禁断CLOSER#90 第3部 純血愛-out-
3.隔離−Fight alone− -6-
同じ住宅街でもここは身に触れる感覚が違っている。のんびりした人通りに電車の音、隣接した部屋からは赤の他人の生活音が聞こえてくる。素朴という言葉が似合う街だろう。
角部屋の一室は畳貼りで、座った感触は幼い頃の有吏本家にあった和の温かみを思い起こさせる。
そんな感傷を抱くのは、まだ那桜の体温がこの躰に残っているせいなのか。そう思うと、抱きしめてやれなかった腕がぴくりと反応した。
テーブルの向こうに座る戒斗が、高級住宅地を離れてこの中古アパートを住み処としたのは四年まえ、家を出ていって半年がすぎた頃だという。時期を同じくして、拓斗と那桜は兄妹という境界を失った。
「おれにはわからない」
しばらく黙りこんでいた戒斗はようやく口を開き、拓斗と同じしぐさで首をひねった。
『那桜を連れて家を出ようと思っている』
十分まえ、そう切りだした。
『どういうことだ』
戒斗は怪訝そうに眉間にしわを寄せた。
『兄妹でいられなくなった。おれは、那桜が妹だということがわからない』
拓斗はそこから始めて、隼斗と詩乃に打ち明かしたことと、影響を避けられない約定についての考えを端的に示した。
その間、戒斗は驚いた様子も見せなければ、一言も発しなかった。ここをわざわざ訪ねるという異変に何かを気取っていたとしても、拓斗の告白は戒斗にとって意表だったはずだ。それでも動じないのは、有吏本家が貫く“長たる者こそ神色自若であれ”という教育の賜物だろう。
戒斗はほんのわずか間を置いたのち、壁に背中をもたれてから続けた。
「おれには妹ということしかわからないけどな」
責めた声音ではないが、理解に苦しむといった様子だ。
「おまえにはこれからさきも、那桜のことを妹として手助けしてやってほしいと思ってる」
戒斗はまた口を閉ざした。窓を閉めていても電車の通過する音が聞こえてくる。その騒音が遠のいた頃、戒斗は薄く笑った。
「那桜がおれにとって妹っていうのは一生、変わらない。おまえに頼まれなくても那桜を手助けするのは当然のことだ。けど、おまえと那桜の関係をたやすく受けいれられるかというのは別問題だ」
「わかってる」
「けど」
戒斗はそこで言葉を切ると、あからさまに可笑しそうに笑った。
戒斗がこんな砕けた笑い方をするようになったのは、家を出る一年まえだった。何がきっかけなのか――いや、きっかけはわかっている。裏分家である八掟家の一人娘、八掟叶多の家庭教師を引き受けたときからだ。
きっかけはわかっても何があったのかはわからない。だが、そこで戒斗の考えは変わった――はずだ。
「けど、なんだ」
問いかけると、戒斗はふと窓の外を見やる。三階のこの角部屋からは空しか見えることはない。戒斗は単に冬の高い空を眺めているわけではなく、脳内に記憶した映像を、窓をスクリーンにして映しだしているように感じた。やがて、戒斗は拓斗に向き直ると肩をそびやかした。
「納得はできる気がする。拓斗、おれは、おまえが約定を放棄するってことのほうが驚いてるかもしれない」
「そうすることが長として当然だと思ってきた」
「……思ってきた?」
すかさず戒斗は拓斗の曖昧な言葉に反応した。
「ああ。けど、那桜にとっては当然じゃない。そんな理由は一つもない。戒斗、おれには守らなければならないものがある。その気持ちを譲れなくなった」
歪んだ形ではなく、ただまっすぐに純粋な形で全うしてやりたい。
幼かった拓斗は、当然だとすることが守る方法だと思っていた。時には自分に云い聞かせてきた。それが“那桜だから”ではない、とそう証しを立ててやれるように。
「一族のことを考えれば、おれのわがままだ」
「一族のことを考えれば、約定は間違っている」
拓斗が云い終わるが早いか、戒斗が真似て連ねた。
「戒斗?」
「おれにはずっと疑問に思っていることがある」
「なんだ」
「父さんはなぜ方針を変えたんだ? 祖父さんの時代から約定の話が出ていたのはおれも知ってる。拓斗、おまえもわかってるはずだよな。父さんははっきり反対していた。それが、なぜ真逆に変わったんだ?」
「……それをおれも探してる」
方針をがらりと変えなければならないほどの何が隼斗に生じたのか。それがわかれば突破口も、少なくともいまよりは簡単に見つかるかもしれない。
戒斗は短くため息をつき、「それともう一つ」と云って拓斗を見据えた。
「拓斗、あの夜、おまえと那桜の間に何があった? あのあとだ、約定が決められたのは」
あの夜と約定を結びつけるのは、身近に拓斗と那桜を見てきた戒斗ならではの考察なのか。
だれにも触れられたくない。触れさせてはならない。そこから綻びが生じないよう――。
「何もない。入院してからずっと室内ばかりで飽きたって云うから外に連れだしただけだ」
「夜に?」
「星が見たかったらしい」
「雨が降ってたのに、か?」
「晴れると思ったんだろ。待っているうちに雨が酷くなって帰れなくなった」
そこまで応じると、拓斗が黙秘に徹することを察したのか、もしくはあきらめたのか、戒斗は首を振りながらため息をついた。
「一晩中、探したんだ。那桜を連れていくとしても今度はああいうことするなよ」
ふざけているわけでもなく子供の頃と同等の扱いを受けると――ましてや戒斗は弟であり、拓斗は内心で心外である以上に呆れる。
「家を出るのは、認めるとはいかないまでも覚悟してもらってからだ。ただし戒斗、おれは本家を捨てても総領の座は捨てるつもりはない」
真意を探るかのように戒斗の目が拓斗を見つめる。どういうことか推し量っているのだろう、返事がくるまでに少し時間が要った。
「徹底してるな」
戒斗は冷やかすような表情で片方だけ眉を上げた。
「約定の条件を――おれのことはともかく、那桜もまた条件のうちだということを那桜の耳には入れたくない」
そう云うと戒斗はうなずいた。
「拓斗、おまえの意向におれは何も異存はない。有吏と違って蘇我は独裁だ。嫁いでくる蘇我美鈴が“ただのお嬢さま”であることはもちろん、那桜の相手、蘇我孔明は頭はよくても“ただのお坊ちゃま”だ。ふたりとも後妻の子で、異母兄がいて、しかも兄弟仲が悪いことを考えると孔明が蘇我を継ぐと信じるには危うい。異母兄が後継することになれば有吏はバカを見る。それ以前の問題として、このまま約定を通すなら、戦時と、あるいは無力化された上家と同様、有吏一族はまた打撃を被るという可能性は否めない。じいさんの兄上は蘇我の暗殺に赴いたすえ命を落とした。民がそうだったように、有吏一族も多くを犠牲にしたんだ。やっとここまで再生してきたっていうのに下手したら命取りになる。有吏は蘇我とはっきり縁を切るべきだ」
「ああ。とりあえず目指すのは白紙撤回だ。分家の本音を内偵していこうと思っている」
「そこまでならある程度すませた。次はおまえを説得ってとこだったけど、その必要はなかったらしい」
戒斗はすましてくちびるを歪めた。
戒斗が何を考えて家を出たのか。この四年、ただわがままを通していただけではなかったようだ。やりたいことを探したい、とそう云ってから戒斗は音楽という場を探しだし、五月にはいよいよプロとして立つ。が、そんな単純な理由一つではなく――単純と、そう口に出せば戒斗はおもしろくないだろうが――拓斗よりも早くさきを見据えていたのだ。
「それで、どうなんだ」
拓斗が問うと、戒斗はあやふやに首を振った。
「あくまで内偵だ。それとなく示唆してもはっきり口にする分家はいない。けど、ニュアンス的には“本家が決めた以上”という感じだ。説得の余地はあると見ている。あとは父さんの息が直にかかる表分家、そして仲介家だ。つまりは父さんが声をあげるだけで一族は納得する」
その憂えた口調を聞くと、それがいちばんの難関であることは戒斗も感じているようだ。
「わかった」
立ちあがりかけると、「拓斗」と戒斗が呼び止めた。
「なんだ」
「おまえにさきを越されたけど、おれもわがまま云いたいことがある。分家からすれば身勝手に見えるだろう。けど、おれたちが動くということは、有吏一族を変革するためには最大の誘因になる」
「……八掟叶多か?」
「ああ」
戒斗はあっさりと認めた。それから、つと解せないといったように首を傾けた。
「拓斗、おまえ香水つけるようになったのか」
訪れたときも戒斗はわずかに顔をしかめていたが、香りはまだきつく拓斗を纏っているのだろう。
「那桜から振りかけられた。もたもたしすぎてるらしい」
そう答えると戒斗は笑いだした。そして、立ちあがる拓斗を追いながら挑むように顎をしゃくる。
「早く解決してくれないと叶多が泣く」
戒斗は軽口を叩いた。
拓斗は首をひねって応えると、戒斗の住み処をあとにした。
階段をおりながらコートを羽織ると、異臭のする毒物を盛られても気づかないほど鼻が利かなくなっている気がしていたが、いまは残り香のように“桜”が絡んでくる。セントラルタウンでエスカレーターに乗ったときも同じように、いや、いまよりはきつく香った。そう思いだすと、那桜がコートを着るのを手伝ったときのことが甦る。
二週間まえよりも細くなった躰。それは、ひまわり畑のなかのかぼそい躰を思い起こさせた。
季節外れの――ものの一本も見当たらないという、あの夏とは真逆にもかかわらず“桜”は日輪草の芳香に紛れ、拓斗は躰が締めつけられるような感覚にむせた。
正面で詩乃が黙々と夕食を取る。那桜がサラダのレタス一欠片を口にしているうちに、詩乃はその半分くらいを食べてしまった。ふたりだけの食事はまもなく一カ月になる。二月に入って大学が休みになったから、朝も昼も夜もふたりきりで、そのうえ家を出ることがないから那桜はだんだんと時の観念を失っているような不安を覚えている。
詩乃がお箸を持つ手を止めて、ふいに顔を上げた。
「ちゃんと食べてちょうだい」
そうしなければ席を立つことは許さない、そんな口調だ。
「お母さん」
食べるのもそうだが、そのたった一言の呼びかけも、顎がこわばってしまってうまく動かない。喋ることがないというのもそれなりの弊害が出てくるものだと、つまらないことを思いながら、那桜は詩乃に向かった。
「……拓兄と話すことある?」
曝露した当初にあった、顔を上げられないまでの疾しさは薄れてきても、拓斗の名を呼ぶのはいまだにためらわれて那桜は痞えながら訊ねた。
「どのくらいのことを話すと云うかによるわね。おはよう、いってらっしゃい、それくらいなら話してるわ」
その云い方は素っ気なく、刺々しくさえ聞こえる。
「……お母さんがわたしを許せて……拓兄を許せない理由って何?」
そう訊ねると、詩乃は目を凝らすように那桜を見たあと、手もとに目を落としておもむろにお箸を動かし始めた。かと思うと、詩乃はまた手を止めて、目は伏せたままで口を開いた。
「そうね……あなたにお母さんを重ねて、拓斗にお父さんを重ねているのかもしれない」
「……どういうこと?」
「お母さんにはいまのあなたたちのことで充分だわ」
詩乃と隼斗の間に何があったのだろう。一般的にも結婚には何かしらの問題がつきものだということは那桜にも漠然とわかる。いまの返事は、単純にすぎたことと一蹴されただけとも取れるし、触れるなという警告、延いては、触れてほしくないことがあったと示されたのだとも取れる。直感でいけば後者だ。那桜への接し方からすると、拓斗へはあまりに辛辣だった。あの瞬間から。
詩乃が出かけるときは隼斗が必ず一緒であり、家のなかでも、隼斗が書斎を使っているとき以外は大抵一緒にいると思う。それでもすっきり夫婦仲がいいと云えないのは、詩乃が頑なにならざるを得ないわだかまりがあるからなのかもしれない。
二週間まえの隼斗の企ては、どこまでのことが把握されて結果がどう捉えられたのか。それ以来、隼斗を避けている那桜はまったく知り得ないけれど、企てたこと自体が、詩乃の隼斗に対する評価を裏づけているような気がした。
この家のなかは、これまでもどうかするとよそよそしい雰囲気があったのに、いまはかつてないほどばらばらに感じて息が詰まる。
夕食は結局、半分ほど食べて箸を置いた。詩乃のため息を無視して、お風呂をすませて拓斗の部屋に戻った。
唯一、那桜がほっとできるのはこの部屋だけだ。
けれど、この部屋も拓斗の気配が消えてしまった。一カ月も主が不在であればしかたないのだろうけれど、拓斗の陰が感じられずに孤独感が増していく。
那桜はかぼそくため息をついて机に置いた赤い瓶を取ると、ベッドに行ってふとんを剥がし、一滴ずつシーツに香りを落とした。そうするのは、せめて、という日課になってしまった。そうしたら夢が見られる。拓斗の手のひらが額に触れて、そして耳もとに呼吸が聞こえるのだ。
いつもならまだ九時だろうとベッドに潜りこむところだが、那桜はふとんを被せて香りをこもらせた。
今日はバレンタインデーという口実がある。拓斗にどうしても香水を渡したかった。つけてとうるさく云う那桜がいないから、拓斗はNOBLE・BLOODを纏っていないのだと思う。もう廊下にも地下室にも拓斗の香りは残っていない。
那桜は足音に気をつけながらそっと階段をおりて、収納部屋に入った。地下室へのドアを開けると、風呂に入ったばかりの温まった躰が一気に冷えて肩をすぼめた。地下室へおりてからしばらく迷ったすえ、階段と拓斗が使っている部屋のすき間に入りこんだ。万が一、隼斗が来て見つかればまた立腹させる。そうならないように階段側の隅っこでプレゼントの小箱を抱きしめて身を隠した。
ここにいたら拓斗は怒るだろうか。不安になったものの、香水を振りまくなんていうみっともないことをしても怒らなかった。
夕食のとき、詩乃に拓斗と話すことはあるかと訊いたけれど、那桜自身はその日以降も、まえの二週間と同じように話すどころか会うこともない。
香水事件のことは、翔流も郁美もどちらかというとおもしろがっていて気にすることはないと云う。それでも、那桜は惨めになるくらい自分にうんざりしている。拓斗がどうにか打破しようとしていることは確かなことで、那桜はわがままを通さないことで反省を示しているつもりだった。
ただ、今日は特別で、わがままは最後だから、と自分に云い訳をした。
和惟はどうあっても会いにいくのが那桜だと云ったけれど、いまそうすることは簡単ではない。
本当は香水だけではなく、何か手作りのものをプレゼントしたかった。それを断念したのは、出かけるのが怖いからだ。隼斗が聞きつけて“また”ということがあったらと考えると出かけられない。和惟は那桜にではなく最終的に拓斗へ向けたものだと云ったけれど、その援護も空しく、那桜は隼斗との間に飛び越えきれない溝をつくった。詩乃の発言でますます溝の幅は広がった気がする。
どこにいられるだろう。どこだったら受けいれられるだろう。そんなことを考えている。
以前の家族という姿に戻れるとは思っていないけれど、どんな結果になったとしてもこの家にいるのは耐えられそうにない。
そんなふうにしたのは那桜自身だということもわかっている。
わたしが願ったから……――。
*
ふと、息苦しさと薄らとした音に気づいた。
那桜。
音ではなく声だ。繰り返し名を呼ぶ声に加えて雑音が聞こえだす。口を開いて喘いだとたん。
「那桜」
頭上から拓斗が呼びかけた。直後に足音が立ち、そのことで、声は幻聴で拓斗ではないかもしれないと思った。
「いた。地下だ」
驚くほど大きな声にびくっと躰をふるわせ、那桜は目を覚ました。ぱっと目を開けたつもりが視界はゆっくりとしか開けていかない。焦点が合わないうちに額に手が触れた。
「……拓……にぃ」
たった名を呼ぶだけなのに、のどの痛みが邪魔をしてうまく云えない。
「大丈夫だ」
「那桜」
拓斗の言葉に重ねられた隼斗の声を聞きとると、那桜は躰を揺らすほどふるえて縮こまった。隼斗の声は続いて、だんだんと近づいてくる。
「どういうことだ。ここに来ることは――」
「熱がある。部屋に運ぶから母さんに伝えてくれ」
隼斗が口を噤んだのがさきだったのか、拓斗がさえぎったのが早かったのか。
「ここにいるわ。連れてきてちょうだい」
「おれが運ぶ」
云い終わるより早く那桜の躰が浮く。
ちょうど額が拓斗の首の脈に触れる。この場所はだれにも譲れない。そう思うほど安心して、那桜は猫のようなしぐさで拓斗ののどもとに顔をすり寄せた。
「……拓兄」
「なんだ」
「香りがしなくなった……ちゃんとつけて。でないと……迷いそうで……怖い」
「わかった」
「……拓兄」
「なんだ」
「……和惟のところに……行っていい……?」
拓斗は立ち止まった。一瞬のことで、拓斗はすぐに歩きだす。
答えは返ってこなかった。