禁断CLOSER#97 第3部 純血愛-out-

4.代償−Breakup− -7-


 いま頃――またそれらしき言葉でかわされるかと思ったが、惟臣はただしばらく口を噤んでいた。時計の秒針が、どんな力を持ってしても後戻りすることは不可能だと嘲笑うかのように鳴動する。
 そして、惟臣は短く息をつき、やおら目を開けた。
「和惟、衛守家が本家を出たのは首領の意があったからだ。だが、けっして衛守家を責めてのことではない」
 何を思ってのことか、惟臣は的外れなことを口にした。“首領の意”というのがなんなのかは曖昧なまま、和惟はさして可笑しくもないのに薄らと笑う。
 そうしながら、惟臣の返答はあながち的外れではないかもしれないと考え直した。一族狩り当時ではなく、その七年後に起こったことが、本家から衛守家を独立させるという、隼斗の決断に繋がったのなら、和惟が自ずと悟ったとおり、そこに那桜が関係していないはずがない。
「わかってる。あの日、おれが云いだしたことを止めなかったのは首領だ」
「約定に関して、おまえが那桜さまにつけられたことも制裁ではない。おまえを信頼してこそ、だ。おまえなら、首領と同じほどの苦辛を知っている」
「だから、わかっている。本家の高貴さを疑ったことはない」
 それでも、惟臣が口にして、多少なりと保証を得たような救いになったことは否定できない。
 惟臣がそうわかって云ったのなら――と考えて、自分の不甲斐なさに和惟はため息をつく。それと気づかれない程度にしたつもりが、先刻承知のように惟臣はしっかりとうなずいた。

「幼き頃から決められていたこととはいえ、首領は年端(としは)もいかないうちに詩乃さまを強引に(めと)られた。我々従者から見れば、いくら隠そうとされても、それだけのお気持ちが首領にあったことは明々白々だった。しかし、詩乃さまにとっては違っていた。それゆえ、首領は後悔はせずとも、些細なことからも守ることで不実ではないことを示されてきた。“あれ”は、そうできなかったどころか、詩乃さまを痛めつけた。首領は、だれかを頼るのではなく自分が、という、忠を尽くす意を詩乃さまに示すがために、一つの形として衛守家と距離を置くということをなさった」

 だれのせいにもせず、だれのためでもなく、自分への刻印。“隼斗の意”とはそういうことだった。和惟がそうであったように。
 そして、詩乃が衛守家の護衛を拒んでいるわけではない。不用意にそう考えると、和惟はここでも自らを嗤う。

「おれは那桜につくことを義務だとは思っていない。父さん、だから、知っているべき、じゃないのか」
「和惟、答えるまえに一つ、訊いておきたいことがある。首領は那桜さまをどう見られていると思う?」
 その答え如何で、惟臣が答えるか否かたる意思も変わるというのか。和惟は不可解に首を一度ひねってから答えた。
「首領は人のまえで心情を明かさない。けど、六才以前も以後も那桜の扱いは変わりない。おれにガードが任されるまえ、首領自身が那桜の送迎をしていたことは、首領なりの娘への愛情表現だと思っている」
「……。そのとおりだろう」
 惟臣は、最初の儚んだそれとは違うため息をついたのち、安堵した様で同意を口にした。
「それで?」
 和惟が促すと、惟臣はいったん口を結んだあと語りだした。

「あの日、首領が何をお考えになったのか――おまえを見舞うまでの二週間、首領と詩乃さまは篤生会(とくせいかい)の一室にこもってすごされた。もちろん、首領に限れば緊急の用件は別だったが。詩乃さまは特に人と会うことを強く拒絶された。医者も、だ。当然、無傷ではない。それどころか、処置はしなければならなかった。医療行為は、篤生主宰の指導を頼りに首領ができ得る範囲で代行された」

 篤生主宰は篤生会総合病院の医院長であり、いまの惟臣の発言を聞くかぎり、一族狩りの経過についておよそのことを知る、数少ない者のうちの一人だろう。那桜の出産にも立ち会っているはずで、肺炎のときは間違いなくそうだ。那桜に限らず、主治医として表分家はだれもが篤生主宰には世話になっている。病院の最上階は特別病棟として常に一族のために空けられている。和惟の入院時も例に漏れず、そのいくつかさきの病室に詩乃たちがいたとは、いまに至るまで知らなかった。
 和惟は顔を険しくして肝心なことをただした。
「……避妊は?」
「勧められた薬は詩乃さまの躰に合わなかった。飲んですぐに戻してしまったらしい」
 だが、なぜ。単純な疑問が浮かぶ。
 そんな和惟をよそに、惟臣は重々しく「那桜さまは」と、和惟が最初にした質問への答えを切りだした。
「予定よりは一カ月ちょっと早くお生まれになった。三月二十四日だ」
 その日は、ちょうど那桜の誕生日とされている四カ月まえだ。
 一時(いっとき)、和惟は強く目をつむった。知識をもとにすれば、あの夏と計算は合う。
 惟臣はよりいっそう気難しい顔で続けた。
「何かの拍子で事件が明るみに出たとき、少しでも疑われる余地がないようにと首領が取り計らわれた」
「だから首領夫人は実家へ?」
「そうだ。一族の目にも触れてはならない。細心の注意を払う必要があった。おまえもわかってのとおり、詩乃さまの具合がすぐれなかったのは事実だ。そのせいか、生まれるまえから那桜さまは標準より小さかった。お生まれになってからも、早産したことでなおさら成長は遅かったんだが、それは出生をごまかすには幸いした」
 それらが那桜のためというのはわかる。だが。
「なぜ、だ」

 堕胎。そんな方法もあっただろうに、隼斗は何を心に秘め、そうしなかったのか。あるいは詩乃の意思なのか。もちろん、意思がなければ産むという選択をするはずがない。いまとなっては、そんな残酷な忌むべき言葉を口にすることははばかられる。
 ぼかしてみたが、質問の意図は通じている。惟臣は和惟と同じように苦渋の色を浮かべた。
「首領は那桜さまがお生まれになったとき、『知らないでいいことは知らないでいい、それだけだ』と、そうおっしゃられた」
 そして、“知らないでいいこと”は六年後に表面化した。
 あとのことはもう聞くまでもなかった。

 那桜。その名は詩乃が命名した。“桜”の季節に生まれた那桜に、何を託し、その名を添えたのか。

「拓斗は那桜を実の妹とは思っていない」
「……どういうことだ」
 惟臣は見るともなく見ていた窓の外から和惟へと視線を向けた。
「隠していたことが(あだ)になってる」
 惟臣は視線を和惟に置きながらも焦点は合っていない。ついさっきの拓斗との会話でも思い巡っているのだろうか。やがて、その目はじっと和惟を見据えた。
「和惟、首領が口にしないかぎり、だれにも漏らしてはならん。総領といえども然り」

 知らないでいいことは知らないでいい。
 それがいつまで通用するのか。いや、通用しなければならない。
 苦辛が宿命であってはならない。

 *

「拓兄、会いたいの」
 和惟の目のまえで、遠回しでもなんでもなく、電話越しに那桜は訴えるような声音で直截(ちょくせつ)に云った。拓斗がなんと応じたのか、那桜の笑顔はわずかずつかすんでいく。
「云っておきたいことがあるの」
 今度も拒否されたのだろう、笑顔は消えて浮かない面持ちになった。
「直接じゃないと伝わらない。顔を見て云いたいの」
 那桜の顔は晴れることなく、またもや拒絶されたことは窺える。ただし、ここ二カ月にあった、憂えた表情ではなく、那桜が生まれながらにして携え持ってきたといっても過言ではない、挑発的な様に変わった。
「いまじゃなきゃだめ。云えなくなるかもしれない――」
 和惟は躰を折って那桜の口もとにくちびるを寄せた。
「和惟っ」
「拓斗」
 那桜の驚いた声をさえぎるように和惟は呼びかけた。同時に携帯電話を持つ那桜の右手に左手を重ね、耳から少し離させる。言葉ははっきりしないが、拓斗が何か応じる声が漏れてきた。
「首領は軟化している。条件なしで那桜を外出させた。そのことで含みずみだとはわかるだろう。ちょっと会ってやるくらいなんだ」

 正確には、隼斗は怖れているのかもしれない。拓斗が逆らったいま、そして、那桜を守ろうとする意思がある以上、約定を強行することで、知らないでいいことが知れてしまうことを。知っている者が皆、怖れているように。
 そうなったときの新たなる傷は計り知れない。
 約定で那桜を犠牲にする意味がどこに存在するのか、それは那桜が詩乃の二の舞にならないよう、さらにだれも犠牲が出ることのないよう、そんな決意が潜んでいることは違いない。
 あまつさえ、隼斗が和惟に那桜を託したのは、守る以上のことを期待したからだろう。もしかしたら隼斗は、和惟の詩乃へのこだわりを見抜いていたかもしれない。だから隼斗は、和惟なら那桜を裏切ることはない、あわよくば愛せると思った。
 和惟自身はそのこだわりの意味を勘違いしていた――というよりも、この海で那桜に覚えた感情は未知だった。

『云ったはずだ。まもなく解決させる』
 電話越しの拓斗は至って平坦に、いつものごとく融通の利かない答えを返した。
「それはそれでいい。けど、いま会うのは拓斗、おまえのためだ。那桜からちゃんと保証をもらっておけ」
 そう拓斗に達したあと、受話器のすぐ傍で和惟は那桜のくちびるをふさいだ。
 ん、うっ。
 呻いた那桜の手が緩み、携帯電話が滑り落ち、那桜、と呼ぶ拓斗の抑制した声を遠ざける。突っぱねようとした手が和惟の胸に当てられたのと一緒に、那桜の腰を抱きとって自分の躰に密着させた。

 愛してる――引かれたレールに生まれるべき感情。そんな前提で和惟に決められた“期待”は、隼斗が目論んでいるだろう時期を待つまでもなく成立した。
 那桜の悪戯なキス。
 和惟は自分の弱さに抗い、それまで寄ってくる女を追い払ったことはない。意味のわからなかった行為に正解を見つけようとしていたかもしれない。
 那桜の未熟なキスは、女たちがよくやる、催促するキスでもなく期待するキスでもなかった。
 わがままな気まぐれでキスを押しつけてきた那桜は、あまりに無防備すぎて懲らしめたくなった。三度めのキスは那桜を戸惑わせた。不思議そうにした反応がまっすぐすぎて、四度めのキスは和惟から思考力を奪った。
 そして、躰の中心が疼くという感覚を知った。
 なぜ、那桜、なのか。それは、記憶から這いだそうとする渇望だったかもしれない。和惟は那桜の顔に浮かぶ、詩乃の面影とは別にある陰影に気づいた。
 あのときに和惟がなくした“男”は、あのときに生まれた那桜によって取り戻される。そんな皮肉な構図のもと、ぬかるんだ地でもがくような苦しさと裏腹に本能が訴える。自分のものにしたい、と強迫観念に囚われたような欲求を心底から抱いた。
 一心同体。未知どころか、和惟にとって、那桜との間にしか成立しない宿命。

 くちびるを離すと、那桜が音を立てて息を継いだ。
「拓斗、来い」
 砂にまみれた携帯電話に吐き捨てた。那桜が睨めつけるように見上げる。
 だが、その瞳はキスの余韻に潤んでいて迫力に欠けている。むしろ、いざなっているかのようだ。
 那桜の腰をいっそう強く抱いてコートを剥いだ。寒空のなか、那桜が身ぶるいをして、反射的に和惟に躰を寄せる。右手をワンピースの下に潜らせ、そして、止める隙を与えずショーツをずらしながら、和惟は那桜の中心に触れた。
「あっ、和惟っ」
 那桜は腰を引くようにして躰をふるわせた。やわらかい突起が指の先でくねる。指の腹で引っ掻くようにすると、そのたびに和惟の腕から逃れられない那桜がぴくぴくと躰を押しつけてくる。
 あっ、あっ。
 那桜は空を仰いで嬌声をあげる。悲鳴じみているのは抗議を含んでいるせいかもしれない。
 すっと奥へと滑らせると、敏感な那桜はすでに熱く粘った蜜を漏らしていた。

 和惟は息をつくように笑い、那桜を離した。唯一の温もりを保証する体温がなくなったためだろう、那桜は後ろによろけながらぷるっと躰をふるわせている。そうしながら那桜のきっとした眼差しが向く。やはり効力はなく、熱に浮かされたようにかすかにくちびるを開いている那桜は和惟を煽るだけだ。
 那桜の身を纏う真っ白な服が風になびいて、ぎりぎりのところまで脚がさらされる。色が表す清純さとは紙一重で――。
「ひどくエロティックだ」
「和惟、寒い!」
「顔は赤いけどな」
 ずばりと指摘してごまかしを退けると、那桜はくちびるを咬んでばつの悪そうな顔をする。そして、ふと思い当たったように視線が落ち、那桜は和惟に近寄ってきた。那桜がかがみかけた刹那、和惟のほうがさきに携帯電話を取りあげた。ほぼ同時に躰を起こすと、和惟は再び左腕で那桜を抱きとった。
「和惟」
 非難を込めた呼び方だ。和惟は嗤う。
「電話は切るか? それとも聞いてほしいか?」
「拓兄、来て!」
 那桜はまっすぐ和惟を見たまま訴えた。どうやったら和惟の気を挫くか、那桜はよく知っている。
 ただし、今日は場所が悪い。おまけに素直に那桜を守るような気分にもなれない。和惟は那桜を見習ってわがままを吐く。
「たまにはおれを愛してるって教えてくれてもいいだろう」
 那桜は云い返しもせず、ただ黙りこくった。そうすることが拓斗にとってはどんなに残酷なことか、気づかないほど那桜はわがままだ。

 和惟にも矛盾はある。那桜を欲しながらも、片方で突き放して孤独を沁みこませた。那桜に愛されることをどこかで拒んでいたかもしれない。
 あの男たちを赦免するようで。

 おれはそうやって那桜を裏切った。

 和惟は携帯電話を耳につける。
「拓斗、証人になれ」

 後戻りもできず、取り返しもつかないなら、せめて、後悔、という名が那桜に及ばないよう――。
 この海で誓おう。

「那桜、愛してる」

 始まったこの海で交わしたキスに嘘はなく、このさき、どんな手段であれ、どんなことであれ、那桜を汚そうとする奴を、おれが、容赦することは、ない。

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