禁断CLOSER#93 第3部 純血愛-out-

4.代償−Breakup− -3-


 眠りのなか、香りがだんだんと濃くなる。ほんの傍に漂ってきて、息づかいまで感じとれると、那桜はほろ酔い気分にさせられる。しばらくして額に手が触れると、那桜のなかには条件反射のように期待が集まる。それなのに。
「那桜」
 期待した声とは違った。
 がっかりしすぎて責めたい気持ちが込みあげ、那桜はぱっと目を開く。上半身を折って和惟がほぼ真上から那桜を見下ろしていた。その瞳は穏やかでもからかうようでもなくて、ずっと昔の――那桜が子供だった頃の寛大な眼差しだ。
「拓兄と同じことしないで」
 那桜は和惟の手を額から払った。そうしながら、ヴァレンタインデーの次の日――いまみたいに邪険にはしなかったけれど、拓斗の手を同じように額から離したことを思いだす。

『行ってくる』
 そう云った拓斗は何かを待っているように感じた。それが額の手を払うことだという思いつきは自分でも荒唐無稽だと思った。けれど、行かないでと引き止めてしまいそうで、そのまえに那桜はどうにか拓斗の手を額から断ちきった。
 待ってろ――そう云ってくれた拓斗に那桜がしてやれることはその言葉のとおり、待っていること、だ。
 それ以来、また拓斗には会えていない。もう三月なのか、まだ三月なのか、那桜は自分の感覚もよくわからない。やっぱり時の観念が薄れている。

「同じこと、か」
 和惟は薄く笑って躰を起こした。
「何?」
「拓斗の癖は重篤だってことだ。那桜が死にかけて、やっと面会できるようになってから始まった。それを見てたおれも……」
 和惟は半端に言葉を切って肩をすくめた。
 那桜の気分が浮上して、声には出さずに笑う。和惟は首を傾けた。
「なんだ?」
「拓兄って普通にお兄ちゃんだったんだって思って。憶えてないのがすごくもったいない」
 そう云うと、てっきり笑われるかと思ったのに、和惟は曖昧に笑みともつかない笑みを浮かべるだけだ。
「もう八時だ。いつまで寝てる」
 和惟は不思議なくらい露骨に話を区切った。拓斗と会えないなら、せめて拓斗の話をしたいのに、もしくは聞きたいのに、和惟はまるで避けた。こんなことで拗ねてしまうのは大人げないとわかっている。けれど、我慢できない。
「起きてても退屈なだけだから。出てって。ほっといて」
 云い放ったあと、那桜はふとんを顔まで引きあげた。二十一才にもなって子供っぽい。こんなふうだから、和惟は寛大に那桜を扱うのだ。わかっていても、気取らなければならないほど和惟は他人じゃない。
「退屈、か。那桜はあの頃もよくそう云ってた。刺激がほしいって?」

 含み笑いをした和惟に嫌な気配を感じたとたん、ふとんを潜った手が那桜へと伸びてきた。無遠慮に胸を探り当てられる。
「和惟! 起きるから――っ」
 ふとんを押しのけながらの那桜の抗議は和惟の手にさえぎられた。息苦しくなったのは口をふさいだ手のひらのせいか、意思を持って胸をくるむ手のひらのせいなのか。
「声を我慢するのは慣れてるだろう?」
 那桜の鼻先に触れそうなくらい傍で和惟が囁いた。
 やめて。その訴えは和惟の手のひらのなかにくぐもる。そして胸もまた、周りから押しあげるようにされて、下着を着けていないふくらみが大きな手のひらのなかにすっぽりと収まった。
 突然のことに、叫ぶこと以外は無抵抗になっていたが、手はまったく自由だ。そう気づき、すぐ止めようとして上げた手は宙を泳ぐ。そのまえに和惟が自らで手を離した。
「痩せたな」
 那桜が責めるより早く和惟がつぶやいた。
 なんのつもりだったのか、和惟は胸の大きさで那桜の体重を量ったようだ。確かに、Bカップではきついという、かろうじてCカップだったサイズははっきりワンサイズ落ちた。
 那桜は起きあがって足を床におろした。伴って一歩下がった和惟を見上げた。
「せめて“やつれ”ないように気をつけてる。“拓兄”をがっかりさせたくないから」
 和惟の声はつくづくと聞こえて那桜の怒る気が削がれ、だからせめて立場をはっきりさせた。くちびるを歪めた和惟を見て、挑発したかもしれないと那桜は後悔する。が、取り越し苦労だったようで、和惟はがらりと話を変えた。

「朝ごはん食べたら出かけよう」
「……いい」
 少しためらったのち首を横に振ると、「よくない」と退けるや否や、和惟は躰をかがめて那桜のパジャマの裾をつかんだ。
「和惟っ」
 パジャマの上着は持ちあげられてあっという間に頭から剥ぎとられた。パジャマのボタンが鼻をかすって、そのちょっとした痛みに気を取られていると、人形を扱っているように乱暴に肩が押されて背中から倒れた。那桜がなんの対処をする間もなく、今度はパジャマのズボンに手がかかる。
「動きたくないならおれが着替えさせてやる」
「いい!」
「オーケー」
 和惟はわざと返事の意味を取り違える。足をばたばたさせて逃れようとしたことがかえって和惟の手を助けることになってしまった。本当に駄々をこねた子供扱いをされ、フレンチ袖のインナーとショーツという恰好になった那桜は、素足を縮めながら信じられない気持ちで和惟を見上げた。
 どれだけ和惟がやさしくなっても、拓斗とのことを望んで認めていようと、無防備でいるのは間違いだ。それはまったく別のこと。和惟の眼差しはそう警戒したくなる不穏さをはらんでいる。
 勘違いかと思うほど一瞬のことだったけれど、那桜の怒りたい気持ちはまた削がれた。これ以上、手出しさせまいと転がるようにしてベッドの上に起きあがる。
「あとは自分でやる。出てって。すぐ下に行くから」
 和惟は舐めまわすように躰をたどってから、おもしろがった目を那桜の顔に戻した。
「どれだけ時間がたとうと那桜の躰は憶えているんだけどな」
「……そういうこと想像して何やろうが勝手だけど、わたしにわざわざ知らせないで」
「“何”もしてない。おれは想像に頼る人間じゃない」
 何が云いたいのか、片方だけくちびるを上げるという皮肉っぽい笑い方をして和惟は背中を向けた。そのままドアの向こうに消えると、おとなしく引いてくれたことにほっとして、那桜は肩をおろしながら息をついた。
 暖房がきいていて寒いわけではないが、遅いと戻ってこられても困るから、那桜は急いで立ちあがってチェストに向かった。

 和惟が家に居着いて一カ月。居着くという云い方は猫みたいで、和惟に云ったらむっとするかもしれない。そもそも和惟のところへ行きたいと那桜が云ったことから始まったのだ。
 正確には、熱に任せて『行っていい?』と“拓斗”に甘えただけのはずだった。
 それなのに和惟に甘やかされている。
 朝はほとんど一緒に食事ができるし、夜の帰宅は九時をすぎることが多いけれどお喋りする時間はある。お喋りといっても家に閉じこもっている那桜の話題は皆無といっていい。和惟にしろ、お喋りというわけではない。だから、和惟が何日かして持ってきたポータブルDVDプレイヤーで、和惟が適当にチョイスしてきた映画を眺め入る、というのが日課になっている。
 そうした日が一週間もたたずに馴染んだのは、昔――那桜は憶えていないけれど、一緒に住んでいたからだろうか。
 一緒にいるのは一日のほんの二時間ちょっと。それだけでもいい――と、しばらくは和惟がいることでいくらか那桜の気も紛れた。かまえないでいいから。
 けれど、それに慣れてくると不足していることがまた鮮明になっていく。

 和惟が仕事に出る時間に合わせて早起きしていたのが、この三日間、寝坊するようになった。今日に限って云い訳すれば土曜日だからというところだが、あいにくと警備会社にカレンダーどおりの週休なんて関係ない。和惟は那桜の身勝手な気持ちの変化に気づいている。だから、寛大さをひけらかすという手法を捨てて、意地悪と紙一重で那桜を遠回しに責める。

 和惟がつかんだ胸はまだそうされた感触を引きずっている。躰もさみしいと乞う。
 きついほど抱きしめてほしい。熱に浮かされた夜のように。離さない。そう腕から聴きとれるほどに。

 那桜は着替え終わると、部屋を出て階段をおりた。
 下に行くにつれ、香りが変わっていく。けれど、ノーブルブラッドの香りじゃない。和惟がつけた“和”でもない。その二つが入り混じった、区別のつかない独特の香りが宙を支配していた。見知らぬ場所へと導くようで、不安を感じるよりは誘惑されるような引力を含んでいる。これで那桜が“桜”を纏えばどんな香りが宙を舞うのだろう。
 それとも。桜の香りがあまりに強すぎて、ノーブルブラッド――いずれはそれにバトンタッチされるだろうTACTも和も消してしまうかもしれない。
 那桜はそっとくちびるを咬む。
 実のところ、和は那桜が和惟にプレゼントしたものであり、和が家のなかに漂うのは那桜が拓斗のことを考えもせずに口走ったわがままのせいであり、それらのことが拓斗の気配を消してしまっている。起き抜け、つい期待したように、二種類の香りはあたりまえのように傍にあるから見分けられなくもなっている。
 いつもの自業自得という事態を招いてしまう自分にはうんざりする。

 リビングのまえに立ち、ため息とも、覚悟の深呼吸ともつかない息をついて戸を開けた。なかに入ると、コーヒーの香ばしい匂いが立ちこめている。
 ソファを見ると、和惟は自分の部屋――衛守家が以前使っていた書斎の向かいにある部屋にいるのか、姿は見当たらず、かわりに先週の土日がそうだったように隼斗がいた。いないことがせめてもの救いだったから、わざとそうするようになったのかと勘繰りたくなる。
『ごめんで通じると思うな』
 その最後に投げかけられた言葉以降、何も那桜が示さないからそろそろ聞かせろという意志表示かもしれない。
 那桜はまた出そうになった吐息を呑みこんだ。それを察したかのように、新聞に目を落としていた隼斗の頭が動く。
 すると、すぐ目のまえに出現したのは壁なのか穴なのか、那桜の足は行き先を閉ざされてすくんだ。
「おはよう。パン? ご飯?」
 隼斗と目が合う寸前、キッチン側にいた詩乃がそれを避けるきっかけをつくってくれた。
「……おはよう。パンにする。自分でやるから」
 キッチンに行きかけたところで戸の開く音がした。振り向くと和惟が現れて、那桜をちらりと見たあと隼斗のところへ向かった。和惟を追えば隼斗へたどり着くという、もとの木阿弥になる。那桜は即座にキッチンのほうに足を向けた。

「首領、今日は那桜を外出させます」
 コーヒーが三つのったトレイを持つ詩乃とすれ違ったとたん、和惟が口を開いた。振り向きそうになるのを堪えて那桜は冷蔵庫に行ってピザ用のチーズを取りだした。
「かまわんが」
 たったそれだけの答えを云うのに隼斗は少しだけ間を置いた。あまつさえ、あとに続くなんらかの言葉をほのめかしたような、もしくは警告した口調で終えた。対して、和惟はあたかも快く承諾を得たかのように、澄ました声で「ありがとうございます」とだけ答えた。
 そもそもが和惟は伺いを立てるのではなく、自分に決定権があるかのような口ぶりだった。
「たまには出かけてもいいわ。お昼はいらないんでしょう?」
「はい。すみません、急で」
「本当をいえば……」
 詩乃はためらいがちに言葉を切った。

 那桜は、なんだろう、と調理台に置いた食パンにハム、そしてチーズをのせていた手を止めて、顔を上げないまま聞き耳を立てる。
 和惟は促すこともなく、詩乃が話しだすのを待っているようだ。やがて、詩乃が続けた。
「独りでも出かけるようになれたらいいのに。わたしはずっとそう思ってきたわ」
「首領夫人?」
「わたしたちのほかにだれもいないんだから、そういう呼び方はやめてちょうだい」
「はい、おばさん。ありがとうございます」
 和惟が応じると静かな室内にため息が散った。
「ずっと、というのは違ってるかもしれない。でも、傷は癒えるのよ。否定さえされなければ。なんらかの形で。和惟くんも云ったわよね?」
「はい」
「拓斗がしたことの是非はともかく、云ったことには反論も否定もできない。拓斗が責めるのは……わたしも受けいれたんだから責められて当然なの。情けないけど、わたしの気持ちは拓斗に負けてるわ」

 憂えた言葉を最後に、何を通じ合っていながら、そのうえでそれぞれに考えを何に馳せているのか――そう思うような沈黙が訪れた。
 自分まで静かなのも不自然だと気づいて、那桜はチーズトーストをオーブンに入れた。
 今し方の会話が那桜に理解できたかというと、逆に理解できたところは一つもない。
「テレビつけるわね」
 そう詩乃が云ったことで話は完全に断ちきられた。
 それからほとんど会話もなく、テレビの音も小さくて静かななか、普通だったら息が詰まるところなのに、那桜は頭のなかで何回もさっきの会話を復唱していたせいで、うわの空のまま朝食は食べ終わっていた。



「和惟、お母さんが云ってたこと、傷とか責めるとかどういうことなの?」
 和惟の車に乗って有吏家の敷地から道路に出たとたん、那桜は問いかけた。
「おばさんは首領を説得してくれてる。効果的に、な。那桜の御方はおれだけじゃないってことだ」
 その説明にむくれた気持ちと当惑が半々くらいで入り乱れて、ちょっとの間、那桜は黙りこんだ。
「全然、答えになってない」
 しばらくしてむっとした声でつぶやくと、和惟がちらりとだけ那桜に目をやった。
「それ以上のことは何もない……っていいたいところだけど、そう云ったら納得しないだろうから云い換える。那桜にとっては何も意味をなさないことだ」
 それでも納得できないけれど、無理やり喋らせることは不可能だし、有吏一族の人間がやたらと口が堅いということは承知だ。
 せめてと那桜はため息で不満を示した。

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