禁断CLOSER#123 第4部 アイのカタチ-close-
3.Shaded love -9-
四月も今日を含めてあと三日という二十八日。有吏LTDはゴールデンウィークをまえにして、土曜日なのに休日返上でみんな出勤した。有吏LTDはいつも大型連休とはならなくて、カレンダーの赤印のとおりにしか休みにはならない。
有吏の男たちはワーカホリックだ。おまけに、時間内外で裏の仕事までやるなんて、もう重度の病気だと那桜は思う。
ひとまず、今日は時間どおりに終わるよう、まえもって隼斗が声をかけているから、六時になるとだれもが帰る段取りに入った。
ただし、拓斗は東京の外れに出張だ。
「孔明さん、いい?」
真向かいに座った孔明に訊ねたと同時にエントランスの扉が開いた。孔明は、デスクにちりばめた書類を整理しながらエントランスをちらりと見やったあと、すぐに目を那桜に戻した。
「さきに行ってください。まもなく行きます」
那桜は見なくてもだれが入ってきたかはわかる。その和惟に気を遣ってだろう、今日の場合、さきに行こうがここで待っていようが変わらないと思うのに、孔明は那桜を促した。そのほうが好都合かもしれない。那桜は頭のなかでプランを立て直す。
「じゃあ、外で待ってる」
孔明がうなずいたのを確かめて、那桜は席を立った。帰ろうと向きを変えると、案の定、和惟がいて目と目が合う。那桜と孔明の会話が耳に入ったせいか、和惟はわずかに目を細めた。問いかけているようでもあり警告のようでもある。
お疲れさまという労いに送られて、那桜は和惟のあとをついて外へと出た。
那桜の『外で待ってる』という言葉を、たださよならするためだと思っているのか、車に向かう間、和惟は何も問いただすことはない。
「和惟」
「なんだ?」
「拓兄、帰りは遅いっていうし、久しぶりに外で食べたいんだけど。それに、和惟の誕生日プレゼント、何かいらない?」
付け加えると、和惟は薄く笑った。
「そう云えば、連れていってもらえると思ってるのか」
「瀬尾家のお店なら安心して食べられるよね?」
蘇我に約定の破棄は云い渡されたというが、日々なんら変わりなく、孔明にしろ雇われたままだ。変わったのは那桜が気安く出かけられなくなったことだけだろう。食材を調達するという買い物さえできなくなって、瀬尾家から宅配してもらうという始末だ。
まだ二週間かもしれないし、もう二週間かもしれないが、これからさきずっと続く怖れがある。那桜は何かやれることはないかと考えている。束縛されるのが嫌という自分のことよりは、拓斗がずっと気を張っていることが気にかかる。一つくらい逆らうのもいい――と、そこに拓斗の素直な本心が隠れているように思えたから。拓斗が、満たされたいと思っていることと繋がっているような気がする。それとも、那桜のただの独り善がりな気休めか。
「長居はしない」
和惟のまわりくどい返事に那桜はうなずいた。喜ぶには早い。難関はここからだ。和惟からイエスを引きだすタイミングを計っていたかのように、孔明が会社を出てきた。
車まで来ると、和惟が助手席のドアを開ける。
「料亭よりもレストランのほうが好きなんだけど?」
乗る素振りも見せず、那桜がまず注文をつけると、和惟は呆れたように首を振る。
「イタリア料理店でどうだ?」
「どこ?」
「自由が丘のNaturaだ」
ポケットから携帯電話を取りだしながら和惟は答えた。ずっとまえに行ったところだ。リザーブしてくれるのだろう。
「衛守だ。これから那桜をNaturaに連れていく」
相手は瀬尾啓司なのか、唐突に用件を告げた。そこへ、ナイスタイミングで孔明が追いついた。お待たせしました、というかわりだろう、孔明は和惟が電話しているのを見てかすかに会釈する。
「孔明さん。場所は自由が丘のNaturaっていうイタリア料理店なんだけど知ってる?」
「いえ。でも、自由が丘ならうちから近いので、すぐわかると思います」
「那桜」
孔明の返事に被せるようにして和惟が口を挟む。電話そっちのけで聞き咎めたようだ。そうしてもらわないと困るのは那桜のほうだったからほっとする。
「だそうだから、和惟、“予定どおり”四人で予約してね」
あからさまに表情を変えることはないが、和惟の瞳は陰りを帯びて脅迫めいた。
「声をかけていただいてうれしいです。今日は妹までお言葉に甘えさせていただきます」
またもや孔明はうまい具合に那桜のプランを助けてくれた。和惟は何かと考慮する時間を稼いでいるのか、ゆっくりと孔明に視線を移す。
那桜と孔明の掛け合いは、いかにも和惟が食事会を提案したような形になった。普通の神経なら、誘っていないとか、それが本当でも云えないはずだ。和惟が普通の神経をしていないのは那桜がいちばんよくわかっているが、現況、孔明は隼斗が認めた有吏LTDの社員だから、無下にはできないだろう。
和惟は首をひねるだけで何も云わず、那桜へと目を戻した。
「わたしもうれしい。最近、ちょっと食欲不振だし、気分を変えたら美味しく食べられるかも。躰、粗末にはできないから」
むちゃをしようとしているわけではなく、和惟のそんな懸念を払拭しようと『粗末』という言葉を持ちだしてみたが、その効果はあったのかどうか、ため息を交えつつ警告した眼差しが貫いてくる。それを受けとめながら、那桜もまた、これ以上は何も企てはないと、じっと見つめ返して暗に意思を伝えた。
そして、和惟が何か云いださないうちに視線を逸らし、那桜は孔明を見やった。
「孔明さん、美鈴さんに連絡しないと」
「はい、連絡します」
また一つため息をついた和惟は、わずかに躰の向きを変える。
「四人だ」
和惟が電話の向こうに話しかけ、それを聞いて那桜は一安心した。
「蘇我、助手席に乗れ。那桜はおれの後ろだ」
手短に電話を終えた和惟は、助手席のドアを離れて那桜の背中を押した。
「はい、お邪魔します」
孔明の声を背中に聞きながら、一方で背中に添えられた和惟の手はウエストに滑り、懲らしめるように力がこもった。
「怒らせるつもりでやってるわけじゃないの」
ドアの閉まる音を確認すると、那桜は歩きながら声を落として釈明した。
「どういうつもりだろうが、こういうことをおれが納得すると思ったら大間違いだ。拓斗もな」
「蘇我は悪人ばかりじゃない。少なくとも孔明さんは違うし、美鈴さんも貴仁さんも悪い人には感じない」
「那桜は飯田果歩のことを忘れてる。少なくとも、那桜が付き合っていた間、『悪い人』じゃなかった時間のほうが長いだろう。人は、それまでの時間が役に立たないほど、わずかの間に心変わりをする。特に邪心は一瞬にして良心を葛藤に変える」
和惟は那桜がいかにも浅はかだと扱きおろす。云い返せないうちに後部座席のドアが開けられた。
和惟は運転席におさまるとすぐさま車を発進させた。
「仕事はずいぶん慣れたようだな。惟均が、憶えが早いし、二、三年のうちに任せられるようになるって云ってる」
道路に出ると、和惟が口を開いた。冷淡至極な態度はとっても、気に喰わないからといって無視することはない。有吏の男はそういうタイプが多い。特に和惟は、明らかに加害者でないかぎり、プラスティックスマイルを被って社交辞令を駆使する。
「そう聞くとほっとします。嫌われるとはいかないまでも、一線、置かれていると感じていたので」
「そうなのか」
「いえ、僕が勝手に感じてるだけかもしれませんが、しかたないことでもあります。有吏LTDの顧客レベルを考えると、ほとんどのクライアントが蘇我グループと利害関係にあるので、社長としても僕のことが扱いづらいだろうということはわかってるんです。それに、父はこちらにお世話になっていることを快く思っているわけじゃありませんし、そもそもが父と不仲なので、その点で有吏LTDにも悪影響というか、迷惑をかけているんじゃないかと」
和惟はハッと息をついてあしらった。
那桜は孔明が気の毒になってくる。家では異母兄に迫害され、有吏との関係も、孔明は知らないけれど複雑極まりない。実情を知ったら、針のむしろに座らされている気分になるんじゃないだろうか。
「蘇我グループのライバルになる松井商社は、有吏が請け負って成果も出てるからな。おまえの父親にとっては愉快じゃないだろう。けど、有吏がそういった圧力に屈すると思うか」
「いえ、それはあり得ません。ちょっと“五月の蝿”って時期だなと思っただけです」
「カバの次はハエか」
つまり“五月蝿い”ということだと那桜が思いつくまでに、和惟はおもしろがって云い、孔明は可笑しそうにうなずく。
「図体は無駄に巨大で獰猛でも、脳みそはハエ並みということでしょうか」
孔明は辛辣だ。失礼だとは思うが止められず、那桜はぷっと吹きだした。孔明が後ろを向き、かすかに皮肉めいて那桜に笑いかけた。
「蘇我、あり得ない――そのとおりだ。おまえにもそれを引き継いでもらわなければならない」
和惟は鼻で笑ったあと、緊張感を漂わせた声音で必然を云い渡した。
「有吏コンサルの仕事という意味ではなく、父に対して、ということですか」
「もちろんだ。経済界では、蘇我の坊ちゃんの動向が話題に上ることもある。有吏コンサルで学んだからには蘇我のトップに立て。有吏の名を廃らせるために“潜入”したんじゃなければ、な」
からかうような口調がその真意を隠しているが、和惟は『坊ちゃん』という侮蔑的な言葉を使い、そのうえ、スパイだとほのめかした。孔明がどう受けとるだろうと思っていると、孔明は笑い声を立てた。その直後。
「立ちます」
短く宣言した声はごく真剣だった。
Naturaに着くまで三十分。那桜が口を挟む間もないくらい――というよりは、あえて黙していたのだが、ほぼ和惟と孔明の会話で終わった。何気なくしているようで実はこわばっていたという雰囲気が、どこか通じ合ったようにくつろいだ様に変わった。
やがて、一軒家みたいな建物が見え、和惟は駐車場に入って車を止めた。周辺と違い、ここは山のなかに紛れこんだ感じがする。木に囲まれ、花壇やら畑っぽい場所やらがあって、“自然”という店の名に沿った佇まいだ。
車を降りると、心なしか空気まで違うような気がして、那桜は深呼吸をする。車に揺られて少しだけむかむかしていた気分がすっきりした。
「美鈴さんはまだ……」
云いかけたまま那桜は口を噤んだ。どこからか尋常じゃない音が近づいてくる。
孔明が深々と息を吐きだした。ため息というよりはうんざりして聞こえた。なんだろうと考える間もなく、何事だという音の発生源が車だったことがわかる。
「すみません。従姉のようです」
孔明の言葉が掻き消えそうなほど派手なマフラー音をまき散らし、車体が低く真っ赤なスポーツカーが入ってきて駐車場の真ん中に堂々と止まった。
「孔明さんの?」
「血は繋がってるのかというほど遠いんですけどね。我立家は特殊なんです」
孔明は苦笑いをする。蘇我も有吏と同じで、血の濃さよりもルーツに重きを置くのだろうか。
「我立家?」
和惟が不審そうに問いかけた。見上げると、眉根を寄せて険しい顔つきをしている。
孔明は重々しくうなずく。
「ご存じですよね。我立会は指定暴力団です。職業柄――といってはおかしいですが――とにかく、蘇我家との繋がりは公になっていませんが、はっきり一族です。領我家に賛同してる側ではなく、父の側近です」
「確かに暴力団と懇意にしているとあってはまずいだろうな」
和惟が云っているうちにスポーツカーの運転席のドアが開いた。一歩遅れて助手席のドアが開き、美鈴が出てくる。那桜たちからすると運転席は向こう側にあって、美鈴よりも、さきに降りた運転手のほうがあとから視界に入った。
車をまわってこっち側に来る――と、その全身を目にしたとたん、那桜は唖然とした。
背の高い女性で、茶色い髪は爆発的にくるくると小さく波打って顔から肩までを縁取っている。顔を小さく見せようという努力なら失敗作だ。恰好にしろ、赤紫に近いパープルのフィットパンツに、車と同じ真っ赤なジャケット、そして真っ黄色のインナーとカラフルすぎる。よくこれで運転できるなという、ヒールの高いパンプスはグリーンのエナメルだ。雰囲気に合っているといえば合っていて、前向きに考えれば着こなしがうまい。
近くにやってきた彼女は、化粧品の匂いが漂ってきそうなほど化粧が濃かった。
「孔明、ここ啓司の店だけど、よく予約とれたわね。いつもいっぱいで、急には入れないって聞いてるのに。美鈴ちゃんは、ついさっきまで場所は決まってないって云ってたわ」
「啓司ってだれだ」
「孔明にとってはどうでもいい人」
彼女はつんと顎を上げた。孔明は呆れきったため息をつく。
那桜はまず、彼女の口から『啓司』という言葉が出たことに驚いた。孔明は知らないようだが、どこで繋がっているのだろう。
「美鈴もおれも場所を聞いてなかっただけだ。玲美姉さんにはどうでもいいことだ」
孔明はやり返す。有吏にいるときとは違い、ずいぶんと喋り方がつっけんどんで険しく感じる。さっきのため息といい、従姉が好きではないのだろう。
「どうでもよくないわよ。わたしは今日行くって云っても入れたためしがないんだから」
文句たらたらといった感じだ。入れないのは店の人気のせいではなく、彼女の形振りのせいだろう。
「予約してた。それだけだ」
しつこそうだと思ったのは那桜だけではないらしく、和惟が割りこんで淡々と嘘を吐いた。
彼女はそこではじめて気づいたように和惟へと目を向けた。まじまじと和惟に見入る。和惟と初対面であればよく目にする反応だ。ほかの女性と違っているのは、眼差しが不躾すぎることだろう。
こういう女性が問題にならないことは火を見るよりも明らかだが、しばらく遭遇しなかった場面に、那桜は知らず知らずのうちに和惟の腕を取る。和惟に続いて、彼女の視線までもがその触れた場所におりた。
すぐに彼女の視線は上り、「もったいないわ」と那桜を一瞥したあと和惟へとさらに上った。
「我立玲美よ」
『もったいない』がどういう意味か察するにたやすい。けれど、玲美に云われる筋合いはない。
「有吏那桜よ」
和惟に先立って那桜は名乗った。玲美は、奇矯な生き物にでも遭ったかのような顔つきで那桜を見やった。頭上では息をつく音がする。きっと和惟は呆れている。
「衛守和惟だ」
「もったいないカップルね――」
「玲美姉さん、帰りは貴仁に頼んでいる」
孔明は玲美をさえぎり、遠回しに追い払う言葉を投げつけると、口を挟まれるまえに「美鈴、行くぞ」と、おずおずとして所在なさそうに立っていた美鈴に呼びかけた。
「あ、うん」
それまで会話に加わりそびれていた美鈴は、孔明に振られて慌ててうなずく。「那桜さん、衛守さん、こんにちは」と急くように挨拶言葉を口にした。
「孔明、あんたのパパに云っておいてあげる。妹を連れてきてあげたのにお礼の一つも云えないし、孔明はレディの扱いがなってないってね」
「玲美姉さんが――」
「あ! 玲美お姉ちゃん、ありがとう。買い物、楽しかった。また連れてってくれる?」
美鈴が孔明をさえぎって声をかけると、玲美は心なしか刺をしまったような様に変わった。
「もちろんじゃない。美鈴ちゃんの荷物、家に置いてってあげるから」
「うん。ありがとう」
「いいわよ。じゃあね」
様子を見守っていると、美鈴のお礼を聞き届けた玲美はすんなりと車に戻った。さながら美鈴は猛獣を手懐ける達人だ。
再び爆音を吐きだしながら車が去っていったあと、駐車場は異様に感じるくらいしんと静まった。
「すみません」
孔明はここに来て二度めの謝罪を口にした。
「謝るようなこと、孔明さんは何もしてないと思うけど。ね、和惟」
「レディじゃないことは確かだな」
和惟のブラックジョークに孔明は苦笑した。
「ごめんなさい。玲美お姉ちゃん、悪い人じゃないの。ただ……」
美鈴は少し考えこむようにしたあと、「自分に正直で、だから奔放なんです」と玲美をかばった。玲美にしろ、帰る間際の様子からすると、美鈴にはやさしく見えた。
「美鈴さん、仲がいいの? 美鈴さんと玲美さんて対極にある感じだけど」
那桜の質問に、最初に答えたのは孔明だった。
「なぜかそうなんです」
渋々といった口調だ。その隣で美鈴が吐息を漏らす。
「わたし、いろいろと臆病で、従姉妹たちに馬鹿にされること多かったの。でも、玲美お姉ちゃんがかばってくれて、いまはそういうこともなくなってる。わがままなところもあるけど、正反対なのが逆に相性いいのかも」
美鈴はおどけて肩をすくめた。