禁断CLOSER#89 第3部 純血愛-out-

3.隔離−Fight alone− -5-


 瞬間的に顔を背けた拓斗だったが、那桜が振りまいた香水は、その首筋からネクタイを外したビジネスシャツ、スーツジャケットの襟、そして手にしたコートにと染みをつくった。
 ビルのなかに流れる音楽は耳もとから遠く離れ、“桜”の香りと呆れた視線が躰に纏いつく。
 手がふるえだすのと同時に、拓斗の顔が那桜へと向き直ってきた。自分の醜い顔を見られたくない気持ちと、拓斗の顔を見られない後ろめたさに那桜は顔をうつむけた。
 後ろめたさ、そう感じるのは拓斗を信じていないと拓斗自身に曝けだしたようなものだからだ。
 頭のなかは拓斗のことしかなくて、やることはいつまでも子供っぽくて、だれと比べても幼い。

「那桜」
 そう呼んだ拓斗の声に負の感情は見えない。むしろ、あの彼女のまえで発した何もない声ではなくて慰撫するような声だ。ついさっき呼んだ声がそうだったように。それでも顔を上げられない。
「拓斗、あとはいい」
「頼む」
 頭上で拓斗と和惟の会話が飛び交い、那桜は腕を取られた。
「拓斗さん」
 女性の声が問うようなニュアンスで呼びかけた。うつむいた那桜の視界に、ミドル丈のブーツが入ってきて止まる。
「美鶴さん、申し訳ありませんがこれで失礼します」
「いいですよ。拓斗さんてカノジョいたんですね? 誤解させてごめんなさい。わたしが強引に誘ってしまったかも」
 そう云った彼女の声にまったく悪意は見当たらず、那桜はさらに悲愴な気分で一歩下がり、腕を引こうとした。それを拓斗の手が引き止める。
「美鶴さんのせいじゃない。父親同士の馴れ合いでしょう」
「……あら。でも、乗りかかろうって打算したのはわたしですよ。わたしのことはお気遣いなく。立矢くんがいるから大丈夫です。今度、カノジョにちゃんと謝らせてもらったらうれしいかも」
 立矢のことを馴れ馴れしく呼んだ美鶴は軽快に云い、拓斗が立ち去りやすくしようと意図したのか、「じゃあ、また」と付け加えた。
 拓斗はうなずくなりして応えたのだろう、何も口にせずに那桜の腕を引っぱった。合わせてだれかの――おそらくは和惟の手が背中を押す。
「那桜、気にすんなよ」
 歩きだしたとたん、翔流が口早に声をかけたが、那桜は振り返る勇気も応える気力もなかった。

 足がもつれそうになる那桜にかまわず、拓斗はぐいぐいと連れていく。桜の香りは拓斗を発生源にして終始ふたりに付き纏い、すれ違う人もたぶんむせるような匂いに気づいているだろう。
「コートを着ろ。外に出る」
 エスカレーターに乗ってそう云うが早いか、いつの間にか那桜の持ち物を手にしていた拓斗が手を離して、コートを那桜の肩にかけた。那桜がもたついている間に拓斗は自分もコートを羽織る。拓斗に手伝ってもらって那桜がようやく着終わったとき、ちょうど下に着いた。
 人のすき間を縫い、外に出ると冷たい風に晒される。那桜の内面はもっと冷え冷えとした寒さに怯えている。
 拓斗は駐車場に着くと、車の鍵を開けて那桜を助手席に押しこんだ。拓斗は車のまえをまわり、運転席に乗りこむや否やエンジンをかけた。
 そして、車を出すわけでもなく、エアコンの風で桜の香りが車内に充満するまで、拓斗は座席にもたれて何かを待っているようにただ沈黙していた。
 那桜は那桜で、取り消したい時間を再生してはひやりとした後悔を覚えるということを繰り返して息苦しい。拓斗個人の車ではなく会社の車で、香りが染みつくことを心配しながら、那桜は喘ぐように口を開いた。

「……拓兄――」
「わかってるからいい」
 那桜の声音に何を察したのか、拓斗は何を云う間もなく制した。苛立ちなどという不快感のある声ではない。
 拓斗は何をわかっているというのだろう。那桜は隣を向いて思わずその横顔へと手を伸ばした。視界に入っているだろうに拓斗は止めることなく、ただ届く寸前、顔を那桜のほうに向ける。触れた頬に、最後に会った日の酷い腫れは跡形もない。
 再び那桜は口を開いた。が、ためらいを覚えてすぐに閉じた。拓斗はやっぱり待っている。しばらく時間がこう着したように互いに見入っていた。
「……あの人……美鶴さんて……決められた人?」
 おずおずと訊ねると。
「違う」
 即座にきっぱりとした否定が返ってきた。
「でも……馴れ合いって」
「今日のことだ」
「今日?」
「ここをプロデュースしたのは有吏だとまえに話したはずだ。それ以来、おれが担当してるし、父さんも社長とは懇意にしている。小森美鶴は社長の娘だ。今日は社長から急に連絡が入って呼びだされた。つまらない話で、だ。父さんに今日ここに来るって話したな?」

 那桜が浅くうなずくと、拓斗はくだらないといったふうに小さく首を振り、その拍子に頬に添えていただけの手が滑り落ちる。
 どういうことか、那桜も漠然と察した。認めないというのは当然ながら、ふさわしいのは那桜じゃないということを、現実を見せることで隼斗は突きつけようとした。もしくはいまからもそう仕向けてくるのかもしれない。
 不要なのは、拓斗の頬からはぐれた手のように、那桜のほうなのだろう。その手はけれど、シートにぶつかる直前ですくわれた。

「有吏一族と似た一族がいる。歴史がはっきりしない昔から、その一族とは協力関係にあった。有吏はその一族の構成員を知っている。けど向こうは、“もう一つの一族”という存在を知っていても、それが“有吏”だということを知らない」
 拓斗はとうとつに話し始めた。その内容から機密のことだ。少しずつ話してくれるようになったものの、これまで具体的なことは隠すばかりだったことを考えると拓斗がどれだけ譲歩しているのか、ただ那桜に価値を与えたことは確かだ。
「あんまり仲がよくないってこと?」
「武骨な一族だ。少なくとも有吏にとって“仲がよかった”ことはない。あくまで協力者止まりだ。昭和の戦争をきっかけにして断絶した。けどいま、有吏とその一族は、窓口――和瀬ガードを通して和解を図っている」
 拓斗がなんのためにいまこういうことを教えてくれているのかはわからないけれど、どことなくその云い方に反感が見えた。
「……拓兄は気が進まない?」
「おれだけじゃないはずだ」
 答えになっているようでなっていない。拓斗は、「ただ」と区切るようにして続けた。
「おれはその和解条件――約定(やくじょう)と切っても切れない立場にある。つまりは主宰たちの了解を取りつける必要がある。そのうえで父さんに方針を変えてもらう」
 それが闘うこと――もしくはそのうちの一つなのだろうか。ごく表面的でその内実はまったく察することができなくても、ふたりであろうとすることがもろに一族に関係してくることは明らかになった。話してくれたことは喜ぶべきなのに、実情を思うと憂うことしかできない。

「拓兄……」
 那桜は助手席に座ったまま、躰をねじるようにして両手を伸ばすと、めずらしく拓斗のほうからも躰を寄せてきた。那桜は腕を巻きつけると同時にその首筋に額をつける。
 すると、消えかけている拓斗の香りを取り戻したかったのに、“桜”の香りが嗅覚を酷く刺激した。自業自得だが、ますます忘れてしまいそうで頼りない気持ちが甦る。
 こんなにくっついていても拓斗の手は那桜に触れることがない。それは貫こうとする意思の表れだろうし、那桜が触れることはぎりぎりで許容しているということだ。うれしくてさみしい。そんな気持ちが交差する。拓斗の手のかわりに、額に触れる脈が那桜をなぐさめた。

 やがて拓斗の呼吸が那桜を安穏とさせ、鼻が匂いに慣れた頃、拓斗が少しだけ躰を引いた。預けていただけの腕は拓斗の肩からするりと落ちる。
 顔を上げると拓斗は車の外に目を向けていた。それを追おうとした刹那、後部座席のドアが開いて冷たい空気が流れこんでくる。那桜が振り向く方向を後ろに変えると、車が揺れて和惟が乗りこんできた。

「いい見世物だったな」
 和惟はため息混じりで云った。嗤っているのでも呆れているのでもなく、しくじったという印象の声だ。
「おれに懸けたのなら、那桜を犠牲にするな」
 拓斗はルームミラー越しに和惟を叱責した。
「浅はかだったことは認める。おれの誤算は、那桜がいるとわかったうえでおまえが無視したことだ。小森令嬢のご機嫌取りより、ほかにやるべきことがあるだろう」
「くだらない画策におまえが一役買っていなければ、小森美鶴はフレビューに送り届けてすぐ引きあげていた。今日はめずらしく午後からのスケジュールがフリーだからな」
 拓斗の云い方はどこか嫌みのように聞こえた。
「どうする?」
「戒斗と話してくる。三時に約束してる」
 拓斗はそう云うと、はっとして目を見開いた那桜へと視線を向けた。
「……戒兄に話すの?」
「隠すつもりはない。だれにも、だ」
 拓斗は首をわずかに傾けた。無言の問いかけのように見えた。
「心配ない」
 どんな保証があるのだろう。それとも、すぐに応えられなかった那桜を助けるための、この場かぎりの気休めなのか、和惟は後ろから口を挟んだ。そしてドアを開けながら、今度は拓斗に声をかける。
「もう時間だな」
「ああ」

 相づちを打った拓斗の目が那桜をじっと見つめる。何か云わなくちゃ――例えば大丈夫と云うかわりに、と、そんな気にさせられる眼差しだった。
「……戒兄、香水の匂いにびっくりしちゃうかも」
 そう云ってみると、拓斗が息をついて首をひねる。安心したとも笑ったとも取れる雰囲気だ。よかったと思う傍らで那桜の気も少しだけらくになる。
「わたしのイメージらしいの。名まえは“桜”」
 どういう意味か、拓斗は肩をそびやかす。直後に助手席のドアが開けられた。
 会えない状況下の逢瀬はほんのつかの間で、その時間を絶つのはためらわれる。だからせめて。拓斗からじゃなく、那桜からなら拓斗の意思とは関係ない。
 那桜はとっさに伸びあがって、拓斗のくちびるにキスをした。そして、思いきるためにその表情は確認することなく車を降りた。

 ドアから離れると和惟が運転席を覗きこむ。
「うまく戒斗を説得してこいよ。まあ、変化を目論んでるからこそ戒斗は家を出たんだろうけどな」
 拓斗の返事は聞こえなかった。和惟は躰を起こすと、拓斗の車のまえを通って二つ隣に止めた車へと那桜を促した。
「和惟、来たとき、会社の車があるってこと気づいてた?」
「有吏専用のスペースだろう。気づかないほうがどうかしてる」
「拓兄ってことも?」
「ああ」
「どうして拓兄がフレビューに入るのを止めなかったの?」
 続けざまにした質問の三番め、和惟は答えなかった。ちょうど助手席のドアが開けられたせいもあるだろうけれど、それだけではない気がした。
 助手席に乗るとシートベルトを引っぱりながら拓斗の車を見やった。窓越しに目が合うと、それを待っていたように拓斗は小さくうなずいて駐車場を出ていった。
 少しくらい引き止めてほしいのに。そう願うのは贅沢だろうか。拓斗が乗った車を追いながら那桜はそんなことを思う。

 ため息を呑みこんでいる間に和惟は運転席に収まって、那桜の腿の上にフレビューの紙袋をのせた。
「預かってきた」
「お金は?」
「払ってきた。返さなくていい」
「これはそうしたら意味がないの。いくら?」
 和惟は理由がわからないといったふうに顔を傾け、つい今し方、革パンツのポケットから出してコンソールボックスに入れたばかりの財布を取りだした。
「美鶴さんてどんな人?」
 レシートを受けとりながら那桜は問いかけてみた。
「さあな。おれが話したのは今日がはじめてだ。つかみどころがない感じがする。好意的にとって、那桜みたいに、な」
 和惟はからかうように那桜を見てから車のエンジンをかけた。悪びれた様子はなく、それは裏切りではないからだろうか。
「立矢先輩と美鶴さんて知り合い?」
「小森美鶴も青南の出で同級生だ。それに、ここのオープン祝賀会とか、あちこちのパーティで顔を合わせているはずだ。知り合いというより友人という関係だろう」
「そう。……拓兄に訊いたら、美鶴さんは決められた人じゃないって」
 那桜の云い方が気に障ったのか、和惟は顔をしかめるように目を細めた。
「信じていい。そのとおりだ。那桜、こうなっている以上、決められたどうこういうことは論外だろう。そんな心配はいらない」
「でもお父さんは……」
 那桜は云い淀み、和惟から顔を背けるようにして正面を向いた。

「おれが首領に手を貸すことになったのはそのとおりだ。小森令嬢がフレビューに行く“らしい”ことは事前に聞かされていた。この春、大学生になる従妹に化粧類を一式プレゼントするってさっき云ってたな。拓斗たちがフレビューに行ったら、おれが那桜を行かせるって手はずだったけどそうする必要はなかった」
「わたしのことを考えるより、お父さんの命令のほうがさきなの?」
 語気を強めた声は自分でも悲鳴のようにも聞こえた。
「違う」
「酷い」
 和惟が即行で否定したにもかかわらず、那桜は責めるようにつぶやいた。
「那桜がらしくないからだ。拓斗はめいっぱいのスケジュールを立てられていて身動きが取れない。それを放棄することは批難材料になるから。会えないって云うけど、だれにも遠慮なしに会いにいくのが那桜だろう。おれは、那桜をつらくさせるために託したわけじゃない。那桜は那桜らしくいろ」
「わたしらしいとか、いまはわからない。だれにもわたしのいまの怖さはわからない」
「怖くない。首領は弱みを突いてるんだ」
「……弱み?」
「拓斗が“口にした”ということの意志を首領はわかっている。だからこそ、逆から突いてくる。何が那桜のためか、というふうに」
 那桜は黙りこむ。和惟は子供にするように那桜の頭を撫で、それから車を出した。

「和惟」
「なんだ」
「和惟の家……居心地いいかな」

 和惟は運転しながらちらりと那桜のほうを向いたが、結局、何も答えなかった。

BACKNEXTDOOR