禁断CLOSER#91 第3部 純血愛-out-

4.代償−Breakup− -1-


 拓斗は二階への階段を上りきると那桜を抱いたまま、その正面にあるドアノブに手をかけた。
「ここ……じゃない」
 那桜が熱く息を漏らしながらつぶやいた。
「那桜」
「拓兄のベッド……じゃないと……眠れないの……香り……」
「今日はおれがついてる」
 なだめるように云うと、那桜は応えずにしばらく黙っていた。
 鎖骨に触れる那桜の呼吸は熱く湿っている。ひまわり畑と銀杏の木の下、拓斗にその二つの苦辛を思い起こさせた。ぐったりとした那桜の全体重を預かっているはずが、あのときと同じくらい、腕にした躰は軽い。ただ熱だけを伝えてくる。
「ほんと……?」
 やがて那桜は疑問を囁いた。ただのなぐさめと思っているのか、那桜の声に期待は欠片もない。
「ああ」
 答えると、首もとで那桜はわずかにうなずく素振りを見せた。
 止めていた手をひねってドアを開けると、なかに入ってベッドの脇でいったん那桜をおろした。那桜の左手が拓斗の右手を縋るようにつかむ。
「立てるか」
「うん。拓兄……これ」
 那桜は放さずしっかりと手にしていた、四角い包みを差しだした。赤と黒に二分されたシックな光沢紙でラッピングされている。拓斗は受けとりながら訊ねた。
「なんだ」
「ヴァレンタインデーだから……つけてくれるって……さっき……」
「ああ」
 拓斗がうなずくと、那桜は熱に潤んだ目をさらに潤ませて、ほっとしたように笑う。

 香水ごときで、と拓斗はそう思っても、那桜にとって香りがなくなることは不安への引き金となるようで――いや、そうではなく、そんなものを当てにしなければならないほど那桜は落ち着けないでいるということだろう。
 それを裏づけるように、ふとんをはぐるほんの少しの間も、離れることを拒むように那桜は腕を両手でつかんでいる。その子供っぽいしぐさは拓斗に懸念を抱かせる。
 地下室の階段の下、隼斗の声を聞いたとたんに那桜は躰を萎縮させて、尋常ではないほどの怯えを見せた。
 だれも操作できない記憶。あのとき、那桜が忘れたのは奇蹟にすぎない。
 取り戻したときに那桜が知るのは、真の孤独か。
 けっしてそうではない。だが。
 おれがいる。
 そう云っても通じないことへの畏れが生じる。
 もし、那桜が知ったのが十年遅ければ、あるいは忘れなければならないほどの衝撃にはならなかったかもしれない。そういった境遇が普段にあることを常識として学んでいるだろう、そんな頼りない希望のもと、拓斗は無駄に過去の時間に抗う。

「ベッドに入れ」
 躰がきついのだろう、那桜はすぐさまうなずいて横になる。ふとんをかけてすき間ができないようにしてやり、拓斗は那桜の顔が見える位置でベッドの傍に座りこんだ。
 すると、那桜はせっかく整えたふとんから手を出してきた。無言の要求に応えて手をつかむと拓斗を見て那桜が笑う。
「ちゃんと食べないから風邪をひく」
「うん……拓兄は? 食べてる?」
「飽き飽きするほど食べてる」
「……外食、嫌い?」
 少し考えこむように宙に目をやったあと、那桜は目を戻し、拓斗が云いたいことを見当つけて問い返した。
「飽きたっていま云った」
「いいな」
「決着したら嫌というほど連れていく」
「ほんと?」
「ああ」
「じゃあ……わたしはお料理つくってあげる」
 最後まで云い終わらないうちに、那桜の声は小刻みにふるえだした。
 それは那桜が信じていない未来を思い浮かべたせいに違いない。拓斗は自分へのもどかしいほどの苛立ちを覚えながら、いまは安易な言葉よりも、とそう思い、ただその不安に付き合った。

 なんらかの葛藤があるのか――ないはずはないが、那桜がそれきり黙っていると、しばらくして詩乃が部屋に入ってきた。
 拓斗が入り口に顔を向けたとき、詩乃は立ち尽くしたように静止していた。それを解いたのはドアの閉まる音か、それともその音が立ったとたんに拓斗の手のひらから手を引っこめるという那桜のしぐさだったのか、足を止めたのは一瞬だけで詩乃はなかに進んできた。
「薬を持ってきたわ。飲める?」
「うん」
 那桜が起きるのを手助けしようとすると、「大丈夫」と、立ちあがって手を伸ばした拓斗をさえぎった。
 それは遠慮したというよりは拒絶に聞こえた。
 詩乃が来たとたん、那桜から繋ぎたがった手を自らで離した。
 兄妹としていなければならない。そう口にしたことが、思いのほか、那桜を神経質にさせているのかもしれない。
 那桜は一口だけ水を飲み、詩乃が差しだした錠剤を摘んで口に入れた。

 那桜を見守る詩乃の様子を見るかぎり、拓斗のことはぞんざいに扱っても、那桜には以前と変わらず接している。それどころか、詩乃は那桜を守ろうとする。それはあの日、詩乃が応接間を出る間際の捨てゼリフに表れていた。それが那桜には通じていないのか。
 兄妹である以上、認められたところで両親と同居するには居たたまれないだろうことは察しがつく。だが、遥かさきを見渡すなら、両親という存在はあるに越したことはない。そう思い、居場所を取りあげたくないがためにこの家に留めているはずが、那桜は自らで両親との間を隔てるために壁を築こうとしている。

「ありがとう」
「何か食べられない?」
 那桜からコップを受けとりつつ、詩乃は心配にかげった声で問う。
「ううん、いい。のどが痛いから……明日、ちゃんと食べる」
「そうしてちょうだい」
 詩乃は那桜に体温計を差しだすと拓斗に向かう。
「計ったらおれが持ってくる」
 先回りして云うと、詩乃はうなずいて部屋を出ていった。
 詩乃は拓斗の行いを容赦しなくても、那桜から引き離そうとすることはない。それは詩乃の複雑な心境の表れだろう。その深意を推し量ることはできないが。
「拓兄」
 電子音が鳴ったあと、表示を確認して那桜は拓斗に体温計を預けた。
「ちょっと下に行ってくる。いいか」
「だめって云ったら……いる?」
 大丈夫か、と問うたつもりが那桜はわざとなのか、違った解釈をして――おそらく、那桜に限らずだれにとってもそれが正当な解釈なのだろうが、可笑しそうに拓斗を見上げてくる。
 水分を取って、那桜はいくらかすっきりした様子に変わった。ふとんから顔だけを覗かせている那桜は無邪気な子供に見えて、昔に還ったかのように拓斗を錯覚させる。首をひねって那桜の額に触れた。ふとんから出てきた右手が拓斗の手を覆う。
「熱、計ったよ」
「癖だ」
 すかさずそう返しながら手を引くと、止めるかと思いきや抵抗もなくするりと那桜の手の下から抜けた。こうなるまえなら引き止めるだろうに、こんな那桜のちょっとした異変を危惧するのは杞憂にすぎないのか。
「すぐ戻る」
 那桜が、「うん」と口にしながらうなずくのを確認してから拓斗は部屋を出た。

 那桜に云ったとおり、額に触れるのは癖みたいなものだ。別荘の行方不明事件後の入院中、面会ができるようになった日に始まり、銀杏の木の下にいた朝に途絶えた癖。一カ月も数えないうちに身についた。それから、手を伸ばしかけては引っこめる――そんな癖にかわり、やがて、ぴくりとした名残になった。それを簡単に復活させたのは那桜だ。クリスマスの買い物で頭痛を引き起こした、その帰り道。拓斗の癖は那桜の記憶にも根づいているのかもしれない。
 熱はないか、などと、那桜を心配してというのはきれい事で、自分を安心させるためではないか、ついさっきはそう自分を疑った。

「八度八分だ」
 リビングに行くとキッチンのなかにいる詩乃に告げた。
「そう。大丈夫かしら」
「子供じゃない。のどが痛いって云うんだ。扁桃腺だろうし、それなら熱は高くなる」
「そうね」
 詩乃は相づちを打ってため息をついた。
 どれくらい那桜は冷たい地下室にいたのか。拓斗と隼斗は普段より少しだけ早く、十一時に帰ってきたのだが、そうしたことで、詩乃は気を利かせて那桜を呼びに二階に上がった。ヴァレンタインデーの今日、隼斗にやるためと、昼間に詩乃と那桜はチョコレートマフィンを作ったらしく、詩乃はせっかくなら手渡しをさせたいと思ったという。それで、那桜がいないことに気づいた。
 いま、そのマフィンをまえにして、隼斗は小難しい雰囲気で目を閉じ、ソファに座ってもたれている。拓斗は体温計をダイニングテーブルに置いてソファに近寄った。

「父さん、一つお願いがあります」
 隼斗はゆっくりと目を開け、拓斗へとわずかに顔を向けた。無言でなんだと問いかけてくる。
「和惟をしばらくうちに置いてもらえませんか」
 隼斗は正面を切ってきて、同時にじろりとした目が拓斗を見据えた。それから詩乃をちらりと見やった。
「どういうことだ」
 隼斗は拓斗に目を戻して怪訝に訊ねた。
「地下室で気づかなかったんですか。那桜は怯えている」
 隼斗は表情を変えない。地下室を持ちだしたうえで“何を”、あるいは“だれに”という部分を省いたことで気づいたはずも、なんの反応も見せることがなければ口も噤んでいる。かわりに、「拓斗?」と後ろから詩乃が疑問を投げかけた。
「そもそもが那桜には何一つ落ち度はない。有吏の人柱にならなければならない理由も何もない。それとも、軽々しく那桜を扱ってもなんら父さんの人心に差し支えないという理由でもあるんですか」
「何が云いたい」
「そのままですよ。セントラルタウンでのばかばかしいことは那桜がすでに抱えた不安を上塗りしただけだ。那桜はおれに決められたことがあるということを知っている。那桜とのことで兄妹という関係を踏みにじったのはおれのほうです。引き返さなかったのもおれです。そうしたうえで、未来がないことを承知し、決められたことを承知し、それでも那桜はおれを許した。那桜に不安がないときはない。那桜にはもう充分です。和惟を置いてやってください。四六時中、付き添わせるまでの必要があるわけじゃない。お願いします」

 拓斗が深く頭を下げ、それから躰を起こしても答えはない。そうして動きそうにない沈黙を破ったのは詩乃だった。
「わたしはかまわないわ。和惟くんに頼んでちょうだい」
 隼斗の答えは必要ないと云わんばかりの口調で詩乃はきりをつけた。
「ありがとう、母さん」
 振り向いて声をかけると、詩乃は首をかしげ、奇怪なことに出遭ったかのようにわずかに目を見開いた。何か云いたそうに見えたが拓斗は頓着することなく、再び隼斗に向き直った。
「今日だけ、那桜に付き添わせてください」
「どうするつもりだ」
 隼斗の問いが拓斗の頼みに応えたものではないと察した。
「何も考えは変えていません。どうするつもりか、考えているのは有吏の今後についてのみです」
「下がれ」
 隼斗は一言で拓斗の言明を退けた。浅くうなずくと拓斗はリビングを出た。

 のどもとまで出かかった曝露は呑みこんだ。そのかわり、戸を閉めて拓斗は一つ短く息を吐く。
 隼斗が応接間で云った言葉が終始、拓斗の脳裡に引っかかる。何から那桜を守り、蘇我にやることで何が守れるというのか。
 蘇我に行っても身の不自由を感じることのないように、それがあたりまえであるように、とそんな意向のもと、那桜は絶えず監視されて行動には制限がついた。それが那桜のためというのは建て前にすぎず、けっして那桜のためではない。蘇我に逆らうことのないよう、延いては有吏の安泰のためだ。安泰とはいえ、これもまたけっしてそうはならない。
 同じ方向を見ることはなく、向き合うこともなく、背中合わせでもなく、ただ置き去りの孤独を共有してやろう。そう思い、拓斗はやってきた。そんなふうに根本は違えども、建て前に加担していた自分が(いと)わしい。那桜にとったら同じことだ。

 拓斗は那桜の部屋のまえに立ち、思考をリセットするかのように軽く首を振った。
 ドアを開けてなかに入り、ベッドに近づくと那桜の眠った顔が見える。手がぴくりと反応する。額にそっと手のひらを置いた。すると、那桜の目がぱっと開く。
「いられるの?」
 その驚きは、額に手を置いたせいではなく、『おれがついてる』とそう云ったことに対する不信のせいに違いない。
「ああ。ふとんを取ってくる」
「うん……あ……」
「なんだ」
 思いついたような声を発した那桜は、拓斗が訊ねると、悪戯を見つかって(とぼ)けに徹した子供を思わせる表情で笑う。
「たぶん……行ったらわかると思う」
 肩をすくめ、拓斗は自分の部屋に行った。
 久しぶりに入った部屋は、自分から消えた匂い――ノーブルブラッドがほのかに漂っている。机の上にある赤い瓶を見ながら、那桜が云ったのはこのことかと思う。そして、ベッドに寄って掛けぶとんを持ちあげたとたん、香りはさらに立ちこめた。
 それは気道から体内へと侵入し、そして、その濃厚さに拓斗の肺腑(はいふ)がきりっと痛みを訴える。いや、訴えているのは那桜なのかもしれない。

 ふとんを抱えて那桜の部屋に戻ると、問うような眼差しが向けられた。
「わかった?」
「わからないほうがどうかしてる」
「でも……なんだか違うの」
 からかうような様から一転、那桜はわずかに顔を曇らせた。
「何が」
「香り」
 一言だけ云って那桜は目を伏せ、口を閉じた。
 拓斗はベッドヘッドの方向に躰を向けて那桜の頭のすぐ傍に座る。ふとんを無造作に放り、ベッドの脇に置いていた包みを取った。なるべく丁寧にラッピングを開けると箱から小瓶を取りだした。
「那桜」
 香水瓶をかざして、「振りまくか」と続けると那桜は苦虫を咬み潰したような面持ちになる。
「反省してる」
「つけるか」
「うん」
 那桜は起きあがって香水瓶を受けとるとふたを開け、人差し指に一滴だけ垂らして拓斗の顔に手を伸ばしてきた。耳の後ろをとんとんと二回軽く叩く。香りはかすかに冷たく、拓斗の肌にじわりと染みこんでくる。儀式のようなしぐさで那桜は両側に二回ずつ繰り返した。

「ありがとう、拓兄」
「和惟をしばらくうちに泊まらせる」
 返ってきた香水瓶をベッドの脚もとに置きながら云ったことが出し抜けであるのと同様、那桜もまたとうとつに目を伏せた。しばらくの間、時間が止まったようにふたりともが黙りこんでいた。
「違うの……拓兄を信じてないわけじゃない……の」
「わかってるからいい」
 拓斗の応じた言葉に那桜は顔を上げた。
「闘うのはおれだけで充分だ。おまえは待ってろ。いいな」
 那桜はくちびるをふるわせ、それから泣き笑いのような顔をして、「ちょっとだけ」とつぶやくと拓斗の首に巻きついてきた。
 結局は拓斗が離さず、那桜が眠るまでそうしていた。

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