禁断CLOSER#111 第4部 アイのカタチ-close-

2.jealous for love -3-


 労働時間は九時から六時までという、有吏リミテッドカンパニーの就業規則はまるっきり建て前で、会社まで歩いて十分という距離のマンションを出るのは八時だ。那桜たちに限らず、伯叔父たちも従兄たちもだいたい同時刻に出勤してくる。
 帰りも、六時という時間が守られることはめったにない。ただ、有吏の家を出て以降、拓斗に限っては、有吏塾に行く日と急用はともかく、遅くても八時までには帰ってくるようになった。
 家でも仕事するという難点はあれども、帰るのを待ちわびているより声がすぐ届くところにいてくれるほうが断然いい。
 出勤にしろ、早くてもまったく那桜はかまわない。手を繋いで歩くのは至福の時間だ。

「拓兄、蘇我さんに会ったことある?」
 拓斗の手がわずかにきつくなる。なんとなくだが、蘇我の名を出すたびに拓斗に緊張が走っている。
「ない」
 すげない答えだ。
 昨日の食事会のとき、戒斗から聞いたことによれば――いや、孔明について叶多と話している様子を見ると、緊迫している雰囲気もなく、むしろ、普通に友人のことを話題にしている感じだ。いけすかない、といったふうに戒斗は口にするけれど、心底では友人だと認めている印象を受けた。
 隼斗もまた、戒斗と挨拶の電話があったとかなんとか、親しい知人の話をしているようで、特に目立った負の反応は見られない。もっとも、隼斗は普段から感情は見せないから本心はわからない。
 拓斗にしてもそうだが、那桜が疑問に思うのは神経質にしていることではない。本家で拓斗だけ面識がないというのが奇妙なのだ。まるで、拒絶している気配だ。
「戒兄もお父さんも会って知ってるのに?」
「しつこい」
 確かめただけなのにうるさいといわんばかりだ。こうなればつつきたくなるのが那桜、ということを拓斗は忘れている。

「戒兄は鈍感な奴だって云うし、お父さんは意気込みあるって認めてた感じだし、叶多ちゃんはおじさんぽいひとだって云ってた。それに、口が悪いのに真面目なんだって。想像がつかないんだけど」
「認めてない」
「……拓兄?」
「一族が蘇我を認めることはない」
 何をこだわっているのだろう。そう思わせる口調で拓斗は云いきった。おまけにゆだねていた手が大きな手からこぼれる。拓斗は手を離すことで不機嫌の度合いを示した。
 那桜はめげることなく、拓斗の手をつかむ。
「わたしたちのこと……そういう話になったら、どうしたらいい?」
「同じことを何度云わせる気だ」
「そうじゃなくて! 相手が蘇我さんだから確認してるの」
 今度は那桜が不機嫌に云い返した。離そうとした手はすかさずすくわれる。
「だれであろうと嘘を吐く必要もごまかす必要もない」
 拓斗のためらわない矜持(きょうじ)に満ちた言葉は、那桜にもそんな気持ちを伝染させる。何かあればすぐに揺れてしまう、那桜の自信の頼りなさに腹を立てることはなく、拓斗は常に力づけようとする。
「はい」
 ただし、揺れるからといって拓斗の手から逃げる気はさらさらない。

「ありがとう、拓兄」
「なんだ?」
 お決まりの疑問が返ってきて、那桜は拓斗のまえにまわりこむ。
「愛してるって叫ばれた気分だから」
 悪戯を装って云ってみると、那桜の思惑どおり、拓斗の口からため息のような笑みが漏れた。
 叫ぶなんてことも、ましてや、“愛してる”という言葉が出ることなんてこのさきもあるとは思えない。それでも、否定しなくて、いまみたいに恩寵に満ちた瞬間の顔を見られるのなら言葉は必要ない。
「まえを向いて歩け。転ぶ」
 現実的な注意も那桜の気分に水を差すほどじゃなく、上機嫌で笑った。
「そのときは拓兄が抱きしめてくれるから」
「そうしてもらいたければ見える範囲にいることだ」
 いまのことではなく、あまつさえ要求に、あるいは不満そうに聞こえて、那桜が首をかしげると、拓斗までも同じように首をひねった。
「……いると思うけど。いまは昼間も一緒だし」
「忠告だ」
 拓斗は答えると、意味を考える間もなく、「着いたぞ」と繋いでいた手を離して那桜の背中に添え、正面を向かせた。

 ちょうど敷地を囲むフェンスが途切れた。車一台を置けるくらい窪んだところに門扉があるのだが、まだ閉まっているから那桜たちが一番乗りということ――かと思えば先着がいた。
 門扉のまえに、拓斗たちと変わらないくらい背が高く、ネイビーのリクルートスーツを着た男性が立っている。痩せているというほど細くはないが、有吏の男たちを見慣れているとスレンダーだ。
 だれだろうと思うまでもなく、きっと蘇我孔明なのだ。那桜の背中に触れている拓斗の指先に力がこもる。それが証拠だ。
 那桜たちが近づく間に、孔明はまっすぐにした背をさらに伸ばして、すっと姿勢を正す。一メートルくらいという距離で孔明は九十度近く躰を折って一礼をした。拓斗は小さくうなずくだけですませた。
「おはようございます。蘇我孔明です。今日からお世話になります」

 近くで見た孔明は、意外にも顔立ちが上品に感じた。黒豹っぽく鋭さがやけに目立って端整にした拓斗よりは、レオパードっぽくサイケデリックな戒斗に近い。もっといえば、優雅でやさしく見えるが原型と少しも変わらない勇猛な肉食獣、ホワイトタイガーっぽい和惟と戒斗の中間かもしれない。
 意外と思ってしまったのは、昨日ネットで見せてもらった孔明の父親と異母兄とはあまりに違ったからだ。蘇我の頭領である唐琢(とうたく)と長男の聡明(そうめい)は、醜くはなくてもごつごつした岩のようなイメージで、いかにも大物といった腹黒さが表に出ている。
 ただ、孔明がどんなにノーブルに見えようと、拓斗が警戒心を解かないかぎり、アウトサイダーであることは頭に入れておくべきだ。

「有吏拓斗だ」
「存じています」
 かすかに首をひねった拓斗の横で那桜は軽く会釈した。
「おはようございます」
「おはようございます。那桜さん、ですか」
 孔明が窺うように那桜を見る。那桜が孔明のことを意外と思ったように、孔明もそうなのか、目がわずかに見開かれた。
「はい。蘇我さんがみえるって聞いて楽しみにしてました」
 孔明は目に見えて肩の力を抜く。有吏の男たちと違い、秘密主義ではなさそうで人間臭い感じだ。
「社長には強引にお願いしたことなので、そう云っていただくと心強くなります。よろしくお願いします」
 雑用係といっても差し支えない那桜に対して、一礼を伴う、ばか丁寧な孔明の挨拶を感心して見守っていると、拓斗が振り返った。
「那桜」
 何かを遮断するように呼び、「来い」と命令言葉が飛んでくる。
「うん」
 那桜の返事を待って拓斗は孔明のほうを向いた。
「蘇我、おまえもだ」
「はい」
 孔明は再び頭を下げてから、歩き始めた那桜たちの数歩あとをついてくる。
 拓斗のダレスバッグに入れたノータッチキーに反応して、門扉はすでに鍵が解錠されて自動で開いている。

「蘇我さん、早かったですね」
 ちょっと振り向いて声をかけると、孔明は不意打ちを喰らったように目を見開いた。なんとなくおもしろい。反応が丸見えだ。
「ああ……」
 云いかけていったん口を噤んだ孔明は、「はい」と云い直した。
「戒から、この時間帯にはもう出社されていると伺いましたので。無理を云っている以上、遅刻はできません」
 戒斗のことを“戒”とステージネームで――というほど名まえを弄っているわけではないが、耳にするのは新鮮だ。そんな呼び方をする人と会うのははじめてかもしれない。
 それに、四つも年上の戒斗を呼び捨てにするのは、親しさの証明だ。対して、拓斗はかたくななくらい素っ気ない。
「遅刻って、始業時間は九時になってるから、もうちょっと遅くてもべつにかまわないと思うけど」
「それでも新人がいちばん遅いというのは不届きでしょう。研修をお許しただいた社長に申し訳ないですから」
 いちいち言葉遣いが硬いと感じる。“お許し”とか孔明のような二十歳そこそこの人が簡単に使う言葉ではない。叶多が云っていた生真面目とおじさんぽさが、なんとなく理解できた気がする。
「心がけはまともなようだな」
「ありがとうございます」
 那桜は皮肉ではないかと思ったのだが、孔明はまっすぐ受けとったようで、素直にお礼を述べた。隣を振り仰ぐと、ちょうど拓斗が見下ろしてきた。那桜には警告の眼差しを向けつつ、一方で呆れたふうにため息をついたことがやはり皮肉だったことを示している。
 拓斗は何を思っているのか、すぐ正面に向き直った横顔を見ると、顎のラインが少しこわばっている気がした。

 会社のエントランスの鍵を開けるうちに車が入ってきた。見ると、隼斗の車だ。
 那桜たちがなかに入っても孔明は外に留まった。隼斗を出迎えるつもりらしい。
 入り口のカウンターのなかに入ると、那桜はいちばん手前にある自分のデスクに行ってバッグから鍵を取りだした。
「拓兄、蘇我さんてイメージしてた感じと違うね」
「蘇我は蘇我だ」
 とりつく島もない。那桜は引き出しの鍵を開けていた手を止め、もう一つ奥にあるカウンターをまわる拓斗を目で追う。那桜の視線にはとっくに気づいていたようで、ダレスバッグをデスクに置くと拓斗の目がぶれることなくこっちを向いた。
「有吏の話をしないこと以外にしちゃいけないことある?」
 拓斗はつと目を逸らした。すぐに戻ってきたけれど、めずらしいしぐさだ。
「普通にしていればいい」
 云っていることと表情はちぐはぐに映る。
「そうする」
 何が問題で――いや、明確に蘇我と係わることが望むところではないというなか接せざるを得なくて、それなら何を那桜にしてほしくないのか、何が嫌なのか、はっきり云えばいいのに、と思いながらわざと挑発的に返事をしてみた。
 拓斗はきらりと目を光らせた。
 刹那、エントランスのドアが開いて足音がした。隼斗と孔明の後ろに惟均と世翔の姿も見える。
 助かったというよりは、苛立ちに任せて少しでも本音が聞けるかもしれないという機会を失って、那桜はがっかりした。

 その後、叔父や従兄たちが来るたびに社内には挨拶が飛び交う。といっても、淡々として活気がない。まず、孔明が若さに欠けてきちんとしすぎているし、有吏のほうも大歓迎とはいかない。
 いざ仕事に取りかかると、よりによって拓斗の下につけられるとは、と孔明を気の毒に思ったけれど、つれなくはあっても意地悪したり無視したりするような大人げない拓斗ではない。
 一族以外のひとが会社にいるというのがはじめてのことだから、いままでと違ってぴりぴりした空気感がなきにしもあらず、もしかしたらだれもが戸惑っていて、今日は那桜のほうが落ち着いているかもしれない。いつもより仕事の時間が楽しい。
 孔明本人は、砂糖をまぶした唐揚げみたいに微妙すぎる気配を知ってか知らずか、仕事を憶えるのに必死なようで、拓斗と惟均についてふたりの指導に熱心に耳を傾けていた。
 そんなふうに、始まりの一日は、ひとまず大それたこともなくすぎていった。

 六時をまわってまもなく、那桜が簡単な掃除と片づけをして給湯室を出てくると、和惟が迎えにきていた。
 仁補(にほ)家の従兄、了朔(りょうさく)が長期出張中で不在というなか、今日、孔明にとっては十回めとなる挨拶を交わしている。和惟の表情を見るかぎり、いちばん友好的な印象を受ける。

「どうだ。蘇我の坊ちゃんにはきつかったんじゃないのか。惟均もついていくのに苦労してたからな」
 和惟がからかうも、孔明は“坊ちゃん”という、どうかするとばかにして聞こえる言葉に気を悪くしたふうでもない。
「面倒をかけていることのほうが恐縮しています。一日でも早く、足手まといにならないようにしたいと思います」
 至って正統派な答えだ。優等生すぎるかもしれない。
 可笑しそうに口を歪めた和惟は、帰る支度をする那桜をちらりと見やってから拓斗へと目を移した。
「拓斗、残るのか」
「ああ。一時間後には帰る予定だ」
「オーケー。那桜」
「うん」
 うなずいてから那桜は拓斗を見やった。
「拓兄、蘇我さん、早く帰さないと労働時間オーバーで扱き使われてるって訴えられるかも」
「云われなくてももう帰す」
 那桜のからかいに、拓斗は気に喰わなさそうに首をひねった。「今日はあがっていい。明日も来るんだろうな」
「もちろんです」
「じゃあ、外まで一緒に」
 那桜の一言はよけいだったようだ。拓斗の目が鋭く那桜を貫いてくる。那桜は肩をすぼめてかわした。
「今日はありがとうございました。明日もよろしくお願いします」
「お疲れさま」
 素っ気なくも拓斗の労いはうれしかったようで、孔明は勇んで、「お疲れさまです」と返した。

 那桜と和惟は孔明を待って外に出た。
「蘇我さん、卒業したら蘇我グループに勤めるんですよね。それまで?」
「いえ。しばらくこちらでお世話になるつもりです。父の会社では、いろいろ手強いことがあるので」
「手強い?」
「これまで何も努力してこなかったので蘇我グループに貢献するには未熟ということです」
「何も努力しないで京東(けいとう)大には入れないと思うけど」
「ああ……正確には勉強することしかやることがなかったということです」
「コンサルじゃ名の知れた有吏を踏み台にするわけか。頭は確かにいい」
 和惟が口を挟む。皮肉ではなく揶揄した口調だ。
「学ばせてもらうつもりではいますが、踏み台にしているつもりはありません」
「いや、踏み台にするべきだ。本気で蘇我のトップで君臨する気があるんなら。戒斗が云ってたけど、本気なんだろう?」
 外は暗くて外灯に頼るなか、即座に否定した和惟は嗾けるような面持ちで孔明を見やる。
「本気です」
「有吏に来た以上、がむしゃらにやることだ」
「はい。ありがとうございます」
「じゃ、お疲れ」
 車の横で立ち止まると、和惟は話を打ちきるように唐突に云った。
「蘇我さん、帰りは?」
「従兄が迎えにくることになっているので。すぐ来ますから大丈夫です」
「そう? じゃあ、お疲れさまでした。また明日」
「はい。お疲れさまでした。失礼します」
 孔明は会釈をすると、ゆったりと立ち去った。

 しばらく背中を見送ってふと和惟を見ると、さっきまであった穏やかな様がまったくなくなっている。暗闇だからそう見えるのか、何も表情に映していない。
 孔明を追う様子は、目を離そうとしても離せないといった雰囲気に見える。
「和惟?」
 声をかけてみると、和惟は孔明から目を引き剥がすようにして那桜へと向けた。
「どうかした?」
 訊ねると、和惟はいつもの気配に戻った。
「警戒してるのはわかってるだろう」
 もっともな云い訳は、追及の理由をなくしてしまう。
「真面目すぎておもしろい感じだけど」
 和惟は薄く笑って鼻白んだ。

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