禁断CLOSER#105 第4部 アイのカタチ-close-

1.欲深なアイ -3-


 惟均に送られて、郁美がセッティングした居酒屋に着いたのは、約束の七時半ちょっとまえだ。惟均は那桜と拓斗をおろすとそのまま帰った。
 新年会と名目がついた飲み会のメンバーは、云いだした郁美、勇基、翔流、立矢、那桜と拓斗、そして、なぜか小森美鶴がいる。
 “なぜか”というと彼女は怒るかもしれない――いや、ちょっと口を尖らせてみせるだけだろうか。美鶴が怒るという構図は想像がつかない。郁美とは違った意味で、屈託がないひとだ。
 メンバーとしてはあと一人、和惟がいるが、まだ仕事中で終わり次第、顔を出すという。
 この顔ぶれが常連となったのは、二年半まえの夏――那桜と拓斗の“結婚”祝いがきっかけだ。那桜と拓斗の誕生日が近かったし、お祭り騒ぎの口実として、やはり、郁美が云いだした。

 *

 那桜が自分と拓斗のことを郁美に打ち明けたときは、同棲を始めた四月から四カ月がたっていた。
 果歩とのことがあって、友だちという関係がどんなに頼りないものか学んだ。郁美がどれだけ那桜たちのことをはやし立てていたか、それを知っていても、実際問題となれば違ってくる。
 その四カ月の間、迷いと一緒に那桜のなかに同居していたのは、失いたくないという怖さだ。黙っていることも騙していることも同じように苦しい。これからさきも、だれかと友だちになろうとするたびにこんな葛藤があるかと思うと、憂うつで少しだけ尻込みする。
 そんな気持ちを愚かだと教えてくれたのは拓斗だ。
 七月、子供たちが夏休みに入ってはじめての日曜日、いつもの一族が集まる日に拓斗は絶えず傍にいた。主宰たちが本家の面々に挨拶に来るのは慣例化しているが、その間も拓斗は那桜を傍に置いた。その遠慮のなさは、拓斗の“覚悟”という気持ちがすでにあたりまえのことに変わっているように見えた。

『本当のこと、郁美に話していい?』
 あとで拓斗にそう訊いてみたら――
『そういうことをいちいちおれに訊く必要はない。それでだめになるなら、そういう付き合いだったってことだろ』
 と、果歩のときと同じで、拓斗は友だちを切り捨てることがごく簡単なことのように答えた。
 それだけなら那桜も怒ったかもしれない。ただ、拓斗の云い分からすると那桜の葛藤を承知していたというのが見えて、そんなふうに気づいてくれているといううれしさのほうが勝った。
 拓斗は情無く見えても、那桜の要求は概ね叶えているし、耳も傾けていて、あまつさえ那桜のことを見ている。それだけで充分なことだ。

 そして、堂々と、とまではいかなかったけれど、大学が夏期休校に入るまえの日、郁美に打ち明けた。
 郁美にあったのは、驚きと考えこむような険しさで、嫌悪感は見当たらなかった。もっとも、やっぱり、とか、よかったね、という郁美らしい楽観的な感想はさすがに聞けなかった。

 郁美が連絡をくれたのは翌日で――
『結婚はできないけど、男と女の関係でも、いまの日本じゃ罪にはならないんだよ。そういうことでいいんじゃない?』
 と、どこか気を遣うように云い、それから――
『だから今度の日曜、結婚祝いしようよ』
 と、自分が云ったこととまるで矛盾した提案をしたのだ。

 *

「実はね」
 那桜の隣に座った郁美が、もったいぶった声で注目を引いた。
 予約していた個室で飲み会が始まってすぐ、テーブルにはめいっぱい料理が広がっていたが、ぼちぼちとお皿が空になっていく。緊張といえば大げさすぎるが、常連でも雰囲気に慣れるまでにはちょっとした戸惑いを感じるというのはだれもがそうだろう。この空間に那桜が馴染んできた頃、やはり郁美もそうに違いなく、“実は”という打ち明け話をしたくなったらしい。正確には、“したくてたまらなかった”みたいな様子だ。
「郁美、どうしたの?」
 訊き返してほしいという案の催促に那桜が応えると、うふふ、と郁美はうれしそうにする。
「那桜たちを見習って、勇基と同棲することにしたの。ね」
 郁美は真向かいに座った勇基を見て首をかしげる。勇基は、「ああ」とうなずいて、ちょっと照れたように笑った。

 このふたりは高等部に入ってまもなく付き合い始めているから、もう八年間、一緒にいる。それにもかかわらず、特に勇基からは初々しいという印象を受ける。
 素直で露骨な勇基の愛情表現はうらやましくもあるけれど、そのときはわからなくてもあとになってわかるという拓斗の表現のしかたは、けっして勇基に負けていない。

「同棲? 結婚じゃないの?」
 口を挟んだのは、那桜の斜め向かいにいる美鶴だ。

 美鶴の屈託のなさはある意味、頑固さにも繋がっているらしく、いまだに那桜と拓斗が兄妹だということを疑っている。ここにそろっているだれもがそう主張していても、だ。拓斗が、父親に確かめてみればいいと云えば、本当にそうだったらまずいだろうからとへんに律儀だ。
 和惟は、美鶴のそういうところを那桜と似ていると云う。
 角度を変えて考えれば、あの写真スタジオのスタッフが従兄妹と勘違いしたことと同じで、美鶴は無意識に常識を見いだしたがっているのかもしれない。最初にインプットされた、和惟の両親それぞれを通したいとこ、ということのほうが受け入れるのにたやすい。
 那桜としては複雑だ。郁美は、調べてまで罪じゃないと取り成してくれたけれど、非常識であることには違いないと警鐘を鳴らされているみたいに感じる。
 美鶴がこの仲間に加わることになったのは、郁美の号令で会うようになった半年後――ちょうど二年まえだ。立矢が口を滑らしたことに因る。美鶴からパーティの同伴に誘われた日がちょうど飲み会だったのだ。美鶴はパーティそっちのけで、強引に自分も行きたいと迫ったらしい。立矢はすまなさそうにしていた。
 拓斗のことはあきらめたとはいえ、まだ吹っきれていないのかもしれないと不安になったものの、いまでは美鶴に悪意がないことはわかっている。

「美鶴さんて変わってる。とにかく、同棲、なの」
 郁美が呆れたように首をすくめながら同棲を強調した。那桜の正面で翔流がわずかに身を乗りだす。
「なんで結婚じゃないんだよ。一緒だろ」
「わたしがまだ勉強中だから。ホント、時間がなくて挫けそうになるときあるから、卒業したら結婚するって目標にしてる」
「そういうとこ、郁美さんの偉いところだな」
 美鶴の向こうから立矢が口添えをした。
「次期社長に認めてもらってると前途洋々かな。ありがとうございます。勇基も仕事に追われてる感じだし、会える時間がないのよね。だから、わたしにとって同棲は一石二鳥って感じ」
 大学時代に宣言したとおり、仕事をしながら専門学校に通っている郁美にとって、この飲み会は楽しみになっているのだ。
 郁美はよく自分のことが考えられている。那桜も見習いたいところだ。拓斗は、那桜のことに関して二度も――高等部のエスケープと派遣会社のことで振りまわされているから、郁美に対しては警戒しているけれど、当の郁美は気にもかけず、そういうところも含めて那桜はけっこう彼女のことを尊敬している。
「グレイスの社長、郁美さんのこと、褒めてたよ」
「え。古雅社長って学生のことまで気にかけてあるんですか」
「優秀な子は耳に届く、ってね。引き抜きたいって云ってたな」
 立矢の言葉を受けて、「がんばります!」と郁美は軽快に喜び勇んで答えた。

「古雅社長といえば、有沙さん、このまえパーティで会ったとき具合悪そうだったわ」
 美鶴が怪訝そうにして立矢を見つめた。
「ああ。子供できたって云ってたな」
 立矢は素っ気なく答えた。美鶴が驚いていれば那桜も驚いている。
「そうなの? DVだって思ってたのに、衛守さんが云ったとおり趣味だったってことかしら。子供ができてしまうなんて」
 立矢が吹くように笑う。
 美鶴の驚きと那桜の驚きは、意味が微妙に違っている。那桜にはどうにも、有沙イコール母親というイメージは浮かばない。
「仲が悪くても子供はできるらしいよ。もちろん、単独でできるはずないし」
「有沙さんと古雅社長、仲が悪いの?」
「さあね。おれが云ったのはたとえの話」
「いずれにしろ、古雅社長にも後継ぎが必要だ」
 立矢と美鶴の会話に拓斗が口を挟む。その口振りから拓斗が知っていたのではないかと那桜は思う。

「なんだか極端だわ」
 美鶴は独り言のようにため息混じりでつぶやいた。
「何がだよ」
 翔流が遠慮なくため口で問い返す。
「有沙さんと古雅社長は一方的な主従、郁美さんと勇基くんはべったり楽しそう、那桜さんと拓斗さんは引き裂けないって感じ」
「極端、じゃなくて、人それぞれ、だよ」
「美鶴さん、まだ意中の人、見つからないの?」
 立矢の次に、郁美が可笑しそうに問いかけた。
「なるべく出かけるようにしてるんだけど、“趣味”って人には出会わないわ。わたしは、立矢くんみたいに後継ぎを期待されてるわけでもないから気楽だけど」
 美鶴はそう云って、からかうように立矢を見る。
「わお、香堂先輩、もしかしてお見合い話とかあるんですか」
 何がほのめかされたのかと那桜が思っていると、郁美がさっそく核心を突いた。
「お見合いとまではいかないけど、話はあるよ。当面は仕事に集中したいって避けてるけど。継ぐのはラクじゃない」
「理由はそれだけかなぁ」
 郁美が思わせぶりに云う。伴って、立矢の視線が那桜へと向いてくる。その眼差しも思わせぶりで、那桜は目を少し見開いて、それから隣を仰ぐと拓斗とまともに目が合う。郁美のほのめかしを気づいていながら拓斗は素知らぬふりを決めたようで、すぐに視線を逸らすとビールの入ったグラスを手に取った。

「何があるの?」
 美鶴はやはり鈍感だ。それとも、那桜が自意識過剰でいるだけなのか。ついでに、拓斗が気にしている、というのは自意識過剰であってほしいと思う。
「何もないだろ」
 と、翔流が素っ気なく云ったとき、拓斗の携帯電話が鳴りだした。カーゴパンツのポケットから取りだした携帯電話を見ると、拓斗は立ちあがる。
「拓兄?」
「戻ってくる。急用じゃない」
 すぐに答え、拓斗は席を外した。

「なぁんか」
 拓斗の背中を見送り、戸が閉まると、背後で郁美が含み笑いながらつぶやいた。那桜は躰を正面向けて、隣の郁美を見やった。
「何?」
「あれ」
「あれ?」
「ケータイのストラップって高等部のときに那桜があげたんでしょ。一途だなって思って」
「面倒くさいだけかも。わたしがうるさくするし。もともと何もしてなかったんだよ」
 郁美の発言はうれしくて、一方で、自分が云ったことは道理に適っている。
「この七年、ケータイ変えてないってことはないでしょ。だったら、わたしのほうが正解」
「郁美さんの勝ち」
 美鶴がおもしろがって郁美の加勢をした。

 ストラップをプレゼントしてから拓斗が携帯電話をかえたのは一年しかたっていない頃だったから、当然のように那桜がうるさいからといってしてくれていた。それからかえること二回、そのままストラップはぶらさがっている。那桜のイニシャルがぶらさがっているという光景はあたりまえのようになっていたから、その意味に気づかなかったようだ。
 やっぱり、拓斗の表現はさりげなさすぎてそのときにはわからないけれど、いまみたいにじんわりと広がっていくうれしさを与えてくれる。

「ありがと、郁美」
「若干、おもしろくなさそうな男子がいるけどね」
「なんだよ」
 翔流がぶっきらぼうに一言を発したとたん、笑い声が満ちた。
 そのとき、戸が開く。拓斗に続いて、和惟が入ってきた。スーツという仕事着のままだ。
「なんだ? 外まで笑い声が漏れてる」
 空いた席――拓斗の隣に座りながら、和惟はだれにともなく問いかけた。
「那桜がモテる話」
「郁美」
 郁美のことを尊敬はしているけれど、ざっくばらんすぎるのはいささか勘弁してほしい。
 案の定、拓斗の背中越しに向こうを見ると、スーツジャケットを脱ぐ和惟と目が合って、警告するように顔が少し傾く。
 拓斗との間が確かになっても、和惟にとっては相変わらず、ほかを“認める”ということにはならないようだ。もっとも、だれかと友人関係を築くのは那桜個人の特権で、和惟に認めてもらわなければならないということはない。
「衛守さん、やっぱりウーロン茶?」
「ああ。車で来てる」
「堅実。いつか酔っぱらわせてみたいけど」
「ガードは二十四時間営業だから一切、飲まないんだよ」
 和惟の答えに郁美はため息で応じた。
 頼んだウーロン茶が来ると、あらためて乾杯をした。

「広末、セントラルタウンのハイタワーはどうだ?」
 しばらく和惟を中心に会話が巡ったあと、拓斗が翔流に声をかけた。
 個室内は程よくお酒がまわって、雰囲気が高揚している。拓斗が問いかける声も、生真面目に訊ねるというよりは、趣味の話をしているように砕けて聞こえる。
「予定どおりですよ。設計もできあがってきたし、拓斗さんのとこに間に入ってもらっているし、スムーズに進んでると親父が云ってる」
「パパの会社と拓斗さんのところは十年の付き合いだし、パパは拓斗さんの云いなりって感じだから」
 翔流が答えたのを引き継ぐように美鶴が口を挟んだ。拓斗はかすかに首を振る。
「それは小森社長に失礼だ。アドバイスしているにすぎない」
 と云いつつも、実際は美鶴のほうが的確だろう。

 有吏は様々なことで、水面下で働きかけていることが多い。これは、勤め始めてからわかったことだ。もっとも、裏方で動くというのは職業柄ともいえる。
 セントラルタウンは十周年に向けて、隣接する土地の買収を進めつつ、いまある五十階建てのビルとは別にもう一つ、さらに超高層という円筒型のビル建設を目指している。さきの商業施設をメインにしたものではなく、今度はオフィスがメインだ。
 そこで管理会社であるセントラルマネジメントと広末建設が縁を持ったのは偶然か、有吏の意図か、取引が成立した当時のことは知らないから那桜は疑いたくなる。
 引っ越したあと、翔流とそのことを話したときにはじめて那桜は知ったのだが、いま住んでいるマンションは広末建設が手掛けたものだ。翔流から聞いたことを拓斗にいえば、有吏本家のリフォームは、裏分家の分家という築城(きずき)工務店がやったのだが、その実、広末建設を通してそういうことになったというのだ。よく聞けば、築城主宰は広末建設の重役におさまっているという。
 ずっとまえ、和惟が大手ゼネコンの倒産に関して翔流を脅すことがあったけれど、有吏はすでにそうするつもりで広末建設に一族を忍ばせたのかもしれないと那桜は勘繰っている。
 ただし、素直に考えれば、セントラルマネジメントは松井商社という大きな組織の一つであり、広末建設もスーパーゼネコン五社の一つであり、大手同士、取引があってもなんらおかしくない。
 そんなことよりも、取引の成立が公になると、翔流と美鶴という当事者の子息令嬢がともに、この飲み仲間という少人数のなかにいることに大いに盛りあがった。郁美がそれを口実に飲み会を開いたのはいうまでもない。翔流が美鶴への言葉遣いに遠慮をなくしたのもそれがきっかけだ。

「けど、古くさい松井がここ十年でぐんと伸びて落ち着いたのは確かだ。有吏コンサルのパフォーマンス力の高さがわかる」
 立矢が云うと、翔流は――
「だな。親父もそう云ってる」
 と相づちを打った。そして、「けど」と続けた翔流は、拓斗と和惟を見比べた。
「なんだ?」
 和惟が問う。
「ちょっとした不協和音が聞こえてる」
「どういうことだ?」
「松井が伸びている陰で、蘇我がうまくいっていない」
 拓斗の問いに答えた翔流の言葉は奇妙な沈黙をもたらした。

BACKNEXTDOOR