禁断CLOSER#115 第4部 アイのカタチ-close-
3.Shaded love -1-
「……メールの件でお電話致しました。資料を確認次第、一両日中に担当の者から連絡させます。……はい……はい、その点もいったんこちらから提案させていただきますが、それからご検討されてかまいませんし、こちら側としても柔軟に対応したいと思います。……はい……はい、失礼します」
新規の依頼主との電話を切ると、那桜は部屋の隅にある複合機に向かった。通話のさなかに飛ばしたデータはすでにプリントアウトされている。奥のカウンター越しに惟均に渡した。
普段なら拓斗に渡すところだが、今日は顧客訪問で外出している。隼斗は、ドアを開けっぱなしにはしているが専用の部屋にいて、厳密にいうと、いま事務所内にいるのは惟均と孔明と那桜だけだ。
「なんの依頼なんだ?」
「新人社員研修。費用がどれくらいか気にしてるみたい。うちは高いようなこと云ってたけど?」
さっそく書類に目を通し始めた惟均は、那桜の疑問に応える気配はない。
「中堅の会社だな」
「担当者から連絡するってことになってるから」
那桜が少々不機嫌な口調で云ってみたところで惟均は気づかないのか、そんなふりをしているだけなのか――
「猫かぶりの応対はちゃんと聞こえてたからわかってる」
と、まるで那桜の仕事ぶりを貶している。こういうところは和惟の悪影響を受けているとしか思えない。
「ひどい」
「褒めてるだろう? 板に付いたなってさ」
「だったら、もっと喜べる云い方してくれるといいのに」
「褒めて伸びるんならそうするけど、那桜は油断する。だろう?」
惟均はやはり容赦なく那桜を扱きおろす。
惟均はもともとから率直ではあったものの、学生の頃はやさしかった。どうしてこうなったのかを考えてみると、なんとなく、拓斗や和惟に反抗できないぶん――というよりは、逆らわないぶん、惟均は那桜を使って発散させているのではないか、そんなことを勘繰った。
「惟均くんのお嫁さんが決まったら、惟均くんは南極大陸みたいだって教えてあげる」
「どういう意味なんだ?」
「からっからに乾燥してて冷たいだけだってこと」
「那桜にしては気の利いた云いまわしだな」
惟均は取り合わず、鼻で笑うという、追い払うような様であしらった。まったく腹が立つ。
「惟均くんのほうが猫かぶり。拓兄がいたらそういうこと云えないくせに」
「拓斗さんがいるときは、那桜と喋る機会がない、というだけだ。那桜はくだらないことまで拓斗さんとばかり話してるからな。おれは、云いつけられようがかまわない。那桜の自由だ」
「だって……」
那桜は云いかけてやめた。
「なんだよ」
しばらく様子を見てから促した惟均は、那桜を無下にしているわけではないことを遠回しに示す。拓斗に対する忠心の延長上のことなのか、那桜の話を聞こうとする気持ちがいつも惟均にあることは疑っていない。
「もういい。仕事中だし」
那桜は首をすくめた。ちょうど複合機が作動し始めて、那桜はまた出てきた紙を取りにいった。
会社でも那桜が拓斗を頼るのは、拓斗がそうしてもらいたがっているとわかるからだ。
勤めだした最初のうち、拓斗は何もしなくていいといわんばかりだった。伯叔父たちが那桜を“社員”と認め始めて、ちょっとしたことだが仕事を頼まれるようになると、はじめてのことに戸惑うことが多くて、拓斗はそれを見かねたのだろう、独り悩むよりひとに訊け、と忠告した。その“ひと”というのが拓斗に限る、というのはなんとなく那桜も察した。
以来、そうしていることは、惟均には『くだらないことまで』と映っているのだ。いや、惟均だけではないだろう。
那桜もそう気づいているからこそ、小さなことは自分で判断できるようにいろんなことを吸収しているつもりであり、外部との応対は、大学時代の文化祭の実行員をやったときに学んだことを活かせているし、実際、拓斗がいなくてもちゃんと役に立っているという自負心は、わずかだけれどある。
複合機からプリントを取って見ると、整列した細かい数字がぎっしりと表に詰めこまれていた。
「那桜さん、それ、僕のです」
“ワードローブ”という会社名が目に入ったのと同時に、那桜のほうへと向かってくる孔明が声をかけた。
「こういうの、見てわかる?」
数枚にわたる決算関係の書類をまとめて渡しながら、那桜は孔明に訊ねてみた。
ワードローブは大衆向け衣料品の生産販売をする会社で、業界ではまだまだ駆け出しだが成長株と位置づけられている。三月決算の営業利益も見込みで前年比三十パーセント増と、実際に好調だ。有吏は、今期はじめて経営戦略を担うことになったという。
まず財務の実質的担当が孔明だ。実質的というのは、孔明はまだ下っ端社員ゆえのことだ。表向きの責任者は拓斗になっている。もちろん、最終判断を下すのは拓斗で、プロジェクトチームとして惟均と世翔も携わっている。
孔明はプレッシャーを感じているのか否か、いま那桜の発言を受けて可笑しそうにしている様子を見るかぎり、余裕がありそうだ。
「いちおう、経済の出ですから」
「それも首席? 来週の卒業式は答辞を読むって昨日、拓兄から聞いたの。尊敬しちゃう」
「だから、それは勉強しかやることがなかったというだけです」
「それだけじゃなくて、お母さんとか美鈴さんのためでもあるんでしょう?」
孔明は照れているのか、褒められることに慣れていないのか、「ありがとうございます」と笑うだけでまともな返事はしなかった。
こういうとき、カバ属とはまったく異質な高貴さを――ともすれば、隼斗や拓斗みたいに、有吏に通じるような気質を感じるのは気のせいだろうか。
「那桜」
惟均が分厚い書類を掲げながら呼ぶ。何かと思ってカウンターに近づくと――
「シュレッダーだ」
と、いまやらなくても、というような仕事を云いつけられた。
わざわざと思うのは考えすぎではなく、そのまま那桜を孔明から引き離すためだということが歴然だ。拓斗から何を云いつかっているのだろう。
惟均は孔明へと目を向けた。
「書類は一時間以内にそろえてくれるだろう?」
問いかけのように聞こえても、圧力にほかならない。押しつけがましいのはやはり和惟と同じで、猜疑の目で見るなら意地悪だ。
「はい、早急に整理します」
孔明はただのプレッシャーと思っているのか、健全な応答を返した。
那桜はため息をついて惟均から“ゴミ”を受けとった。
六時をすぎて帰り支度をすると、惟均が車のキー音をかすかに立てながら奥のカウンターをまわってきた。
今日は拓斗も日帰り出張であれば、和惟も日を跨ぐほど遅くなるようで、つまり那桜のお守り役は惟均ということだ。少々うんざりしないでもないが、いつまで続くかわからない、拓斗の緊迫した気が休まるのなら協力するべきなのだろう。
「車でなくてもいいと思うけど」
門を出て通りに車が沿うと、那桜は呆れた口調でつぶやいた。
「車じゃないと、間に合わなくて拓斗さんをイライラさせることになる」
意味がわからず、那桜は眉をひそめて運転席を見やった。
「イライラって拓兄は遅くなるんだし、歩いて十分なんだけど」
云いながら那桜はふと惟均が手ぶらだったことに気づいた。「惟均くん、バッグ、会社に忘れてるよ」と首をかしげて教えた。拓斗か和惟が帰るまでいるつもりなら、仕事で時間を潰すというのは必須事項のはずだ。
「歩いて行ったら明日になる。今日、なんの日かって考えたら見当つくだろう?」
惟均は首を傾けるだけで、忘れ物をして、しまった、という素振りもない。
那桜が、『なんの日か』と考えるまえに、歩いて明日になるなんてどういうこと? と疑問に思っているうちに、車はマンションのまえに来た。にもかかわらずスピードは緩まず、すぐに通りすぎてしまった。
「惟均くん!」
「べつに掻っさらってるわけじゃない。回転が鈍すぎるだろ。有吏の人間に、あるまじき、だ」
「あるまじきって、わたしが家のなかに閉じこもってるのが当然てしてるのはそっち。掻っさらうとか思ってない。和惟だったら疑うかもしれないけど、惟均くんは拓兄の云いなりだから」
「云いなりじゃない。第一、で動いているだけだ」
心外だと侮辱されたかのように、断固として自己意思だと云い張った惟均は、ちらりと那桜に目を向けて、「兄さんだったら、って、まだちょっかい出されてるのか」と続けた。那桜のなんでもない、軽はずみな発言に喰いついた惟均の声は渋い。
「言葉のあや、みたいなもの」
那桜は弁明したものの、ちょっかいを出されていないとは云いきれないのが実情だ。
一カ月まえも、那桜への罰として和惟がやったことは、那桜の挑発に応える以上に拓斗を煽って、書斎の椅子を汚したうえ、意識が途切れるという怖い目に遭った。泣きたくなるセックスのときの眠りにつく感覚と違って、容赦ないセックスの果ては眠るというよりは気絶だ。
「理解できないじゃないけど」
しばらく黙って運転していた惟均は独り言のようにつぶやいた。
「え?」
「兄さんの立場を考えたら、動かざるを得なかっただろう」
「立場? 意味がわからないんだけど」
「主宰たちも含めて気づいているかどうか……兄さんはひとを寄せつけない。人当たりはいいけど表面的なもので、兄さんの心底を覗ける奴はいない。ただ、那桜には違ってた」
惟均は片方だけ肩をそびやかした。なんのことを云っているのか見当はついた。和惟が惟均のまえで仮面を脱いだ瞬間は、那桜と結びつけるなら有吏館でのワンシーンしか思いつかない。
「よくわからないよ」
と云いつつ、和惟を見誤っていたことは嫌というほど思い知らされた。それでも、結局は和惟が傍にいることを望んでいる。そうしたがる自分の気持ちは認められても、理由は説明できない。那桜は話を逸らすように「動くって何?」と訊いてみた。
「見ていることは、時に私情になってもおかしくない。相手がまっすぐ視野に自分を入れて信頼を寄せているなら、な」
惟均はそう云ったきり黙って、その間、那桜は考えてみた。
車はどこに向かっているのか、そのさきに拓斗がいることだけは確信している。
「ボディガードだからってこと?」
「プラスアルファが必要だ。ガキの頃、拓斗さんは、やさしいってイメージだった。何がきっかけか、動かないひとになった」
口を開いたかと思えば、唐突に拓斗の話に変わった。
「動かない?」
「正確に云えば、動かさない、だろうな。感情を凍結してた感じだ。けど、融けた。那桜が、ずっと小さかった頃そうしてたように、まっすぐ拓斗さんを見ていたから。つまり、そういうことだ」
那桜にしてみれば、つまりどういうこと? と問いかけたいくらいだったが、惟均は話を打ちきった気配で、訊ねたところで無意味だろう。
「あ、今日はホワイトデー!」
おなかがすいて、そういえばクッキーをもらっていたんだと思いだしたとたん、那桜は今日がなんの日かということも思いだした。
惟均はいま頃かといったふうに笑う。
「那桜の気持ちに譲歩して合わせてるつもりが、当の那桜が鈍いとか、拓斗さんが気の毒になるな。おれが云わなかったらいつ気づくんだ?」
「いいの。きっとサプライズってことだから。惟均くんは水差したのかも」
惟均は呆れたように那桜を見やり、口を片方だけ上げるという、ややもすると皮肉っぽい笑みを見せた。
惟均は都市高速を抜け、車のライトは不要なんじゃないかという街中を走り、それから一際高くそびえたビルが見えるところで車を歩道脇に寄せていく。
気づくと、助手席のドア窓の向こうに、近づいてくる拓斗が見えた。車が完全に停止し、ドアを開けて那桜が足を地に着けるのと同時に、拓斗がやってきてドアを支えた。
「拓兄、お疲れさま」
「ああ」
拓斗の手が伸びてきて額に触れる。背後のビルの灯りで影ができた顔は表情が見えないけれど、そのしぐさで拓斗のたわやかな気分がわかる。
「拓斗さん、お疲れさまです」
拓斗は躰をかがめて車のなかを覗きこんだ。
「ああ。わざわざ悪かった。気をつけて帰れよ」
「はい」
拓斗と惟均は仕事の話もせず、会話は端的にすまされた。拓斗がドアを閉めると、通りが多いなか、惟均は車を器用に合流させて、那桜たちからはすぐに見えなくなった。
「拓兄、ありがとう。今日はヴァレンタインのお返し?」
「こういうの、したがるし、物じゃなくてもいいだろうと思った」
拓斗に背中を押されて那桜は歩きだす。こういうの、とはデートのことだ。一緒というだけでうれしいけれど、こういうことがあればもっと幸せな気分に浸れる。
「充分。惟均くんの送りじゃなくって、電車とか、独りで待ち合わせ場所に行けたらもっと最高なんだけど」
案の定、拓斗は首をひねって異を唱えた。いまは特にできないとわかっていて口にしてしまうのはわがままとわかっているけれど、いつの日か、と拓斗の頭の隅っこにでも残っていれば叶いそうな気がする。
「そこのスカイレストランを予約してる」
拓斗が顎をかすかに上げて示したのは、車から見えていたビルだ。
「そのまえにショッピングできる? もっとキュートな服でデートしたい」
拓斗の目が那桜の全身を一通り伝う。それで何が問題だ、といわんばかりの眼差しだが、ジャケットよりはフェミニンにカーディガンのほうが断然デートらしい。
「ビルのなかにいろいろ入ってるはずだ。好きにしろ」
「うん」
那桜は背中にある拓斗の手を逃れると腕につかまった。
歩いていると、恋人同士かというのはわからないが、所々に見える男女の組み合わせに会う。ほかのひとからしたら自分たちもそう見えているだろうし、普通という時間が味わえて、こういう仕事帰りみたいなシチュエーションも、大衆に紛れていい感じだと那桜は独り思う。
ビルのなかに入ると、すぐに好みのショップを見つけた。春色の服が並ぶ店内は軽やかな雰囲気で浮き浮きする。じっくり見てしまうと目移りするから、インスピレーションでぱっと惹かれたものを選んだ。
拓斗が見守るなかで着せ替え人形になってゆっくり選んでいくのもいいけれど、お喋りしたり触れ合っていたりするほうがずっと得な気がする。毎日、ほとんどの時間を一緒にすごしているのに、それでも気がすまないという気持ちは自分でも不思議で、欲張りすぎる、と罰が当たりそうで怖い気もする。ただでさえ、禁忌という領域を犯しているからよけいだ。
「なんだ?」
店を出てエレベーターに乗ると、ふと拓斗が問いかけてきて那桜は隣を振り仰いだ。
「なんでもない。贅沢なことを思ってただけ」
首をすくめて云うと、拓斗はかすかに笑みを浮かべた。それは拓斗の無意識の誘惑だ。ふたりはいちばん奥にいてだれもが背を向けている。那桜が刃向かえる方法は挑発だ。
「たくにぃ」
囁いて、ちょっと拓斗が身をかがめた隙にネクタイを引っ張った。正確に云えば、隙でも油断でもなく、頭の片隅だろうと、きっと応じたがる気持ちが拓斗にあるからだ。
那桜が伸びあがってキスは成立した。