禁断CLOSER#113 第4部 アイのカタチ-close-

2.jealous for love -5-


 仕事は那桜と孔明だけ定時に終わって会社を出た。金曜日だから、有吏塾に行く者を除いてだれもが普段より長く残業するだろう。
「孔明さん、今日もお迎え?」
 カウンターのまえで待っていた和惟の後ろから外に出ると、那桜はやはり訊ねてしまう。この二週間で口癖化している。孔明は奇妙な顔つきになった。
「……」
「どうかした?」
 首をかしげて質問を重ねると孔明は苦笑いをした。
「そんなふうに訊かれると、僕は幼稚園児みたいですね」
 那桜と孔明の間に入った和惟は、遠慮もなく失笑する。那桜も昼食時にカバのことで笑ったから、和惟の無礼を咎めることはできない。
「でも、将来の蘇我グループ総帥なら、大事にされてあたりまえだと思うけど」
「従弟に、ですか」
 孔明は不本意そうに漏らして、「そうなるまえに、もう少し野生化するべきだと思ってます」と首をかすかに傾けた。
「野生化?」
「自分のことは自分でやれるように……独り立ちする、という意味です」
 孔明はちょっと考えこむようにしながら云った。
「でも、カバは嫌かも」
「僕も遠慮しますよ」
「なんの話だ」
 那桜と孔明が笑う傍から和惟が怪訝そうに口を挟む。
「孔明さんのお父さんの話。野生のカバなんだって」
 和惟は鼻で笑い、軽く首を振ってあしらった。

「では、お疲――」
「あ、孔明さん、従弟さん……えっと……そうだ、貴仁(たかひと)さん! 来てるんでしょ?」
 那桜が会社の門を指差すと、いったんそっちを見た孔明は、和惟越しに再び那桜へと目を戻した。
「はい」
「会わせてくれない?」
「那桜」
 那桜の言葉尻に和惟の声が重なる。引きとめようという意思が見え見えの口調だが、那桜はかまわず――
「行こ、孔明さん」
 と、ふたりより一歩さきに出ながら強引に誘った。
「え、あ……」
 本意はわからなくても、孔明は和惟の声に制止を感じとり、どちらに添うべきか迷って那桜と和惟をかわるがわる見やる。
「挨拶してくるだけ」
 和惟が口を開くまえに云い置き、戸惑っている孔明は放って那桜は門に向かった。
「戒兄や叶多ちゃんと親しい人だし、今日の孔明さんの話を聞いて興味湧かないはずないよ」
「なんだ、今日の話って」
 和惟の声がすぐ背後から聞こえてくる。袖を引くでもなく、那桜の意思をひるがえすのはあきらめてくれたらしい。那桜は足を止めて振り向いた。
「だから、カバの話。拓兄がきっと話してくれるよ。孔明さん、話してもいいんでしょ?」
 孔明の許可に関係なく拓斗は話すだろうが、あえて訊ねてみた。
「かまいません」
 ほら、という目を向けると、和惟は一度首をひねるというしぐさで那桜に警鐘を鳴らした。なんに対してか、おそらくは孔明と親しくなることさえ警告しているのだろうが、あいにくと隼斗の意向が働いている以上、見守るしかなく、拓斗と同じように和惟も内心では苛々しているのだ。外見には欠片も現れていなくても。

 門に向かっていると、空いたスペースに止まっている、黒塗りの車の助手席が開いた。周りの景色が映りそうにぴかぴかした車だが、高級さとは不似合いにも、ジーパンを穿いた脚が地面に着地した。車を降りるのにかがめていた上半身が、優雅に起きあがっていく。Tシャツに革ジャンという、かなり砕けた恰好にもかかわらず、孔明と同じく、いい意味で“カバ”属とはとても相容れない雰囲気だった。
 領我貴仁は、那桜たちが来るのは見えていたはずで、だからこそ、対面を歓迎するように顔全体にやわらかい笑みを浮かべている。孔明よりも顔立ちがすっきりして見えるのは一重の目のせいだろう。細くはなく切れ長という感じで、怒るときは相手をおののかせる力がありそうだ。
「こんにちは」
 第一声も好感の持てる柔和な印象だ。
「こんにちは」
 那桜が応じるとうなずき返されて、貴仁の目は和惟のほうへと向いた。目は止まることなく、なぜか後部座席のほうを向いてドアを開ける。挨拶以外を交わす間もなくこのまま孔明を連れて帰るのかと思いきや、貴仁は車のなかを覗きこんだ。
「美鈴も出てきたら?」
 どうやら孔明の妹が同乗しているとわかった。何か口にしたのか、美鈴の声は聞こえなかったが、貴仁が「ああ」と応じている。
 貴仁がかがめていた躰をまっすぐにしたあと、ヒールを履いた細い足が見えた。長めのセーターに短めのフレアスカートというスマートな姿が現れる。背は美咲と同じくらいだろう、那桜よりも高い。ふわりとしたセミロングという髪型のせいか、おとなしい印象だ。驚くのは、顔立ちが孔明に似てきれいだということで、美鈴もまたカバ属からすれば異色に思えた。
 もしかしたらカバ属は蘇我本家の一部だけだろうか、と那桜は真面目に考えてしまった。

「こんにちは」
 美鈴の声はその名のとおり、鈴のように軽やかだ。那桜が少し見上げて同じ挨拶言葉を返すと、ほっとしたように肩が少し落ちた。うれしそうにして孔明へと目を移す。
「お兄ちゃん、お帰りなさい」
「ああ。ただいま」
 孔明の声はいつになくやわらかくなる。やはり、兄妹仲がいいのだ。
「衛守さん、那桜さん、僕の従弟の領我貴仁と妹の美鈴です。貴仁――」
「ああ、いまのでわかった」
 美鈴が頭を下げる傍らで、貴仁は孔明が云いかけているのをさえぎり、那桜へと視線を戻した。
「領我貴仁です。戒斗さんの妹さんがこんな感じに可愛いひとだとは思いませんでした。……あー、すみません。生意気な云い方しました」
 ちらりと那桜の横に立つ和惟を見やった貴仁は、少し間を置いて謝罪した。生意気というのは、那桜のほうが年上だからという意味だろう。
 それ以前に、貴仁は自分より一つ上の孔明に対しても少し尊大な云い方をしている。有吏の従兄弟たちが対等にやっているのと似たような関係だろうか。一つしか違わない、といえばそれまでだが。
「可愛いなんて云ってくれるひとはいないからすごくうれしいけど、きれいって云ってくれたらもっとうれしいかも」
「小さくてきれいなひとだってことを集約したつもりでした」
 すかさず貴仁が返し、那桜は笑わされた。孔明の生真面目さと違って、貴仁は機知に富んでいるようだ。

 貴仁は次に和惟に向かうと手を差しだした。
「領我貴仁です」
「衛守和惟だ」
 握手を交わしたあと、「戒斗が世話になってるみたいだな」と、和惟は警戒心をつゆほども覗かせることなく云った。
「反対ですよ。僕が勝手に付き纏ってます」
「付き纏う?」
「はい。目が離せないというか。特に、叶ちゃんについては。な、孔明」
「あ、ああ……叶はおもしろい」
 貴仁から急に振られた孔明は当惑したすえ、言葉に詰まって答えた。不意打ちを喰らってどぎまぎした様子を見ていると、那桜にもなんとなく事情が見えてくる。思えば、戒斗たちのことを話題にすると孔明は急に楽しそうにしだして、叶多の話題と限定すれば、加えて活き活きというのが見えてくる。孔明の頬に赤い丸でもつけたら、いまの様子にぴったりだろう。
「へぇ、戒斗もたいへんそうだな」
 和惟が軽口を叩いた。那桜と同じことを察したらしい。貴仁は含み笑い、孔明は小難しい面持ちになる。
「貴仁、戒は何がたいへんなんだ?」
 貴仁は呆れたように首を振りつつ、片方で揶揄した目つきになって孔明を見やる。
 孔明は自分の気持ちに鈍感らしい。こっそり笑っている美鈴を見るかぎり、妹でさえ孔明が叶多を好きだということに気づいているのだ。
「おまえはわからないほうがいいかもな」
 貴仁が云うと、からかわれることに慣れているのか、孔明は早々と追及はあきらめた様子で美鈴に向かった。彼女は慌てて顔を引きしめている。

「美鈴、今日はどうしたんだ?」
「もうすぐバレンタインデーだし、お兄ちゃんの欲しいもの、下見しようかと思って。今年は叶多さんにもあげたいなって思ってる」
「女にやるのか?」
「いまはそれが普通。ついでに外食もしたい。大学休みだから家にいるばっかりじゃ退屈なの」
 美鈴は那桜と似た境遇らしい。孔明は兄らしく、しかたないなと了承したため息をついた。那桜の隣からも息をつく音がした。和惟を振り仰ぐと、くちびるを歪めた笑みが向けられる。
「那桜の口癖と同じだな」
「ずっとまえの話」
 那桜はくちびるを尖らせた。
 すると、何を思ったのか、美鈴が小さく笑った。
「美鈴、どうしたんだ」
「戒斗さんのお兄さんに会ってみたかったんだけど、お兄ちゃんが紹介するまでは衛守さんがそうかと思ったの。でも、衛守さんと那桜さんがそうでもおかしくない雰囲気だし、そしたら、ちょっと頭が混乱した感じ」
 美鈴は目をくるりとさせる。孔明が何か云うよりも和惟のほうが早かった。
「おれと那桜は、きみと貴仁くんの関係と同じで従兄妹同士だ」
 和惟がフォローをすると、美鈴は可笑しそうにしながら納得したようにうなずいた。孔明と同じで、美鈴も飾り気がない。
「美鈴さん、いつか一緒に食事できたらうれしいかも」
 那桜が云うと、美鈴の顔がぱっと晴れる。
「わたしも。叶多さんたちも一緒にできたらうれしいです」
「あ、そうだよね。じゃあ、戒兄がいちばん都合つけづらいし、叶多ちゃんたちと打ち合わせしてからってことでいい?」
「はい!」
 美鈴は心底から喜んでいるようで大きくうなずいた。
「那桜さん、ありがとうございます」
 孔明までもが乗り気のようで、うれしそうにお礼を口にした。
「じゃ、蘇我、気をつけて帰れよ」
 和惟がさりげなさを装いつつも、那桜からすれば唐突に会話を切りあげた。
「はい。おさきに失礼します」
 孔明が一礼したのをはじめとしてそれぞれに挨拶言葉を交わし、那桜たちは車が道路に出るまで見送った。

「那桜」
 和惟の車まで引き返そうと躰を方向転換させたとたん、咎めた声が那桜を呼ぶ。
「云いたいことはわかってる」
「わかってやるってことがおれにはわからないな」
 皮肉っぽいというよりは険悪に聞こえた。隣を見上げると、たったいままであった温和さがすっかり掻き消え、和惟にしてはめずらしく、怒るでもない、ただ表情は無になっていた。
 那桜は和惟の正面にまわりこむ。
「何が和惟にとってそんなに深刻なの? 戒兄もお父さんも、警戒してるとしても孔明さんには普通にしてる」
「そのとおり、『普通にしてる』だけであって警戒してるのにかわりない。おれまでもが普通にしてたら、那桜はもっと無謀に振る舞うだろう」
「その云い方、わたしのことをすごくバカにしてる! 貴仁さんに会ってみればはっきりするような気がしたの」
「何がはっきりしたんだ?」
「蘇我一族の全部が悪いわけじゃないってこと。孔明さんが云ったんだけど、蘇我の分家だって本家の犠牲になってるって。貴仁さんにも美鈴さんにも、孔明さんと同じように嫌な感じは受けない」
「そんなふうに信じやすいから気をつけてる」
「叶多ちゃんは普通に付き合ってる」
「おれにはおれの守り方がある。戒斗には戒斗の考え方があるし、戒斗が平気で野放しにしていると思ったら大間違いだ。戒斗たちは相当のリスクを負ってる」
 何を云っても反論はひるがえされる。和惟の発言は大げさにしか聞こえない。
「敵対してるってことだけじゃなくて、せめてわたしに関することをはっきりしてくれたら、無謀になんてならない」
 那桜は不機嫌に云い捨てた。(はな)から返事が来るとは思っていなかったけれど、本当にだんまりを貫かれると苛立ちが募った。


 車のなかでは一言も発しなかったし、家に帰っても和惟はうんともすんとも云ってこない。ただ、家のなかを動きまわる那桜を、警告した眼差しで監視する。
 何か発せば――それがなんの変哲もないことであろうと和惟の忍耐を無効にしそうで、拓斗がいないときにそんな地雷を踏むのは危うすぎる。
 那桜は黙々と家事に取りかかった。和惟はダイニングテーブルにパソコンを持ってきて居座った。
 料理を始めてしばらくすると、もともと軟禁状態であり、和惟の監視も気にならなくなる。そうなると、那桜の頭を占めるのは拓斗だ。自然と昼間のことに思考が及ぶ。
 孔明と三人だけという食事はつかの間で、あとから惟均たちもやってきて、拓斗の機嫌もいくらか落ち着いたようだった。それでも、拓斗が忘れることはあり得ない。特別な機嫌とりは何にしよう。
 そんなことを考えているさなかに電話が鳴った。拓斗を示す音となると、なんの知らせか那桜は容易に見当がつく。濡れた手をタオルで拭きながらため息を漏らした。和惟も拓斗からだとわかっているから、ダイニングテーブルの席に着いたまま、パソコンから顔を上げようともしない。
 那桜は、時計が七時を指していることを確認しながら、カウンターに置いた携帯電話を取った。通話ボタンを押して耳に当てた。

「拓兄?」
『いま戒斗が来て、これからちょっと会議がある。ごはんはいらなくなった』
「遅くなる?」
『何時になるかわからない。寝てていい』
 というからには、もしかしたら帰宅は今日という時間をすぎるのだ。何を話すのかはわかっている。急きょ決まった会議は孔明の発言が発端だ。
「うん、わかった。……拓兄」
『なんだ』
 おなじみの呼びかけは、那桜をためらわせるくらい、ずいぶんとやさしく聞こえる。ちょっと黙っていると、『那桜』と拓斗が催促した。
「和惟が不機嫌なんだけどどうしたらいい?」
 早く帰ろう――拓斗には、たまに自主的に思わせるのもいいかもしれないと考えつつ、那桜は和惟にこれ見よがしの視線を投げた。
 電話の向こうは、すぐにはなんの反応もなく、通じているのか否かさえ不明なくらい静かで、その間に和惟が席を立ってカウンターをまわってきた。
『和惟とかわれ』
 タイミングを計ったように命令が飛んでくる。
 返事をする間もなく、和惟が携帯電話を取りあげた。
「那桜がよけいなことばかりする。……。詳しいことはあとでいいだろう。罰は与えるべきだってことだ。会社から遠ざけろ。那桜は閉じこめておくべきだ」
「和惟!」
 和惟の声はまるで本気だ。取りあげようと伸ばした手は簡単に退けられて、逆に手首を取り押さえられる。ちょっとした悪戯心はよからぬ方向へ転ぼうかとしている。
「……。ああ、今日は予定はない。じゃあな」
 和惟の一方的な発言だけで終わり、拓斗が何を思ったのか声も聞けないまま、勝手に電話は切られた。

「これ以上、わたしの時間を奪うなんてひどい」
 和惟を見上げて睨めつけると、腰もとからさらわれる。
「和惟!」
 制止しようとした叫び声と同時に、和惟の手が左側の胸のふくらみに被さる。握り潰すような勢いでつかまれた。
「憶えておくんだ。手っとり早く致命傷を負わせる方法は、ここを狙うのがすべてじゃない」
「痛いっ!」
 那桜が顔を歪めて叫んでも放す素振りはない。おかまいなしに和惟は脅しをかけた。
「魂が踏みにじられることのつらさを知る必要はないんだ。拓斗に云ったとおり、那桜がよけいなことをするからだろう。嫌なら、反省して心をあらためればいい」
 それは、不愉快さでも怒りでもない、ただ、心底からの主張に聞こえた。

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