禁断CLOSER#96 第3部 純血愛-out-
4.代償−Breakup− -6-
ふさいだ那桜のくちびるは驚いた反動でたやすく和惟を受けいれた。
忘れていたキスの感覚は、那桜の熱くしとった舌に触れると同時に鮮明に甦る。
だから? そう促し――。
だから――。言葉に発せられなかった那桜の訴えが相まって、ずっと保ってきた抑制が渇望に入れ替わった。
逃れようとする那桜と追いかける和惟の舌が互いを刺激しながら絡まる。無理やりに追っていると、和惟の口のなかに吐きだされる呻き声は抵抗から容認へとトーンを変えていった。
わがままの代償。
そんな自分の心の動きを、那桜はわかっているのか、いないのか。
左手を背中からまわして那桜の左腕を取る。そうやって抵抗を封じると、ワンピースの裾から右手を忍びこませた。インナーの下に潜り、上へと手のひらを這わせると短いワンピースはまくりあがった。
んっ……んんっ。
那桜は躰をよじりながら抗議を示して、苦しそうに精いっぱいで顔を振る。和惟はくちびるを放した。
「……和惟っ」
那桜は喘ぎながら批難めいた瞳を向ける。
那桜と拓斗が互いを認め合ったいまでも、和惟はほぼ無意識下で那桜に触れることがある。そういうとき、那桜はつい今し方のように名を呼ぶことで引き止めてきた。
「那桜」
首をのけ反らせて仰向いている那桜を間近で見下ろし、つぶやいた声はやはり無意識だ。そんな和惟の声音に何を感づいたのか、那桜はじっと見上げてくる。
「何を考えてるの?」
その声には怯えが見えた。
那桜は意識してやっているのか、気まぐれに必要だという欲求をぶつけてくる。今日、小森美鶴の発言もその気まぐれのきっかけになったのだろう。
和惟にとって“決められた人”――それは直接的には違っても、ほかならぬ那桜であるのに。
「愛してる。ただそれだけだ。おれは那桜に嘘はつかない」
和惟にはどこにいても、ほかのどこにも行き場はない。そんな場所を求めてもいない。
ついさっき、いつの瞬間もともにいることを保証してやった。那桜が安穏とした幸を取り戻せるまで。それは嘘じゃない。
それでも頼りないほど那桜の足もとは不安定に揺れている。
「拓兄に電話させて。会いたい」
和惟の腕にいながら那桜が試す。
愛してる。どんなに誓っても那桜の心底には残らない。
それは、独り、ということを那桜に植えつけた、和惟のわがままの代償だ。
「そうすればいい」
和惟はシャツの胸ポケットから携帯電話を取りだした。番号を呼びだして通話ボタンを押すと、拓斗が「なんだ」と応じるのを待って那桜に渡した。自由にしてやった左手で携帯電話を持つと、半信半疑で那桜は耳に当てた。
「拓兄?」
そう呼びかけたあと、どんな応えがあったのか――すぐ傍にいても聞きとれなかったということは“ああ”という定番の短い返事だったかもしれないが、直後に一瞬にして那桜のくちびるが泣きそうに、そして、うれしそうに広がった。
和惟にはただ甘えるだけで、泣かせても笑わせても、那桜がこんな眼差しで自分を見ることはない。まるで目のまえに拓斗がいるかのようにその瞳にはひたすらさが覗く。
拓兄が好き。拓兄といたい。拓兄に会いたい。
求める名がけっして“和惟”になることはない。最初から、こんな顔をさせられる拓斗に敵うわけがなかった。
妹――として、見ていない拓斗に。“生まれたばかりの”那桜を抱いた瞬間から、兄になりきれなかった拓斗に。
『おれは、那桜を身ごもった母さんを知らない』
拓斗がどんな結論をいまになって見いだしたのか、いや、幼き頃にすでに見いだしていたのだろう、それがどういうことか――ひまわり畑の泥まみれのふたりが和惟の脳内にちらつく。その結論があっても拓斗が那桜に無償の庇護を尽くしたのは、心底にそれほどの決意、あるいは欲求があったからにほかならない。
一族狩り。
和惟をさいなむ不祥の言葉が明確に突きつけられたのは、つい一か月まえだった。
秘匿として封印してきたことを抉じ開けたのは、二年まえ、拓斗が覚悟を決めてからのことだ。和惟は忌むべき残像を追い求めた。
そして、拓斗が疑惑を口にした。
蘇我との約定が揺るぐ以上、二度と――そんな言葉さえ発したくないが、不祥の言葉からは逃れられない。一度たりとも口にはするな――六歳だった和惟が厳命を甘んじてから、はじめて惟臣に問いただした。
*
「二十二年まえのことはなんだったんだ」
拓斗が帰った直後、応接室に惟臣を呼び戻して出し抜けに口火を切った。
惟臣はその顔に苦渋をよぎらせて首をひねった。
「いま頃それを知ってどうする」
「“いま”になったから知りたいと思っている」
「嗅ぎまわったらしいな」
「そう知っていて止めなかったんなら、応えてもいいだろう」
止めなかった、ということが、いま本家に起きている波風に対する惟臣の心境を物語っていると思うのはこちら側の身勝手か。
惟臣は眉間にしわを寄せ、腕を組むと口を一文字に結んだ。
「拓斗が約定を拒むということは、危機を孕むということだろう。蘇我の無法ぶりは古来、身に沁みてきたはずだ」
和惟が続けると、惟臣は肺の空気を出し尽くすように深く息をついた。
「おまえは行き当たったんだろう。蘇我は我らが一族を、あるいは本家を地位ある者と位置づけ、あぶりだす手段として当時の有力者を標的にした。一族狩り、だ。そのうちの一人が――」
惟臣はためらうのではなく、あえてそこで言葉を切った。
当然だ。そのさきは和惟には必要ない。
あの一刻一刻が背中の傷とともに心底に刻印され、目を背けようとする脆弱な意が働かないかぎり、いつでも鮮明に甦る。
*
盆をすぎた日曜日の午後。
日陰になった風通しのいい縁側で、当時、首領であった祖父の継斗から将棋を教わる四歳の拓斗。はいはいをしてふたりの邪魔をする機会を狙っている生後九カ月の戒斗。そんな姿を眺めながら、座敷に集った二つの家族。
残暑が厳しい、ごくあたりまえの一日が惨劇に変化する要因はなんだったのか。
例えば、首領夫人であった百恵が、くず餅つくろうかしら、そんな一言を発しなかったら。
例えば、惟均が、蜜が切れているのに、かき氷が食べたい、そんな一言を訴えなければ。
例えば、咲子が、くず粉と蜜ね、じゃあ買ってくるわ、そんな一言を云いださなければ。
そして、わたしも一緒に行っていい? 詩乃がそんな気まぐれを起こさなければ。
何より、和惟が、僕が護衛するよ、そんなよけいなことを申し出なければ。
任せたぞ。惟臣が案ずる横で隼斗がかけた言葉に、たかだか六歳の子供だった和惟は誇らしい気持ちになった。
駅近くのスーパーまで十五分。二つのパラソルの間を行ったり来たりしながら、歩いて向かった。
ここでも――例えば、車で行っていたら。隼斗か惟臣か、あるいは祖父たちか、少なくとも大人の男が付き添うことになった。ただ、母親たちは日頃から“散歩”を好んでいた。
そんな大したことのない日常が暗転したのは、買い物をし終わって外に出たときだ。パラソルをカートにかけたまま忘れてしまったといって、咲子が店内に引き返した瞬間のこと。
すっと目のまえに来て止まったワンボックスカーのスライドドアが開いた。
「大雀の娘だな」
男にしては甲高い声が、詩乃の旧姓を口にした。品のなさもそうだが、そんなことよりも詩乃のことが名指しされたことに、和惟は幼いながらも不審を抱いた。
違う、と否定するより早く、詩乃が何を察したのか、「和惟くん!」と呼んだ。おそらく、そのさきに続くのは、逃げて、そんな言葉だったのではないか――そう判断したからこそ、和惟は逃げなかった。その間にも、車から降りた男が詩乃をさらう。
「詩乃ちゃん!」
咲子が店のなかから叫ぶと同時に男がスライドドアの取っ手に手をかけた。
何も考えている暇はない。和惟はとっさに車に飛び乗った。そうしたのは、『衛守家は本家を護るためにある』と、常に惟臣から聞かされているからだ。
クソガキ。そんな罵声で呼ばれた和惟の目に、車を追いかけてくる咲子が映る。それは支えだった。叩かれた頬の痛みも薄れる。
大丈夫だ。
やめて! そう叫ぶ詩乃に抱き寄せられながら和惟は自分に云い聞かせた。
詩乃は冷静だった。まだ二十一歳という若さでありながら、すべてを受容するといった淡々とした印象はいつものことだったが、こんなときも取り乱さず、細い腕で和惟をかばう。
それが和惟を少し落ち着かせた。ズボンのポケットに携帯電話が入っていることを思いだす。
助けは来る。
そう確信はしたものの、幼い和惟はやはり非力だった。
助けが来るまでの惨状は筆舌に尽くしがたい。
フェンスに囲まれた工事現場のなかに車は進み、四人の男たちに無理やり外に連れだされて和惟と詩乃は引き離された。
「やめろ!」
腕をつかむ男の手を振りきり、和惟は詩乃に駆け寄った。両腕を取られ引きずられる詩乃にもう少しで届くという刹那、背中に煮えたぎるような熱が走る。
ぐわぁ――っ。
その地の底から唸るような声は自分のものだったのか。
「和惟くん、大丈夫だからっ」
詩乃が慌てるのは自分のためじゃなく、和惟のせいだ。煽られた“げす”男のへらへら笑う声がフェンス内で反響する。
「へぇ、『大丈夫』、かあ。この阿魔、大したもんだな」
うずくまった和惟への関心は逸れ、男たちは詩乃にたかった。
陵辱の始まり。
和惟はズボンのポケットから携帯電話を取りだした。まさか子供が持っているとは思わないほど携帯電話は普及していない。男たちは見向きもしないが、ボタンを押す和惟の手はふるえている。
そして、電話はコールもなく通じた。
『どこだ』
互いの名も口にせず、ただ静かな隼斗の声が和惟の鼓膜を振動させた。
「大きな工事現場、十階建てくらい、白くて高いフェンス、鉄塔、電車の音、アルファベットで“スガビルディングカンパニー”」
目を凝らし、耳をすまし、和惟は急くようにキーワードを並べた。
「よくやった。このまま繋いでおけ。すぐ行く」
その言葉を最後に和惟は携帯電話を放りだした。
立ちあがった瞬間に背中から脚へと伝う、ぬめった感触。けれど、背中の痛みよりも胸の奥が痞えたように苦しい。
和惟の目についたのは詩乃の白い脚。その間に下卑た男の尻が見え、すき間から飛びだした詩乃の素足はぶらぶらと揺れている。
そこでなされている行為の意味などわからなかった。
卑しい笑いに囲まれた詩乃のところへと、再び和惟は向かった。
一人の男を引き剥がした瞬間に見た詩乃は目を閉じ、まったく感情に欠けていた。恐怖、そして痛みすらも浮かんでいない。
「このガキ――っ」
「へっへっへ。おまえも加わるか。ちーと早いが、坊ちゃんのためにはなるなぁ。女の躰、よう覚えとけ。ひひっ、テクを伝授してやる」
引き剥がした男から投げ飛ばされた和惟を、別の男が扼して詩乃の近くに引きずった。
ぼろぼろに裂かれた服、はだけた胸、男のそれと密着した下腹部。それらが一瞬にして和惟の脳裡に焼きつき、その衝撃と背中の疼きに目がくらんだ。
叫ぶことはかなわなかった。なぜなら、詩乃が和惟をかばおうとする。それが男たちを焚きつけるだけなら。和惟には何もできない。
首根を押さえられ、動くこともままならないなか、かわるがわる詩乃を穢す男たちを忘れないと誓った。
その惨劇は、パトカーのサイレン音が聞こえてくるまで続いた。
遥か遠くから、幼い子供までもがそれとわかるサイレン音が聞こえたとたん、男たちは性器を出したままというみっともない姿で立ちあがった。
「おいっ、逃げるぞっ」
「親分、須我に置いてくのはまずいっすよ!」
「我立会の――」
「バカヤローっ口にすんじゃねぇ! 捕まるほうがまずいだろうがあ!」
男たちは安っぽいズボンを正し、怒鳴り合いながら引きあげていった。
解放されても自分の躰すら隠すことはせず、人形のように微動だにしない詩乃の傍らで、意識が朦朧としながらも和惟はその到着を待った。
サイレン音はただ“音”というだけだったのか、やってきたなかに警察官は一人もいなかった。
「ここで待て。おれだけでいい」
隼斗の抑制された声が轟いた瞬間に和惟は意識を失った。
和惟には、何がどうなったのか、訊かれることもなければ知らされることもなかった。それが、口にしてはいけないこと、和惟にそう教えた。
二週間後、入院していた和惟を見舞った詩乃は、大丈夫よ、と微笑みながらなぐさめた。
あのなかで無感情だった詩乃とはあまりにも違っていて、だからこそ詩乃が努めてそうしようとしていることを知って、そうさせてしまう自分自身が詩乃を穢してしまったような気がした。
詩乃にとって、あれに耐えるには心を動かさないこと――そうならざるを得なかった。和惟が、すべてを心底に刻みつけることで慟哭を堪えたように。
*
まるで運命のように受けいれた詩乃。
だが、あれから七年後。受け入れたはずの運命はひまわり畑で綻びた。
生死をさまよう那桜。調べられた血液型。
和惟には一切、真相を知らせることなく、いや、本家と衛守家の当主と総領しか知らされず、果てに決められた約定。
それらを自ずから見いだしたのは、那桜と触れ合うようになってからだ。調べなくとも見当をつけた。
那桜の送迎につきだしたのは中等部という、子供から大人へと変わりかける頃で、ふとしたときに二十歳前後の詩乃が重なる。そして、心底に刻印された記憶が少しずつ開いていったのだ。
約定において那桜の従者という役目を与った和惟は、その当時、理不尽だと思った。自分が守らなければならないのは詩乃だ。ずっとそう自分に定めてきた。
それをひるがえしたのは那桜の未熟なキスだった。反応することに嫌悪していた和惟が、いや、それ以前に欲求すら覚えず、だれにも反応したことのない和惟が、脆弱さを打破し、男になれた瞬間だった。
定め、ではない、欲求。
“一族狩り”は、有力者から旧家に及び、期間をおいて繰り返されていた。暗の一族ならいずれ蘇我だとたどり着く。いずれというまでもなく、蘇我一族である須我建設、我立会と、和惟と詩乃のまえで曝露された。蘇我は報復という反応がほしかったのだろう。そうすることで繋がりが見えてくる。
だが――。
「蘇我は有吏を見くびっている」
犠牲が本家ならなおさら衝動は抑制される。それが、一族を無我で追随させる長たる“有吏家”だ。
惟臣はかすかにうなずいた。
「云うまでもない」
そして、隠されていることは一族狩りのことだけではない。
「那桜が生まれたのはいつなんだ」
また唐突に訊ねた瞬間、空気は張りつめ、惟臣は眉間にしわを寄せて目を閉じた。