禁断CLOSER#107 第4部 アイのカタチ-close-
1.欲深なアイ -5-
『那桜ちゃん、どうかした?』
土曜日の午後、かかってきた電話に出ると、二言三言、昨夜の飲み会の話をしただけで、立矢はそう訊いてきた。
那桜の不機嫌が電話越しに伝わっている。ということは、相当、自分は不機嫌らしい、と那桜は他人事のように思った。
「あ、ごめんなさい。せっかくのお休みなのに、ちょっとほったらかしにされてるから機嫌悪いかもしれない」
正直に云うと、立矢は吹くように笑った。
電話の向こうの立矢には見えないとわかっているから、那桜は気分そのままに口を尖らせる。
五日ぶりに抱いてもらえると思っていたのに、昨夜は――日付でいえばすでに今日だったが、さきに風呂に入ってあがるとまだ拓斗と和惟は話が終わらない雰囲気で、那桜は無言で二階の寝室に追いやられた。
ベッドに横になって待ったつもりが、気づいたら昼が間近に迫った十一時で、和惟にふざけて云ったことをほぼ実現してしまったという始末だ。
拓斗の姿は見えず、ただかすかに乱れたシーツと、一緒に使っている長い枕がへこんでいることが傍で眠っていたと証明していた。
起こしてくれればいいのに。そんな不満を抱えて下に向かえば、階段をおりる途中で話し声の数が多いと思ったとおり、惟均が来ていて、三人で話しこんでいた。出前を取って食べたお昼のあともその状況は一向に変わらない。
結局、拓斗に文句は云えずにうっ憤は溜まったままだ。聞くなというオーラを感じて近くにいることもできない。留守にしないだけましなのか。
二階を掃除して、それでも話が終わらないから、和惟のところも、と思って隣の住み処に移ったところで立矢からの電話が入ったのだ。
『拓斗さんがほったらかし? とてもそうしてるようには見えないけどね』
周りからはそう見えていて、それでも足りないというのは、拓斗がすべてになったら怖い――そんな気持ちを那桜に彷彿させた。
「……そう云われると、わたしの世界ってほんとに拓兄だらけになってるって気がする」
『おれとしては、うらやましいってしか云えないかな』
冗談なのか本気なのか、昨夜のように郁美が思わせぶりなことを口にするまでもなく、立矢は自らこんなふうにほのめかすことがある。口調は冗談めかしているから、那桜もそれで流すことにしている。
「拓兄に立矢先輩がそう云ってたって云っておく」
『なんかとばっちりを受けそうだな』
立矢は含み笑った。
「あー、それどころじゃないかも」
『……。何かあった? それを訊こうと思って電話したんだ』
那桜がほんの少し考えこんだようにして云うと、立矢は突然、生真面目な声音に変えた。
「何かって?」
『だから、それを訊いてるんだよ。なんとなく、拓斗さんは気が抜けないって感じだったから』
那桜はちょっと驚く。拓斗がそういう隙を見せられるくらい、立矢に、あるいは定例となった飲み会の仲間たちに、気を許しているのだろうか。それとも、ただ単に、立矢の勘がいいのか。
「それはたぶん、蘇我グループの話が出たからかも」
『どういうこと?』
「蘇我孔明さんて人、来週からうちの会社に来るって」
『え?』
「うちで働くことになったんだけど、拓兄がその指導することになって、それが気に入らないらしいの」
『……へえ』
立矢はほんの少し間を置いて相づちを打った。
「どうかしました?」
那桜は、なんだろうと思って訊ねてみた。けれど、何も聞くまえから漠然と、はっきりした答えは返ってこない気がした。
『昨日の話の様子じゃ、いま微妙な時期か、もしくはこれからそうなるのか、那桜ちゃんも気をつけたほうがいいんだろうな。蘇我の後継者が仲悪いっていうのはそのとおりで、異母兄弟ということ、拓斗さんが云ったとおり独裁だってことを考えれば、蘇我一族内部が不穏だってことも考えられる。翔流くんは蘇我の戦略もうまくいっていないって云ってたから調べてみた。確かに新規開拓が難しくなってるみたいだし、撤退を余儀なくされている分野もある。なのに、株価は安定して上昇を続けているんだ。それがどういうことか、ってことになる』
「昨日の今日でそこまで調べられたんですか」
『フレビューはいちおう優良企業らしくてね、ちょっと手をまわせば情報が入ってくるんだ』
「いちおうって、フレビューは日本の化粧品業界じゃ、シーニックと一、二位争いでしょ?」
『はっきり云えば二位止まりだ。相手は蘇我グループだから』
最初、含み笑いをしたかたと思えば、あとは何か含んだ云い方だ。
「立矢先輩? 何か知ってる?」
『知ってるんじゃなくて見当をつけてる。那桜ちゃんはあんまり知らないみたいだから下手なこと云えないけど』
「あんまりっていうより、教えるか教えないかの境界線がはっきりしてるの。和惟が牽制しているっていう蘇我グループとうちの関係はよくわからないし。でも、昨日は遠回しにいつか話してくれるって云ってくれたから」
『遠回し?』
立矢は可笑しそうに那桜が云った言葉を繰り返した。
表情は綻びてきて、喋ることもなめらかになってきた拓斗だが、肝心要なことは遠回し、もしくは、ほのめかして終わる。それをいかにキャッチするかは相手にかかっている。
それは、那桜に限ってということではない。昨日の飲み会で話していた蘇我のこともそうで、立矢はそこから何かをキャッチして察したのだろう。情報が入ってくると云ったからには、あるいは、裏づけられたのだ。
「そう。だから、立矢先輩が知っていることならわたしも知っていいと思わない?」
電話の向こうは静かで人がいる気配もない。にもかかわらず、立矢は忍び笑った。やはり、話してくれる気はなさそうだ。
『そうしたほうが話は早いと思うけど』
「けど?」
『翔流くんほど信用されてないから正面切って打ち明けられてはいないけど、それとなくほのめかしても拓斗さんは否定しないし、逆に答えをくれるときがある』
「だから?」
『拓斗さんの信頼を裏切りたくはない』
「ひどい。わたしより拓兄が大事?」
『じゃなくて、おれには前例があるから。不興を買って那桜ちゃんに近づけなくなったら困る』
思いつめた声に聞こえるほど、立矢は複雑な云い方をした。
「もう何年もたってるし、拓兄がこだわってるとしたら昨日みたいな付き合いはしてないと思う」
『もしくは、見張ってるのかもしれないよ。おれごと姉さんをね』
ついさっきとは一転してふざけた立矢の発言に、那桜は昨日のニュースを思いだした。
「有沙さん、ほんとに子供、産んじゃうの? 悪いけど、想像つかなかった」
『そうしないわけにはいかないだろう。拓斗さんが云ったように後継ぎは必要だ。古雅社長も思う存分、楽しんだみたいだし、子作りする気になったってわけだ』
和惟から教えてもらった古雅社長の監禁趣味が何年も続いていたことを思うと、自分本位で気ままだった有沙しか知らないから、那桜はよく耐えられているなと不思議な気がする。監禁にとどまらず、美鶴によると虐待らしいこともやっているようで――それは和惟が云ったように互いの趣味が一致ということであれば問題ないのだろうが、少なくともあの有沙が最初からそうだったとは思えないし、あの灸を据えられたことはよほど効果があったのか。
と、そこまで考えると、ふと自分も監禁についてはさして有沙と変わらないと気づく。記憶にあるかぎりそういう状況だから、反抗的な気持ちはあって、それが退屈でも窮屈とまではそう感じたことがないかもしれない。
「有沙さん、逆らわないんですね。わたしみたいに慣れたのかな」
『那桜ちゃんの比じゃないくらい、ひどいと思うけどね』
「そう?」
『拓斗さんは那桜ちゃんのことを考えてるだろう? 古雅社長は姉さんの都合をまったく考えてないよ。姉さんとしては子供を望んでるわけじゃないから』
「……無理やり?」
『姉さんが生まないなら、よそにつくって家で育てるとか宣告されたらしい。子孫を残すのはおれの義務だ、ってね。よその子と同居しなきゃいけないなんて姉さんにとって屈辱だ。下手したら将来その子に追いだされるかもしれないって心配してたな』
立矢は他人事のように笑った。内容如何によらず、やはり那桜には不思議に映る。
「立矢先輩って相変わらず有沙さんとよく話してますよね」
『正確には姉さんが勝手に打ち明けてくる。おれには一切、隠さなくていいから』
香堂姉弟の主導権はいつのまにか立矢へと逆転している。あまつさえ、有沙は立矢に依存しているのではないだろうか。
立矢は以前、時がたってみると有沙への気持ちは、女性に対する憧れでしかなかったかもしれないと口にした。姉弟の間では行きすぎた行為がその気持ちを縛っていて、それをほどいたのは那桜だという。正しくは、那桜と拓斗のあり方に触れることで冷静に考えられるようになったそうだ。
那桜にはよくわからないが、それで立矢が『近づけなくなる』と那桜に固執するのも、ある意味、自分を拓斗の立場に置き換えるようにして那桜を想うことで、自分が理想とする姉弟愛をバーチャル的に得ているのではないかと窺えるところもある。
「有沙さん、立矢先輩が結婚したらどうするのかな」
『どうにかすることある?』
立矢は可笑しそうに訊き返したあと、『姉さんが勝手に取り乱すだけだろう。だれかと結婚なんて考えられないけどね』と続けた。立矢もまた有沙が自分に依存していることを知っているのだ。
「考えられないって、立矢先輩も後継ぎ必要でしょう?」
『関係ないよ。会社は世襲でやることじゃないから。世襲を守るために自分の気持ちを犠牲にするつもりはない。その点、拓斗さんもそういう意志を持ってると思うけど。那桜ちゃんがおれの子を産んでくれるって云うんなら世襲問題は即解決するよ。そのまえに翔流くんとも闘わなくちゃいけないかな』
立矢はあり得ないことを口にして、それは冗談だというのがあからさまだが、那桜は笑い飛ばすよりも、ふと考えてしまった。
有沙に子供ができたと聞いても、拓斗がそれを後継のために当然だと云っても、自分と対照することもないなんて、いかに那桜が何も考えていないかという証明にしかならない。
あたりまえだと考えもしなかったことが、見逃せない最も大事な問題があることにようやく気づいた。
那桜は拓斗に子供を授からせることができない。
「立矢先輩、古雅社長って有沙さんがもし子供できなかったら、やっぱりだれか産んでくれる人を探したのかな」
『……那桜ちゃん?』
那桜が衝動的に訊ねてしまった声は自分でも深刻そうに聞こえて、立矢にもそれが伝わっているのだろう、怪訝そうに呼びかけられた。
「あ、もう妊娠しちゃってるんだから、どうでもいいことですね」
慌てて那桜が自分の質問を取り消すと、立矢はその間に鋭く理由にたどり着いたらしく、深いため息が届いた。
『よけいなこと云ったみたいだ。兄妹という前提がある以上、そういうこと話し合わないとしてもおかしくなかった』
「それ以前に、わたしは全然考えてなかったから気づけてよかった。後継ぎの話ってきっとうちの家もほっとけないことだから」
『そう云ってくれるのは助かるけど、早まった判断はだめだよ』
「早まった、って?」
『これもよけいなことだけど、拓斗さんを疑う必要はないってこと』
「大丈夫。今日みたいに休日にのけ者にされることはあるけど、大事なことだと、拓兄はわたしの気持ちを裏切ることはないって知ってるから」
『自分で自分の首絞めたみたいだ。じゃあ』
立矢は気が抜けたような笑い方をして電話を切った。
那桜は意味もなく携帯電話を眺めてため息を漏らした。“大事な問題”を疎かにするなんてうっかりしすぎる。
だだっ広いリビングにある数少ない家具の一つ、ローテーブルの上の台ふきをそのままにして、那桜は立ちあがってキッチンに行った。カウンターの上に携帯電話を置いたかわりに、ここに引っ越したときからずっとある、ガラスの写真立てを手に取る。
そこには三年まえにひまわり畑で撮った写真が入っている。五枚のうちの一枚。那桜を真ん中にして拓斗と和惟と三人で写った写真だ。三人そろった写真はもう一枚しかなくて、それもやはり和惟が持っている。二階の寝室にあるはずだ。
いまみたいに、掃除をしてあげようと和惟が留守の間に入ったときに、ベッドをつけた出窓の天板の上に見つけた。ちょっと驚いて、一心同体という言葉を思いだしながらちょっとほっとして、那桜はしばらく眺めていた。
和惟が帰ったときに、感傷的だね、とからかったら気に食わなかったようで、それ以来は入室禁止令を出されているから、いまはもう“あるはず”としかいえない。
あの日、拓斗とふたりだけの写真を三枚撮ったあと、『和惟も』と云って那桜が手を差し伸べると、和惟はめずらしくためらったように拓斗を見やり、それからため息と同時に肩をすくめてやってきた。
欲張りだな。
傍に立って和惟は云った。
『結婚に立会人は必要なの。ね、拓兄』
そう云って見上げた拓斗は、和惟と同じようにため息を漏らして首をひねった。
手にした写真の那桜は、引き留めるようにふたりの腕を絡めとっている。和惟の云うとおり、欲張りだ。
拓斗も和惟も、那桜は縛ることしかできなくて、ふたりの血が築くはずの未来を断ちきっている。