禁断CLOSER#92 第3部 純血愛-out-
4.代償−Breakup− -2-
翌朝、出かける間際に那桜の部屋に行くと、那桜は二度寝してぐっすりと眠っていた。
拓斗が起きたのはいつものとおり朝の五時だった。いつもと違ったのは、一晩中、那桜のベッドにもたれるようにしていて、眠るには窮屈だったことだ。こわばった躰を起こしたとたんに、ベッドが揺れたせいか、はたまたその肩から拓斗の重みがなくなったせいか、那桜は目敏く気づいて、拓兄、と無意識のようにつぶやいた。
触れた額は昨夜ほど熱いとは感じないが平熱には戻っていなかった。
何時かと訊く那桜に時間を伝えると、少し考えこむように、あるいはためらうように目を伏せて、それから、いってらっしゃい、と拓斗に投げかけた。
それを受け、出かけるまえにまた来る、と拓斗が返事をすると那桜はうれしそうに笑みを浮かべた。
拓斗は口にしたことを守り、いま顔を見にきたわけだが、そのとおり顔を見るだけにしたほうがいいのかもしれない、とそんなことを考えた。
起きたらよけいなことを考える時間が増えるだけで、那桜には虚しさしか生まない。そう思うのは一時しのぎでしかない、拓斗の悪あがきだ。
考えることはあっても迷うことはない。そんな生き方をしてきたはずが、那桜を目のまえにすると、そうしてばかりいる気がする。
夏の暑さが残る九月初日、那桜を迎えにいったときから。
拓斗が待つ場所へと那桜がやってくる。
この頃になると、もう那桜が自ら近寄ってくることはなかった。だからなのか、ただそれだけのことが、簡単に昔を甦らせた。
焦心、そして狼狽。
十五のときの劣情――留守番の夜が薫りだす。
あのとき思い描いたのはこのときの那桜だったかもしれない。
首もとに貼りついた髪をはらう那桜のしぐさを追いながら、拓斗のみぞおちがひやりとした汗をかく。
戒斗が家を出て、必然的に送迎の役目がまわってきたとき、なぜ衛守家に――和惟に託せなかったのか。後悔した。後悔しながらも拓斗は引き返さなかった。
拓斗はベッドの脇まで行って上半身をかがめた。手が自ずから那桜の額に伸びる。
「待ってろ」
しばらく離れなければならなくなった朝、同じことをした。
違うのは、そうしたことで那桜が敏感に目を覚ましたことだ。それはやはり那桜のなかに燻るわだかまりのせいだろう。
「拓兄、出るの?」
「ああ」
「また……しばらく会えない?」
「だとしても。おれが忘れることはない」
忘れられない。一時も。那桜を。
省いた言葉は伝わっただろうか。
那桜は笑ってうなずいた。
「行ってくる」
たったそれだけの言葉が、強く意志を保たなければ云えない。
「いってらっしゃい」
そんな拓斗の弱さを知っているかのように、那桜の手が額に置いた手を送りだした。
*
出勤まえ、拓斗は衛守家を訪ねた。
応対に出た咲子に、惟臣と和惟に話がある旨を伝えると、わざわざ朝の早い時間に訪れて、しかも和惟のみならともかく惟臣を指名したことで異変を察したのだろう、拓斗は当然のごとく応接室に通された。
拓斗が咲子と会うのは正月の食事会以来だ。有吏本家の揉め事は惟臣から聞かされているだろうに、少しも態度が変わることはない。惟臣のみならず、詩乃からも聞いているはずだ。
「呼んでくるわね」
咲子はほがらかに云って応接室を出ていった。
詩乃にとって五つ年上の咲子は唯一、気を許した話し相手だ。かつて同じ有吏本家に住みながら、いがみ合うことはなく、それよりは仲のいい姉妹のようにしていたと拓斗は記憶している。
どちらかといえば人をはね除けてしまう詩乃が咲子を慕うのは、咲子が詩乃の実姉である華乃と同い年というせいかもしれない。華乃は詩乃が結婚する以前に夫とともに失踪していて、行方不明のまま死亡とされている。華乃の夫は天涯孤独だったらしいが、いま、血族という意味で遡ろうとすれば詩乃は天涯孤独といっていい。
全般にわたって、ほがらかな咲子とあまり感情を出さない詩乃は一見すると対照的だが、実は表裏のような関係で、咲子も本心を曝すことはない。有吏という一族に属することで、男の妻たちはそういったプライドを培っていくのかもしれない。
それが真のプライドならいい。
詩乃に限るなら、なぜか、そうは見えない。
那桜にそれを望むか。ふと拓斗は自分に問うたがすぐさま望むとは答えられず、即ちそれが答えかもしれない。
待ち始めてまもなく、応接室にさきにやってきたのは和惟だった。
「どうしたんだ」
和惟は向かい側のソファに座りながら開口一番、挨拶はそっちのけで訊ねた。かといって、拓斗が即答するのを期待しているふうでもなく、のんびりとソファの背にもたれた。
「頼み事がある」
「……那桜に何かあったのか」
和惟は的確に事の発端に触れてくる。それとも、鋭くなるのはそれが那桜に関することだからだろうか。あるいは――
「おれにはそれしかないように見えるのか」
和惟は拓斗の真意を量っているのか、すぐには反応せず、じっと見据えてくる。やがて、和惟は何かを結論づけたように笑った。
「“それだけ”だったらとっくに片づいているはずだ。そうじゃないから手こずってるんだろう」
思いがけなかった。良識と公私の境界を失い、もちろん常識を逸脱していることは否めないが、どこか自分は冷静さに欠けた気がしている。その拓斗の懸念を和惟から払拭させられるとは。
伴って拓斗の内に、那桜にとって、自分ではなく和惟だったらどんなにからくだっただろうという、はがゆさも生む。そうしてやれなかった自分と、護ることを選んだ和惟とどっちが那桜には必要だったか。
また迷いが兆す。
いや、迷いじゃない。独占したがる拓斗のわがままだ。
拓斗に決められたことがあると受けいれた那桜が、和惟にもあるかもしれないと疑ったときは拓斗がそうあると知ったときよりも動揺して見えた。『和惟のところに行っていい?』と、つい半日まえに聞かされたときは不甲斐なく那桜をさらいたくなった。
拓斗の内心は煩わしいほど醜い。
闘ってやる。
那桜が希むなら。ふたりでいられるように。
それは口実で、嫌わないで――その集約された言葉を頼りに、拓斗はわがままに那桜を手に入れようと足掻いているだけだ。
「三月の集結の日にはある程度までの区切りをつけたいと思ってる」
「頃合いだな。おれはもっとかかると思っていた」
和惟が云い終わった直後、応接室のドアが開いた。
惟臣に続いて咲子がお茶をのせたトレイを持って入ってきた。拓斗は立ちあがって軽く会釈した。
「おはようございます。衛守主宰、すみません、朝早くから」
「おはよう。朝が早いのは本家と一緒だ。総領が気にかけることじゃない」
拓斗は浅くうなずくと、惟臣に勧められてソファに腰をおろした。
「それで?」
咲子が出ていくなり、惟臣がいったんソファにもたれていた背中を起こして促した。
「和惟をしばらく本家にやっていただけませんか」
拓斗が単刀直入に申しいれると、あからさまに驚くことはないものの、惟臣は隣に座った和惟を見やった。和惟はその気配に気づいたのだろう、わずかに見開いた目を惟臣へと向けてふたりは顔を見合わせた。
「どういうことだね」
拓斗へと目を戻した惟臣は、まるで意図がつかめないといったふうにかすかに首をひねった。一足遅れて和惟も拓斗に向き直った。
「那桜のためです。おれと那桜に関する問題はご存知と思います。家に居づらいようなのでお願いに上がりました。このことで認めているのはただ一人、和惟しかいませんから」
「ただ一人かどうかは知らないけど、肯定しているのは確かだ」
和惟が拓斗の発言に受け合うと、惟臣はあけすけに嘆息を漏らした。
「何を考えている」
吐き捨てるように云いながら惟臣は再び大きく息をついた。全体的にきりっと整った惟臣の顔立ちは年を重ねていくごとに苦み走っていく。いまははっきりと渋面だ。
ひとしきり埒が明かないといった静けさがはびこったあと、惟臣はようやく口を開いた。
「詩乃さまはなんとおっしゃってる?」
「母、ですか。……かまわないと云ってますが」
拓斗の返事のあと、惟臣の短い息をつくという行為にはどんな意味があるのか。微々たる、そしてなんの変哲もないため息が、なぜか拓斗には気にかかった。
「それなら衛守家としてもかまわない。ただし、総領のためではないということを心してもらいたい。あくまで那桜さまのためです」
惟臣は釘を刺した。その返事は予想内のことで、逆に拓斗にとってその言葉は取っかかりになった。
「衛守主宰、那桜が蘇我に身売りされることは那桜のためですか」
惟臣はじっと拓斗を見やり、応じるまでに一呼吸置いた。
「私が答えられることではない。ただし、首領が配慮なく、あるいは容易に決断なさったことではない――それははっきりとお答えしておく」
拓斗の率直な質問には衛守家の立場を明瞭に提示されただけだった。もっとも、質問に対する答えがない、あるいは答えられないということが、衛守家とてほかの分家とかわらず本家の意向を尊重しているだけだと示した。
「おれもはっきりさせておきます。蘇我との約定は破棄しなければと考えています」
「総領。約定に係わるのが那桜さまではなくても、総領はそうお考えになりましたか」
惟臣の畳みかけるような問いは拓斗の思考を止める。けっして有吏のためとは云いきれない利己的な自分を突きつけられた。惟臣は量るように拓斗を見据え、然るのち続けた。
「納得できる答えが聞けないかぎり、首領を捨て置いて、諸手を挙げて総領を賛助するというわけにはいかない。衛守家は首領を失望させるために存在するのではけっしてない」
強い意志を持って道破された言葉が部屋中に響き渡る。
拓斗は“失望”と称されたことに違和感を覚えた。“分家”ではなく“衛守家”、そして“本家”ではなく“首領”と限定されたこともそうだ。いまの場合、ただ単に問題が本家としてある拓斗のことだからこそ区別されたのか。
「主宰のおっしゃるとおり、約定の犠牲が那桜でなかったら、おれは破棄など考えなかったかもしれない。自分の浅ましさは認めます。ただ、主宰の質問は筋違いではありませんか」
「筋違い、とは?」
「おれは、那桜がいなかったら、そもそも約定は成立しなかったと考えています」
そう発したとたん、惟臣は重く口を閉ざした。かわりに、それまで様子を窺うだけだった和惟が眉間にしわを寄らせて拓斗に向かう。
「拓斗?」
和惟の声音に、怪訝さ以上に拓斗の考えを認めたような気配が感じとれたと思うのは気のせいか。
「有吏とはそういう一族だ。分家を犠牲にするくらいなら本家が前面に立つ。それは得てして、一族でないなら犠牲がどこにあろうと歯牙にもかけないという非情にすり替わる」
拓斗が云い含んだことは伝わったのか、和惟までもが口を噤む。そうしたことが、和惟が“知っている”ということを――それならば惟臣も秘匿とすべき真相を保持していることを証拠づけた。
「総領、何をお考えなのか知り得ませんが突飛だとしか云いようがない。あえて強く談じます。衛守家は那桜さまを軽々しく後見したことなど一切ない」
口を開いた惟臣は、最後は恫喝するような様で云いきった。
「主宰、そこを疑ったことは一度もありません。むしろ、限りを尽くしていただいていると認識しています」
惟臣は大きく息をついた。それが、あきらめてのことか今後のことを思っての憂慮のせいなのかはわからない。
「痛みいります。総領と那桜さまのことに衛守家がとやかく口を出すことはありません。衛守家のみならず、どの分家もそうでしょう。もともと一族間で有吏は血を継いできましたから。戦中に数多くの一族を失い、世情は変わり、やむなく他族と血縁を結んでいるにすぎない。ただ、衛守家が首領の意に背くことはないとお考えください」
「それで充分です。ありがとうございました」
惟臣は小難しい面持ちのまま深くうなずき、「失礼するよ」と腰を上げた。拓斗も立ちあがって、惟臣が部屋を出ていくまで見送った。
「拓斗、おまえは何を“知ってる”と思ってる?」
再び拓斗が座って相対したとたん、和惟はまわりくどく訊いてきた。何かあるのを認めるわけにはいかないということだろう。
「そのまえにおれが訊きたい。衛守家が有吏本家を出た理由はなんだ」
和惟は解せないというふうに軽く首を振った。
「さっき父が云っただろ。世情は変わった。いくら広いとはいえ、違う世帯が同居というのはいびつだ」
「それなら、分離型の二世帯住宅でもかまわなかったはずだ。本家の敷地はそれでも有り余る。護衛という観点をとってもなぜそうされなかった。せめて隣接することもできた。それをそうしなかった。穿つなら、少しでも距離を置かなければならなかった、ということになる。衛守家は父に何を失望させたんだ? だから母の護衛は衛守家からではなく父自らがやるのか? それに、おまえを本家に住まわせるのになぜ主宰がわざわざ母の意向を訊かなければならない? 父、ではなく」
衛守家が有吏本家を出たのは、約定を聞かされた直後だった。和惟の云った理由は衛守家が出ていくときに隼斗から聞かされたそのままのことだ。拓斗はそれを疑うことはなく――いや、当時の拓斗にそのことを気に留める余裕はなかった。衛守家の独立に限らず、すべてのことが疎かになっていた気がする。
ただ一つ、那桜が失った、あるいは心の奥底に閉じこめた記憶が還らないよう希う。その空虚さしか憶えていない。
いまになって思い巡れば、隼斗と詩乃の間がぎくしゃくしたのもその頃に始まったかもしれない。
そんな纏まりのないことが拓斗のなかで集結していく。拓斗が投げた疑問は一見するとなんの繋がりもないが、そこに那桜のことも係わってどこかで関連があるように直感した。
「護衛という観点からすれば、本家の警備システムに隙はない。常に進化し、衛守家はどこにもないシステムだと誇っている。従って、同居しなくても本家は守られている。拓斗、おれが答えられることはこれ以上にない。たとえ、どう首領に失望されたとしても、衛守家が有吏本家に忠を尽くすことに嘘偽りは微塵もない」
和惟は惟臣と同じ、答え“られる”という可能か否かという云い方をした。ふたりとも拒んだが。
そこを突破口にしてつつくか、それとも、拓斗が信念としてきたように、秘匿は秘匿のまま触れることはしないほうがいいのか。
拓斗は立ちあがった。
「和惟、おれは、那桜を“身ごもった母さん”を知らない」
おもむろに、そして出し抜けに云い放った瞬間、和惟が鋭く拓斗を見やった。
「拓斗?」
「だれが見たことあるんだ? 写真の一枚もない」
和惟は座ったまま、しばらく眉をひそめて拓斗を見上げていた。
やがて時を刻むように瞬きを一つすると和惟は鼻で笑った。
「ずっと具合が悪いと聞いていた」
和惟の云い分はおざなりだ。
「そうだったな」
なんの期待もしていなかった拓斗は素っ気なく相づちを打ち、応接室を出た。
拓斗が幼き頃、詩乃は突然、大雀の実家に帰ったことがある。そのほぼ一年後、那桜を連れて帰ってきた。時折、会いにいっても詩乃はいつも床に就いていた。具合が悪い、とそのとおり詩乃の表情はいつもかげっていた。
はっきりそれらを憶えているのは――
『拓斗、妹よ』
と、有吏の家に帰ってきた詩乃の言葉と一緒に、那桜があまりにもとうとつに拓斗の腕にゆだねられたからだ。
いまはもうだれもが口を噤み、真実が明るみに出ることはないだろう。問いただせる唯一、大雀家の祖父母もいない。
妹――おれはいまだにその意味がわからない。