禁断CLOSER#116 第4部 アイのカタチ-close-

3.Shaded love -2-


 最上階の五十五階に達するまでそう時間はかからなかった。挑発のキスから拓斗を解放して、那桜が(かかと)を地に着けたところでエレベーターが止まった。
 拓斗は不用意なキスを咎めるかわりにため息をつくと、降りるよう那桜の背に手を添えて促した。
 エレベーターを出てちょっと右に進んだ突き当たりがレストランだった。
 待ちかまえていた案内人が次々と客をなかに招き、最後に控えていた拓斗が名乗ると、担当者はみぞおちの辺りに手を当て、恭しく頭を下げた。丁寧すぎると思ったのは気のせいだろうか。
 案内されたのは四人掛けのテーブルで、那桜は、椅子を引いて勧められた窓際のほうに座った。まえもって拓斗がメニューも決めているのだろう。“ごゆっくり”というような言葉をつらつらと並べたあと案内人は立ち去った。
 その背中を追うついでに那桜は店内を見渡す。少し照明が落とされていて、何者も侵略できない、どこか安全な場所にひっそりと隔離されているような温かみがある。天空に本当に世界が存在するとしたらこんな気分だろうか。窓の向こうを見やれば、遠くまで無数の灯りが眼下に広がる。宇宙の星がすべて落ちてきたみたいに光が跳ね返っている。

「きれい」
「ああ。天下を取ったみたいに気前よくなる奴もいるらしい」
「わかるかも。うっとりしちゃう」
 向かいに座った拓斗は首をひねる。
 どちらかというと向かい合わせよりも横に並んでいるほうがいいけれど、百八十度のパノラマ夜景も捨てがたい。
「拓兄、ここも会社が係わってる?」
 さっきの案内人の様子から見当をつけて訊いてみた。拓斗はかすかに肩をすくめた。
「おれの担当じゃないけど、そうじゃなきゃ連れてこない。いちいちデートコースを探すのは面倒だ」
「……よけいなこと聞いた気がする」
「背景じゃなくてシチュエーションを楽しめれば文句ないはずだ」
 ごっこ遊びをしたがる子供みたいに扱われるのは癪に障る。ただし、逆に拓斗はチャンスを提供することになった。
「そんなこと云うんだったら。今日は、社長と愛人の秘書ってどう? どこで仕事からプライヴェートに切り替えるか、どきどきしちゃう」
 拓斗は呆れたように首を振るだけで取り合わなかった。

 給仕が行ったり来たりする店内に、ぼそぼそといった話し声がささめくなか、ふたりの食事は進んでいく。
 那桜と拓斗の会話はもっぱら会社のことで、本当に社長と秘書っぽい。惟均とのやりとりを話しているときは、口を歪めるという表情を見せて、拓斗はおもしろがっている。お笑い番組を見て笑うことがないというのは変わらないが、声を立てないまでも笑うことは増えている。
 笑ってくれればいい。もっと笑った顔が見たい。そんなふうに思ってきて叶ったのはうれしいけれど。ほかのだれにも見せないで。そんな欲張りな気持ちに入れ替わった。

 その原因の一つは拓斗が忙しすぎることにある。
 拓斗にとって、一番めが表裏を含めた仕事、二番めが那桜というのは独りよがりではないはずだ。わたしを一番にして、などとそこまでのわがままを口にするつもりはない。その順番は変わっていなくても、占領の比率が大幅に一番めへと傾いているのだ。たぶん、同棲を始めた頃から。
 その証拠に、こういう食事のとき、携帯電話をわざわざ取りだしてテーブルの隅に置くようになった。いつでもすぐさま出られるようにするためだ。
 いま、サイレントモードで音は出ないけれどグリーンのランプが光っている。拓斗はちらりと携帯電話を見ただけで着信を無視した。食事をはじめて二回めだ。
 拓斗の携帯電話には三つ番号が入っていて、プライヴェート用と会社用と有吏用とに分かれている。ただし、急ぎじゃないかぎり、仕事のことだろうと有吏のことだろうと、いわゆる時間外はプライヴェート用にかけるというのが慣習になっている。
 那桜は手を伸ばして携帯電話を取った。
「那桜」
 咎めた声にかまわず、相手を確認すると惟均だった。那桜は取りあげられるまえにストラップの“N”の字にキスをすると、もとの場所に戻した。

 あまり思いだしたくない日に渡した、クリスマスプレゼントの携帯ストラップは、いまの拓斗の年齢からすると――その容姿と見比べても安っぽく映る。いいかげん、ひもも劣化しているからと、一カ月まえ、ヴァレンタインデーのプレゼントとして新しくあつらえた。
 叶多経由で紹介してもらった高級宝石店に特注したストラップのトップは、イエローゴールドの鍵だ。値段は張ったけれど、那桜の使うことのあまりない月給で充分足りた。派遣ではじめて給料をもらったときネクタイをプレゼントしたように、自分が働いたお金でプレゼントするのはずっと有意義だ。
 新しいストラップに、“N”と十字架もつけた。嫌な思い出が付き纏っていても愛着、もしくは自分の分身のような気がして拓斗に付き添えていたい。拓斗も別段気にするふうでもなくそのままにしている。

「拓兄、思ったんだけど。惟均くんの結婚する人って決まってないの? 和惟にもいないっていうし、衛守家は例外?」
「そういう話はここでは御法度だ」
 拓斗は牽制した。ここでというのはこのレストランでということに限らず、人の耳がある公共の場でということだとは重々承知している。
「いまはいろんなことを(あらた)め中だ」
 そこでいったん口を噤んだ拓斗は、妙にしんとした静けさを纏った気がする。再び口が開いて、「那桜」とそう呼びかけた声は、その気配のとおり、やはり厳粛に聞こえた。
「何?」
 首をかしげると、あまり幅の広くないテーブル越しに、拓斗の手がさっと伸びてきた。
「入る」
 何かと思えば、頭を傾けたせいで髪がデザート皿のラズベリーソースに浸かりそうになっていて、拓斗の手がそれを防いでくれた。
「ありがとう」
 横に傾けた頭をまっすぐに起こし、躰を引くとともに拓斗の手から髪がこぼれる。拓斗は、胸にかかるくらい長くなった髪をすくうようにして那桜の耳にかけると、手は流れるように首筋におりてわずかに留まり、離れていった。

 拓斗はコーヒーカップを持ち、ゆったりと口まで運んでいく。今し方、何を喋ろうとしていたのか、ちょっとした間に気が変わったのではないかと感じた。
「拓兄、云いかけてたのは何?」
 拓斗はほんの少し、間を置いて――
「食べるなら食べていい。入るだろ」
 と、デザート皿を那桜へと押しやった。確かに、コース料理は食べきれない気がして拓斗にちょこちょこと裾分けしていたものの、デザートは別腹で入ること間違いなしだ。
 ただし、さっきの気配にその答えはそぐわない。察するに、どうでもいいようなことを云って拓斗はごまかしている。
「食べさせて」
「人前で行儀が悪い」
 拓斗を問いつめるかわりにわがままを云うと、にべもない答えが返ってきた。人前でべたべたができるのは、手を繋ぐこと、もしくは腕を組むことくらいで、那桜が思い描くシチュエーションからは遠く隔たっている。おまけに――
「もう学生じゃない。子供じゃないって文句云うのはだれだ」
 と拓斗は、とっさにはぐうの音も出ない追い打ちをかけた。
 そうしてくれたらと思ったのは確かでも、べたべたすることに特にこだわっているつもりはないのに、飛びだした釘を叩きつけるような駄目出しはいったいどういうことだろう。

 どうにも納得いかない気持ちのまま、フロマージュムースをつついた。レアチーズとラズベリーのミックスは甘酸っぱくて、いまの拓斗みたいだと思う。喜んだかと思えば、しかめ面をしなければならない。
 隣の席にいるカップルを横目で見れば、バニラアイスにキャラメルシロップをかけたような、男の緩んだ顔が目に入る。レストラン全体を見回しても、スーツ姿の拓斗はだれにも見劣りしなくて、それどころか堂々と着こなしているのは拓斗だけだ。隣の彼がいくら立派なスーツを着込んでいても締まりのない顔を見れば、べたべたしているよりも、眠っている間も(たゆ)まない、拓斗の凛とした様が好きだと思う。
 彼の相手はどんなひとだろう、とつい首をまわすと、彼女はちょうどこっちを見ていて、那桜の視線に気づいたらしく、さっと顔を背けた。
 彼女が見ているのは“こっち”ではなく“拓斗”であるのは歴然で、那桜が品定めをした、比べるまでもなく自分の“モノ”がいい――そんな結果とは丸反対の結果を出しているかもしれない。そうでなければ彼女の目は節穴だ。それとも、那桜のひいき目にすぎないだろうか。
 どちらにしろ、こんな場面は人前に出るといつものことで、もはやどうでもいい。ずっとまえにあった対抗意識はなくて、いまはただ独占したい気持ちが募る。デートでべたべたできないのなら、家でべたべたしているほうがいい。そんなことにいま頃気づくなんて愚の骨頂だ。

 人前でなければいい。となれば早く食べてしまおうと単純に切り替える。那桜は、拓斗のデザート皿と空っぽになった自分のデザート皿を入れ替えた。
 拓斗に据えられたデザート、桃の入ったワインジュレは、那桜よりは拓斗向けだと給仕が判断したようだ。食べてみるとちょっと苦みがあって大人のデザートっぽい。お酒は好きでも強くはないうえ、普段はあまり飲まないから早くも躰が火照ってくる。
「拓兄、デザート、あのケーキがよかった」
 那桜はちょっとした気分のよさにかまけて隣のテーブルを指差した。それこそ子供っぽい。
 那桜が平らげた二つの皿を順に見ると、拓斗は顔をしかめた。
「もう入るわけがない」
「お持ち帰り」
 すぐさま云い返すと拓斗は呆れた様子で首を振った。
「ここはできない。一階にケーキ屋があっただろ」
「あれがいいの」
「無理だ。この席というだけでもプレッシャーをかけてる。嫌なコンサルタント会社(ファーム)になるつもりはない」
「それじゃあケーキ屋さんでいい」
 云い張ったあとは拗ねたふりして譲歩してみる。
 ケーキを持ち帰りたいというのは本気だが、便乗してばかげたわがままを云うのは、那桜にとって一種の戯れだ。拓斗が根気よく、真面目に相手をしてくれると安心感みたいなものを覚える。つまり、純粋に妹になりたくなるときがあるのだ。
 拓斗は気づいているのかいないのか、処置なしといったふうに首をひねった。

 那桜がコーヒーを飲み干すのを見計らって拓斗は椅子を引いた。左手で携帯電話をつかみ、右手は下に置いていたダレスバッグに伸ばした。
「出るぞ」
「うん」
 さきに行った拓斗をゆっくりと追う。精算が終わるのを待って一緒に店を出た。
 すると、拓斗がふいに那桜の腕を取り、人の通りの邪魔にならない隅まで引っ張っていく。
「ちょっと待ってろ」
 そう云うなり、拓斗は那桜の腕を放すと胸ポケットから携帯電話を取りだした。指が動いたかと思うと携帯電話は耳に当てられた。
「なんだ。……ああ、那桜なら一緒にいる。……心配ない。……わざわざ云われなくてもわかりきってる」
 拓斗は最後、わずかに不機嫌そうに答えると、いったん耳から離して操作をしたあと、まただれかと通話をし始めた。
「どうした。……ああ。おれの予定は変わっていない。……それでいい。ワードローブはどうだ。……わかった。向こうとの合同会議には蘇我も出席させる。……ああ、そうしてくれ。あとは明日だ」
 電話の相手は、おそらく最初が和惟、あとは惟均だ。
「和惟、どうかした?」
 惟均は明らかに仕事の話だったから気にすることもない。那桜が訊ねると、拓斗はかすかに眉をひそめるように動かした。
「帰りが明け方になるらしい」
「拓兄、早く帰らない?」
 即座に口にした、那桜の的外れな誘いは、呆れさせるのではなく、お手上げといった寛容さを引きだしたようだ。拓斗の口角が右側だけ少し上がった。


 帰りは電車とタクシーを使って帰ってきた。和惟の車があるし、拓斗には会社に営業車があるから、まえに拓斗が使っていた車は戒斗が持っていっている。
 そのせいか、デートの締め括りは和惟のお迎えという時化(しけ)た事態が定番だけれど、今日はもともと和惟は遅くなる予定だったし、デートと同様、庶民的な帰り道も拓斗の演出なら今日は満点をあげていい。
 電車に乗って、混雑はしていなくてもシートが空いていないという状況を喜ぶのは那桜だけだろうか。おかげで那桜を支えようと、拓斗のほうからくっついてくれて、いいことこの上なかった。
 家に帰りついたのは十時近くだった。

「拓兄、明日は一日内勤だよね」
「ああ」
「お弁当、つくっていい?」
 好きにすればいいというかわりに拓斗は肩をすくめた。
 孔明の妹、美鈴に触発されて昼の弁当をつくっていくようになったのは、やはりヴァレンタインデーの日からだ。拓斗が求めていようがいまいが関係なくて、那桜がしたいからするだけのことだ。
 三月に入ると、孔明の見定めも一段落したのか、専ら一日中内勤だった拓斗は外出することが多くなった。クライアントやらとの付き合いもあって、弁当をつくる機会はめっきり減ったのだ。料理はお世辞にも上手とは云えず、あまつさえ苦手で好きじゃない。だからこそ、がんばっているという充実感みたいなものを覚えて那桜はやりたがる。
 朝だけでは間に合いそうにないから前夜に下ごしらえをするのだが、それが終わる頃、拓斗が入浴をすませてキッチンにやってきた。
「まだやってるのか」
「拓兄のお風呂が早すぎるってだけ。もう終わった。これから仕事する?」
 拓斗は答えることなく少し首を傾けるだけで、冷蔵庫からミネラルウォーターを取りだす。
「入ってくればいい。コーヒーならおれが淹れる」
「じゃあ、そうする」
 拓斗からちょっとだけ違った気配を感じるのは那桜の気のせいだろうか。


 およそ三十分後、浴室を出てリビングに入ると拓斗の姿は見えない。
「拓――」
「上だ」
 云いかけたとたん、二階から拓斗が呼びかけた。
「うん!」
 那桜はキッチンに入って冷蔵庫を開け、買ってきたケーキ箱を取った。コーヒーメーカーを見ると香りはするけれど空っぽだ。拓斗がさきに持って上がっているのだろう。
 二階に行くと、書斎にいるかと思いきや、拓斗は寝室にいた。出窓の枠に腰を引っかけた拓斗は、那桜が手にしたケーキを見て、どことなくうんざりした面持ちになった。可笑しくて思わず那桜が笑みを浮かべると、拓斗は鷹揚に肩をすくめる。
 那桜は、ベッドサイドに置いたチェストの上にケーキ箱を載せると、ベッドに上がりこんだ。来る様子のない拓斗を見て首をかしげた。
「仕事しないんでしょ?」
 するつもりなら最初から書斎にいるはずだ。そう思っていると。

「那桜」

 レストランで聞いた声と同じトーンだ。何かを打ち明けなければならない。けれど、できればそうしたくない。そんな矛盾が潜んでいた。


BACKNEXTDOOR