禁断CLOSER#99 第3部 純血愛-out-

4.代償−Breakup− -9-


 腕に抱いたとたん、那桜の躰から媚薬が薫ってくる。拓斗の心底で、わがままを吐きたがる自分と守ろうとする自分がせめぎ合う。

 傷つけるためにあるんじゃないから。
 拓斗にしろ、傷つけるためにこうしたんじゃない。むしろ、傷つくことのないよう――と、それがすべてだ。
 傷つくときは一緒に。
 そのとおり、たとえ知ることになっても、那桜だけではなく拓斗も同じぶんだけそうであることを――その言葉を忘れることのないよう――と、希う。

 砂を踏みしめる音が近づく。しがみつく那桜の肩をつかみ、拓斗は半ば引き剥がすように自分の躰から離した。
「那桜、風邪ひかないうちに着たほうがいい」
「脱がせたのは和惟!」
 和惟がコートを差しだすと、那桜はかすかに恨めしそうにしながら受けとった。コートに袖を通し始めた那桜をおもしろがって見る和惟が、ふと拓斗に目を向けた。
 わずかに顎を上げた和惟のしぐさが、煽るようだと思うのは気のせいか。それにのるほどガキではないが、見逃してやれるほど物分かりがいい大人でいるのもうんざりする。

 一歩まえに出た――と認識させるまえに拓斗は右の拳をすくいあげた。まともにみぞおちを打つ寸前、和惟はわずかに後ずさりして、倒すには至らなかった。続けて左肘を突きだしたが、またもや胸を突く間際に和惟は躰を右にひねってかわす。
 本家のガードを担うプライドか、さすがに簡単に急所はつけない。すかしを喰らってバランスを崩したと見せておいて、左にひねった躰を逆にひねり返し、拓斗は右腕を和惟の脇腹へとしなわせた。
 それも織りこみずみだったのだろう、和惟は避けた。
「拓兄っ」
 驚いた那桜の声が波の音を掻き消す。振り向こうとした刹那、浮いた拓斗の右腕を和惟がつかむ。
「だから、甘いんだ」
 和惟が吐く。
「どっちが、だ」
 捕らわれたことで逆に和惟は逃れられない距離をつくり、拓斗は再度、左肘でみぞおちを狙った。さすがに訓練されているだけのことはあってストレートに入ることはなかったが――また、ダメージを必要以上に与えるつもりもなかったが、手応えはつかんだ。
 低く短く呻き、和惟は拓斗の手を放して、腹部をかばうように躰を折った。
「拓兄! 和惟!」
 息を呑んで見守っていた那桜は振りしぼった声で叫ぶ。
「同じ過ちを繰り返すほど、ぬるく訓練を受けてるつもりはない」
「らしいな。久しぶりに効いた」
 和惟は薄く笑いながら云い、そして、短く息をついて痛みを軽減するようにゆっくりと躰を起こした。

 拓斗は那桜のほうへと躰の向きを変えた。きょとんとしたふうに見開いた目と合う。コートを右側だけ着かけたままという姿は、罪つくりだという自覚が一切ないかのように那桜を無邪気に見せる。
「帰るぞ」
 那桜の傍に行くと、右側に寄ったコートを左肩に引っぱりあげる。
「うん。……いまの何?」
「二年まえの復讐じゃないか。意外に拓斗はしつこいからな」
 なんでもない、と拓斗が口を開くまえに、那桜に答えた和惟は揶揄した眼差しを拓斗に向ける。言葉の裏にあるのは皮肉か。
「復讐? 有吏にその言葉は存在しない」
 そう云ったとたん、和惟の顔に何かよぎった。なんだ、と問う間もなく、歪んだ笑みに変わる。
「だな。復讐は単純な発想だ。有吏には業報(ごうほう)という暗躍のやり方がある」
 その声音に拓斗はけしかけるような響きを感じた。
 それから和惟は一呼吸置いて、「拓斗」と諫めるように呼びかけた。
「なんだ」
「有吏はいまだ昭和の決着をつけていない。戦後、一族の立て直しで精いっぱいだったというのは理解してる。けど、辛酸を舐めたはずの先々代の首領はなぜ動かなかった?」
 和惟は解せないといった様でかすかに首を横に振った。

 先々代の首領、つまり拓斗の曾祖父に当たる和斗は、拓斗が生まれた年に亡くなっている。戦時中、有吏一族は、大戦を裏で先導した蘇我の司令塔を暗殺するべく各地に及んだ。その指揮を執ったのは、当時四十二歳にして首領であった和斗だ。そのさなかに、暗殺者として先頭に立った長男の尚斗を享年十八歳で亡くしている。和斗の無念は想像を絶する。

「因果応報。時を待て――先々代の遺言を知ってるだろう」
「いつまで待つんだ? 保留のままでいいのか」
「約定のこと以前に考えるべきだったというのは確かだ」
 そう答えた拓斗の声に何を感じとったのか、無言で拓斗を見据えていた和惟はやがて鼻で笑った。
「何か考えがあるのか?」
「時代はオープンになったんだ。それだけ、やりやすいこともある。有吏が暗でいるかぎり、発言の効力は表裏ともに奪える」
「なるほど。そこまで考えられてるなら、那桜のことももういいだろう」
「地位を奪ったとしても、翼下を守れなければ意味がない、らしいからな。その答えはまだ出ていない」
「あと五年ある」
 五年も、なのか、五年しか、なのかは判断しかねる。口にした和惟自身も曖昧な口調だ。
 答えるかわりに肩をそびやかすと、那桜が不安混じりのしかめた顔つきで覗きこんできた。
「なんの話? また五年て……」
「一族の話だ」
「それくらいわかってる」
 那桜は拗ねた云い方をした。
「一族のことは、どこまでおまえに話すか迷っている。知らないことが守ることになる場合もある」
 そう諭すと、しばらく考えこむようにして拓斗を見上げていた那桜は、ふいに肩をすくめる。
「ありがとう、拓兄」
 何が伝わったのか、那桜はうれしそうにする。
「行くぞ」
「うん」

 拓斗がさきに歩きだすと、すぐさま那桜が手に手を重ねてきた。いったん握りしめたあと力を抜いてしまうのは那桜の癖だ。瞬間的に拓斗の手は勝手に動いて那桜の手をすくう。
 ふと那桜を見やると笑っている。大っぴらにではなく、こっそり、といったふうだ。それではじめて、那桜の癖が、癖ではなく故意であることに気づいた。
 こんなふうに、那桜に“してやられている”ことはこれだけじゃない。それどころか、今日のような和惟とのことも含めて、してやられていることばかりかもしれない。
 那桜のことも、自分のこともはがゆい。だが、公言して以来、会ったときに笑顔を見せても繕ったような笑い方だったのが、いまは何が吹っきれたのか屈託なく見えること、それに免じよう。

「拓斗さん、どうされます?」
 駐車場に行くと、社用車の外に出て待機していた惟均が、すでに答えを知っていそうな訊き方をした。
「おまえ独りで大丈夫だな?」
「もともと、拓斗さんと那桜の問題がなければ、独りでやるはずのことでしたから」
 惟均は肩をすくめながら率直に応じた。
 同じことを云ったのが和惟なら皮肉だと思うだろうが、惟均は、少なくとも、和惟に対してそうであるように拓斗にも裏表がない。弟である戒斗もそうだが、ふたりの違いは、戒斗が対等であるのに対して、惟均は拓斗を総領として見ることだろう。
 那桜とのことを伝えたときも、驚いてはいたが惟均は諌言も何もすることなく受け入れた。そういうところは、隼斗に接する惟臣の姿と重なる。
 そう思えば、和惟の振る舞いは常軌を逸している。表面的には(かど)がなく見えても、有吏という一族のなかにありながらその様は孤高を持している。
「なら、頼む」
「はい」
 惟均はうなずき、兄である和惟に目を移すと、首をひねるようにしながら軽くうなずいて車に乗りこんだ。
「拓兄、一緒に帰れる?」
「ああ」
 堪えきれないといったように那桜のくちびるが広がった。


 家に帰りつくと、那桜を伴って拓斗はリビングに入った。
 隼斗と詩乃の目が向いたとたん、拓斗の手のなかで那桜の手に力がこもる。だが、離そうという意思は見えず、それ以前に、ここに入るとわかっても那桜は尻込みしなかった。
 家に戻れなくなっても――その言葉を証明するかのようだ。
 帰ってくる間、手を離さなかった那桜がそうすることでほんの些細でも心強くなれるのなら、この手がいつの瞬間でもそのためにあることを訴えていこう――そんな決心が湧く。いつか、那桜のなかでそれがあたりまえとなるように。

「父さん、書斎にいいですか」
 隼斗の目は繋いだ手へとおりる。そして、また上向いてきて拓斗の目に留まった。隼斗は一言も発せず、顎をしゃくった。
 拓斗はうなずいて、それから那桜と繋いだ手を緩めた。慌てて那桜が手を握りしめる。
「戻ってくるまで母さんとここにいろ。いいな」
 戻るという言葉は安心させられたのか、那桜はうなずきながら拓斗の手を放した。
「和惟」
 一歩たりとも部屋から出すな――込めた意は伝わったようで、背後に控えていた和惟は、「わかってる」と応じた。
「拓兄、迎えにきてね」
 ひたすらな眼差しに、あの夏の、山に向かう寸前の会話が甦る。しがらみを忘れ、澄んだ気持ちが還り、拓斗の口もとに表れた。
「ああ。ちゃんとここで待ってろ」
 そう云うと、驚いた那桜の顔は花が開いていくように綻んだ。
 拓斗はさらに安心させようとうなずいてみせ、那桜の前髪を払うように額に触れてから書斎へと向かった。

 後ろを来る隼斗の気配を感じながら書斎に入ると、拓斗はマホガニーの机のまえにあるソファに座った。隼斗はその向かいの一人がけのソファに腰をおろす。
「会うことを許可した憶えはないが」
 さっそく隼斗が第一声をあげた。
「許可を待っていたら五年はすぐたちます」
 屁理屈であるのにもかまわず口にすると、隼斗は不快そうに頬をひくつかせた。その実、和惟の云うとおり、織りこみずみだったのだろう、拓斗と那桜が一緒に帰ってきても驚きはしなかった。
「今度の集結の日、一族には周知させてもらえませんか」
「甘い」
「五年後にそうするより遥かに増しだ」
 五年後でも十年後でも気持ちは変わらない。含んだ決心は察せられたのか、また会話は途切れた。
「おれのことはいい。けど、なぜ、那桜が一族のために犠牲になるんですか。なぜ、父さんは那桜を差しだせるんですか」
 答えはない。当然、答えられないだろう。拓斗はしっかりと隼斗を見据えた。

「那桜はだれの子供ですか」
 口にした刹那、ぴりっとした気配が拓斗へと突きつけられた。
「私の子だ」
 隼斗は睨めつけるように目を細め、即座にぴしゃりと云い返した。
「なら、那桜の母親はだれです?」
 拓斗が喰いさがると、隼斗はきっとして固く口を結んだ。込みあげるものを呑み下すかのようなしぐさだった。
 拓斗は待った。知る権利をなげうつつもりはない。
「何を疑ってる」
 やがて隼斗は唸るようにただした。
「簡単なことですよ。有吏一族という翼下を守るためなら、他族のだれを犠牲にしようと心が痛むことはない」
「そう思っていながら、おまえはなぜ那桜を留める」
「那桜は、おれを実の兄だと思っている。おれは、那桜が“連れてこられた”ときから真に妹だと思ったことはない。那桜を有吏家の娘とできるのはおれだけだ」
「那桜は私の子だ」
「聞いたんですよ」
 なおも嘘を貫こうとする隼斗は、拓斗の言葉を受けて険しく眉をひそめた。
「聞いた?」
「そうです。あの日、応接間で父さんと母さんが云い争っていたことを聞いたんです」
「あの日?」
「おれが那桜を連れていなくなったときです。その日を覚えていませんか」

 隼斗は、わずかだったが目を見開いた。その瞳が何かを求め探すように泳ぐ。
 拓斗もまた、残像を追うように書斎の奥隣にある応接間のほうへと目を向けた。



「拓にぃ」
 眠っていると思っていた那桜がつぶやいた。夢でも見ているのかと背後にあるベッドをそっと見やると、那桜は起きあがろうとしていた。
「寝てなきゃだめだろ」
 那桜が生死をさまよった日から一カ月。用心をしてやっと今日、退院したばかりだ。退院祝いをみんなでやって、はしゃぎすぎたせいか、那桜は八時すぎには居間でうとうとしだした。家のいちばん奥にある部屋が隼斗以下、親子五人のスペースで、すぐに寝かせに行くと、拓斗が見守る必要もなく那桜はすとんと眠りに落ちた。
 それから、拓斗たちは九時すぎに部屋に戻って勉強をし始めてから、二時間近くがたっている。掛け時計を見ると十時五十五分を指していた。

「何か飲みたいよ」
 那桜は拗ねたように云う。
「持ってきてやる」
「那桜も行く」
「よくなったんだから――」
「寝てるの、タイクツなんだもん」
 いままでぐっすり眠っていて意識がなかったくせに、那桜は不満そうに入院中に覚えた“タイクツ”を口にした。

 ――退屈なら病院の探検するか。
 退屈が那桜の口癖になったのは、那桜のつまらなさそうなため息にそう応えた拓斗のせいだろう。
 タイのクツ? と笑いだした那桜は、鯛が靴を履いている姿を想像したらしかった。
 それはともかく、那桜は退屈という言葉を持ちだしてはわがままを云うようになった。

「家のなかだし、連れていってやればいいだろ」
 那桜のわがままに戒斗が加勢をする。そのくせ、自分が連れていこうとする気はないのだ。拓斗はため息をついた。
「それ、着ていくんだ」
 しかたなく拓斗がベッドにかけたカーディガンを指差すと、那桜は喜び勇んで大きくうなずいた。
 転がり落ちそうになりながらベッドからおりた那桜が、カーディガンを羽織るのを待って部屋を出た。
「お母さんたち、まだ起きてる?」
 部屋の戸を閉める間際、驚かそうという魂胆でもあるのか、那桜はわくわくしていそうで、なお且つ、声を潜めて訊ねた。
「ベッド、空っぽだっただろ」
「うん!」
 そう勢いよく返事をしたあと、やっぱりびっくりさせたいらしい、那桜は慌てて口をふさいだ。云ってしまってからそうしてももう遅い、と云うのはやめておいた。
 静かに戸を閉めると、拓斗が楽しみに付き合う気だとわかって那桜はこっそりと笑う。

 そうして廊下を玄関の方向に向かい始めた矢先、甲高い声が廊下に漏れてきた。
「どうしてなの?」
 責めるような声は詩乃のものだ。那桜が立ち止まって不安そうに拓斗を見上げてくる。幼い那桜にもわかるほど、詩乃の口調は穏やかなものではなかった。
 そのあと、こもった声が聞こえたが、隼斗のものだとわかるくらいではっきりしない。拓斗は声がする応接間に近寄った。
「わからない。貴方の娘じゃないから?」
「そうじゃない」
「それなら何? 貴方はそんなことをするために那桜を自分の娘だと認めることにしたの? わたしはわたしたちの子として育ててきたわ。貴方がそうしようって云ってくれたから。それをいまになって、有吏の子じゃないからって那桜を追いだすの!?」
「詩乃!」
「拓……にぃ……」
 襖越しに届く隼斗の声のほうが大きいにもかかわらず、那桜の声がやけに大きく拓斗に届いた。

 あまりにも衝撃だった。すぐ横に那桜がいることにも思い至らないほど。
 聞かせてはいけない。これ以上、何も。
 手遅れだとわかっていながら、そんなことを思った。

 那桜を抱きあげると外へと連れだした。忌まわしい声の残る家のなかに那桜を置いておけなかった。
 拓斗の首にしがみつく那桜は明らかに意味をわかっている。一カ月まえより一回り小さくなったんじゃないかと思うほど軽い那桜を抱え、拓斗は隠れる場所を探した……。



「拓斗」
 隼斗が名を呼び、拓斗は書斎と応接間をさえぎる壁から顔を正面に戻した。隼斗はその時間に思い至ったのか、いつもの声音とは違っている。警鐘と捉えるか、それとも畏れと捉えるか、紙一重の声だ。
「那桜も聞いたんだ」
「那桜……?」
 隼斗はどこかためらうようにして那桜の名をつぶやいた。
「那桜は忘れる必要があった。おれは思いださせたくない。ましてや、思いだしたときに、自分が有吏のために有吏の娘として受け入れられたことを知ってほしくない。そんなことは絶対に許さない。おれは生涯かけて、那桜のことを死守する」

 歯を喰いしばるように一文字に口を結んで、隼斗はしばらく瞑想していた。
 張りつめた気配はなく、二年まえ、拓斗が覚悟を決めた以前のような葛藤が見える。それならば、もしいま許されなくとも望みはあるということだ。
 そして、隼斗が目を開いたとき、そこにはなんらかの決断があった。

「拓斗」
「はい」
「好きなようにしろ。ただし、このさき何があっても、いまのおまえの気持ちを後悔することは許さん」
 隼斗の声は腹を据えたように重く、拓斗に覚悟を強いた。
「はい」
「主宰たちを納得させるのはおまえの役目だ」
「当然です」
 出ていけという雰囲気を感じ、そう答えると拓斗は立ちあがった。すると、「拓斗」と隼斗が呼びとめる。
「はい」
「一つ忘れるな。那桜は、私と詩乃の娘だ」
 そこにどういう意味が込められているのか。
「はい」
 拓斗は書斎を出た。

 やっと――いや、いまが始まりなのかもしれない。

 リビングに入ると、真っ先に那桜が立ちあがる。

「拓兄」
「大丈夫だ」

 傍に来た那桜の顔から不安が消え、笑いながら器用に涙をこぼした。
 そして、拓斗はほかの目をはばからず、那桜の頭を掻き抱いた。

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