禁断CLOSER#94 第3部 純血愛-out-

4.代償−Breakup− -4-


 那桜の不機嫌を察している和惟は無難に口を閉じていて、目的地を云わないまま車を走らせた。
「どこ行くの?」
 住宅街、大学の街、オフィス街といくつか街を通り越して那桜は訊ねてみた。
「行きたいとこがあるなら連れていく」
「どうでもいい」
「どこか連れていけってうるさかったのにな」
「ずっと閉じこめたがってきたのはそっち。いまは出たくないって思ってるのに連れだすなんて意地悪か……」
 言葉を濁すと和惟がちらりと那桜を見やった。
「意地悪か、なんだ?」
「計画的」
 ぼそっとつぶやいて那桜はそっぽを向いた。頭の後ろで和惟のため息が聞こえる。
「那桜を臆病にするために加担したんじゃない。拓斗は律儀すぎるし、那桜はおとなしいし、だからけしかけてやったんだ。周りを固めることは必要だ。けど、正面からぶつかるほうが効果的なこともある」
 和惟が話している間に車は活気づいた場所へと入り、那桜はその人通りを眺めながらしばらく黙った。シックで品格を備えた佇まいの店が多く並び、歩道を歩く人々は雰囲気にどこかゆとりを感じさせる。
「無理。お父さんのこと怖いって思うから」
「……思う?」
 やっと口を開いたかと思えば、那桜のうやむやな云い方に鋭く気づいた和惟が問い返した。
「よくわからないけど、お父さんに近づきたくない感じ。だから、どう振る舞っていいかわからないの」
 そう云うと、今度は和惟が黙りこんだ。

 追及されても答えられることではないからそのほうがいい。漠然としたこの隼斗に対する気持ちは、“忘れろ”という声と繋がっている気がしてならない。
 拓斗が闘うと云った日以降、何度か応接間のまえまで行った。あの日に陥った、怯えなければならないほどの奇妙な感覚を確かめたかった。けれど、なぜか鍵も何もない襖が開けられない。足がすくんで、危うくするとその場から離れることすら難しくなる。
 拓斗が感情を閉じこめたCLOSERであるように、那桜にもまた、クローズしてしまったなんらかがあるのだ。
 忘れろ、とそれが拓斗の声なら。
 ――おまえはずっとおれの云うことをきいていればいい。
 那桜にはやっぱりその言葉がすべてだ。

 ふたりともが沈黙したまま車は地下駐車場に入っていった。
 車を降りて地上に出ると和惟が那桜の手を取り、さっきまで眺めていた人たちのなかに紛れこんだ。洋服やアクセサリーなどのファッション関係の店が立ち並んでいる。
「好みっぽいのがあったら教えてくれ。なんでもいい。ヴァレンタインのお返しだ」
「でも出かけることはないし、買っても――」
「すぐに出かけられるようになる」
 和惟はさえぎったうえに断言した。素直に期待するほどもう子供じゃない。那桜はいまの和惟の言葉にも、そのまえの『教えてくれ』という要望にも答えなかった。

 和惟は催促することなくゆっくりした歩調で人の流れに沿う。このまま那桜が答えるまでまっすぐ進むだけなのだろうか、とそう思っていると和惟は弧を描くように方向を変えた。
 そのさきには、クリーム色の塗り壁という清楚な雰囲気のブティックがある。ショーウィンドウのディスプレイを見ると、二十代がターゲットだろうというフェミニンな出で立ちのマネキンが飾られている。
 那桜は店まえのちょっとした段差を上りながら、入り口の上にあるサインボードを見上げた。ブティック名は“GIRLsFirst”。どこかで聞いたことがある気がする。ドアを支える和惟の脇をすり抜けて、那桜はさきになかに入った。
「いらっしゃいませ」
 二十代半ばくらいの店員からお決まりの歓迎を受けながら那桜は店内を見回した。
 ブランドカラーは年中こうなのか、色は濃淡問わず豊富にあるけれど、デザインがひらひらして春っぽい服が多い。店内は那桜よりちょっと年上だろうかという女性客がそれなりに散らばっている。
「和惟、ここ来たことある?」
 和惟は迷いなくこの店に入ったように思えて那桜は訊ねてみた。和惟は肩をそびやかす。
「深智に訊いた。那桜が好きそうな店を教えてくれって」
 なるほど、どこかで聞いたことがあると思えば、深智にいつか訊ねたことを思いだした。そのとき深智は確かにここの服を着ていた。段々のフリルチュニックがふわふわと可愛くて、那桜はうらやましそうにしたかもしれない。けれど、自分に似合うかというのは別の話だ。
「好きなのは深智ちゃんだよ」
 云い返すと和惟は、那桜のいまの恰好と店の服を見比べ、何を思ったのか口を歪めて笑った。
 ミリタリーふうのバルーンショートパンツにシンプルTシャツ、それにルーズなニットカーディガンという今日の那桜の恰好は、ここの雰囲気とは逆にボーイッシュな感じだ。
「かもしれないけどせっかく入ったんだ。見てみたらいい。おれが選んでもいいけど」
 それまではどうでもよかったのだが、和惟の『せっかく』という言葉に那桜の気持ちも切り替わる。
「そうする」

 那桜は自分でなした宣言を合図にして、和惟が横に控えるなか、洋服を片っ端から漁り始めた。
 服を手に取ってかざしてみるたび、何を見て取ったのか、あるいはいつものように和惟の気を引くべくということなのか、店員は「ご試着どうぞ」と愛想よく声をかけてくる。着せ替え人形さながら衣装を変えるたびに和惟に見せた。その反応を鑑みながらトーナメント方式で取捨選択をしていき、ようやくトータルで服を決めるまで、三つの試着室のうち一つは那桜の貸し切りになっていた。
 最初はそれほど気乗りしなくて半ばやけっぱちだったけれど、ほかの客への遠慮した気持ちをそっちのけにしてわがままに振る舞ってみると、試着するのがだんだんと楽しくなっていった。
「これにする」
 前面が短く後ろはマキシ丈というアシンメトリーラインの萌黄色をしたワンピース、ナチュラルベージュのウェッジソールサンダル、それに裾にフリルのついたウエスト丈のコンパクトなジャケット。ちょっとリゾート向けのような恰好だが、そんなイベントとは無縁なだけに新鮮に感じて那桜を晴れやかにさせてくれる。
「いいんじゃないか。プラスであのストローハットだ」
 和惟がディスプレイされている帽子を指差すと、さっそく店員が動いた。縁がくるっと外巻きになっていて、同じ麦わらでつくられた大きなコサージュが最大のポイントという帽子を被せられた。鏡に映る姿はますますバカンスという雰囲気になった。
「いい感じ」
「ひまわり畑でも海でもよさそうな恰好だ」
「うん」
 和惟の言葉――“ひまわり畑”は拓斗を思い起こさせ、那桜はわずかに顔を曇らせた。鏡を通してそれを悟った和惟が頭の後ろで息をつく。そして、その目は違うところに逸れた。
「那桜、こっちも着てみて」
 振り向くと、和惟が店員から真っ白のチュニックワンピースを受けとって那桜の手に押しつけた。首をかしげると、「いいから」と促す。
「どうぞ。色が白くていらっしゃるのでお似合いだと思いますよ」
 店員の誘いもあり、再び試着室に入った。まもなくドアがノックされて、「足もとはこれでどうでしょう。甘さが控え目になりますから」とベージュのニーハイブーツが隅に置かれた。

 那桜は着ていた服を脱いだあと、シフォンというデリケートな素材だから爪で引っかけないよう慎重に扱いながら着てみた。ワンピースは下手にかがめば下着が見えるんじゃないかというくらい短い。ブーツを履いてみるとヒールの高さもあってかなり脚が長く見える。
 試着室を出たとたん、和惟は目を細めて那桜を眺めまわした。プリーツの四段フリル、袖はレースで肌が透けて見えるのだが、どこが和惟のお気に入りなのか、満足そうな様で那桜を見る瞳がフェロモン系の毒気を含んだ。
「いい感じだ」
 那桜が怪訝に首をひねると、和惟は含み笑って控え目な称賛を口にした。からかうような声だから、そう勘繰ることもないのだろうか。
 そして、和惟は店員に向かった。
「このまま着ていく」
「和惟、このままって寒いよ」
「コートを着ればいい」
 そう云いながらまた店員に向かい、「似合いそうなのを持ってきてもらえるかな」と和惟は依頼した。店員は跳ねるように反応して、すぐさまブーツの色より少しピンクがかったステンカラーのコートを持ってきた。羽織ってみると、スカラップの裾が効いて、どちらかというとセクシー寄りに見えていた印象をキュートな感じに変えた。
「いかがですか」
「これ、好きかも」
 那桜が首をかしげて和惟を窺うと、「じゃ、このままお願いします」と和惟は店員に告げた。

 店を出ると、今日の天気のように少しすっきりして久しぶりにはしゃぎたくなるような気分を味わった。買い物はフラストレーションを払拭してくれる。めったにしないことだから、那桜にとってはなおさらだ。ただし、太腿辺りは心もとない。風に吹かれて恥をかくという事態はかろうじてコートが防いでいる。
「和惟、いっぱいありがとう」
「おれからはいまのスタイルだけだ。さきに那桜が選んだのは拓斗から」
 そう聞いた瞬間、那桜は立ち止まった。手を後ろに引っぱられた形になって和惟は足を止めて振り向く。しおれるのではなく、むっつりした那桜の顔を見ると和惟は笑った。
「文句は拓斗に云ってやれ」
 和惟は強引に那桜の手を引いた。つまずきそうになって那桜は渋々と足を踏みだす。ここで転んでしまったら最悪なシーンが展開されることは目に見えている。
 和惟はどこに行くとも云わず、ただ歩いていく。またもや行く先は決まっているみたいだ。
「いま何時?」
 訊ねると和惟が那桜の手をつかんだまま左手を上げた。
「もうすぐ十二時だ」
 一緒になって腕時計を覗きこむと同時に和惟が答えた。GIRLsFirstには二時間近くいたようだ。
「次はどこ? こっち、駐車場と反対だよね?」
「この時間にすることは決まってるだろう」
「あんまりおなか空いてないけど」
「それでも食べるべきだ。やせっぽちじゃ物足りない」
 何が物足りないのか、追究するのはやめておいた。

 大通りから横道に入ってしばらくすると、ウェルカムボードが置かれた店のまえで止まった。カントリーを意識したような雰囲気だ。
 和惟は木枠のドアにかかったプレートを確認してからドアを開けた。そのことから和惟もはじめて来る場所らしいとわかった。それでも迷う素振りもなくたどり着いたことを考えると、やっぱり何かを目印にするという地下迷路遊びの成果なんだろうと那桜はつまらないことを考えた。
 店は外からちらりと見えたとおりレストランだった。和惟がドアを開けると、それまでなんともなかった食欲をそそるような匂いが漂ってきた。
 いらっしゃいませ、と近寄ってきた店員に和惟は予約している旨を伝えた。
 案内される間、那桜は和惟の背中しか見えなかったのだが、てっきりふたりきりで食事するものと思っていた那桜はテーブルに着くなり、驚くほかにどう反応すべきなのか複雑な気分に晒され、立ち尽くした。
「那桜ちゃん、久しぶり」
「こんにちは」
 四人がけのテーブルに横に並んで座っていたのは立矢と小森美鶴だった。
「こんにちは」
 那桜は和惟に窓際の席へと促されながら、立矢にはうなずき、美鶴には同じ挨拶言葉を返した。

 黙っていることも酷ければ、那桜が決まり悪くなると知っていて美鶴と同席させることも酷い。テーブルの下で人差し指を立てて和惟の太股を小突いた。和惟は向かいに座るふたりに挨拶を返すだけで那桜の抗議は無視された。
 こうなれば先手を打つほうがずっとましだ。那桜はまったく気にしていないふりをして正面の美鶴に向かい、にっこりと笑いかけた。
「美鶴さん、このまえはごめんなさい。立矢先輩も迷惑かけてごめんなさい。子供みたいだったって反省してます」
「おれはまえに云ってるとおり、迷惑になってないよ。フレビューもね。実際、香水がかかったのは拓斗さんだけだし、あの直後は香りがいいって“桜”がよく売れたよ」
「そう。すてきだったからわたしも買ったの」
 立矢のなぐさめを引き継いだ美鶴は、屈託なく笑って首をすくめると「それに」と続けた。

「拓斗さんのこと、ほんとに悪かったと思ってるから那桜さんが謝ることないの。正直に打ち明けると、拓斗さんのことは父を通して偶然会ったときに一目惚れ。だから何かにつけて会えるよう、父に無理やりお願いしてたんだけどそうしても反応ないし、とっくにあきらめてはいたの。そしたら、めずらしく父のほうから、拓斗さんが仕事ずくめだから息抜きに付き合ってくれって話がきて、それで強引に誘ってしまって。下心がなかったって云ったら嘘になるけど。拓斗さんが『馴れ合い』って云うから父を問いつめたら、有吏のおじさまに頼まれたって云うし。あんな拓斗さん、はじめて見た。本気なんだってわかる。息抜きにわたしの出番なんていらないのに。有吏のおじさまは那桜さんのこと知らないの?」

 美鶴の質問は奇妙な空気をもたらした。那桜のことをどう理解しているのか、那桜にはさっぱりわからず、どう答えようもない。
「知ってるけど、反対されてるってところかな。いま説得中なんだ」
 那桜のかわりに和惟が答えた。美鶴は目を丸くして、それから可笑しそうな面持ちになった。
「そうなんだ。それでも別れられないってすてき。拓斗さんて意外に情熱的?」
「そうだね」
 美鶴に同意した立矢を見やると、那桜に向けて惚けた様で首を傾けた。
 那桜は再び和惟の太股をつついた。隣を仰ぐとおもしろがった顔で見下ろされた。苛立ったところで、ここでどういうことか問いつめるには危うすぎる。訳がわからないまま話を合わせるしかないとあきらめた。
「今日の那桜さんの恰好、すごくキュート。どこの服?」
 食べるものを注文したあと、コートを脱いでいると美鶴が首をかしげて問いかけた。
「GIRLsFirstっていう、このさきの大通りにある店です」
「あ、聞いたことある。立矢くん、このあと付き合ってくれない?」
「美鶴、最近、人の影響を受けやすいな」
「いろいろ自分を試してるの。だって、有沙さんみたいになりたくないから」
 立矢と美鶴は仲がいいんだと漠然と感じているなか、不意打ちで有沙の名が飛びだして那桜ははっと耳を傾けた。

「有沙さんみたいって?」
 那桜が思わず訊ねた。
「那桜さん、有沙さんのこと知ってるのね」
 美鶴は那桜から立矢へと目を移して窺うように首をかしげた。対して立矢は肩をそびやかして返事にかえた。それを了解ととったらしく、美鶴は話しだした。
「有沙さん、DVに遭ってるんじゃないかと思って。このまえパーティで会ったんだけど、手首の周りに痣があったのよね。長袖で隠れてはいるけどチラッと見えちゃったの。ちょっとおどおどしてる感じがしたし。しかも両方とも。おかしいと思わない? 有沙さん、おとなしいから何も云えないんじゃないかって云うのに、立矢くんは知らんぷり。有沙さんはまえにも酷い目に遭って傷ついてたんだから、弟なら助けてあげるべきじゃない?」
 本気で心配していそうな美鶴の向かい側で、那桜は呆気にとられていた。美鶴は有沙についてはうわべのことしか知らないようだ。しかも中途半端だ。有沙がどれだけ猫を被っていたかというのがはっきりして、立矢が云ったことを裏づけた。
「立矢くんはDVじゃないって知ってるからだろう。世のなかにはいろんな趣味を持った人間がいるし」
 和惟は口を歪めながら美鶴の考えを修正した。ほのめかしは通じたのか否か、美鶴は解せないといった様子で顔をしかめる。
「そうなのかしら。ともかく、わたしは嫌なことは嫌って云えるようにしっかりしないとって思ってるだけ。その点、那桜さんて香水かけちゃったり、すごいなって尊敬する」
 和惟は隣で忍び笑い、那桜はまたばつの悪い思いをした。
 どうかすると皮肉っぽい発言も悪意がないとわかってしまうから調子が狂う。あの初対面の日、美鶴に対しては、どちらかというと有沙にあったのと同じ敵対心が芽生えた。けれど、どうも印象を先入観のみで捉えていたようだ。
 立矢がお手上げといった感じで首を横に振る。
「それが那桜ちゃんの真似をするってことに繋がってるのかな。美鶴も充分、自己主張してると思うけどね」
「あー、そうね、拓斗さんにはけっこうアプローチしたかも。通じなかったけど、それが那桜さんがいたからってことなら、わたしの見る目は有沙さんよりマシってことじゃない? まえのカレ、フタマタとか最低なんだから。ね、那桜さん」
 美鶴は記憶をたどるように宙を見て云い、それから目をくるりとさせておどけた。

 その有沙も拓斗を狙っていたと知ったら美鶴はどんな反応を示すのだろう。立矢が苦笑い混じりの眼差しを向けてきて、那桜もまた少し顔を引きつらせながら笑った。

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