禁断CLOSER#104 第4部 アイのカタチ-close-

1.欲深なアイ -2-


 那桜が拓斗の躰におさまると、会議室に入ったときは何かを考えこんでいそうだった顔が、喘ぐような苦しさを垣間見せる。
 全体重を預けた那桜を抱く躰がわずかにこわばった。

 このところ、いや、最近に始まったことではなくて、たぶん二年くらいまえからたまにこういう拓斗を見かける。
 何かに気を取られているようで、反対に、那桜の周辺をやたらと気にする。簡単にいえば、神経質、だ。
 どうかした? と、ついさっきのように何度か訊いたことがあるけれど、拓斗が答えることはない。
 それが、那桜と拓斗のことに関係するのなら気になるところだが、目下、最大の障害になり得るのは一族しかいなくて――遠い他人だったらいくらでもごまかせることで、つまり、その一族のどこからも不安要素は聞こえてこないから、深刻に気にすることはない。
 第一、一族のなかに、いったん認めたことをひるがえすような争い事を好む人はいないと拓斗は云う。那桜もまた、これまでに仲違いした一族を見たこともない。
 拓斗に訊ねるのは口癖みたいになっているけれど、実のところ、那桜は放っておくことにしている。
 そうするのは、うだうだした感情が面倒くさいこともあるけれど、それよりは、あからさまに秘密にされているというのが多くて、切り捨てることに慣れているからだ。
 職場だというのに椅子に座った拓斗にのっかって抱きつくという、子供っぽく甘えた那桜を退けることなく、拓斗が躰を支える。それだけで充分だと思うのは、考えなさすぎだろうか。

 ともかく、せっかく拓斗が那桜のはしたなさを受け入れたのだから、有効活用しない手はない。生理も終わってやっと抱いてもらえるというときに、飲み会でお預けになるなんてがっかりだし、よりによって今日を選んだ、云いだしっぺの郁美を恨みたい。せめて、抱きしめられて飢餓感を緩和しておくのだ。
 那桜は拓斗ののどもとの(くぼ)みに額をすり寄せた――そのとき。

「拓斗」
 いきなり隼斗の声がして、那桜は拓斗の上でもがく。おりようとしたのに拓斗の腕に引っかかってうまくいかず、那桜は不自然な恰好で落ちかけた。小さな悲鳴と一緒に、足先がテーブルを下から突きあげ、ガタッと音が立った。
「那桜」
 すかさず、拓斗がウエストをつかんで那桜を支えた。
 転がらなくてよかったと思う一方で、那桜は床に足をついてまっすぐ立ちながら、うっかり入り口を見やった。隼斗と目が合ってしまってばつが悪くなる。
「何をやってる」
 場をわきまえない行為のことなのか、テーブルを蹴りあげたことなのか、隼斗が呆れていることは間違いない。
「ごめんなさい。貧血で倒れそうだっただけ」
 生理中の具合の悪さを引き合いに出して弁明をしてみた。
 ちらっと見下ろした拓斗は鼻で笑う。隼斗に目を戻すと、首を横に振るというしぐさで那桜の嘘を見抜いていることを示す。
「貧血なら謝る必要はない」
 その云いぶりは、見逃してくれたということだろう。

 隼斗の会社で働き始めて約四カ月。働きたいと拓斗に頼んだときは、隼斗が社長であり、ほぼ毎日、顔を合わせることは避けられないというところまで頭がまわっていなかった。
 わくわくするだけしていざ入社という日、拓斗と一緒に出社して、駐車場に隼斗の車を見たとたん、那桜は一瞬だけすくんだ。
 拓斗についていけ――とその言葉は容認を示しているのにもかかわらず、気を遣って遠慮しなければならない。一度隔たりを感じてしまえば、そんな窮屈さがゼロになることはないのだ。
『おまえが云いだしたことだ』
 鋭く那桜の不安を察した拓斗は取り合わず、そう云わせたことでかえって自分の単純ぶりがクローズアップされて、那桜は『大丈夫!』と強がった。
 そのあと、那桜は派遣先に行っていたときの感覚を思いだしながら、ためらいがちに『社長、よろしくお願いします』と初っ端の挨拶を口にした。隼斗は那桜からの“社長”という呼びかけを聞いたとたん、不愉快そうに顔をしかめたのだ。
 那桜が何かとおののくと――
『畏まることはない』
 と云い、続けて意外にも、家と同じでいいと発せられたことが、那桜を驚くほどほっとさせた。

 いまもそうで、那桜が首をすくめると、隼斗は手に負えないといったふうにまた首を横に振った。
 会社にいると隼斗と喋ることも多くなって物怖じすることもなくなり、さっき謝ったことも畏れからきたことではなくて、ただ悪戯が見つかった子供のような気分で口にしただけだ。不思議なことに、家ではなくここで、やっと父親と娘という普通の関係になれた気がしている。

「なんですか」
 拓斗は動じる様子もなく隼斗に問いかけた。
「蘇我孔明はおまえと惟均(ただひと)に任せる」
 隼斗が口にしたとたん、拓斗は異様なほど顔を険しくするといった表情を見せた。
 那桜がびっくりして見つめていると、気づいたのか、我に返ったように拓斗はクローザーに戻った。
「まさか、仲介家と打ち合わせて、あらぬことを復活させようとしているわけじゃないでしょう?」
 拓斗が念を押すような云い方をすると、隼斗の目がちらりと那桜を向く。
「解決していることをつつくようなことはない。あらゆる可能性を探っている。拓斗、おまえもそうだろう。いいな」
 拓斗は口を固く結んだ。なんの話なのか那桜には皆目わからないが、拓斗が口答えできないような、効果的な一言を隼斗が口にしたのはわかった。しかも、自分も係わっていることを那桜は察した。
 隼斗は、「さきに帰る」と云い残して背中を向けた。あとには、むっつりといった気配が室内に充満した。

「拓兄、蘇我孔明ってだれ?」
「蘇我グループのお坊ちゃんだ」
 答えた声はつっけんどんに聞こえた。呼称はどこか皮肉っぽい。
 やっぱりめずらしい。拓斗の雰囲気がずいぶんと和らいできたのはだれもが知るところだが、いまみたいな、不愉快な不機嫌さではなく、拗ねたような不機嫌さは見たことがない。
「蘇我グループってもと財閥の? その人が何?」
「来週からうちに来る」
「うちって……会社のこと? 親戚なの?」
「そんなわけないだろ」
 知らない一族がいたのかという那桜の驚きは、強硬な否定の言葉であっさり一蹴され、次には別の驚きが湧いた。
「裏のことがあるから、親戚しか雇わないんだと思ってた」
「そのとおりだ」
「じゃあ、どうして?」
「父さんが云ってただろ。可能性、だ」
「意味わからないんだけど」
「わからなくていい」
 拓斗と会話はできるようになっても、それが成立しているかというと疑問だ。
 那桜の知りたいことを拓斗が退けるのは、子供扱いしているのではなく、守ろうとするゆえのことだといまでは知っているけれど。
「拓兄とお父さんの話、わたしにも関係あることみたいだった。わたしにも話しておいたほうがうまくいくってこと、あると思わない?」
「おまえの場合、それがよけいなことに発展する可能性のほうが高い」
 恨めしくも、拓斗は那桜が反論したところで空しいほどの急所を突いてくる。
 それなら。

「蘇我孔明さんていくつ?」
「二十二だ。今度、大学を卒業する」
 なんでそんなことを訊く、といった様だ。那桜はにっこりしてみせる。
「よかった。後輩ができるんだ」
 案の定、拓斗は気に喰わないようにそっぽを向いた。そうした気持ちを隠すためか、拓斗はデスクに置いたタブレットと書類をまとめて手にした。話は終わりだといわんばかりのしぐさだ。
 もう少し揺さぶりたくなって、那桜は拓斗が持ったものを指差した。
「会社のはそうやって書類とかあるし、家に持って帰ってくることもあるし、記録に残ってるけど、裏のことってないよね?」
 拓斗は那桜に目を向けてほんのわずか首を傾けた。
「なんのために裏の仕事があると思ってる? ばれてはまずいことばかりだ。残すぶんだけ危険を孕む。依頼者にとっても請け負う側にとっても何も残さないほうが利口だ」
「そう? じゃあ、蘇我孔明さんが来ても問題ないんじゃない? 新鮮な感じでうれしいかも。わたし、大学を卒業してから、よその人と新しく知り合うってこと、あまりないから」
 煽るためばかりではなく、本心でもあるのだが、拓斗は喋る気をなくしたように口を結んだ。那桜は、立ちあがった拓斗を覗きこむ。
「怒った?」
「なんで怒らなきゃならない」
「やっぱり怒ってる」

 拓斗は目を細めて威嚇するが、那桜には無効力だ。拓斗の両手がふさがっていることをいいことに、那桜はその胸にぶらさがったネクタイをつかむ。引っ張ると、那桜の力でも拓斗が身をかがめてくる。同時に、那桜は爪先立った。
 舌先で拓斗のくちびるを舐め、それから吸いつくようなキスをする。ちょっとした停留時間を経て離れた。
「ネクタイって便利」
 見上げて笑いながら云うと、これ見よがしに拓斗はくちびるを手の甲で拭った。
「ひどい。和惟がそういうの、礼儀を欠く行為だって云ってた」
 拓斗はかすかに眉間にしわを寄せ、軽く首をひねった。やっぱり気に入らないといった感じだ。
「べったりつけてるからだ」
「身だしなみ!」
「気取らなきゃならない相手がいるのか」
「たまに出かけるときくらい、うんとお洒落にしたいの。仕事が終われるんだったら約束まで時間あるし、着替えに戻っていい?」
「好きにしろ」
 拓斗はため息混じりに許可した。

 会議の間に、外は夕闇から夜に変わっていた。
 一階におりると、居残っているのは惟均だけだった。拓斗が三十分後の迎えを云いつける。デスクを片づけて“お疲れさま”の挨拶を交わしたあと、コートを羽織ってからふたりは会社をあとにした。
 拓斗は右手にダレスバッグを持っていて、那桜は空いた左手に右手を忍ばせた。会社のまえを通る道路を横切り、歩道をマンションへと向かう。
 ふたりの住まいがあるマンションと会社の間は、徒歩で十分と近い。帰る時間は違うことも多々あるが、出社時間は同じだから同伴出勤はほぼ常習化している。那桜には願ってもいないことだ。

 家を出るに当たって、拓斗が何を優先したかといえば、やはり那桜が手の届く場所にいることだったのだろう。マンションの最上階は、もともと会社が買いあげていたという。遠方から来る裏一族のために用意された部屋だ。直接、有吏本家に来ればいいものを、仕事という体裁をつけるためらしい。繋がりを悟られたくないとはいえ、那桜からすれば徹底しすぎだと思う。
 そこまで警戒するほど何があるのだろう――と考えたところで、いまさら、もう一つの一族とよっぽどの因縁があるのだと思いついた。ここ一年のさらなる窮屈さは、まさに、その一族と関係があるのだ。それしかない。

 大学を卒業してしばらくたった頃、何もすることがなく、出かけることもなく、“退屈”という言葉を連発し始めた那桜に、フルタイムじゃなくてちょっとした仕事をすればいいのに、と郁美が云った。
 出かけないというのは、厳密にいえば、拓斗が明確に外出制限をしたわけではなく、ただ、那桜がなんとなく慎んでいただけのことだ。そう自分で自分を束縛していることに気づいて、やってみることにした。ただ、どんな仕事がしたいというこだわりもなく、結果、郁美の提案を受けて派遣業に登録した。
 もちろん、拓斗は了解するどころか渋ったけれど、そこは強行突破した。仕事という以上、ある程度は安全が確保された管理下にいる。夜にその日あったことをお喋りすれば、拓斗も気がすんだようだった。
 それが去年の四月、突然、行くなという絶対のお達しが出て、登録も問答無用で抹消された。

 逆らえない雰囲気で、それまで許されていたことを考えれば、きっと重大な理由が発生したに違いない。穿(うが)てば、那桜が知らぬ間に多大なる失敗をしていて、それをもみ消すがために、あるいは触れさせないために、那桜を遠ざけたのかという疑心暗鬼にも陥った。
 ずっとまえもこんなふうに、自分がおかしいのかもしれないというへんな不安を感じたことがあった。
 そう云ってみると、考えすぎだ、と拓斗は薄らと笑った。ちょっと可笑しそうで、那桜は安心させられた。

「拓兄、これでいい?」
 マンションの十五階にある住み処に帰り、二階のクローゼットルームで着替えると、寝室にいた拓斗に見せた。ふざけてモデルみたいにくるっとまわると、ベルベット生地の膝丈ワンピースがふわりと浮く。
「どれでもいい」
 無関心の感想にはいつものことながらがっかりする。だから、シャツにカーディガン、そしてタイトなカーゴパンツというラフな恰好に着替えた拓斗が、決まりすぎだ、と見とれても那桜はそれを口にはしない。
 かわりに抱きついて確かめる。
 ちょうど耳に届く鼓動が深く応じ、躰が少しこわばって、次には躰の中心がわずかに反応を伝えてくる。

 何年たっても拓斗の反応は変わらなくて、だったら『どれでもいい』はどうでもいい。
 断然、丸裸の自分を気に入って受けとめてくれていることのほうが重要だ。
 セックスのことばかり考えている、と思われるのは少し心外で、ただ触れられていると安心する。
 兄妹だから、そうすることにそれだけの気持ちがある、と重大な意味が潜んでいる。それだけのことだ。あるとわかっていても不安がゼロになることはない。兄妹だから。

 抱きついたまま顔を仰向ける。
 キスして。
 それが伝わると信じて口にはしない。拓斗は少し顔を下げてためらうように止まり、それから目で追えないくらい素早くくちびるがおりてきた。
 キスは穏やかでも甘くもなく、奪うという意思が見える。
 このあとの約束は反故にしてもいい。そんな誘惑が芽生えたのは那桜だけなのか、拓斗は唐突にくちびるを離した。ただし、やっぱりためらうように、息遣いのはっきり届く距離で留まる。そして、くっついたときと同じくらい素早く離れた。
「口紅が台無しだ。直してこい。惟均が待ってる」
 さっきはべったりつけすぎだと云ったくせに。そう云うのがなんらかのごまかしに思えたのは気のせいなのか。
「拓兄は拭いたほうがいいかも。ピンク、似合わないよ」
 云い返すと拓斗のくちびるが歪んだ。ちょくちょく見られるようになった、かすかだがはっきりそれだとわかる笑った顔が真上にある。伸びあがってもキスするにはあと少しというところで届かず、かわりに舌先で触れた。

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