禁断CLOSER#121 第4部 アイのカタチ-close-

3.Shaded love -7-


 総合病院、篤生(とくせい)会まで行くと、休日診察を受ける急病の患者が多いなか、那桜は待つことなく診察室に通された。産科はどの分野にも増して年中無休がまかり通る診療科だが、通り抜けてきた内科に比べると比較的待合患者は少ない。
 篤生主宰は当然のように拓斗と那桜を出迎えた。けれど、立ち会うだけで、診察を主導したのは女医だ。
 裏分家という遠い親類とはいえ、少なくとも年三回、叔父として会う人に診てもらうには抵抗がある。そのことに思い至ったのは車のなかで、病院に来るまで気後れを覚えていたから、担当が女医だとわかって那桜はほっとした。もとい、よくよく考えれば篤生主宰は医師免許を持っているという、あくまで“経営者”だ。患者を直接診ることは基本的にないという。
 産婦人科医、篤生由梨(ゆり)は篤生家の分家出身で、那桜とはつまり、八掟主宰の娘という叶多よりももう一つ遠い一族という間柄になる。会うのは今日で三回めで、一回めと二回めは、ともに高等部時代、生理痛の緩和を口実に経口避妊薬(ピル)を処方してもらったときと、それが躰に合わなくて具合が悪いと訴えに来たときだ。年も二十は離れているから、普通に女医と患者としての付き合いになる。

 問診から始まって、身長などの基本的測定があり、尿検査、内診、経膣超音波(エコー)検査と三段階で妊娠は確定した。
 篤生家のふたりからなんの憂いもなく、「おめでとうございます」とそれぞれに云われてほっとしつつうれしかったが、それよりも、拓斗の『躰は大事にしろ』のほうが那桜には効果的だ。つい一時間まえの微笑が脳裡に甦って胸に沁みた。
 付き添っている拓斗を見上げると、あからさまに喜んでいるふうではないものの、何かしら肩の荷がおりたような安堵感が見えた。那桜が堪えきれないといった様で笑いかけると、首をひねって応えた。
 渡されたエコー写真はどう眺めてもぴんとこない。二週間後には心拍が聞けるだろうと云われ、またその頃、診察してもらうことになった。

「拓兄、和惟は?」
 診察室から出ると、ここまで送ってきた和惟の姿が見えない。
「惟均が迎えにきて、衛守家の会合に出かけた。おれが会議に出るまえには帰ってくる」
 拓斗は綿パンツのポケットから鍵を取りだした。那桜は息をつく。それは、ため息と、ちょっとした気づまりが後回しになったことへの安堵が入り混じったものだ。
『望みが叶ってよかったな』
 ベッドから起きだして着替え、下にいったとたん、“おはよう”よりもさきに和惟は云った。いつものからかうような雰囲気だったが、那桜はなんとなく、本当はどう思っているのだろう、そんなことを考えた。おそらく考えすぎだということもわかっている。
『おめでとう。躰には気をつけるんだ。月並みに云うと、那桜独りの躰じゃない』
 どう答えるか那桜が迷っているうちに、そう続けた和惟はやっぱりおもしろがっていた。
「那桜」
 拓斗が目を細めた。きっと、いま那桜が考えていることを――少なくとも、それが和惟に関することだと悟っている。
「うん。帰り、ケーキ買っていっていい? 夜、お祝いしたいから。……お祝い、だよね?」
「じゃなきゃ、なんだ」
 拓斗は呆れたようにつぶやき、そんな反応は、拓斗が素直に子供が生まれることを受け入れているようで、那桜は安心させられた。


 午後から来ると云っていた郁美から電話が入ったのは十一時すぎ、ちょうど那桜たちがマンションの駐車場を出たときだ。
 昼食も一緒にしないかと云うから、長居する気だろうかと勘繰った。昨日までは、なかなか会うことのない郁美が来るのを子供みたいに楽しみにしていたのに――いや、今朝の電話まではそんな気分だったのだ。
 それよりもいまは、ちょっとさきの未来を思い描きながら、じんわりと実感してすごしたい。もっとも、その時間を共有してほしい拓斗はすぐに出かけてしまうから、いずれにしろ那桜の希望は先延ばしになる。
 いいよ、と応じながら何時に来るかと訊ねれば、すでに買いだしをしてマンションに到着していた。郁美らしいといえば郁美らしい。仕事じゃないときは家にいるばかりの那桜というのが定着しているから、いるだろうと当てにされることはしかたないことでもある。

 エントランスでそろって待っていた郁美たちを連れて最上階に行くと、標準で装備されているトリプルセキュリティに加え、最上階だけにある四番めのセキュリティドアが新たにあることを知って、二カ月ぶりに来た郁美は呆れたすえ、笑いこけた。一方で翔流は顔をしかめる。
 左右の真ん中にあるエレベーターの入り口は、廊下の両側に面して鉄の柵がある。つまり、エレベーターを出たら檻のなかというわけだ。例えば、管理人がいるからまずそうすることはないけれど、宅配が来たときは荷物を柵内に置いたまま鉄格子越しにサインするという具合だ。出入りに関しては、ノンタッチキーを携帯していれば、いちいち鍵を通すということもなく開くから不便というほどでもないけれど、さすがに那桜も呆れ果てた。お洒落な門扉とはいえ、所詮、もどきであってとてもいただけない。
 ピザやらチキンやらとカロリーの高そうなものを食べ合っていると和惟が帰ってきて、入れ替わりに拓斗は外出した。衛守家の次は、近隣に住む主宰たちが集まっての会合と、一族は春先からずっと慌ただしい。

「あ、これもいい。仕事着によさそう。んー悩む。どっちがわたしに合うと思う?」
 女三人、応接のテーブルに顔を寄せ合い、二十代を対象にした女性向けの通販カタログを覗きこんでいると、郁美が二つのページを行ったり着たりしながら意見を求めた。
「郁美は可愛い感じだから、わりとどういうのでも似合うと思うけど」
「那桜さんに賛成。こういうの、はじめて見たけどデザインがけっこう可愛い。わたしも買ってみようかな」
 美鶴は興味津々としてカタログのモデルを追っている。
「美鶴さんには安すぎない?」
 郁美はちょっと驚いた顔で問いかけた。
「そんなこだわりはないの。友だちに付き合ったり、友だちが着てるのをいいなって思って店を教えてもらったり。同じものは買わないけど」
「あーそっか。美鶴さんの友だちってハイグレードって感じがするし、必然的にそういう店に行っちゃうってこと?」
「そんな感じ」
「そういえば、ずっとまえ。和惟と立矢先輩と一緒になったとき、わたしが着てた服見て、美鶴さんたち、そのあとあの店に行ったんだよね」
「あ、そうそう。そんなこともあった」
 美鶴は首をすくめて可笑しそうにした。
 那桜は出かける機会をあまりつくれないから、金銭的に余裕はあってもネットやカタログを見て購入したりすることが多い。那桜と違って、美鶴は高価な店を選んで服を買っていそうだが、周囲の影響を受けるといったように流されやすいだけで、実のところ、こだわりはないのだろう。
 美鶴はどこかつかみどころがなく、那桜は自分のことをすっかり棚に上げて、変わってる、と内心でつぶやいた。

「コーヒーできた」
 バニラの甘い香りが近づいてきたかと思うと、和惟が声をかけた。那桜が見上げると同時に和惟はかがんできて、テーブルの空いた場所にトレイを置く。
「わあ、美味しそうな香り。ありがとうございます。いい男に奉仕されるなんてまさにいい感じ」
「なんだよ、郁美。おれが毎日してやってることだろ」
 ダイニングテーブルのほうから勇基が声をかけた。拗ねているのではなく呆れているところに、郁美と勇基の確かな関係を感じる。
「妬かない、妬かない」
 おもしろがって軽くあしらった郁美の隣で美鶴がくすくすと笑う。釣られて笑いながら那桜は立ちあがった。
「ケーキ持ってくる」
「あ、手伝う」
「美鶴さん、大丈夫」
 立ちあがりかけた美鶴を制して、那桜はキッチンへと行った。あとから和惟がついてくる。
「違うのがいいか?」
 那桜が冷蔵庫を開けていると、自分たちのぶんのコーヒーを淹れる準備をしながら和惟が問いかけた。
「なんのこと?」
「コーヒーじゃないほうがいいかって訊いてる」
 那桜は横を振り仰いで、わずかに目を開いた。
「……ううん、大丈夫。コーヒーの香りがちょっと苦手になってるだけ。だから、フレーバーコーヒー買ってきたんだよ」

 拓斗が気づいていたのだから和惟が気づいていないはずはない。拓斗と和惟が些細な変化を妊娠と結びつけたのはいつだろうか、とふと那桜は思った。
 守られているようなセックスの日。そんな意図で和惟から触れられたのは三週間まえのその日だけで、またいつもの日々に戻った。和惟が、からかうことを忘れることはないが。
 なんとなく、だけれど、赤ちゃんができたのはその日なんじゃないかと思い始めている。賭けでもしくじったわけでもなくて、なるべくしてなった気がするのは、那桜のわがままな願望だろうか。

「なるほど。楽しみだ」
 どういう意味だろう。和惟は手もとに向き直り、コーヒーメーカーのスイッチを入れた。甘いのは香りだけなのに、それでも和惟は受けつけないらしく、翔流たちに用意しているのは普通のコーヒーだ。
「和惟のぶんは夜のデザート用ね」
 ケーキを一つかざしてみると和惟は顔をしかめた。
「翔流くんたちは食べるよね」
「いいかげん、男は甘いもの食べないって先入観、やめろよな」
 翔流はすかさず応酬した。
「じゃあ食べて。セルフだよ」
 那桜はカウンターに二つケーキののったお皿を置いて、自分たちのぶんはトレイに並べて持っていった。
 ケーキを買うときに、郁美たちのぶんまでと気がまわったのは、我ながらいい勘だったと思う。エントランスで会ったとたん、郁美はケーキを見て、何かお祝い事かと聞いたのだ。郁美たちと食べようと思って――それは本当のことで返答に詰まることもなかった。
 妊娠したことを公にするにはまだ早い気がする。やはり、あっけらかんと云ってしまうにはためらいが消えない。

「どうぞ。好きなの食べて」
「ありがと。那桜、これ借りてっていい?」
 郁美はさっそくチョコレートのシフォンケーキに手を出しながら、片方の手でカタログを指差した。
「あげるよ。郁美、お店に行ったほうが実際に見られるからいいんじゃない? 試着もできるし」
「わたしがめいっぱいお金と時間のやりくりしてるの、知ってるでしょ。お店に行ったらそれこそ選べないで迷いそう。那桜や美鶴さんみたいに気に入ったものを片っ端からってわけにはいかないの」
 羨んでいるのではなくて、郁美はただ現実を語る。
 レベルの高いほうに合わせて付き合うとなるといろいろとたいへんになるが、那桜が行動制限されているぶんバランスよく付き合えている――郁美はそんなことを云う。那桜にしろ、飾り気もなく付き合えるのは郁美くらいだ。妊娠を打ち明けても、那桜のためらいがばかばかしくなるくらい、おめでとう、と云ってくれそうな気はする。

「郁美ががんばってるのは知ってるよ。お母さんも絵を描くって趣味を見つけてるし、わたしも何か没頭できる時間が必要かなって思ってる」
「だねぇ。那桜は自分主体じゃなくて、拓斗さん中心にまわってるから。職場も一緒だし」
「拓兄が渋るからお父さんの会社で働いてるってだけで、仕事は好きなんだよ」
「だからそこ。仕事が好きというのはそうだろうけど、拓斗さんの意向に沿ってるわけじゃない? なんでも拓斗さんの都合に合わせてる感じ。それでも幸せって感じだから、那桜はそれでいいんだけど」
 郁美が何を云いたいのかさっぱりわからない。那桜は首をかしげた。
「拓兄は忙しいし、合わせてるのはそう。でも、たまにだけど時間割いて、わたしのやりたいことに付き合ってくれるよ」
「わたしの云いたいこととはちょっとずれてる。意外だったけど、拓斗さんがやさしいのは知ってるよ。ただね、拓斗さんがいなくなっちゃったら那桜はどうするんだろうって、わたしが勝手によけいなことを心配してるだけ」
 那桜は不意を衝かれた感じがした。
「那桜さんたちはなんでも一緒って感じだし、郁美さんの考えすぎね。那桜さんを見てると、やっぱり結婚相手を探したくなるわ」
 美鶴の一見、那桜をかばうような発言はまったく違う方向へと走っている。
「恋愛だけじゃなくって子供もほしいっていうんなら、美鶴さん、早く相手を見つけないとね」
「そうなのよね」
 からかい混じりの郁美のお節介に、美鶴はしみじみと相づちを打った。

 那桜はうわの空でふたりの会話を聞き流す。いまの不意打ちは忘れていた感覚だった。ずっとまえ、いつまでも一緒にはいられなくて、いつか離れなければならないと那桜は思っていた。離れても拓斗の気持ちがあるならそれでいい――それは飾り事だった。一緒にいられる日々を知ると、はっきりとそう思う。
 ただ、郁美の云うことは郁美自身が云うようによけいなことだ。
 いまはふたりを引き裂くことのできない存在がおなかのなかに生まれた。ずっと繋がっていられるという保証人だ。

 郁美たちは思ったより早く、四時に帰った。明日の準備があるという郁美は本当に忙しそうだ。勇基と会う時間をつくることを考えれば、同棲を始めて正解だったと思う。
 玄関で靴を履いた翔流は、勇基たちにさきに行くよう云ったかと思うと和惟に向き直った。
「衛守さん、どうなってるんですか」
 男三人で何を話していたのか、和やかにしていたけれど、翔流はがらりと雰囲気を変えて刺々しくなった。
「なんのことだ」
「警備が異常すぎないかってことですよ」
「おまえなら察せられるだろう」
 和惟は至って軽口を叩く。翔流の目がちらりと那桜を見やる。
「大丈夫なんだろうな」
 翔流は独り言のように云った。
「最善を尽くす、それでも足りない、でどうだ」
 和惟の云い方はおちょくりつつ、はね除ける口調だ。
「よけいなこと、ですか」
「しばらく緊張状態が続く。よけいなことに那桜を晒すな、ということは忠告しておく」
「その気持ちは衛守さんと変わらないつもりだ」
 翔流はきっぱりと応じて那桜のほうを向き、「じゃあな、那桜」と声をかけた。少し呆気にとられていた那桜の「またね」という返事がきこえたのかどうか、すぐにドアは閉まった。
 玄関先で奇妙に沈黙が満ちる。

「気分はどうだ」
 さきに口を開いたのは和惟のほうだった。とっさにはなんのことかわからない。
「気分て?」
「悪くなさそうだな」
 那桜の顔をじっと見つめ、和惟は独り結論を出すとリビングのほうへと向かった。
「いつ生まれるんだ」
「十二月十五日の予定」
「今年のうちか」
 ソファに座って背もたれに寄りかかると、何かを計算するように和惟の目は宙をさまよっている。
「和惟は……」
「なんだ」
 ためらっていると、すぐに和惟が促した。
「……どう……思って……ってやっぱりいい」
 訊くことがずるくて残酷な気がして、那桜は質問を云い終えないうちに取り消した。それに、和惟がどう答えようと、那桜も和惟もすっきりすることはない。
「生まれる頃には蘇我のこと、なんとかなる?」
「なんとかするべきだろう」
 曖昧な云い方は、さきが長いことを表している。那桜はため息をついた。
「翔流くんの云うとおり、わたしも檻はやっぱり異常だって思う。どっち側が檻なんだろうって思うと、やっぱりこっち。脱走なんて考えてないのに」
 それとも、蘇我はもう一つの一族を探しだして、殺人でも犯しにくるというのだろか。

「独りでは一歩も出るな。拓斗はそれに尽きるんじゃないのか。危ないのは檻の外だ。こっち側が安全であることはわかってるはずだ。那桜、子供ができたんだ、まさか自分を粗末にはしないだろう」

 何気なく、だったのか、意図して口にしたのか、云い聞かせるような和惟の言葉は、ふと那桜に疑惑をもたらした。

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