禁断CLOSER#117 第4部 アイのカタチ-close-

3.Shaded love -3-


「どうかした?」
 那桜が問いかけに紛らせて促すと、拓斗は息を漏らすような笑い方をした。腰を上げてベッドから脚をおろそうかとすると――
「そこにいろ」
 と、ケーキとコーヒーを置いたチェストのすぐ向こうから、拓斗は素早く那桜を制した。那桜は脚を引っこめてもとどおり、ふとんの上であひる座りをした。身じろぎをした拓斗は、躰を那桜の正面に向けるように片方のお尻を出窓の天板にのせ直した。
「拓兄?」
「店でと同じことしてる。いまは、チョーカーしてるから猫みたいだ」
 下着とおそろいのシフォンのチョーカーは、従順にするという誘惑のアイテムだ。もっとも、そうじゃなくても拓斗は那桜を従わせているが。
「同じこと?」
 きょとんとした那桜に、拓斗は首を傾けてみせた。それでようやく気づいた那桜は、かしげた首を起こした。些細なワンシーンをからかいのネタにするなんて、またごまかそうとしているのだろうか――と疑った矢先。

「那桜、憶えてるか。おれが云ったことを」
 あまりにも漠然としすぎて、那桜はやはり首をかしげた。
「……拓兄が云ったことなら、いろんなこと憶えてるよ?」
「三年まえ――あの日のことだ。おまえにしてほしいことがあるとおれは云った」
 “三年まえのあの日”という言葉に拓斗の懸念した面持ちを重ねれば、真っ先に脳裡に映るのは“あの日あの時”だ。
 那桜に『何を希む?』とそう訊ねた拓斗が、誓ってほしいと希んだのは――
「闘ってくれた拓兄を疑うことないよ? 怖いってことはゼロになったわけじゃないけど」
 拓斗は一頻りじっと那桜を見つめたあと、つと目を伏せた。ほんのかすか、笑みらしきものをくちびるに宿らせるとまた那桜へと視線を戻してくる。
「これから話すことは有吏一族の非常事態で、受け入れがたいことだ。おまえにとってもおれにとっても。それでも話すのは、はっきり受け入れなくてよくなったからだ。いいか」
 意志を固めたような口振りで拓斗は、那桜にもまた覚悟を迫る。
「いまが変わらないってことでしょ? それなら大丈夫」
 簡単に了承した那桜に、拓斗は苦笑じみてくちびるを歪めた。
「内密のことだ」
「わかってる。有吏に関してわたしがお喋りじゃないってことは、拓兄も知ってるはずだよ」
「ああ」
 短い返事のあと、しばらく間が空いたことが打ち明け話を深刻なことなのだと裏づける。那桜を少しだけ不安にさせ、けれど、たったいま拓斗が覚悟した日を思いださせてくれたことが、不安を吹き飛ばすくらい心強くさせる。

「あの時、おまえがこだわっていた“五年後”には、おれだけじゃなく、おまえにも、そして和惟にも待っていたことがある」
 拓斗は、那桜にとってはやはり思いがけなく、忘れていたキーワードを引っ張ってきて話を切りだした。那桜は目を丸くして拓斗を見返す。
「……どんなこと……じゃなくて、同じこと? わたしにもだれかいて、和惟にも……やっぱりだれかいるってこと?」
 那桜にも拓斗にも、あの時点では五年後のだれかがいて、ただ、いまは有吏の長である隼斗が認めたのだから相手は消えている。けれど、和惟は消えるための要因がない。そんな不安が声に出ていたかもしれない。
「和惟はちょっと違う」
 拓斗はかすかにしかめた面持ちで那桜の考えを曖昧に否定した。そして、「和惟がおまえを見棄てることはない」と続けた声は突っぱねるように聞こえた。それはずっとまえ、銀杏の木のある公園で拓斗がそっくりそのまま那桜に云ったことだ。
 拓斗の記憶は一つ一つ増えるばかりで、那桜のようになくすことはなくて、一時も忘れることはないのだろうか。
『和惟がいる。それでいいんじゃないのか』
 あの時の平坦すぎる拓斗の声は、那桜自身よりも早く、すでに那桜の和惟に対するわがままを知っていたゆえの、苛立ちの裏返しだったかもしれない。ついさっきのように、わずかでも表情を崩さなければならないほどずっと拓斗のなかで燻っていて、だからたったいま那桜が感じた不安を的確に見透かす。
 それでも拓斗が和惟を那桜の傍に置くのは、わがままを押し通したすえの隼斗の命だからこそなのか。
「わかってる。でも……そうじゃなくて……」
 応えながら、拓斗の考えを打ち消すのに適当な云い訳も見いだせなくて、ただ後ろめたさを覚えた那桜は曖昧にしたまま口を閉じた。

「責めてるように聞こえたか」
 那桜をじっと見つめていた拓斗はおもむろに訊ねた。ゆったりさと相まって口角がほんの少し上がった。その気配は自嘲めいている。
 どういうことか、那桜は答えようがなくて首をすくめてやりすごすと、拓斗は肩をそびやかして話を戻した。
「おれに約定と切っても切れない立場があったことは知ってるな」
「うん。……あった、っていまはもうなくなってる?」
「“五年後”、おれには蘇我一族本家の娘との婚姻が待っていた」
 那桜は目を見開いた。鈍いながらも頭を回転させて、那桜は一つの大事を見いだした。
「……孔明さんの妹の……美鈴さん?」
「ああ」
「……なんだか……複雑」
 約定の婚姻は立ち消えになったとはいえ、美鈴を知っているだけに那桜はなんとも表現しがたい気持ちになる。
 拓斗は問いかけるように首をひねった。
「それで終わりか」
 拓斗が発した質問は、那桜の思考力を試すようでいてからかっているようでもある。シリアスさを紛らせているような印象を受けた。

 那桜は過去に聞いたことと照らし合わせて、さらに思考を巡らしてみる。
 蘇我一族との和解を図るためにある約定。それは、拓斗とは切っても切れない、即ち、“五年後の決められた相手”に繋がっていた。有吏一族が蘇我一族から娘を娶るのは、和解に伴う保障だろうか。かわりに蘇我一族は何を得るのだろう、あるいは求めているのだろう――と考え至ったところではたと気づいた。
「……拓兄……」
 蘇我にとっての美鈴は、有吏に置き換えれば那桜にほかならない。那桜が察したということを拓斗もまた察し、那桜を見つめたまま浅くうなずいた。
「頭、やっぱり使えるようになってる」
 拓斗らしい淡々としたからかい方だ。普段ならひどいとなじるところだが、いまは驚きのほうが上回った。
「わたし、蘇我に行くはずだったの?」
「おまえだからじゃない。有吏一族本家の娘だからだ」
「……同じでしょ?」
「おれだからじゃない。有吏一族本家の長だからだ。いずれ長になる身として納得していた。けど、“おれ”は一度も納得したことはない」
 自分に置き換えて云った拓斗は、それでも抑制しているんじゃないかというほど語気を強めた。
 長になる身として――そんな気高いプライドが拓斗にはあったはずで、その意志を那桜の願いが曲げたということには間違いなく、那桜はいまになって重責を知らされた。

「わたしのためだよね? わたしとここにいるのは、こうするしか妹を守れなかったから?」
「妹だからじゃない。おまえだから、だ」
 ちょっとだけ疑った。いや、那桜のため、というのは疑っていない。ただ、一族の固まった意志をひるがえすのは並大抵のことではない。打破するには常識を逸脱した行い――那桜と禁忌を犯すことが効果てき面だと、至極冷静に判断したのではないか、と。
 けれど、拓斗は拓斗だ。妹と那桜の間になんらの差異もないから。
 額をなだめる拓斗の手を知っているし、じっと見つめてくる眼差しの篤さも知っているし、雨が降るひまわり畑のなかの荒っぽいキスも知っている。
 拓斗にとっては妹ではなく最初から“那桜”で――そう考えたら、那桜を無視していた間のことも辻褄が合う気がする。那桜を遠ざけるだけではなく、自分の気持ちからも遠ざかろうとしていた。きっと、『妹だからじゃない』という言葉がそもそも拓斗には意味をなさない。
「疑ったわけじゃないの」
 那桜の嘘をやすやすと見破っている拓斗は、呆れたような薄らとした笑みを浮かべた。
「拓兄が闘ってくれたっていうのがどういうことか、わかった気がする」
「気がする?」
「すごくうれしい」
 やはり那桜の言葉は簡単に聞こえたらしく、拓斗は首をひねった。

「和惟はおまえの兵仗(ひょうじょう)として、おまえと一緒に蘇我に入ることになっていた」
「兵仗?」
「護衛を兼ねた従者のことだ」
「……ずっと?」
「そうだ」
 和惟がいつも口にする“一心同体”ということの意味がやっと理解できた。決まった相手がいないということも。けっして仲がいいとは云えない、そんな場所に身を置くこと、それはつまり人質と称しても過言ではなくて、すべてを承知していた和惟ゆえの言葉だったのだ。
「……お父さんの命令なの? 和惟は……」
「始まりは(めい)だったかもしれない。けど、和惟がそれにただ従ってやってるわけじゃないということは、おまえ自身がよくわかってるはずだ。おまえが気を遣うべきことは何もない」
 言葉を濁した那桜に、拓斗は的を射た答えを返した。おそらくそのとおりだという、正当な云い分とわかっても、納得できたかというと全部がそうではない。ただ、それを口にしたところで、駄々をこねているようなもので、たとえ和惟自身にどんな言葉で説明されてもすっきりすることはないだろう。那桜は小さくうなずいた。
「これからどうなるの?」
「春の集まりで約定の破棄が決まる。当然、有吏からの一方的通達になるし、蘇我が黙って受け入れることはない。その防衛のために動いてきたし、これからもそうしていく」
 拓斗の口調は硬い。それだけ有吏と蘇我の関係は根深いということなのだろう。

「わたしに直接係わってくるのはいま話してくれたことだけ?」
「そうだ」
「よかった」
「よかった?」
 拓斗は不可解とばかりに眉をひそめた。
「だって、それだけならいまは何も問題ないよ? 拓兄といられるんだし」
「おれはその“問題”とほぼ毎日対峙してる」
 那桜が云い終わるか終わらないかのうちに、拓斗は即座に云い返した。不快そうに聞こえる。
「……どういうこと?」
「ここまで話している間に気づいてないのか。前言撤回だ。頭が使えてない」
「ひどい」
「おれにとって、蘇我孔明はただ蘇我というだけじゃない」
 まわりくどい発言に那桜はひと時考えた。
 蘇我というだけではない孔明。ほかに付属するものは何? 拓斗にとって愉快ではないこと。普段、感情の起伏を出さない拓斗がそれをあからさまに表すのは、これまでのことに鑑みても拓斗にとってというよりは那桜に関係してくることだからだ――と思い至ると、ふいに浮かびあがった。
「孔明さんて……わたしの決められた相手?」
 びっくり眼で拓斗を見上げると、首をひねるというしぐさで答えが返ってきた。とたん、那桜は笑いだす。
「那桜」
 拓斗は不快極まりないといった渋い声で咎めた。

「だって。考えられないから」
「おまえはおれのことを考えて、『複雑』と云わなかったか。何も可笑しくない」
「拓兄を笑ってるんでも可笑しいんでもないよ。笑い飛ばせるようなことになってよかったって思っただけ」
「那桜」
「何?」
「いま、怖いことはなんだ?」
 拓斗の声は真剣みを帯びた。
「それは拓兄も同じだと思うけど」
「……おれが何を怖がってる?」
 拓斗は目を細め、気に喰わないといった口調だ。
「わたしは拓兄と引き離されるのが怖い。そんなことないと思ってるけど、何かふとしたときにそうしなきゃいけない理由ができちゃうんじゃないかって。好きでたまらないほどそういう不安て出てくるよ、きっと。なくしたくないから。拓兄もそう。実現しないってはっきりしてるのに、約定のこと、いま話すのも怖がってた。それは、わたしがヘンなふうに受けとるかもしれないって思ったからだよね? これからのこと聞かされてわかったけど、拓兄は自分のことそっちのけで、わたしがどうにかなるかもってことを怖がってる。一族のことの一部として、かもしれないけど」
 一部ならまだラクだ。拓斗がつぶやいた声は那桜に届かず――
「拓兄、何か云った?」
 くちびるが動いたとだけわかった那桜は問いかけた。
「さっき気づいてなかったように、おまえは自分のことに関すると鈍くなる。それなら周りが配慮するしかない」
 那桜はくちびるを尖らせて不満をあらわにした。拓斗が腰を上げて立ちあがり、出窓を離れてベッドへと近づいてくる。
「仕事はやめたくないだろ」
 拓斗は那桜の正面に立ち、やめるという言葉に反応して思いきりしかめた顔に手を伸ばしてきた。
 一カ月まえ、和惟は電話で同じことを拓斗に進言した。それから何も云わないから、拓斗は受け流したとばかり思っていたけれど、那桜を取り巻く環境を知ってみれば、やめさせるという考えはずっと脳裡にあるのかもしれない。
「ひどい!」
「ひどいことをされたくないなら、云うことを聞け、それだけでいい」
 身をかがめてきた、拓斗の低い音が那桜の耳にとどろいた。

 黒いベロアのバスローブは、ラッフルの縁取りがドレスみたいにキュートで気に入っている。その大きく開いた胸もとから覗くブラジャーのなかに拓斗の右手が忍びこみ、左手はウエストの真っ赤なサテンリボンをほどく。
「拓兄、ケーキ!」
 拓斗は手を止め、正気かというような気配で那桜を見つめる。
「拓兄、云うこと聞かせたいなら、マタタビも必要じゃない?」
「おまえの場合、かつお節を与えることになりかねない」
「かつお節が拓兄なら問題ないと思うけど。それとも、わたしがかつお節で拓兄が猫?」
 拓斗の気分を変える努力は実ったのか、まったりとした様になって、那桜のバスローブを肩から落とすと、自分もパジャマがわりのTシャツとズボンを脱いだ。那桜と同じように下着姿になってベッドの枕もと側に上がり、サイドチェストから取ったケーキ箱を開ける。

 入っていたアップルパイをつかんで、拓斗は那桜に差しだした。かじるとパイ生地の(くず)が口の端からこぼれる。ベッドを散らかさないようにすくおうと手を上げかけると――
「そのままでいい」
 と、拓斗が那桜の手を止めた。すぐに手を離すと拓斗の手は背中にまわる。一口めを食べている間にブラジャーのホックが外されて胸が晒された。
 二口め、口の端についたパイ生地の屑を舐めようとすると、拓斗が素早く顔を近づけて舐められた。三口め、拓斗は那桜の顎から首を伝いおり、胸のふくらみに差しかかるところで舌を這わせた。那桜はぞくっと背中を走る感覚に身ぶるいをする。胸先が反応しているんじゃないかと思う。
「拓兄」
「黙って食べてろ」
 食べるまで待って、という言葉は云うまえに遮断された。
 性欲と食欲の同時進行は難しい。もっと、そう願ってしまうのは性欲のほうで、それは拓斗だからだろうか。
 四口めのあとは、躰を伏せるようにかがめて拓斗は腿を舐める。それで、拓斗がパイ生地の屑を拾っているのだと気づいた。食べさせるごとのそのしぐさは儀式のようで、拓斗をかしずかせている貴婦人にでもなった気分だ。あるいは、単純に猫がじゃれ合っているようでもある。

 それからあと二口というところで、拓斗はふっと何かを追うように目を伏せて留まった。那桜は拓斗の視線を追う。すると、胸先にパイ生地の屑がのっていた。少しでも動けば落ちるかもしれない。無意識に呼吸を止めたとき、拓斗の横顔が視界に入る。その直後には薄いくちびるが開いて、胸先がそのなかに消えた。
 あ、ふ……っ。
 一回りするように舌が先端に絡み、それから吸いつかれた。きゅっと躰の奥が疼く。さっきまでと違うのはすくいとるだけでは終わらなくて、何度も繰り返されたことだ。
 んっあっ……ぅくっ。
 食べるのがままならないで那桜は喘いだ。たまらず躰を引いて、やっと拓斗は離れた。濡れた場所は赤く発色していて、天井の灯りを受けて艶々とした光を反射している。そこだけが痛みと勘違いしそうなほど熱を持って痺れている。
「……拓兄」
「最後だ」
 那桜が瞳を潤ませた一方で、気のせいか、拓斗の声は呻くようだ。
 最後の小さな一切れは屑がこぼれることもなく那桜の口におさまる。口を閉じてしまう寸前、拓斗が顔を寄せてきた。気づいたときはアップルパイを追うように拓斗の舌が那桜の口内を侵してきた。
 んっ。
 痞えそうになったパイ生地を拓斗の舌がすくい、ふたりの舌先の間でアップルパイが揉みくちゃになる。那桜の口のなかで、甘さが絡み合いながら融けていった。
 こくん――とアップルパイの名残を呑みこむと拓斗がくちびるを離した。

 ぼやけた視界に拓斗の顔だけが鮮明に映えた。座っているというのに躰が不安定に揺れて拓斗に手を伸ばした。
「美味しかった。もっと」
 逆に伸びてきた拓斗の手は首もとのチョーカーをほどいて那桜の差しだした両手首を括る。それを自分の首に引っかけさせると、那桜の胸を二つともそれぞれに捕らえた。
 あっ。
 キスのせいで酸素不足かもしれない。マタタビをもらった猫みたいに酔っているようで、躰に力が入らず、拓斗の首から自分の手を解放することはかなわない。
 拓斗の手のひらが円を描くようにふくらみを捏ね始めた。かと思うと、片方だけ手が離れ、ショーツのなかに侵入する。指の腹でデリケートな突起がくすぐられた。
 あ、あ――っ。
 背中を反らしても拓斗の重心はびくともしない。那桜の躰を支えるのは括られた手首だけで、同時に拓斗を頼るしかなく、那桜自身を逃れられなくさせている。
「おれがさきだ」

 猫から豹へと獰猛に変化し、牙を剥きだしにしたような宣言のあと、自在に動き始めた拓斗が那桜の意識までをも喰らうのにそう長くはかからなかったかもしれない。拓斗の躰が那桜を揺らし、躰の中心から及ぶ水音と相まって、ベッドを海に変える。波間を漂う魚になったような錯覚のなか、躰も感覚もすべてが満ちたりた。

BACKNEXTDOOR