禁断CLOSER#100 第3部 純血愛-out-

5.Start out -1-


 一般的な春休みに入った最初の土曜日、普段は閑静な有吏塾内が(にわか)ににぎわしい。明日の親睦会に備えて、迎賓用の邸宅では朝から掃除や手入れをしながら話し声が飛び交っている。
 二階にある浴室の掃除を終えて拓斗が廊下に出ると、建物の真ん中に位置した階段を軸にして反対方向にある、いちばん奥のドアが開いて那桜が出てきた。
 拓斗を見てちょっとびっくりしたように目を開いた那桜は、すぐさま駆けてきた。その間に、那桜の表情は驚きからうれしそうな様に変わる。
 あと半年もたたずして二十二歳になるという那桜だが、そんな露骨な感情表現を子供ととるか無邪気ととるか、紙一重のところだ。ただ、抑制してほしいかと問われるとしたら、返事をためらうかもしれない。

「拓兄、ちょうどよかった。あの部屋、照明が切れてるの。壁にくっついてるほう」
「わかった」
 短く答えると、那桜が首をかしげた。かと思うと、可笑しそうにしながら拓斗の顔に手を伸ばしてくる。那桜の手がこめかみ辺りの髪に触れた。
「泡、ついてた」
 ほら、というように那桜は人差し指を拓斗の目に近づけた。
「拓兄」
「なんだ」
「引っ越したら、お風呂掃除は拓兄がやってくれる?」
「なんでもかんでもおまえ一人にやらせるつもりはない」
「うん。なんだか、こういう抜けてるっぽい拓兄を見れたらうれしいかも」
 掃除が面倒くさいなどという言葉が飛びだすかと思いきや、まったく違っていて、拓斗からすればさらに詰まらない理由に思えた。ため息をつくと、那桜はくすくすと笑いだす。わだかまりのない笑い方は、また別の意味で拓斗にため息をつかせた。

 隼斗との話がついてからちょうど二週間。拓斗は地下室からもとの部屋に戻ったものの、ふたりきりになる時間はそうない。普通に振る舞っているように見えて、那桜は両親に対して遠慮がちでいる。
 那桜がそうする必要はまったくなく、むしろ、気を遣うべきは両親のほうだ。そのとおり、隼斗にしろ詩乃にしろ、やはり普通に見えてもどこかぎこちなさが窺える。
 ――後悔することは許さん。
 隼斗に達せられるまでもなく、拓斗が自分の気持ちを後悔することはない。
 ただし、那桜に残してやりたいと思った“家”が、いくら許されても結局はそうはならないかもしれない――と、そんな現実に遭うと後悔すれすれの苦しさが集う。
 まずは、那桜のなかで、ふたりでいられることが日常に変わることから始めて、いずれ埋め合わせていければいい。拓斗はそう自分に折り合いをつけた。

「電球、取って――」
「那桜ちゃん、まだ――」
「拓斗、仲介(なかがい)主宰がみえた」
 拓斗とほぼ同時に深智が那桜に云いかけ、それを一階から呼びかけてきた和惟の声がさえぎった。
「すぐ行く」
 和惟に答えたあと那桜を見下ろすと、その面持ちは、判決を目のまえにした被告人であるかのようにわずかに緊張して見えた。
 今回の集結の日、一族に――少なくとも主宰たちに周知することを那桜には伝えている。“拓斗に”決まったことがある以上、そうせざるを得ないことは那桜も納得していた。

「父さんがうなずいたんだ。あとは大丈夫だ。おれは、そう云ったな?」
「わかってる。拓兄を信用してないとかじゃなくて……だから、それとこれは別なの」
 那桜は子供っぽく地団駄を踏むような様で、焦れったそうに首をすくめた。
「引き返すか。それなら、いま、しかない」
「嫌!」
 即答のあとにだんだんと那桜の目が丸くなり、それから信じられないといった瞳が拓斗を見上げてくる。
「考えないうちに答えが出るなら本望だろ」
「……拓兄は?」
 那桜は拗ねたようにくちびるをわずかに尖らせて問いかけてくる。
「行ってくる」
 拓斗が答えをやらずにそう云うと、那桜はくちびるをはっきり突きだした。
 拓斗は、少しなだめてやろうと那桜の額に触れた。とたん、手がつかまれて、次には手のひらがかじられた。正確に云えば、手のひらをかじることは難しく、那桜のくちびるが這っただけだ。
 歯が触れ、くちびるが触れ、ただそれだけのくすぐるような感覚に躰が疼く。
 理性を忘れ、歯止めがかなわず、那桜を犯した日に、女を抱くという熱を知って、躰が渇くという飢えを知った。那桜がそれをわかって挑発しているとしたら自分の反応にも云い訳がつくが、少なくともいまは、那桜の顔を見るかぎり純粋に不満を表しただけというのが明白だ。
 自重しろ、とだらしない自分を自分で責め、劣情を振り払うように肩をそびやかすと、拓斗は手を引き抜いて、もう一度ちらりと額に触れてから那桜の横をすり抜けた。
「いってらっしゃい」
 背中越しに聞こえたのは不機嫌な声ではなく、笑っているような声だ。拓斗が振り向くと、何が気分を変えることになったのか、声に感じたとおりの眼差しが迎えた。

 幼い頃の光景――庭園に咲いた鳳仙花(ほうせんか)をまえにしてどこか悪戯な表情をしていた那桜が重なる。なんでも許されると信じきった那桜の眼差しは、逆に、拓斗への信頼のしるしでもあった。
『那桜! 鳳仙花の花言葉は――』
『那桜も知ってる。“わたしに触っちゃだめ”!』
 拓斗が詩乃の受け売りを口にする途中でそう叫ぶなり、那桜は反抗期を示すように果実を指でぴんと弾いた。種が飛びだすのと一緒に、那桜までもが笑い弾ける。
 変わり果てていくあの夏の直前にあったワンカット。
 いま拓斗に向く那桜の瞳も、あの瞬間にあった無心の信頼に見えて、応えなくてはならない気にさせられる。あまつさえ、拓斗は那桜の答えから、胸が痞えるような熱を(あずか)っている。
「那桜。さっき、おまえが答えを迷ったとしても、そこからふたりでやり直す、それだけだ。答えになってるか」
 那桜のくちもとに浮かんでいた笑みが、やはり鳳仙花の果実に触れたように弾けた。
「はい」
 その返事のしかたは、すべてを拓斗にゆだねようと示すときの那桜の口癖だ。従順な返事はかばいたい気持ちを増長させる。嵌められた気にならないでもない。

 拓斗はうなずいて背を向けると、階段の下り口に向かった。二階に上がってきていた和惟とちょうど鉢合わせする。
「電球が切れてるらしい」
「オーケー。マンションの改造はまもなく終わるそうだ。さっき広末建設から連絡が入った。今度の休みには引っ越しできる」
「ああ」
 拓斗は相づちを打ったあと、こっちに歩いてくる那桜を振り向く。
「もうできたの?」
 和惟の声が聞こえていたらしく、うれしそうに那桜が問いかけてきた。
「那桜」
「何?」
「内ドアには鳳仙花を置いておけ」
 和惟を指差しながら云うと、那桜は当然ながら、まったく理解できていないように首をかしげた。
 家を出ることには隼斗から条件がついた。和惟を置くこと。
 確かに、那桜を独りにするのは望むところではない。和惟しか適任者がいないことも理解できる。
 それでも納得がいかない。そんな感情は(ぎょ)しがたい。
「なんの話だ」
 和惟がどことなく呆れた声で問いかけてきた。
 拓斗は自分でも唐突な発言だったと思う。口にした感情の要因は、少なくともいま目のまえで発生しているわけではなく、つまりは拓斗の内心に燻っていることだ。止められなかったことが忌ま忌ましい。

 これ以上、わざわざ口にする気にはなれず、拓斗はわずかに顎をしゃくって見せただけで、階段をおり始めた。
「鳳仙花って夏の花だし、いまの時季は種まきだと思うけど」
 背後で那桜が独りごとのように云う。
「そういや……」
 那桜に応えていた和惟は、何を思ったのか云いかけて濁した。
 拓斗はちょうど階段の踊り場に来て、二階を振り仰ぐ。警告を込めて見上げたところでそうしたのが過ちだと知っても遅く、和惟は思いついたのだろう、おもしろがったように笑った。
「和惟、何?」
「んー……いや、那桜は鳳仙花が好きだったなと思いだした」
 含み笑って云った和惟を、「そう?」と問いながら那桜が首をかしげて見つめる。
 ふたりの間はなんの屈託もなく見え、拓斗はすっと息を呑む。そうしてから、自分が真情を吐露したことに気づいて、またうんざりした。

 *

 一階におりると階段をまわって廊下をいちばん奥まで進み、拓斗は裏庭に面した応接室に入った。
 仲介主宰が、小ぢんまりした応接のソファに悠然と背をもたれて待っていた。
 裏分家である仲介家は代々、青南学院に監事として携わっている。本来、青南学院を創設したのは有吏一族だ。だが、有吏がトップとして表に出ることはなく、水面下で管理をするのが仲介家の役割だ。青南学院のことに限らず、本家を除外して、一族が企業などのトップに位置することはない。要所要所でトップの直属として一族の業を務めている。広末建設の現社長のブレーンとしている社長室長の築城(きずき)主宰もそうだ。築城家の分家は、広末建設の下請けが主という小さな工務店を営んでいる。その実、技術は卓越していて、有吏本家を手がけているのは築城家だ。

「仲介主宰、お呼び立てしてすみません」
「かまわない。こと、一族の重大事に関することとなれば」
 その云い様は、隼斗から伝わっているだろうことを思うと皮肉ともとれる。拓斗は仲介主宰の正面に座って肩をすくめた。
 仲介主宰はわずかに躰を揺するようにして背を起こし、密談の態勢に入った。太ってはいないが、押そうが引こうがびくともしないしぶとさを感じさせる人だ。

「仲介主宰、まず伺いたいのは……この利便性が高くなった時代にまだ人選は必要ですか」
「確かに。現段階で充分かもしれない。だが、その話と約定の話は別のことだと思うが」
「おっしゃるとおりです」
 間を置かず同意するだけで拓斗が終わると、仲介主宰はため息をついて話しだした。

「まず、誤解しないでいただきたい。仲介家は一族の血脈興起を授かる分家ですが、我々は本人たちの意を無下にして縁を結んでいるのではない。(たばか)り事のうえとはいえ、好意を確認したもとにおいて話を進める。那桜さんについてもそれは同じです」
「那桜も?」
「そうです。那桜さまの約定婚の相手、蘇我孔明は今年度、幸いにして京東(けいとう)大に入った。青南と京東は私立と国立という枠を越えて親密な交流関係がある。双方とも年齢的に充分な年だ。利用しない手はない。今年度一年、大学間のさらなる積極的交流の場を設けるべく働きかけてきて、来年度は様々な交流イベントが用意されていた。もっとも、総領については自覚されておいででしょうから、あえてお膳立てはしていませんが」
 仲介主宰はちくりとこれみよがしに付け加えた。
「それでも、僕は那桜を蘇我にはやりたくありません。僕の考えとして、約定については破棄を目指します」
「双方に――蘇我孔明はともかく、那桜さんに好意がなくとも履行される、というのが約定。それを破約するということがいかなる結果を招くか、まったく先行きが不透明のまま、総領が強行されたことは残念です」
「批難はもっともです。相応でないと判断されても甘んじて受けます。だからといって何もしないまま、総領の座を譲ることも、首領の座を捨てることも考えていません。時間をいただけませんか」
 仲介主宰はソファに背中をもたらせると、しばらく口を閉ざして拓斗を見据えていた。

 一族のなかにおいて仲介家の役割は、主宰が云ったように有吏の血脈を守ることにある。
 戦時に一族は半数の男たちを失い、隅々まで監視が行き届かないという、裏の業に支障を来した。それまで可能であった、一族のなかでの婚姻を難しくさせ、手っ取り早い手段として、戦後は民の有力者との、いわゆる政略婚を続けてきた。
 青南学院は国を動かすうえで、その道に名を馳せる企業、官公庁など、そのトップに就くべき人材を選りすぐる、もしくは見極める場として設けられた。そういった人物に一族がつくことで誘導しやすくなる。さらに、人材という点では政略婚にも一役買っている。

「総領、いろいろと動いておいでのようだったが、主宰たちはなんと?」
「それをご存じなら、主宰たちの意向もご存じのはずです」
 拓斗が返すと、仲介主宰は何かを振りきるように首を横に振った。
「正直に申しますと、我々翼下にも約定について疑問はあります」
「疑問?」
「はい。首領しかご存じ得ないことかと。あるいは衛守家なら知るところかもしれませんが」
「どういうことです?」
「私にはこれ以上のことは口にできない。首領を否定することになる。もちろん、そういった気持ちは些細もなく、そこは誤認しないでいただきたい」
「無論です。那桜とのことを認めたとはいえ、父がまだ約定の破棄を決定したわけじゃないことは承知しています。仲介主宰、戒斗のことも僕のことも、そして認めた父まで含めて本家の器量に不満不信が生じてもしかたないと思っています。ただ、時代は変わりました。有吏の在り方を詳悉(しょうしつ)すべきです。重ねて、酌量の余地をお願いします」
 またしばらく口を噤んだ仲介主宰は、やがてため息をついてうなずいた。
「ただし、我々主宰はあくまで現首領の直属であり、首領の意向に添うことは論を()たない」
「それを聞いて安心しました。心置きなく模索できます。明日の会合で僕の意向として周知させもらいます」



 電球の取り替えを和惟に任せて、那桜は隣の部屋に移った。深智は美咲に呼ばれて花を取りにいっている。
「那桜?」
 花を置く出窓の天板を拭いていると、足音もなくいきなり声がした。那桜は跳ねるように入り口を振り向く。拓斗も隼斗もそうだが、突然というのにはいつまでたっても慣れない。
「戒兄! びっくりするから足音くらい立ててって云ってるのに!」
 戒斗は片方だけ口角を上げて笑う。
 戒斗の笑った顔を見るたびに、那桜は拓斗に置き換えてみる。ちょっとまえまではまったく想像できなかったのに、いまは、戒斗より少し控えめでも、拓斗の笑った表情が思い浮かべられる。
 迎えにきてね――と、そう云ったとき、那桜に注がれたものだ。
 隼斗と話すまえのそんな出来事は、拓斗がふたりのことを憂えていないことを保証していた。
 そして、そのあと、だれの目も気にすることなく抱きしめてくれたことは、那桜に自信をくれた。
 それは戒斗の目にも明らかなようで――
「思っていた以上に気にしてないみたいだな」
 と、おもしろがったふうに云った。

「うん。ほんと云うと、戒兄に電話するときがいちばん怖かったかも」
 戒斗に電話をしたのは、拓斗と隼斗の話がついた日、その翌日だ。おずおずとした那桜を、『拓斗を堕としたらしいな』と、いつもと変わらない様で戒斗はからかった。
「おれがどう思ってるかは拓斗に聞いてただろ?」
「それでも怖いよ」
「……妹、だからな。おれも正直に云えば、戸惑ってるし、拓斗の気持ちをわかることはできない」
「……うん」
「けど、那桜。何が拓斗に起きたかは知らないけど、いいようにも悪いようにも拓斗が変わったのは那桜のせいだろ。それが答えのような気がしてる」
「いまは、いい? 悪い?」
「おまえにとって、いま悪いとこがあるのか?」
「ない」
 それよりも、一つずついいことが増えている。ふたりでやり直す――さっきもらった、そんな答えもそうだ。
 那桜の即答に戒斗は笑った。
「大丈夫だ」
「うん」
「戒兄、今日は帰らなくて、明日の会議は出るんでしょ? 叶多ちゃんに会う?」
「まだだ。いろいろ片づけないと」
 戒斗は肩をすくめるというしぐさで曖昧に締め括った。

 もう五年、那桜と拓斗が始まったときからの時間と同じぶんだけ、戒斗と叶多は離れたままだ。
 那桜にはもう離れるということ自体が考えられない。決められたことを心配する必要がなくなったとはいえ、考えることはあって、そのときは胸が苦しくなるほどほっとしている。

「いつも叶多ちゃんに訊かれてつらいんだけど」
「悪い。たぶん、だけどな、拓斗がこういう気持ちだったんじゃないかって思い当たるところはある」
「何?」
 そう問い返したとき――
「那桜」
 また足音が立たずして名を呼ばれる。
 ぱっと声のしたほうを見ると同時に那桜は部屋の入り口に駆け寄った。

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