禁断CLOSER#103 第4部 アイのカタチ-close-

1.欲深なアイ -1-


 拓斗は顧客との電話を終えると席を立ち、二階にある会議室へと向かう。階段をのぼり始めるのと同時に、軽く弾む足音を聞きとった。方向を折り返す踊り場まで来たところで、トレイを胸に抱えた那桜と鉢合わせする。
「お茶、こぼしてないよ」
 真正面で、うれしそうにした顔が拓斗をまっすぐに見上げる。
 そう云うのは、以前、同じように会議があった際に自らお茶を煎れると云い張ったすえ、階段を一歩踏み違えて転び、果てには火傷までしそうになったという失態があるからだろう。
「ペットボトルを落としたところでこぼれることはない」
 那桜に受け合い、薄く笑って首をひねると、見下ろした顔はさらに綻んだ。
「うん。会議、長くなりそう?」
「予定どおり、一緒に帰れる程度には終わる。うちの会議が無駄に長くないことは知ってるだろ」
「今日は戒兄も来てるし、だから議題はいっぱいあるのかなって思って」
 拓斗は、かすかに首をすくめた那桜をしばらく眺めた。すると、今度は不思議そうに、折れそうに細い首をかしげた。
「何?」
「気が利くようになったと思っただけだ」
「ほんと?」
「ああ。頼んだ資料、そろえててくれ」
 無駄話はこれで終わりだと云うかわりに、拓斗は仕事の口調に変えた。
「うん、わかった」
 階段をのぼろうと那桜を避けかけてすぐ、拓斗は止まった。
「あ。はい、わかりました」
 那桜は慌てて云い直すと、下っ端らしく一礼をして階段をおりていった。パンツスーツの後ろ姿を少しだけ見送り、拓斗は再び階段をのぼり始めた。

 那桜がいきなり、有吏リミテッドカンパニーで働けないかと云ってきたのは去年の夏だ。
 最初は何かの気まぐれだろうと、考えておくとだけ応じて取り合わなかったが、思いついたように訊ねてくる。拓斗が折れた恰好で隼斗に話を持ちかけ、十月から那桜が会社に来始めて四カ月めに入った。
 身内が同じ会社に勤めるというのは、働きにくい面があると聞く。ただ、有吏はもともとが親族会社だ。
 それでも、拓斗からすればその身内が那桜となると抵抗がある。
 無視できればいいものを……。
 拓斗は短く息をついた。

 それでなくても問題は山積している。あれからまもなく三年。蘇我との約定履行まで二年、接触ということを考えれば時限はそれ以下だ。一族の指針をはっきりさせる時機にきている。
 那桜を守るという観点では、ここにいることが最善のことでもある。
 大学を卒業後、しばらく家に独りでいた那桜は、ネットで勝手に派遣会社への登録をすませて、ある日突然、今日は仕事なの、と打ち明けた。拓斗が阻止しようとしたのは云うまでもなく、那桜もそうわかっていたからこそ当日まで相談しなかったのだ。
 だれの入れ知恵かはわかっている。真田郁美だ。
 なまじっか、拓斗とのことがあっても変わらない態度で那桜と接する彼女を、那桜から取りあげるわけにはいかない。あまつさえ、そこで反対した結果、無謀なことに発展しかねない。
 そう自分を説き伏せて、許し、一方、頭の片隅ではどうせ続かないだろうという目算もあった。
 それが、意外にも飽きることなく、失敗したと落ちこむことはあっても、むしろ、楽しそうにしていた。いまもそうだ。

 有吏の会社で那桜のやることといえば、ほぼ雑用と云っていいが、文句を口にすることもなく、それどころか、暇になると何かやることはないかと訊ねてまわる。
 どうせ暇潰しだろうと半信半疑だった伯叔父(おじ)や従兄弟たちも考えを改め、いまでは遠慮なく那桜に云いつける。
 やめさせる、ということに関しては拓斗ももうあきらめた。
 目の届くところで楽しそうにしているのならそれでいい――いや、それがいい。
 半年後は二十五になるという年齢を考えれば、那桜はまだ精神的に幼い雰囲気を持つ。それが閉じこめてきたせいと難じられれば、絶対の反論は無理だ。
 ふたりで暮らし始めた頃、わたしって拓兄のなかでいくつなのかな――と那桜は訊ねた。
 答えられない質問だ。
 憶えていないと嘘を吐いた、はじめての日にこの手に抱いた生まれたばかりの那桜。ひまわりの咲く夏の日、わがままを吐く那桜。留守番の夜、拗ねる那桜。暑さの残る秋の始まりの日、閉ざしたドアに挑んでくる那桜。忘れるべき地で、すべてだと訴えて縋ってくる那桜。
 すべてがいつでも心底から浮上してくる。だからこそ、明確な答えはない。
 共通して云えるのは、守りたがる衝動が制御しきれない、こと。それは絶えず拓斗に焦燥を生んでいる。

「遅れました」
 会議室に入ると、有吏リミテッドカンパニーに携わる表分家の矢取(やとり)家と仁補(にほ)家から主宰と息子二人ずつ、戒斗、そして隼斗という八人が席に着いていた。八畳ほどの部屋にあるのは、会議用のやたら面積の広い丸テーブルとホワイトボード、それにスクリーンだけで味気ない。
 ただ一つ生気を感じさせるのは、窓枠の天板に飾られている花だ。グラスにピンクのガーベラが一輪だけ挿す。那桜が来るようになって変わったことの一つだ。
 そして、もう一つ変わった最大の利点は、那桜と隼斗の関係がもとに戻る以上に改善していることだ。

『氷の川があるの。向こう岸に渡れそうだけど、どこか氷は薄くて割れちゃいそう。落ちたら、氷のなかに閉じこめられるから』
 那桜がおどけながら、実家のことをそんなふうに拓斗に打ち明けたのは家を出てまもなくのことだ。
 認められた、という事実は那桜には役に立っていなかった。
 拓斗に本心を曝したところで、那桜の気が休まる様子もなく、家で食事を一緒にしないかという詩乃の誘いも憂うつなようで、半ば無理やり付き添って行かないと実家に寄りつかない。
 それが、那桜自らの提案で解消された。
 入社初日、ためらいがちに“社長”と呼ぶ那桜に、『客のまえでなければ家と同じでいい』と隼斗は云った。本来の隼斗なら逆のことを云うはずだ。那桜もそうわかっているからこそ、隼斗に対する構えた気持ちを取り払うことができたのだろう。
 時が解決する――と望みを持つ一方で、自らのためではなく、これでよかったのか――自分にそう問うことがあった。いや、いまでもどこかにその気持ちは残っている。おそらくは、消えることはないのだ。

「始めよう」
 那桜が持ってきたペットボトルを開け、一口お茶を含んだところで隼斗が開始を告げた。
「まずは高登(たかと)不動産だ。戒斗、了朔(りょうさく)、どうだ?」
 逸早く仁補了朔が隼斗に顔を向けて反応した。
「僕から報告します。後継者はこのまえ示していたとおり、福岡支社の吉川部長が適任です。彼は有吏への依頼者同様、ワンマン経営から高登をなんとかしたいと考えています。吉川部長には自分の会社を潰したという経験もありますから、高登で再び、としたくない思いは強く、それを避けるべく模索しているようです」
「吉川部長は知ってのとおり、有吏がバックアップする貴刀(たかとう)グループの後継候補、吉川紘人(ひろと)の父親でもあり、人格においても問題はありません。高登社長の息子、高橋州登(しゅうと)からは協力を取りつけました。万全です」
 了朔に続いて戒斗が報告すると、一様に皆がうなずいた。
「今期決算後、高登不動産の件は片づけよう」
 隼斗の発言で決着がつき、また次の議題へと移る。滞ることもなく、報告と今後の対策を確認するという会議が続く。

 一時間半近くをへて、会議はお開きかというとき――
「蘇我の息子の件だ」
 と、隼斗はおもむろに切りだした。
孔明(こうめい)の依頼のことですか」
 わずかに身をのりだすようなしぐさと同時に、戒斗が首をひねってさきを促した。
「ああ。受け入れることにした。来週からだ」
「危うさを(はら)んでいるのはわかってるんですか」
 拓斗は、思ったのと同時に口にしたかもしれない。
「この会社で働くとしても、蘇我孔明が有吏の裏を知ることはない。表に出るほど裏であることが隠れる――戒斗がそう云うのと同じだ。“暗の一族”がまさか蘇我を、あまつさえ、頭領の息子を内部に入れるとは思わないだろう」
 戒斗が音楽をやることを快く思っていなかった隼斗は、その考えを捨て去ったと示すかのように、戒斗が以前、口にした云い訳を引用した。
 隼斗が孔明の突飛な依頼を前向きに考えていることは知っていたものの、拓斗にとってその結論は量りかねる。
 そんな拓斗と違い、戒斗はため息をつくも、どこか納得したようにうなずいた。
「三月の大学卒業までは変則勤務になると思うが、どうだ?」
 隼斗はテーブルをぐるりと見渡した。
「会社の密事を知るコンサル業である以上、蘇我グループとの利害関係を考慮する必要はあるかと思いますが、異存はありません」
 隼斗に答えた矢取主宰の発言に、うなずくという反応ばかりのなか、拓斗だけがなんの意思表示もあらわさず、ただ内心でため息をついた。
「今日は終わりだ」
 隼斗をはじめ、だれもが速やかに会議室をあとにする。拓斗と戒斗だけが席も立たずに残った。

「気に入らないみたいだな」
 戒斗の第一声はそれだった。おちょくるようなイントネーションだ。
「父さんにしろ、少なくとも諸手を挙げて歓迎してるわけじゃない」
 拓斗が遠回しに応じると、戒斗は呆れた様で首を振りながら笑った。
 戒斗の余裕は、蘇我孔明と実際に会って知っているからだ。
「叶多にくっついてくる奴だ。心配はいらない」
「叶多? 信頼度が高いな」
「じゃなくてどうするって話だろ。信頼ってのはあとからついてきたもんだけどな。情けないことを云えば、叶多には動かされてる。おれ自身、いまだにそうなる訳がわかってないかもしれない。確かなのは、叶多がいなかったら蘇我との接触も、延いては曾じいさんが図ったことは結実しなかったかもしれない」
「これまで動いてきたことで、父さんが約定の破棄を一決したのは確かだろうな。去年の夏、おまえがイギリスに行っている間、叶多を有吏家に預けたのは正解だった」

「おれも、もともと約定の破棄は考えてたことだった。けど、父さんの考えに一石を投じたのは、拓斗、おまえが発端であっておれは後押ししてるだけだ。まだガキだった頃、那桜に対しておまえが必要以上に甘やかしていたのを見てきた。ひまわり畑で那桜がいなくなったときの必死さも知ってる。聞きわけのいいおまえが、わがまま云ってドクターヘリにまで乗りこんで那桜を離さなかった。那桜が退院した夜に何があったか知らない。けど、何かがあったんだろ。おまえが変わるくらいに。とにかく、それが那桜と関係していることは確かだ。そういうことが土台としてあっても、おまえと那桜のことをはじめて聞かされたとき、戸惑ったのは事実だ。けど、まえにも云ったとおり、おれはこれが最善だと思ってる」

「……最善、か」
「なんだ」
「いや。……おれがそう断言できる日がくるのか、気が遠くなったってところだ」
 拓斗が薄く笑うと、戒斗は驚いたように眉をはねあげる。
「めずらしいな。ちょっと砕けてきたかと思えば弱音か」
 弱音、という言葉に眉をひそめ、拓斗は首をひねってそれをはね除けた。
「絶えず警告されている感覚がある」
「どういうことだ?」
「俗に云う、嫌な予感、かもしれない」
「予感?」
 それは、すべて緻密な下調べに基づいて結論を見いだすという有吏の人間としては、考えられない言葉だ。拓斗がそう気づいたときは遅かった。
 戒斗は再び驚いたふうに肩をそびやかし、口を歪めた。
「予感、じゃなくて、怖い、だろ」
 思ってもいなかった言葉が戒斗の口から発せられた。
 しかめ面をしたかもしれない。戒斗は拓斗を見ながら、息をつくようにかすかに声を漏らして笑った。
「拓斗、おれも同じだ。認めたほうがいい。でないと、バカげた行動をとることになる」
「教訓か?」
「そういったところだ」
 何があったか知らないが、戒斗は怖いと認めながら笑う。余裕に見えた。

「戒斗、有吏はどうするべきだと思う?」
「そう問うってことは、蘇我グループの乗っ取り(テイクオーバー)だけじゃ終われないってことか」
 戒斗の口ぶりもまた先刻承知といった様で、つまり、拓斗と同じように有吏の在り方についても変化を要すると考えているのだ。
 拓斗は小さくうなずいて口を開いた。
「インフラがこれだけそろってると、裏の業はかえって動きづらくないか」
「だな。情報がたやすく入ってくる反面、情報を抹消するのが難しくなってる」
「考えがあるのか」
 個人的なことではなく、一族の今後にかかってくるだけにあらゆる意見を考慮しなくてはならない。そう思って訊ねたわけだが、戒斗はあっさりと首を横に振った。
「いや、これといって確かなものがあるわけじゃない。ただ、曾じいさんがなんらかをこの時代に託したってことははっきりしてる」
「昭和の決着か」
「たぶん、な。有吏が先手を打つ」
「ああ。まず約定のことだけでも次の集結の日には決定させたい。テイクオーバーはもういつでも成立する」
「それまでになるべくさっきの答えを出すべきだな」
 戒斗は互いの意思確認をするようなトーンで云いながら立ちあがった。
「明後日の食事会は来るんだろ」
「ああ。叶多が衛守家ははじめてだって楽しみにしてる。じゃあな」
 軽く手を上げて会議室を出ていった戒斗を見送ったあと、拓斗は息をついた。

 戒斗は何事も、(おきて)の番人である八掟(はちじょう)家の長女、叶多中心でまわっているような云い方をする。そうしてもおかしくないほど、有吏一族への叶多の貢献度は高い。
 戒斗と叶多は、戒斗のデビューをきっかけにして再会を果たし、それからまもなく――拓斗と那桜が家を出てから五カ月後には、叶多が高校生ということをそっちのけに同棲を始めた。
 叶多が十八歳であったことを考えると――十七歳だった那桜を犯したという、拓斗のわだかまりはまだ癒えることがなく――拓斗が責められた義理ではない。
 戒斗たちが同棲を強行したことは結果的に良好だった。
 当初、隼斗は約定について考えを改めたわけではなく、拓斗と那桜の代行を戒斗と叶多に求めた。
 八掟家の現主宰は、若き頃、有吏が決めた縁定(えんさだめ)に逆らったすえ外に子供を儲けた。結局は、女が身を引いて縁定は履行され、事なきを得たが、その汚名は帳消しにはならない。約定婚の候補として、白羽の矢はまず八掟家に立った。
 戒斗が云ったとおり、叶多の周囲は自然と動く。何がそうさせているのか、偶然なのか必然なのか、蘇我までをも引き寄せて動かす。
 そのことで、隼斗の考えは変わっていった。蘇我を内部から攻略していく。そういう方向性を見いだした。
 それでうまくいくなら、それが最善策だ。

 ――最善。
 その言葉をつぶやいたとたん、拓斗の思考はまた逆戻りした。
 胸が痞えたような苦しさを覚えたそのとき、足音がしたと思うと、会議室のドアがノックされた。応じるまえにドアは無遠慮に開く。

 那桜は拓斗を見たとたん、顔に何が浮かんでいたのか、不思議そうに首をかしげた。
「拓兄、どうかした?」
 那桜はドアを閉めて、丸テーブルの奥にいる拓斗のところへとまわってきた。
「どうもしてない」
「そう? 六時すぎてる。今日はもうみんな帰る準備してるよ」
「約束までにはまだ時間がある」
「時間まで仕事する?」
 肩をすくめると、どうでもいいと受けとったようで、「じゃあ」と、那桜は子供が悪戯を思いついたような表情を見せた。
 横向きになったかと思うと、お尻を拓斗の腿に落として抱きついてきた。
「那桜」
「飲み会、遅くなるだろうし、だからちょっと禁断症状を緩和しておくの」

 くすっと笑い声を漏らしたあと、那桜は力を抜ききって躰をゆだねてくる。拓斗は支えざるを得なくさせられる。
 それが那桜の気持ちなら、はね除けるべきだという分別も失せる。
 拓斗のなかにある、消えないわだかまり。後悔とは違う。那桜の大事なものを奪った気がしている。
 せめて、おれにぶつかってくる那桜をもう傷つけたくはない。
 ――怖い。
 そうなんだろう。
 寒い季節にもかかわらず、やはり、ひまわり畑を目のまえに立ち尽くした一瞬が甦った。

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