禁断CLOSER#106 第4部 アイのカタチ-close-

1.欲深なアイ -4-


 和やかさから一転した奇妙な気配と相まって、“蘇我”はほんの二時間ほどまえに聞いたばかりということ――それが、ずっとまえ、いま口にした翔流本人が話してくれたことを那桜に思いださせた。
 闇将軍だと云われる蘇我。その蘇我と相対した陰の実力者。
『おれは陰の実力者イコール有吏と見てる』
 翔流の結論は笑い飛ばすよりも納得する。
 それに、会議室で拓斗が不機嫌に、あるいは険しくしていた理由もしっくりくる。相対した蘇我が有吏に入りこむなら、おもしろくないどころか終始、神経を尖らせていることになる。
 けれど、なぜ隼斗はそうするのだろう。そもそも、相対するという関係がよくわからない。

 隣を仰ぐと、拓斗は肩をそびやかして沈黙を払う。
「トップがだれの意見も受け入れず、ワンマンであるほど(すた)っていく。松井を見ればわかるだろう。創業者一族をいったんトップから相談役に退かせたとたん、換気がよくなった」
「けど、このところ蘇我グループが狙う先々で契約が横取りされてるって話だ。大口に限っては、日本三大商社のもう一つ、貴刀グループと松井グループの二社勝ちだ。つまり、蘇我は“独り負け”してる」
「それだけ松井が力をつけているということだろう。貴刀のほうは、他社と手を組む松井と違って、財閥時代を純粋に引き継いだグループ企業で求心力も高いし、財閥解体後にゼロから再生してきたぶん、良質の野心とプライドを持ってる。だから安定してるんだ」
「けど、純粋なグループ企業という点は、蘇我も貴刀と同じだ」
「蘇我は財閥解体でゼロにはなっていない」

 拓斗と翔流の応酬は、友人同士の飲み会でするような会話ではないのに、茶々が入らない。と思っていると――。
「要するに、古くさいのは蘇我だけってことね」
 と美鶴が惚けたふうに口を挟んだ。
「なるほど、そのとおりだな」
 素早く同調したのは和惟だ。

「蘇我は外部で“独り負け”しているだけじゃなくて、内部でも問題があるみたいですよ」
 立矢の発言は、和惟が話題を切りあげさせるつもりだったとしたら、それをまったく無駄にした。拓斗が翔流から立矢へと視線を移す。
「何がある?」
「まず、年の離れた異母兄弟の仲が悪い。フレビューの情報としてですけど、うちのライバル社、シーニックが去年、謎のモデル“FILL(フィル)”を出してかなり話題になった」
 美鶴が逸早く反応して少しテーブルに身をのりだす。
「あ、知ってる。シーニック専属モデルのCARY(キャリー)と一緒に雑誌に載ったやつでしょ。CARYの素顔もはじめてだったけど、ふたりともすごくキュートだった」
「ああ。あれは大学生の弟の企画だったと聞いてる。話題になっている以上、シーニックとしてはFILLが欲しい。けど、一回きりということで、弟は彼女の正体を明かさなかった。それで、兄のほうは副社長の権限で当面、会社への出入り禁止令を出したって話だ」
「それくらいのことで?」
 那桜も同じ疑問を持ったけれど、美鶴のほうが口にするのが早かった。
「“それくらいのこと”だから、仲が悪いってことの証明だ。後継は兄のほうだろうけど、父親に似て傲慢だと聞いてる」
「だからワンマンだと云ってる。いずれ衰退する」
 拓斗は決まったことのように云いきった。なぜかぴりっとした空気感があって、それは拓斗のせいであるように思う。

「話すことがおっきいよね」
 郁美がため息混じりで漏らした。呆れているのか感心しているのかは判別がつかないけれど、どことなく緊迫した雰囲気は途切れた。
「考えてみりゃ、郁美とおれだけだもんな、凡人は」
「そうだよね。那桜も翔流くんも気取ってないからつい忘れちゃうけど、お嬢さまとお坊ちゃまだし」
 勇基に続いて郁美がつくづくといった様で賛同した。とはいえ、郁美の両親は公務員だし、勇基が働いている会計事務所は小規模だとしても父親が代表をしている。ふたりとも安定した家庭育ちだ。

「でも、わたしから有吏を取ったらすっからかんだよ。郁美みたいに自分で切り開くってタイプじゃないし、やってもらうばっかりできたから独りじゃ生きていけない感じ」
 那桜は郁美にそう云うと、拓斗を振り向きながら「ね、拓兄」と首をかしげた。
 すると、否定も同意もせず、肩をそびやかしたり首をひねったりというしぐさもなく、拓斗の顔は時間が止まったように表情が固まって見えた。
 那桜が高校生だった頃を思えば、ずっと穏やかに、ずっと緩やかになってきた表情だが、こんなふうに止まるのは、あるいは無になるのはどういう気持ちがあってのことだろう。同時に、拓斗を“動揺”させるような何を自分が口にしたのか、那桜は云ったことを思い返してみる。
 けれど、考え至るまえに拓斗がさえぎった。
「独りになることはない」
 那桜はさらに首をかしげる。あたりまえのことをわざわざ云い聞かせるように口にされると、かえって疑問に思えてくるものだ。
「当然だ」
「わかってるよ?」
 一笑に付した和惟とおどけた那桜は、一秒の差もなく、ほぼ同時に発した。

「実質、那桜が独りになる時間なんてないだろうな」
 と、翔流が皮肉ったように云えば、「当てられるー」と郁美がちゃかしてみんなの笑いを誘った。
「お喋りじゃなくても……っていうより、お喋りじゃないぶん、ふとしたときの一言がすごく効果的なのね。憧れる」
 美鶴は羨んだ口ぶりで云いながら、那桜から拓斗へと視線を移した。
 その様子を見ていると、ひょっとして美鶴に好きな人が現れないのは、やはり拓斗をあきらめた気持ちがそこで止まっているからではないか、と那桜はそんなことを思ってしまう。
「拓斗さんに理想を見てるんなら、このさきも美鶴の婚活は厳しいだろうな」
 立矢がからかうと、美鶴は「そうかもね」とあっさり認めた。

 美鶴は以前、あきらめたことをさらりと云ってのけたから、那桜も深く考えることはなかった。有沙みたいにちょっかいを出すようなタイプには見えなくて、むしろ、裏がなくて嫌いにはなれない人だ。フレビューの店であのハプニングがあっても、立矢が那桜のまえで遠慮も屈託もなく、“拓斗が理想”などと美鶴の気持ちを裏づけるような発言することがその証拠だ。
 そんな美鶴だからこそ、静かに見つめる気持ちが潜んでいるというのが怖い気もする。
 ばかばかしいようなその怯えとため息を隠そうと、那桜は少しうつむく。視界に、自分の脚の上にだらりと置いた拓斗の手が見えて、思わず手を伸ばした。手のひらを重ねると、何を悟ってくれたのか、それともただの条件反射なのか、少しきつく握りしめられる。
 ふとした一言だけでなく、こんなしぐさも那桜にとっては効果的だ。
 拓斗が那桜に応えて――いや、応えるというよりは拓斗のなかに那桜への拘泥した気持ちがずっとあったらしいことも感じているけれど、拓斗に兄妹という枠を越えさせ、そんな気持ちが生まれる何が那桜にあるのかを知ることはできない。
 だから、それが欠けてしまったら どうしよう、という不安はある。
 ただし、拓斗への気持ちがどこで“兄として”という境界を越えたのか、という、拓斗からすれば那桜の気持ちの変化はきっとわからない。那桜本人が、自分の気持ちのことなのにわからない。
 十七歳の夏の終わりかけ。拓斗は何を思っているのだろう。そう思ったのが那桜にとっての始まり。けれど、それには“たぶん”がつく。兄妹という血を無下にして、拓斗の杭が躰を貫いたときはただショックだったから。
 それなのに、いつの間にか、拓斗がすべてになっている。
 好き、という気持ちが芽生えた瞬間は曖昧だ。ふとした瞬間の積み重ねで、気づかないうちに気持ちは引き返せなくなっている。

 *

 飲み会は三時間を超えて十一時まえに居酒屋を出た。そのあとは、お決まりの拓斗のおごりでバー・シュガーキャンディにそろって行った。
 おごりといっても本当に支払いしているのかどうかは怪しいところだ。なぜならその店は、裏分家――それも、一族の集結の日にさえ一切顔を出さない、特殊な分家である瀬尾(せのお)家が経営している店だ。瀬尾家はもう一つの特殊な分家、和久井家と組んで和瀬ガードシステムという警備会社をやっているが、その一方では接客商売を幅広く手掛けている。
 その落差はなんだろうと、やはり有吏一族の不思議の一つだ。

「明日はパンでいい?」
 家に帰り着いたのは二時になろうかという時間だった。欠伸を咬み殺して訊ねると、浴室に入りかけた拓斗がちょっとだけ振り向く。
「かまわない」
「和惟も?」
 同じ玄関から入ってきた和惟を振り返った。揶揄した顔に合う。
「どうせ、おれがすることになるだろう」
 那桜はむっとするが、おそらく明日の朝になれば、和惟の侮辱的発言は予言でも予知でもなく現実化する。
「だってもう二時だし。瞬き一回してる間に十時になっちゃってる」
「瞬き?」
 和惟は可笑しそうに口を歪めた。
「そう」
「じゃなくて眠ってるんだろう?」
「そんなことない」
 那桜が云い張ると、和惟は軽くホールドアップして、「処置なし、だな」と声を出して笑った。

 那桜はリビングへと向きを変えて歩きながらほっとする。飲み会での警告から、和惟のなかに少なからず残っていた不快さは完全に払拭されただろう。
 不快になったからといって、和惟がずっとまえのようにお仕置きじみたことをすることはない。ただ勝手に那桜が機嫌取りみたいなことをしなければならない気になっているだけだ。
 そうしているうち、いちばんの効力は子供っぽく甘えることだとわかった。そう振る舞うのに、努力しなくてすむところが情けなくはある。

 L字型に据えたソファにバッグを置いたところで、拓斗が浴室から廊下に出てきた。
「和惟、ビールあるけど飲む?」
 那桜が訊ねている間に、和惟は廊下を背にした側のソファに座った。
「酒を飲まないのは知ってるだろう」
 呆れた声だ。
 いくら護衛が使命とはいえ、ここまで徹底する必要があるのかと思う。まさしく和惟自身が云ったとおり、対象を一族――いや、本家とするなら、二十四時間営業に違いない。それを当然と思っている拓斗も――隼斗もそうだが、どうかと思うし、文句どころか“喜んで”そうしている衛守家も病んでいる。
 リビングに来た拓斗はキッチンのほうに行って、冷蔵庫から出したミネラルウォーターとグラスを三つ手にしてきた。
 その間に那桜は和惟とは違うほうのソファに座る。

「拓兄、今日の話」
「なんだ」
「蘇我のこと」
 あとで訊ねようと思っていたことを那桜が口にしたとたん、正面で拓斗は水を注いでいた手を止めた。
 斜め横を見ると、和惟までもがまえのめりになっていた背を起こして、瞳を注意深くして那桜を見つめ返す。
 那桜は飲み会の席で口にしなくてよかったと思った。
「それで?」
 促したのは和惟のほうがさきだった。それが呪縛を解いたかのように、拓斗はまた水を注ぐ。それが終わるのを待って那桜は口を開いた。
「翔流くんがずっとまえ、大学のときに教えてくれたの。日本には裏から国を動かしている一族が相対して二つあるって。一つは蘇我、一つは……有吏」
 そこでいったん切ったが、ふたりとも反応なしだ。何も聞こえなかったように拓斗は那桜の隣に座って、グラスをつかみ、水を口に含む。
「教えてくれたっていうより、翔流くんの考えを聞いたんだけど。裏の仕事って、お金儲けとか、ただのズルじゃなくって、そういうことなんだね? 蘇我グループも同じようなことをやってるの? 相対するって御方(みかた)じゃないってこと? それで、拓兄は蘇我孔明さんてひとが有吏に来るのを反対してるの?」
「蘇我孔明が? 首領は決めたのか」
 那桜の質問は無視されて、和惟は拓斗に向かった。
「ああ」
 拓斗が返事をすると、だれも喋らないなか、和惟は何を思考処理しているのか、長く目を閉じている。

「拓兄、わたしが知っておくべきことない? どんなことでも受け入れられるよ。いますぐってことじゃなくて、少しずつでも、拓兄が教えてくれてるのはわかってるから、これからもためらわないでそうしてほしいってこと」
「おまえがいつまでも子供じゃないってことはわかってる」
 それは思いがけない返事だった。不機嫌になるのではなく、拓斗は那桜の主張を認めて譲歩している。
「うん。ありがとう、拓兄」
「蘇我孔明は、叶多ちゃんによれば悪い奴じゃないらしいから、那桜は普通にしていればいい」
 和惟の言葉も思いがけない。那桜は目を丸くして和惟を見やった。
「叶多ちゃんの知り合いなの?」
「叶多にはおかしな奴が寄ってくるらしいからな」
「戒斗が苦労してる」
 拓斗に続いて和惟が口添えすると、なんとなく想像がついて那桜は吹きだした。
 一族が集まるなか、戒斗が叶多をまえにしてばか笑いしたときのことを思いだす。何が可笑しかったのか、那桜にはさっぱりだったが、すました自分しか見せなかった戒斗が変わった瞬間だった。あんなふうに戒斗を変化させるのだから、叶多が相当の何かを持っているのは理解できる。

「明後日、叶多ちゃんに訊いてみる」
 拓斗は肩をそびやかす。
「さきに風呂入ってこい」
 それは、和惟と話すことがある、という合図だ。
「うん」
 結局、何も話してくれなかったけれど、いまは、というだけであり、拗ねる気持ちは少しも湧かない。さっきの拓斗は、いつか話すことを約束してくれている。

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