禁断CLOSER#118 第4部 アイのカタチ-close-

3.Shaded love -4-


 小中高生が春休みに入った初日の土曜、有吏館では通常、日曜の午前に行われるはずの会合が半日前倒しされて午後一時から続いている。主宰たちが担うそれぞれの役目の経過について、意見を交えての報告(リポート)、それから質疑応答と述べ合ってきて一時間はとっくにすぎた。
「総領、報告を」
 隼斗は報告会の締め括りとして拓斗を促した。

「蘇我グループの外部カンパニーで最大の株持ち合い先、柳和(りゅうわ)銀行とは話がつきました。一昨年のアメリカ大手の投資銀行破綻において世界同時株安となりましたが、その際、融資会社の倒産も相まって、柳和銀行が多大な投資で巨額の損失を出しているということは一年まえにも報告したとおりです。加えて、穴埋めのための先物(さきもの)取引で思うようにいかず、さらに損失が増えています。いまだ公表はされておらず、窓口――和久井家を介して隠密裡に接触したところ、彼らにとって有吏は大海の木片だったようです。簿外取引において二年内に処理できるまでの損失穴埋め案を提示し、かつフォローするということで裏取引は成立しました」

「蘇我グループの乗っ取りはいつでも?」
「案を詰めるのにもう少し時間をいただきますが、持ち合い株を買い取るかどうか、それが別件になるとしても、納得させるだけの材料はあります。柳和銀行の同調は得られるでしょう」
「二社の馴れ合いは大丈夫かね」
「柳和はそう云ってはいられない状況です。粉飾、並びに背任となれば、潰れることは避けられても縮小は余儀ない。それに、この二時間近くに及んで主宰方々からの報告を受けたとおり、ここ数年にわたって有吏が進めてきた包囲網により、蘇我の業績不振は経済界の上層部では知れるところです。それが“もう一つの一族”の思惑によるものだというのは、今回の接触で柳和も察したでしょう。柳和にとって、蘇我を取るか裏を取るか、これ以上に負債を抱えることを考えると二つの選択肢さえ不要だったかと」
 どうでしょうか、と窺うかわりに拓斗は面々を見渡した。
「乗っ取りに関しては最大の切り札を得たことにはなるな」
 隼斗の発言に、主宰たちは一様にうなずくと、一つ大きな目途が立ってため息を漏らした。

「蘇我孔明についてはどうなのでしょう」
「蘇我ということを除けば何も問題はない」
 主宰の質問に答えた隼斗は戒斗を見やった。戒斗は(おもんぱか)った面持ちで話しだした。
「そのとおりです。ただのお坊ちゃんという蘇我孔明を焚きつけてきたのは領我貴仁であり、蘇我唐琢の後妻が領我家の出ということを考えると、他意を抱くのは孔明ではなく領我家であり、そのうえ数十年もまえから画策されているのではないかと思われます」
 しばらく沈黙が続いた。まるっきり見知らぬ者同士が隣り合わせでいるかのように、各々で吟味する。
「それがどんな思惑に起因しようが、様子を見る必要はあるな」
「内紛がある以上、約定の履行が綱渡りになることは確かですな」
「首領、領我家の意図を探りつつ、同時進行で、蘇我の内紛を有効に転じられるよう、手立てを模索する方向でどうでしょう。危険を冒してまで蘇我孔明を内部に置いたのは、首領にそのご意向あってと考えていますが。そうなれば、私に異存はありません」
「皆はどうだ」
 隼斗の太い声が室内の隅々まで浸透するのを待っていたように一拍置いて――
「御意に」
 我先にとばかりに次々と声があがった。そのあとは、次の言葉を待ってしんと静まる。
「約定は白紙だ」
 隼斗の道破は会議室に重々しく轟いた。

 あえて自分の意向は通さず、風向きを見守っていた拓斗は静かに息をついた。安堵ではなく、ようやく、という下地を整えた感触にすぎない。守りきるという要塞の完成までには程遠い。
 隣を見るとちょうど戒斗も拓斗を向いた。戒斗は片方だけ口の端で笑ってみせたが、その余裕は見せかけにすぎず、会議室はやはり安堵よりも緊迫した気配が漂った。



 三時頃になって始まったおやつの時間は、有吏邸を一気に保育施設に変えた。那桜と深智がつくるホットケーキは、きりがないほど次から次へとなくなっていった。できたてだから、なおさら美味しく感じるのだろう。ほかほかの湯気に混じってメープルシロップの香りが立ちこめ、一階の半分がLDKという、広いリビングのほうから子供たちがやってくるたびに、キッチンにも甘い空気が持ちこまれる。
「かけすぎだろう」
「和惟くん、バターも!」
 和惟は笑いながら、「ちょっとだけだ」と甘やかしている。

 あとちょうど一カ月後、四月二十五日に三十二歳になるという和惟は、変わらず二回りも離れた子供たちから“くん”付けで呼ばれる。何がそうさせるのだろうと考えれば、やさしいというプラスティックスマイル、そして、有吏の男にありがちな、窮屈そうな雰囲気がないからだ。
 那桜にとっては、やたらと関心を持たれて窮屈極まりないという正反対の現象がある。それが、発端は約定にあって、拓斗に云わせれば和惟の意志による、那桜への――たとえば“献身”からくるものだということはわかる。
 和惟のなかで(めい)が自発に変わった瞬間はいつなのか――思いつくのは、あの夏の海の出来事だ。キスというだけの戯れが和惟のどんな琴線に触れてしまったのだろう。

「那桜、もういいみたいよ。あなたたちも食べたらいいわ」
 叶多や美咲をはじめ、見張りを兼ねる従兄弟たちがほとんどの子供たちを連れて外に出たあと、詩乃がキッチンカウンターの向こうから声をかけた。
「うん」
「なんだかつくっただけでもうおなかいっぱいって感じ」
 那桜の短い返事のあと、深智は少々うんざりしたふうに次いだ。
「でも、トースターで表面を焼いたらいけちゃうかも。ちょっとカリカリになって美味しいの」
「ほんと?」
「まえに冷めたのをそうしたんだけど、拓兄も美味しいって食べてた」
「あ、じゃあ今度、わたしも啓司にやってあげようかな。那桜ちゃんみたいにお弁当をつくってあげられればいいんだけど」
「職業柄ってことだよね? 和惟もいらないって云うの。車のなかに匂ったらまずいって」
「お弁当をつくってあげるなんて、がんばってるわね」
 詩乃はタイミングを計っていたかのように口を挟んだ。
「たまにだから。外に出る日はつくってないし」
「そう? お父さんがうらやましそうにしてたわ」
「お父さんが?」
 那桜は目を丸くした。
「直接そう云うわけじゃないけど。わたしもつくろうとしたことがあったわ。いいって云うから、したこともないんだけど」
「いまからでもいいんじゃない?」
「何事かと思われてしまうわ」
 詩乃は心底から可笑しそうな様で吹きだす。トレイを持って、「コーヒー、冷めないうちに早く来なさい」と詩乃はリビングへと向かった。

 詩乃の云い分をそういうものだろうかと考えこんだが、何事か、というびっくりはたったいま那桜も感じた。なぜなら――驚いたのは、“うらやましがる隼斗”よりも、隼斗と詩乃が両親らしい、そんな会話をしているということのほうかもしれない。
 那桜たちがいない場所で那桜たちのことをどんなふうに思い、語り合っているのだろう。両親のそんな姿を思い浮かべるのは難しく、不思議な気持ちになる。同時に、そんなふうに穏やかな会話がなされているのなら、隼斗たちのなかに自分たちのありのままを受け入れられているということの証明を立ててもらったようで、ほっとうれしくなる。
 両親はふたりきりで暮らしているから、必然的に詩乃が話す相手は隼斗だけだ。そのなかで、どこか一線を置いたような関係が少しでも近づいているのなら、拓斗が闘ってくれた道は何も間違っていないという気がした。

「和惟は食べた?」
 那桜が洗い物を引き受けて、深智をさきにリビングに行かせると、入れ替わりに和惟がやってきた。無駄なことを訊く、といった素ぶりで和惟は首を振った。
「見てるだけでうんざりする。コーヒーだけで充分だ。食べてくればいい。片づけはおれがやる」
「いい。あんまり気分じゃないから。食べても味がわからなさそう」
「那桜が気にする――」
「和惟くん、お外!」
 ぱたぱたと足音が立ったかと思うと、和惟の脚に女の子が巻きつく。和惟は那桜に云いかけたまま、その子の頭の上に手を置いた。
「外に惟均たちがいるだろう」
「和惟くん、抱っこ!」
 脚から離れた女の子は和惟へと手を伸ばし、断固として云い張った。

「片づけはわたしがやるから行ってあげたら?」
 和惟は那桜を見やると片方だけ眉を上げた。少し皮肉っぽく見える。
「違うことが云いたそうだな」
「なんのこと? 四歳の女の子からおばあちゃんまで、よく騙せるなって感心してるだけ」
「それが“感心”になるのか?」
 和惟は可笑しそうに那桜を見つめる。そして、「那桜は何も気にしなくていい」と、何を先回りして口にしたのか、あまつさえ、四歳児の女の子じゃあるまいし気にしないわけにはいかないのに、幼児と大して変わらない扱い様だ。
 和惟は、かすかに尖らせた那桜のくちびるに目を留め、薄く笑ったあと、女の子の背に合わせて躰をかがめた。
「しょうがないな。外まででいいだろう?」
 和惟はなだめた声音で云い、女の子を抱きあげる。そのしぐさは手慣れた保育士並みだ。
 那桜は複雑な気持ちで出ていく和惟の背を見送った。

 今し方の女の子は、那桜に十四歳の自分を彷彿させた。身勝手な要求を押しつけても和惟が怒ることはないといった、なんの根拠もない確信を持っている。あのときの振る舞いが四歳の女の子とさして変わらないと教えられて、那桜はまた多少なりと自分にうんざりした。
 おまけに、和惟は父親になる素質を充分に備えている。子供の扱いぶりもそつがない。
 那桜が何も(むく)うことはないというのに和惟を縛っているわがままは、那桜のせいじゃないとどんなになだめられても、いままでと違ったことで自分の身勝手さだけが浮き彫りになっているような気がした。約定における立場はともかく、孤独にさせてしまいそうな将来――それは和惟の選択とはいえ、その気持ちは置き去りにされている。約定のことを知る知らないは関係なく、三年まえは真剣に考えることもしないで要求を呑ませ、いま頃になって気がまわるなんて思慮が足りなさすぎる。

 集まった母親たちと合流して、那桜は少しだけホットケーキを食べた。コーヒーを飲みながらゆっくりしているうちに三時半をすぎた。
 有吏館の二階で進行中の会議はまだ終わらないだろうか。午後一時から始まっていて、まだといってもいつもが三時間はかかっているから、今日が特別長いというわけではない。いままでと違うのは、その内容を知っているからだ。
 じっと座っているのは逆に落ち着かなくて、那桜は深智を誘って外に出た。
 有吏邸を囲む花壇は、チューリップやスノーフレークやスミレという、はしゃいだ色が広がっていて、今日に限っては心底からとは云えないまでも浮き浮きさせられる。
 子供たちの声がにぎわっているなか、和惟をすぐに見つけた。叶多と話していて、那桜が気づいたのとほぼ同時に和惟も那桜を認めたようだ。

「和惟、まだ終わらない?」
 叶多たちのところへ行き、那桜が首をかしげると、和惟は穏やかに笑みを浮かべた。
「那桜が心配してることなら、承認は間違いなく得られる。代替案を出すにしろ、不測の事態の対処法とか、いろいろ考えなければならないことは多いんだ。だから時間がかかってる」
 和惟は取り越し苦労だと諌めるように云い、那桜はおどけたように首をすくめてごまかした。
「那桜ちゃん、それより仕事、慣れた?」
 叶多は那桜の気を紛らそうとしているのか、唐突に問いかけた。那桜が答えるまえに深智がほんの少し顔をまえに出す。
「慣れたっていうより、那桜ちゃんの話を聞いてると楽しそうだよ。わたしも何かやりたいなって思ってるんだけど」
啓司(けいじ)は、はいどうぞって云うには難しいかもな。戒斗と叶多ちゃんのことが認められるのは、蘇我のことで貢献してるっていう理由がつけられるからこそだ。一族はまだ結婚の自由を認めたわけじゃないから、深智ちゃんと啓司の立場は曖昧だ」
 深智は首をかしげながら少し顔を曇らせた。今度は叶多が慌てたように身をのりだした。
「でも、戒斗がきっと変えてくれるよ。あたしのことだけなんて、うれしいってちゃんと喜べない気がする。戒斗だってそうに決まってる」
「叶多ちゃん、大丈夫。人に認めてもらえるとかもらえないとか、わたしにとっては重要なことじゃないから」

 深智は本当に平気そうに応えたけれど、実際は認めてもらったほうがいいに決まっている。そうでないと、いつ、という不安をずっと抱えていなければならない。那桜にしろ、公になるまで、だれにも云えない関係を覚悟はしても、拓斗の気持ちを絶対だと知っても、安心したことはなかった。いまでも百パーセント安心できているかというと、そんなことはない。それはだれだってそうなのだろう。
「和惟」
 批難混じりの呼びかけは伝わったようで、和惟は那桜を見やった。叶多と深智を交互に見ながら降参したみたいに軽く手を上げる。
「ああ、悪い。ちょっときついこと云ったけど、叶多ちゃんの云うとおり、一族は変わっていく。拓斗と戒斗なら間違いなくやってくれる。プライドの塊だし、自分たちだけ自由ってことじゃ、長たる者として示しつかないだろう」

 そのとおり、今日の議題は約定のことばかりではない。“決められた相手がいる”という現状も変えていくと拓斗は云っていた。この期に及んで那桜はようやく、自分たちのことが戒斗たちに及ぶということの意味がわかった。拓斗のかわりに約定の候補は当然のように戒斗になって、那桜のかわりは、過去に何やら汚名を持つという八掟家から――つまり叶多ということだったのだ。
 叶多は知っていて、那桜は知らなかった。戒斗が叶多を想う気持ちと、拓斗が那桜を想う気持ちの間にどんな差があるのだろうと思う。
 有吏の男は守ろうとするばっかり――と、叶多と話したことがある。戒斗が音楽の仕事で日本を離れるため、叶多が実家に居候することになった初日、一緒に夕食を取ったときのことだ。それまで、実家に帰りづらかったが、叶多がいるおかげで気まずさも薄れていった。そんなふうに、叶多は頼りなく見えても当てにできるし、守られているばかりじゃなくて戒斗がなんでも打ち明けられるくらい、那桜よりもずっと独り立ちできた大人なのだ。

「それは云えてる。プライドが邪魔して、拓兄の悪あがき、すごかったんだよ。ね、和惟?」
 那桜が大学に入った年のことを思い浮かべながらついほのめかすと、和惟の咎めた視線が向く。
「那桜」
 それ以上のことを云うはずがないのに、わざわざ止めるのはどんな意があってのことだろう。軽々しく扱うな、ということなら、和惟のなかに、那桜を拓斗にゆだねるしかなかったというほどのどんな重々しいことがあるのか。けっして自分を明かさない和惟に向け、那桜は挑むように顎をつんと上げた。

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