禁断CLOSER#98 第3部 純血愛-out-

4.代償−Breakup− -8-


「那桜、愛してる」
 那桜当てのその言葉は、なぜか携帯電話の向こうに焦点が定まっている。
 和惟は携帯電話を耳から離すと、ボタンを一つ押してジャケットのポケットにしまった。見上げた目はなまめかしく那桜を捕らえる。さっきの言葉が頭をよぎった。
『たまにはおれを愛してるって教えてくれてもいいだろう』
 教える、という云い方は、まるでそんな気持ちが那桜にあるかのようだ。和惟に対する欲張りな気持ちは、拓斗に感じる、息が絶えそうになる苦しさとは違う。ただ、和惟に対して、なんらかの拘泥した気持ちがあるのは自分でもわかる。だから、那桜は否定も抗議もできなかった。
 放っておいて。そんなふうに和惟を遠ざけていた頃もあったはずが、それでも那桜を離さなかった目は、知らず知らずのうちに那桜のなかでは当然のことに変化していたかもしれない。
 そんな、当然という気持ちはなんだろう。

「放して。寒いの」
「すぐ気にならなくなる」
 和惟は含み笑った。腰を抱いている腕がぐっと強くなる。
「どういうこと? わたしが望まないかぎり、って――」
「だから、本心の話だ。那桜はおれを引きとめたがる。それくらいは自分でもわかってるだろう」
「わからない!」
 それが嘘であることは和惟もわかっているに違いなく、そのくちびるは可笑しそうに歪んだ。
「たまには安心させてやろうか」
 本気でほのめかしたとおりのことをやる気か、その声は(たぶら)かすようだ。
 和惟が“安心”と云ったとおり、確かに触れられることは那桜にとってそんな気持ちをもたらす。けれど、それはもう拓斗で満ち足りている。
「放して」

「那桜、許してほしい」
 会話は咬み合っていなくて、あまつさえ、和惟は意表外のことを口にした。さっきとは一転して、惑わすのでもからかうのでもなく、ごく真剣に響いてくる。
「……許す、って?」
「おれの価値を証明してくれるだろう? おれを救ってくれ」
 和惟は追いつめられたような、もしくは追いつめるような眼差しで那桜を見つめる。
 救ったのは那桜――和惟が詩乃に訴えた言葉を思いだした。那桜は困惑して首をかしげた。
「意味がわからないよ」
「正解をくれたのは那桜だ。触れることは、だれもがだれにでも反応するほど浅ましい行為じゃない」
 和惟はさらに意味不明のことを重ね、那桜はますます首を傾けた。

「和惟――っ?」
 呼びかける声は悲鳴に変わる。和惟の右手が腿から脚の付け根へと這ってきた。躰を引こうとしても和惟の腕はたゆまず、びくともしない。
 こんなことをやりやすくするためにこのミニワンピースを着せたのなら。
「和惟、ひどいっ」
「那桜の躰はおれに応える」
 いつもの和惟に戻って、いたぶりからかうような声音だ。
「違う! 拓兄だけ!」
 すぐさま打ち消したのはどちら側にとっても逆効果だった。
 さっき触れられた躰はまだ和惟の手を憶えていて、那桜は呵責にたえない。
 和惟は煽られたように吐く。
「おれのわがままも、たまには聞け」
 だめ、と云いたくて口を開きかけた刹那、和惟のくちびるが拒絶をふさぐ。呻いた声が重なるくちびるのすき間から漏れた。

 腿の裏を這う手がお尻からショーツのなかに入ってくる。手のひらがぐっと沈んで、後ろからまわりこみながら快楽を得た痕にたどり着いた。逃げようとしても背後から襲われているせいで、逆に和惟に密着するように腰を押しつけてしまう。和惟の意思は服越しでもはっきりしていて、それがおなかに当たって那桜は慄いた。
 体内に指先が潜り、那桜は爪先立って伸びあがる。避けることはかなわず、追いかけてきた指はなかで蜜を掻きまわすようにうごめいた。
 せめて感じないようにと堪えるけれど、口が抉じ開けられているとそうするのは難しい。
 だめっ。
 力の限りで和惟の肩を押しながら顔をひねってキスを逃れた。その反動で、和惟のくちびるは那桜の顎を伝い、首の付け根におりた。同時に和惟の指が体内から這いずり出て、那桜は身ぶるいする。
 んふっ。
 咬みしめたくちびるから、それでも吐息が漏れた。耐えられたことに安堵したのもつかの間、蜜にまみれた指先はそのままやわらかな突起へと這いあがってきた。
 躰の最奥とどちらが弱い場所なのだろう。あまりに繊細な感覚が集まりすぎてじっとしていられず、那桜はぷるぷると小刻みに腰を揺らす。

「か、ずた、だっ……も、やめて!」
 快楽を堪えながらの訴えは途切れ途切れで、自分でも切羽つまって聞こえた。
「我慢することないだろう」
 首もとで和惟のくぐもった声が熱を持って誘惑する。けれど、和惟の言葉がかえって気を逸らせてくれた。
 油断すればすぐにでも果てそうなのに、それを止めている気持ちがあった。
「わたし……なの……拓にー、と、ずっと、って……欲張ったのは……わたし。だから……裏切れな、い」
 和惟の腕にぐっと力がこもった。摩撫していた指が止まる。
「同じことを証明してみるか」
 和惟は嗤っている。
「……同じ、こと……?」
「そうだ。セックスはだれかを愛するためにあるって証明すればいい」
 そう云い放ったあと、和惟は再び那桜を襲う。

 それならば、那桜のセックスは拓斗を愛するためにある。
 和惟の指は縦に滑るだけだが、そうするのは単調な動きが那桜にとっては効果的だと知っているからだ。ふとした瞬間に快楽が引き返せない領域に入る。
 けれど、イカないと決めた。
 躰がこわばるぶんだけ緊張しているから、感覚は繊細になる。イク瞬間に躰を突っ張ってしまうのはきっとそのせいだ。それならば、と那桜は躰から力を抜いて、縛る腕に自分を任せた。
 何を感じとったのか、和惟が頭上でふっと息をつく。嗤ったのだろうか。その指先は意地悪をするように、那桜が自分ではコントロールできない神経に集中した。
 快楽をゼロにはできない。腰から躰の末端へと絶えず痙攣が走っていく。
 意思が挫かれないように那桜は呼び慣れた言葉を口にする。
「拓……にぃ」
 この二年、拓斗にしか触れられていなくて、その間に躰に染みこんだ指とは違っている。そんなことがわかるくらい、拓斗の躰のすべてが那桜の躰になじんでいる。
 何が違うのか――和惟が追いつめてくるのに対して、拓斗はがむしゃらというのが似合っている。乱暴でも、やわらかくくるまれているように感じる。
 躰の記憶にある指が和惟のそれと入れ替わらないように、那桜は拓斗の手のひらを思い浮かべた。それだけじゃなくて、銀杏の木の下で見た、呼吸を忘れさせるような瞬間も。
 拓兄のことを考えていれば大丈夫。
 そう思いつつも、耐えるあまりに意識が薄れそうになる。那桜の無抵抗をいいことに和惟は自在に触れている。
 指は襞の間を沿い、這いあがってくると、先端の神経をくすぐる。またおりていくと、今度は体内へとくぐって引っ掻くように動く。感覚はぎりぎりのところでせき止められていた。
 海岸の波打ち際はまだ遠くだったはずなのに、すぐ近くから水を踏みしめるような音が聞こえた。もしかしたら那桜の躰が融けだしているのかもしれない。
 いっそのこと意識を手放せたららくかもしれないと思っても、躰が独りでに応えそうな気がしてそれもできない。緩んだ自分のくちびるからこぼれそうになる液を何度も呑みこんだ。

「拓にぃ」
 ここにやってくるかどうかなどわからない。ただ、呼んでみた。もう一度。
「拓にぃ」
 それが拓斗に届いたかのように。
 那桜――。
 耳からではなく、胸の奥から響いてきた。幻聴というよりは、ひまわり畑での那桜の名を叫ぶ声が甦ったという感覚で、それに、願望という曖昧さもなくはっきりと届く。

「和、惟……放して!」
 躰をこわばらせて呻くように訴えた刹那、和惟の手はお尻に沿うようにしてあっさりと退いた。そうした感触も刺激になって那桜の躰はふるえる。
「証明できたのか?」
 そうからかった和惟の顔の輪郭はぼやけて見えた。何度か瞬きをすると焦点が合ってくる。すると、そこにはからかうといった表情ではなく、ただ孤独という陰が見えた気がした。

 同じだ。
 ふと、そんなことを思う。
 ずっとだれも那桜を見てくれなかった。母親として、父親として、そんな眼差しはあっても、どこか一線がある。和惟は那桜にやさしくても、見ているのは那桜じゃなく詩乃だった。拓斗の眼差しは感じたことがない――ふとしたときに目が合うとなかなか外せなかったけれど。唯一、見てくれた戒斗は大事なものを見つけて出ていった。
 そのときの置き去りにされた気分は、和惟の意地悪にあうたびに感じていたものと同じだった。
 けれど、いま目のまえにした和惟は、和惟自身がそんな気分でいたんじゃないかと思わせる。
 どんな理由があってそうなるのかは見当もつかない。
 那桜と拓斗が兄妹を越えてから、那桜はずっと和惟に甘えている。かつて詩乃にあった眼差しが、いまは那桜からぶれることがなく――那桜の幸せは唯一おれの歯止めだ、とその言葉は、和惟の那桜に対するなんらかのこだわりがあることを教える。

「……証明?」
 うまく頭がまわらないまま、那桜はためらいがちに問い返した。
「いつも負けてたくせに、なぜ意地を張るんだ」
「意地じゃない、の。拓兄をもう、裏切りたくないだけ。わたしはもう、わかってるから。拓兄をなくしたら全部が終わっちゃう。でも――」
 わたしが幸せじゃなくなったら、和惟の歯止めはきかなくなる。そうなったら……和惟はどうなるの?
「“でも”?」
「和惟がいないと怖くなることも本当。わがままだってわかってる。わからないけど、でもそうなの。わたしは幸せでいる。そしたら、ずっと変わらずにいてくれるんだよね」
 和惟はほぼ真上からじっと見つめるだけで、しばらく息さえも忘れたように微動だにしなかった。
「有吏の令嬢はわがままだな」
 始まりの日と似たような言葉が、おもしろがった声で降りかかる。
 欲張りな気持ちは、できるなら隠したいと思ってきたけれど、伝えておかなければならない、と、いま和惟に対してもそう思ったのは正しかったかもしれない。和惟のくちびるが、そう感じるほどゆるやかなカーブを描いた。

 そして、腕が緩んだ。
「行けよ」
 那桜の脚は頼りなく揺れる。なんとか踏んばって躰の向きを変えた。とたん、和惟の云った言葉の意味を理解した。
 海岸を仕切るコンクリート壁のところに拓斗がいた。いつからいたのか、ひまわり畑の光景が再現される。
 拓斗はけっして許容しているわけじゃない。もしかしたら、また時間は戻ってしまったのかもしれない。
 ただ、いまは那桜のなかに怯む気持ちはなくて、拓斗のもとへと一歩を踏みだした。足を取られるのは砂地であることと、火照っている躰のせいだ。歩くたびに体内から快楽のしるしがこぼれる。ショーツが濡れて不快指数があがる。それにかまわず、那桜はだんだんと足早になっていく。
 潤んだ瞳にようやくくっきりと拓斗の顔が見えたのは、ほぼ目のまえに立ち止まったときだった。

「拓兄」
 拓斗の瞳には何も浮かんでいなくて、那桜の躰を顔から足の先までたどっていく。
「わたしが選んだんじゃなくて、和惟のお返し」
 云い添えたことは逆効果だった。バースデイデートの夜にあった不機嫌さが感じられる。学習能力がないと那桜は内心で自分に呆れた。
「拓兄、来てくれてありがとう」

 あと一歩が近づけない。一言でもいいから何か云ってくれればいいのに。
 せめて、目を逸らしたり、置いてけぼりにしたりという、拓斗の無視がないことは救いだ。きっと、切ろうとしても切れないくらい、ふたりは強く繋がっているという証しなのだ――と思ったとき、ふいに十七歳の夏を境にした拓斗の変化に気づいた。
 それまでの、“ふとしたときに目が合う”というのを正確にいえば、那桜がふと視線を向けたときは目が合う、のほうが合っている。それはつまり、拓斗は気づかない間も那桜を見ていることがあったかもしれない。それも頻繁に、だ。
 そして、十七歳の夏を越えてから那桜を無視していた瞳、もしくは、無視しようとしていた瞳。それは、那桜が拓斗に入りこもうとしたからだ。
 その落差に言葉を当てはめるなら、“葛藤”だろうか。

「云いたいことってなんだ?」
 声は冷たく聞こえた。けれど、それは視線と同じで表向きにすぎない。
「拓兄が好き。知られて、バカみたいに怖いって思ってたけど、拓兄といられなくなることに比べたら、ほかのことはずっとマシ。拓兄の気持ちがあれば怖くない。有吏の家に戻れなくなっても、わたしはかまわない。わたしの気持ち、拓兄を傷つけるためにあるんじゃないから。傷つくときは一緒に傷つく。そして、一緒に堕ちるの」
「堕ちる?」
「わたしと拓兄、有刺鉄線の綱渡りしてるみたいだって」
 拓斗は首をゆっくりとひねった。
「堕ちない。隠れているから苦しいんだ。堂々としていればいい」
「うん」
 拓斗の断言を力強く感じながら、那桜はうれしくて大きくうなずく。同時に、一歩進んで拓斗に抱きついた。
 和惟がどれくらい触れていたのか、まだ余韻が残っている。拓斗に触れたとたん、躰の神経が剥きだしにされたように感じてふるえた。
「拓兄、シて? イってないの。壊れそう」
「我慢しろ。触らせた報いだ」
 素っ気なく云いつつも、那桜を抱きしめた腕は不機嫌じゃなく、何かを堪えているようにきつくて、こわばっていた。

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