禁断CLOSER#112 第4部 アイのカタチ-close-

2.jealous for love -4-


 孔明が会社にやってきてから今日でちょうど十日めの金曜日。会社のエントランスからすれば階段の手前にある休憩室で、那桜がお茶の準備をしていると孔明が入ってきた。
 先週は緊張しっぱなしだった孔明だったが、今週に入ってからはリラックスする時間もとれるまでに慣れたらしい。お昼になって拓斗の勧め、もしくは命令で休憩をとっていた孔明は、拓斗のそんな手間に気づいたようで、頃合いを見て『休憩とります』と自分で判断するようにしたみたいだ。
 ただし。
「お疲れさまです」
 イントネーションは相変わらず硬い。
 孔明は、同じように那桜が返すのを待って、隅の棚から自分の弁当を取りあげた。いまや孔明用に定着した、長テーブルの隅の席に座ると、おもむろに大きめの巾着から二段重ねの弁当箱を取りだす。
 孔明が弁当を持参してくるのは昨日から二回めだ。
 これまで会社でこんな個人的なお弁当を持ってくる人はいなかったから、新鮮な気持ちでふたが開けられるのを見守った。
 那桜たちはいつものとおり仕出し弁当だ。瀬尾家が経営している料亭から届けられる。料亭とはいえ、おそらくは特別扱いだろうが、和食に限らない。日替わりだから飽きることもなく、いつも美味しく食べている。今日は、温かいフカヒレスープ付きで海鮮チャーハンがメインの中華だ。

「孔明さんのぶんもスープあるんだけど食べるよね? 躰、あったまるし。それとマンゴープリンもあるの」
「ありがとうございます。遠慮なくいただきます」
 孔明はうなずくように頭を下げた。
 スープをお椀に入れて孔明に渡すと、那桜は弁当を覗いた。一見して色とりどりで食がそそられる。
「孔明さんのところも中華! エビとアスパラの炒め物が美味しそう」
「よかったらどうぞ」
「ほんと? アスパラ大好きなの」
 孔明が弁当を那桜のほうに押しやろうかとしたとき、ドアが開いた。だれだろうと思うまでもなく、拓斗に決まっている。孔明が手を止め、那桜もまた伸ばそうとした手を引っこめた。
「もう食べられる?」
「じゃなきゃ、ここには来ない」
 不快さが丸見えの素直じゃない返事だ。
 仕事の依頼で先方に外出しているときは別にして、拓斗はきちんと十二時五分までにはお昼を取るようになった。それがいつからか、と考えると――いや、考えなくても答えは出る。
 那桜は惚けたふりして首をすくめた。
 拓斗が弁当を取って席に着いている間に、那桜はお茶とスープを準備して配った。
 孔明の真向かいに那桜が座り、那桜の横に拓斗が座る。それも気に喰わないらしいが、離れて座るのは不自然すぎるし、拓斗もそこまで子供っぽいことは云いたくないのだろう、実際に離れろなどと苦言を口にすることはない。

「いただきます。孔明さん、アスパラいい?」
「どうぞ」
「じゃあ遠慮なく」
「那桜――」
 拓斗が呼ぶも止めるには遅く、那桜はさっそくお箸でアスパラを摘んだ。落とさないうちにと口に運び、隣を振り仰ぐ。不機嫌という言葉では足りないくらい細めた目と那桜の目が合う。
 どちらも手をつけるまえだし、食べさせてもらったわけでもないのに。理不尽な批難でも、機嫌とりはしなければならない気にさせられる眼差しだ。
「拓兄、マンゴープリンとチャーハンを半分、交換してくれる?」
 拓斗は度しがたいといったふうにため息をついて、プリンカップを那桜のまえに置いた。那桜が自分の弁当を差しだすと、拓斗は取りわけていく。
「孔明さん、美味しかった。昨日もだけど、お母さんのお弁当、色とりどりだし美味しいし、お料理が上手なんだね」
 云っているさなかに隣からまたため息が漏れている。挨拶の一環だから、止められることはないものの、特別なご機嫌とりが必要な気配を感じる。
「ああ、これは母じゃなく、妹がつくったんです」
「え、妹さん?」
 那桜はわずかに目を見開いた。孔明に妹がいることは知っているが、妹の出番がこんな部分にあるとは思わなかった。
「大学が休みに入ったので暇潰しですよ」
「叶多ちゃんと同じで、今度三年生だったよね。えっと……」
「美鈴です」
「あ、そうそう、美鈴さんだった」

 那桜は身をのりだしてあらためて弁当を覗きこむ。お世辞ではなく美味しそうに見えるし、味も申し分なかった。
 いまでこそ那桜は働いているから暇はつくらなければないくらいだが、実家にいるときも同棲を始めたときも、暇な時間なら早送りしたいくらいあった。それなのに弁当づくりなどという思考に及びもしていない。
 那桜が拓斗のためにやっていることは何一つなくて、情けなくなる。
 なんとはなしに隣を向くと拓斗と目が合ってしまった。
「おまえにそういうことを求めてない」
 すっかりお見通しで、那桜の単純な思考回路に呆れたのか、拓斗のフォローはため息混じりだ。
 求めているとかいないとか、いまの那桜の心境としては問題にする次元が違う。

「父も母にはそう云ってました。母は嫁いできてから台所に立ったことはないんです」
 もちろん、蘇我グループの筆頭だから贅沢に暮らしていけるだろうし、お手伝いさんの一人や二人、ゆうにいるだろう。
「孔明さんのご両親てどんなひと?」
「母は、いつもぴんと背を伸ばしてる、そんなひとです。気取ったひとということではなくて、真にやさしく潔いひとです。父は……」
 孔明は穏やかに母親のことを紹介したが、父親のことを云いかけると、露骨に眉間にしわを寄せた。
「お父さんは? ネットで見たことあるけどすごい迫力のあるひとみたい」
 那桜はさきを促してみた。孔明は軽く横に首を振る。
「迫力という言葉は、父にはきれいすぎます。動物に例えるなら、野生のカバ、ですね」
「カバ?」
 大きく口の開いたカバを思い浮かべ、那桜は滑稽な声で聞き直した。直後、笑い弾ける。
「那桜」
 拓斗がたしなめるも、那桜は一頻り笑った。当の孔明は気にもしていないようで、それどころか、那桜と一緒になって笑みを漏らす。
「ごめんなさい。カバに例えられるひとってはじめてだったから。カバっておっとりって感じがするけど」
「と思うでしょう。けど、意外に野生のカバは獰猛なんです。縄張りにこだわるし、子殺しだって厭わない」
「子殺し、って?」
「縄張りを奪いとったら、そこにいた子孫を殺してしまう。ライオンと同じです。ただ、ライオンというには敬虔(けいけん)すぎるし、父には胴長短足の不恰好なカバのほうが合ってる」
 孔明の辛辣な声音ははじめて耳にする。母親に対しては敬愛を感じられたのに、父親に対しては容赦ない。
 落差を疑問に思いつつも、那桜はまた吹きだした。

「カバがかわいそう」
「かもしれませんね」
 孔明は素っ気ないほどのしぐさで肩をすくめた。相当に嫌っているらしいと那桜が思っていると――
「父親とは合わないようだな」
 拓斗が口を挟んだ。
「父と意気投合できるのは異母兄の聡明だけです。そっくりですよ」
「子殺しをするような連中に勝てるという根拠は? トップを目指すんだろ」
「根拠は自分の意志と、領我(りょうが)家のバックアップでしょうか」
「領我家? 母親の実家か」
「はい。拓斗さん、ご存じですか。歴史に携わってきた――というよりは動かしてきたといったほうがいいかもしれません――そんな一族がいることを」
 孔明は枢要なことを口にした。弁当の話からここまで発展するとは、あまりに突飛だ。那桜が目を見開いた横で、拓斗はかすかに首をひねった。
 孔明は拓斗のしぐさを肯定と取ったようだ。うなずくと、「コンサルという職業上、耳に入っていないことはないと思っていました」と明かした。
「それが、蘇我だと?」
「そうです。ただ、そういう一族はもう一つあるらしいんです」
「知らないのか」
「はい。父たちは血眼になって探してますけど」
「それと領我家とどういう関係がある」
「領我家は蘇我本家を立て直そうとしているんです。父はまるっきり独裁です。父に限らず、歴代の本家頭領は皆そうでした。大事なことは知らされず、分家は本家に翻弄され、昭和の大戦でも大きな犠牲を払わされました。領我家の祖父も例に漏れず、戦時中に負った火傷で、それから生涯、顔に巻いた包帯を取ることはありませんでした」
「大戦と蘇我家が関係あるということか」
 拓斗が急所を突くと、孔明はためらった面持ちになる。固くくちびるを結んだあと小さくため息を漏らし、意を決したように拓斗を見やった。
「醜態を曝したくはありませんし、不快に思われたくもありませんが、有吏社長から善意をいただいている以上、隠しておきたくはありません。拓斗さんがお察しのとおり、大戦は蘇我本家の慢心から起きたことです」
「わかった。それで領我家はどうするつもりでいる?」
 拓斗は意外にもあっさりとうなずき、問いかける口調もいつもと違って刺々しくはない。孔明から聞きだすための手段なのだろう。
「本家を快く思っていない分家は多いんです。領我家はその先頭に立っています。領我家本家の伯父と貴仁(たかひと)の――貴仁は一つ下の従弟ですが――意向は、領我家が……つまり僕が本家を奪取することだと思います」
「思う?」
「はっきりしたことはまだ知らされていないので……不甲斐ないんですが、僕は頼りないようです。確かに何もしてこなかったので、そう扱われても致し方ありません」
「なぜ何もしてこなかった」
「……あまり、云い訳をいいたいところではありませんが……母と妹を守ることに精いっぱいでした。聡明一家に迫害されてきましたから。なんとしても蘇我頭領の座を譲りたくないんでしょう」

 孔明と聡明は一回り以上――十五も年が離れている。孔明の母親と聡明のほうがより年が近く、孔明としては聡明の子供とのほうが近い。孔明がそっくりと云ったように、迫害という言葉がすんなり納得できるくらい、聡明は父親である唐琢と似ている。
「孔明さんのお父さんはかばわないの?」
 下手に何か云えばへまをやりそうで、那桜は半ば呆気にとられて会話を聞いていたのだが、やっと口を出す機会を得た。
「聡明を買ってますから何も云わない」
 だから嫌いなんです。そんな言葉が続きそうな気配だ。
「ご両親、仲が悪いの?」
「よくはありませんが悪いだけでもありません。母はきれいなひとなので黙ってそこにいればいいという感じです」
「あ、そういうところ、わたしの境遇とちょっと似てるかも」
「そうですか」
「拓兄の本心はきっとそんな感じ。きれいってことはないけど」
 おどけて云い、那桜は拓斗の横顔を振り仰いで「ね?」と首を傾けた。否定も賛同もしないが、那桜を見下ろした目には警告が見え隠れする。
「那桜さんはきれいですよ」
「ホント?」
 那桜はぱっと孔明を振り向いた。拓斗がそんなことを云うことはないし、和惟もそうだ。きれいと自己主張するには微妙な感があるのも確かだが、孔明の云い方はあまりに自然に聞こえた。

「本当を云えば、初対面では戸惑いました」
「戸惑う?」
 那桜は二週間まえを思い起こしてみる。『那桜さん、ですか』と云ったときの孔明の顔がちょっと驚いているように見えたことを思いだす。
「はい。ご両親のイメージから、いい意味で、ですが、近づきにくいひとかなと思っていたので。けど、いい意味っていう部分は裏切られなかったうえに、近づきにくいどころか、いちばんに僕のことを歓迎していただいてうれしいです」
 いい意味でどう近づきにくいのか、よくわからないが、続けて孔明が云ったことはもっと意味不明だった。
「僕は勘違いしていたんですね」
「勘違い? 何を?」
「いえ……那桜さんのことは戒の妹だと思ってたんですが――そう聞かされてましたし。けど、拓斗さんと結婚されてるということは義理の妹ということだったんですね。普通、お兄さんの奥さんなら義理の姉になるんだろうけど、年下だから――」

「那桜は生まれたときから有吏那桜だ」

 拓斗は鋭く孔明をさえぎった。
 那桜は孔明の勘違いにも困惑したが、聞きたくないといわんばかりの拓斗の勢いには少し驚いた。
 孔明はこの十日間、結婚という認識は見いだしていても、那桜が『拓兄』と呼んでいることには気づかなかったのだろうか。孔明の様子を見ているかぎり、仕事のことで頭がいっぱいというのもうなずけるが。
「え……あ……」
 孔明は返事にもならない声を発しつつ、これまでの辻褄を合わせている。
「戒斗の妹で間違いない。おれの妹でもある。けど、おまえとおまえの妹の関係と、おれと那桜の関係はまったく違う」
 驚いた様で孔明の表情が止まる。
 拓斗は挑むようにし、那桜は固唾を呑んで孔明の次の反応を待った。
「ああ……あの、勘違いのうえに勘違いしていたようです。すみません」
 拍子抜けするくらい孔明は恐縮した様子だ。兄妹なのに結婚もどき関係でいることをどう思ったのかまではわからないけれど、那桜は気の毒とすら思う。孔明はきっとひとがいいのだ。
「謝る必要はない」

 隠す必要もなければ、どう勘違いされたところで謝られる必要もない。
 云い換えれば、どう思われようと、それはふたりを引き裂く要因にはなり得ないということだ。
 那桜の顔が自然と綻ぶ。

「スープ、冷めちゃう。早く食べたほうがいいかも」
「そうですね」
 孔明だけぎこちなくしていたが、食べ始めてまもなく、那桜がチャーハンのグリンピースを飛ばしてしまうと、美鈴も粒が苦手なんです、と孔明が可笑しそうにして、やっと和やかになった。

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