいい気がするけど」
「病院は不特定多数が出入りする。むしろ危ない場所だ」
「はい」
ため息は押し殺した。うんざりしたのは監視ではなく、手間をかける自分に、だ。
「帰るぞ」
なだめるためか、拓斗が左手を差しだしてくる。すかさず、那桜は手を取った。拓斗から半歩遅れて歩きだすと、和惟は那桜の左側について、斜め後ろをついてくる。
「拓兄、お父さんが出張するのは明後日だったよね。変わりない?」
「変更は聞いてない。なんだ」
「明後日はお父さんの誕生日だけど会社にいないから、明日、お弁当のプレゼントしようと思って。遅いより早いほうがいいよね」
拓斗が、どうしてそこだ、と云いたげな顔で振り向いた。
「お父さんが、拓兄のお弁当をうらやましそうにしてるんだって。お母さんから聞いた話」
拓斗は首をひねり、和惟は失笑した。
「反応が楽しみだな」
「内緒だから!」
どうでもよさそうに首を振った拓斗は正面に向き直った。背後を振り向くと、可笑しそうにした和惟は道化師みたいに片方だけ肩をすくめる。
「おかずにするのを買いたいんだけど、どこかスーパーに寄ってくれる?」
「オーケー」
二階から階段を使っており、一階のロビーを抜けて外に出た。
「我立家ってどんな家?」
外なら建物内のように廊下を通じて響き渡ることもない、とそう思ったのに、気に障ったような拓斗の目に合った。
「有吏でいえば、和久井家の本業と同じだ」
和久井家の本業は、孔明が我立家を指定暴力団と云ったとおり、それに似たものだ。大きい組織ではなく、イメージするなら、下町にひっそりと生息しているという感じだろうか。その実、有吏一族のように、水面下で日本の隅々まで繋がっている。そんな和久井家が衛守家のように要人の警備ができるということに疑問はあるが、それも有吏の暗の力で、だからこそ、蘇我は暗の一族の存在に戦々恐々としているらしい。
「それは知ってる。そのとおり、反社会的で犯罪者なのかってこと」
「そのとおりだ。二年ちょっとまえ、瀬尾絡みで深智と叶多が拉致に遭ったことを話しただろう。あれを指図したのは我立玲美だ」
「……ほんと?」
「嘘を吐いてどうする」
「“有吏一族”とは関係のない、まったくの私情だった。けど、我立家はそういう犯罪をものともしない人間が育つ環境にあるということだ」
和惟が補足した。どうりで一昨日、拓斗も和惟も我立と聞いたとたん、険しい顔になったはずだ。それに、玲美がNaturaで『啓司』と呼んでいたこと、二年まえから深智と啓司が同棲していることに『私情』を照らし合わせれば、拉致事件の背景も想像がついた。
そして、拓斗が神経質になり始めたのはその頃かもしれないとも思い当たった。
「気をつける」
ちらりと那桜の頭をよぎったのはピンク色の服だったが、見間違いでふたりを大騒ぎさせたくないし、会うこともめったにないはずだ。それ以前に、ふたりのいずれかが常に傍にいる。
「そうしろ」
「拓兄、心配させたくないって思ってるのは絶対に本当!」
叫ぶように宣言すると、繋いだ手を同時に握りしめ合い、那桜に釣られたように拓斗のくちびるがめったにないくらい緩んだ。
*
「和惟、お昼すぎちゃう」
産婦人科外来の時計はあと十分で正午を指す。那桜はがっかりとため息をついた。
「また出直すのか」
「そんなわがままできないよ。子供じゃないし。和惟が遅いから!」
和惟の仕事の都合で、病院に来たのは十一時と遅くなった。すぐ診てもらって終わるだろうという期待は、出産という、どうにも動かせない事情で裏切られた。産科ならでは通例で、どの患者からも文句は出ない。特に、紹介でしか入れない病院だから、特別な患者が多いという事情もみんな知っている。ほかにもドクターはいるが、由梨の患者がストップしているせいで、待合室も詰まってきた。おなかが大きい人同士で話したり、雑誌を読んだりと様々に時間を潰している。
「結局おれのせいにするって子供っぽいだろう」
「和惟のまえで気取る必要ないと思う」
和惟は息を漏らして薄く笑った。
「それでいい」
「お父さんの驚いた顔が見られないってがっかり」
もし間に合わなかったら弁当を渡してくれるよう、惟均に頼んできたものの、やはり手渡しができないのは残念だ。
「首領がそういう顔を見せるかっていうのが疑問だけどな」
「顔に出るかどうかは別にして、雰囲気でわかるかもしれないし」
「大丈夫だ。惟均には帰りが間に合わなかったら渡すなってメール入れてる」
「渡すなって、でも!」
「夕方、早めに食べてもらえばいいだろう。五時ともなれば腹も空く」
和惟は思いもしなかった、最良の解決策を出した。
「……ほんと。よかった!」
あまりにも単純明快な発想に那桜が笑いだしたそのとき、携帯電話がふるえる。見ると、拓斗からのメールだった。
『まだ終わってないみたいだな。四十分したら、そっちに行ける』
『出産する人がいて遅くなってるの。やっぱり来てくれるほうがうれしいかも。拓兄が来るのを待ってるから!』
予定より一時間早く、拓斗はクライアントとの打ち合わせを終わり、次のアポイントまで余裕ができた。那桜から終わったという連絡がないということは終わっていないのだろう。そう思って、空いた時間を有効活用しようとメールすれば、一分もたたないうちに返ってきた。
ふっとしたため息には笑みが絡む。そうした自分に気づいて、今度は呆れ半分のため息をつく。
エンジンをかけると、助手席に軽く携帯電話を放った。とたん、タイミングがずれて耳慣れない音がしたと感じたとおり、ダレスバッグに当たったのだろう、ストラップのスナップフックが解けている。
『お守りなの。あ、拓兄のためじゃなくって、わたしの、ね』
たったそれだけの言葉に外すことができなくなっている。二月に新しく変えたばかりだが、それ以前にこういったことはなかった。
胸がざわつく。
携帯電話を取ってストラップをつけ直し、拓斗は車を出した。
「二十五番の方、中待合室にお願いします」
拓斗から、飛びあがりそうにうれしいメールがあって三十分後、那桜の番号が呼ばれ、和惟にバッグを預けて立ちあがった。
「行ってくる。拓兄、あとちょっとだよね。なかに来てって云ってくれる?」
「ああ。ヘンなとこには行くな」
「わかってる」
どこへ行くというのか、那桜は呆れながら和惟に返事をして、スライドドアのまえで待つ看護師のところへ行った。
案内に沿って中待合室に進むと、ちょうど奥のほうにある扉がスライドして由梨が現れた。由梨が通り抜けると、自動で閉まって鍵のかかるような音がする。なんに反応しているのか、衛守セキュリティガードのシステムなのだろう。和惟がなかまで付き添ってくるとは云いださないはずだ。
傍に来た由梨は那桜へとにこやかな笑顔を向けた。
「那桜さん、今日もまたお待たせしてごめんなさい」
「大丈夫です。あと十分くらいしたら兄が来るんです」
「あら。それなら別の人さきにして、それからってことにする?」
「はい、ありがとうございます! お手洗いすませてここで待ってます」
赤裸々にうれしそうにすると、由梨は可笑しそうにうなずいた。
「どうぞ。お手洗いは、いまわたしが通ってきた扉のところにあるわ。衛守さん、いるのよね。気をつけてね」
さすがにトイレまで付き添いは難しいだろうという突っこみはよしておいた。
それぞれの診察室のまえで待機している人の間を進み、奥に行くと、尿採取室と兼用したお手洗いがあった。様式が二つしかないが広く場所が取られていて、ドレッサーも鏡面仕上げをした茶系の台と、落ち着いた一流ホテルのような佇まいだ。リラックスできるようにという配慮だろうか、贅沢な気がした。
それにも増して、那桜のいまの気分は贅沢感いっぱいだ。
仕事が終わったのか、時間が空いたのか、メールは拓斗が気にかけていることをあらためて教えてくれる。妊娠は閉じこめる口実だと云い放った拓斗だが、実際は那桜を仕事から切り離すことはなく、だからこそ、拓斗は子供のことを本当はどう思っているのか聞いてみたい気がする。
手洗いをしてタオルペーパーで手を拭いていると、ドアの向こうで、さっき由梨が出てきた扉が開く音がした。かと思うと、お手洗いのドアが開く。まず車椅子が見えて、そのまま入ってきた。車椅子は空っぽだから、患者の迎えだろうかと思いついた直後には、那桜以外だれもいないという、自分の出した結論の矛盾に気づく。眉をひそめた刹那、車椅子を押してきた人が入ってきて、それが白衣を着た男性ということに驚いた。
男は車椅子を邪魔だとばかりに奥に押しやる。
油断した。とっさに頭をよぎったのはその言葉だ。けれど、こんなことが現実にあると思ったことはない。有吏が有吏だとばれないかぎり。
男はきっと医者ではない。那桜を見据える目がそう白状している。
だめ!
その拳が目に入ったとたん、那桜は内心で叫んだ。本当の恐怖が人の声を奪うということを知らなかった。
それでも――。
「おなかはやめ――っ」
もしも、殺される、としたら、意味のない、言葉、でも――。
痛みではない、苦しさが那桜を襲う。躰から酸素が奪われた気がした。
『見失うことはない』
不透明になっていく意識のなかで、そんな言葉を思いだす。
拓……に……。