禁断CLOSER#88 第3部 純血愛-out-

3.隔離−Fight alone− -4-


 大学生になったばかりの頃、あまり抱かれなくなったことで不安になった。二年まえからはあまり抱かれなくても、不満がないとまでは云いきれないけれど、拓斗の気持ちに不安はなくやってきた。
 話してくれないから躰を繋ぎたがる。喋らない拓斗が話してくれることで信じられる。そんな必要条件が二つとも取りあげられているから心細くなる。血の繋がりを絶つことはかなわなくて、だから正確にいえば、拓斗自身を信じていないのではなくて、むしろ拓斗が闘おうとしていることに疑いは一片もない。
 それだからこそ、明白なことはある。

「翔流くん、離れることになっても、わたしと拓兄は終わらないよ」

 姿が見えなくてもずっとふたりは心底で繋がっている。忘れられない。皮肉、にも、兄妹だから。
 信じられないのは、ふたりでいられるという未来。
 戒斗というもう一人の兄がいて、妹という感覚を失うことのない那桜よりも、きっと、もっと拓斗のほうが兄妹という境界線を見失っている。兄としてだと云いきれない――拓斗自らが云った言葉がその証明だ。

「離れる離れないは別にして、どっちにしても不毛だろ」
 翔流は容赦なく現実を突きつけた。が、直後には、参ったなというおどけた表情になって続けた。
「はっきりふられたの、何回めだっけな。おれも懲りねぇよな」
「あ……ごめん」
「謝ることねぇだろ。なんかさぁ……」
 翔流はそこで云い淀んだ。那桜は覗きこむように首をかしげた。
「何?」
「絶対に実るはずのない関係なのに、入る隙がないって思わせられるってどういうことなんだろうな」
「わたしにはわからないけど……そんなふうに云われると、わたしの自信を保証してもらったみたいで安心する」
「惚気かよ」
 翔流はそう突っこんで、那桜の気分を少し浮上させてくれた。

「那桜、ここだよね」
 ふいにまえを行く郁美が声をかけてきた。その人差し指が向けられた太い柱には、金色でデコレーションが施されたフレビューの文字がある。
 那桜はうなずきながら携帯電話で時間を確かめた。一時半をすぎていて、待ち合わせた立矢ももう店内にいるはずだ。
 念のため後ろを向くと、和惟の姿が目についた。いないと思えと云われても気になるし、まず目立たない和惟というのがあり得ない。ボディガードなのに目立っていいのかと思うけれど、普通の警護は目立つことで威圧して抑止力を出すという。もちろん、状況によっては目立たないようにすべきときもあるらしい。
 那桜が振り向いたのを認めた和惟は、遠目からでもわかるくらい首をひねった。距離を縮めることはなく、フレビューに入ることを止めるつもりはないらしい。もっとも、ここで立矢と待ち合わせしていることは内緒のことだ。

 那桜は郁美たちに追いついて、「ここだよ」と店内に入った。すると早速、奥まったところにあるメイクスペースにいる立矢を見つけた。
「相変わらず女々しいことやってるな」
 翔流がぼそっとつぶやく。と、その悪口が聞こえたように立矢はメイクする手を止めてこっちを向いた。笑ってしまった那桜の目と立矢の少し見開いた目が合う。それから、ちょっと待ってというように顎が上向いた。
 那桜は了解というようにうなずいてから郁美と店内をうろついた。翔流と勇基は少々うんざりしたような様でお目付役さながら那桜たちを囲んでいる。
 中央にあるガラスケースに近づくと、郁美は上に勢ぞろいしたリップを覗いた。
「お化粧品の匂いって好き」
「じゃなきゃ、開発とか研究とかいう場所で働けないと思う。嫌いって人もいるみたいだし」
「自分専用の化粧品つくれたらいいな」
 リップの色を一つ一つ確かめながら、郁美はまだ就職がはっきり決まったわけではないだろうに、ずうずうしいことをけろりとして口にした。
「郁美がつくるわけじゃないでしょ?」
「まあ、すぐには無理だけど。つくるには資格がいるんだって。だから、四月からグレイス専門学校に通おうって思ってる」
「グレイス専門学校って?」
「ソーシャルグレイスって有名な美容整形外科あるじゃない。そこがやってる医療関係の専門学校」
 どこかで聞いたことがあると思えば、フレビューの取引先であり有沙の嫁ぎ先だ。那桜の驚きを尻目に郁美は話を続けた。
「化粧品開発コースに行けば資格が取れるらしいの。夜間もあるし、大学のうちは昼間も時間が取れるから、四年生の間にめいっぱい単位とって四年で卒業するのが目標」
「そんなにかかるの?」
「普通、昼間だけで三年、夜間だと五年だよ。もっと早く知っていれば進学もそっちを考えてたかもしれないけど、大学に進まなかったら香堂先輩とも出会いがあったかわからないし。先輩にフォローするよって云ってもらったから、ぎゅうぎゅうのスケジュールでもがんばれそうな気がする」
 郁美はなんでもないことのように肩をすくめた。
 やっぱり郁美がうらやましい。拓斗のことが頭をいっぱいにして焦燥ばかりが募る。かといって打開しようと何かをするわけでもない。那桜は自分がいかにすっからかんかということを再認識させられた。

「お待たせ」
 すぐ傍に人の気配を感じたとたん、立矢の声がした。
 隣を振り仰ぐと、大学を卒業して一年、すっかり学生という雰囲気が消えた立矢がにこやかにしていた。メイクしていたからにはただの待ち合わせじゃなくて一販売員として店にいるのだろう。ジャケットは着ていなくても、二枚襟仕立てのお洒落なドビーシャツにスーツパンツという姿は、砕けた恰好ではない。
 一度に四人と挨拶言葉を交わした立矢はかわらずスマートな様だ。
「立矢先輩、今日は結局、わたしのせいで仕事になってるんですね」
「店員たちはお坊ちゃんの公私混同なお遊びだと思ってるよ。だから、売り上げを伸ばして帰ろうと思ってる。協力してくれるだろう?」
 立矢は可笑しそうに首をかしげた。郁美がくすっと笑いながら那桜の横から顔を覗かせた。
「香堂先輩にアドバイスしてもらったら断る人は少ないかも。でも、香堂先輩の顔を間近にメイクされるとなると緊張しそう。自信満々美人さんは別にして」
「ということは、かえって営業妨害になってるってことか。どうりであそこにいると遠巻きに見られるばかりで寄ってくる客が少ないはずだ」
 立矢は云いながら奥のカウンターを指差して、また郁美に向き直ると首をひねった。
「そういう心理が働くとは思わなかった。ありがとう、郁美さん」
 その云い方は真面目で、もしかしたら郁美はかなり立矢に買われているのかもしれない。ということは、那桜の気の毒だいう気持ちは“余計なお世話”だ。
「どういたしまして。あ、あと那桜も気にしてないみたいだけど、那桜の場合は特殊な事例ですよ」
 郁美は那桜を変人扱いしながら悦に入った顔つきで首を傾けた。
「じゃ、那桜ちゃん、こっち来て」
 立矢が笑いながら手招きしたところで郁美が「先輩」と呼び止めた。
「わたし、インタビューしてきてもいいですか。就活の一環です。もちろん仕事の邪魔にはならないようにしますから」
「早々内定を内緒にしててくれるならかまわないよ」
「それももちろんです」
 郁美は軽く受け合うと店内を徘徊しだした。
「おれは出てるぞ」
 苦笑いを見せた勇基は、さすがに郁美のあとをついてまわる気はないらしく店を出ていった。その背を追いかけた立矢の視線が翔流のほうへと流れた。那桜もつい斜め後ろに立つ翔流へと目を向けてみると、わずかにしかめた顔が立矢を見ていた。
「隣がメンズ向けだけど」
 立矢はからかった声音で云い、壁を指差した。
「興味ねぇよ」
 ぶっきらぼうな声に立矢は肩をそびやかして応え、それからいま指差した壁のほうのカウンターへと案内した。

 スツールに座るよう促されて那桜と翔流がそろって腰かけると、立矢はカウンター内にまわってガラスケースの下にかがんだ。立矢は棚を漁り始めたようで、すぐに躰を起こすと、那桜のまえに色の違う化粧箱を四種類並べた。まずは黒い箱から赤い瓶が取りだされた。
「これが元祖“NOBLE・BLOOD”、そしてこっちがシリーズ化したものだ。けっして底を知ることはできない海の色、ウルトラマリンが“TACT”、守られているようで畏れ多くもある深い森の色、ボトルグリーンが“()”、弾けそうで目が離せない透きとおった血の色、チェリーレッドが“桜”。色のイメージは、憶えてるかな、まえに話したことのある光の三原色をもとにしてる」
「わかる奴にはわかるって感じだな」
 名をきいて翔流が皮肉っぽく揶揄した。
 那桜は、唯一女性向けとしてつくられたチェリーレッドの瓶を手にする。ちょっと大きめで、土台の上にハート型という可愛いボトルだ。元祖の、どうかすると毒々しいと映る赤ではなく、立矢が云うとおり弾けそうにキュートな赤だ。
「試していい?」
「いいよ」

 NOBLE・BLOODが売れ行き好調でシリーズ化されたと聞いたのは一週間まえ、コマーシャルがオンエアされた日だった。悪いけど、と立矢からそれぞれのタイトルを聞かされたときは驚いた。これが二週間まえに知ったことなら、くすぐったいようなうれしさを感じただろうに。
「那桜ちゃん、どうかした?」
 そう訊かれて那桜は自分が顔をしかめていることに気づく。すぐには答えず、きついと感じない程度に香水瓶を鼻に近づけて嗅いでみた。以前につくってもらった香水のように甘くはあっても、それだけじゃなく妖艶な花――例えばユリをイメージさせるようなエッセンスが加わっている。
「いい香り。まえのより大人っぽい感じ」
「そう。立ち尽くしてた感じのあの頃に比べると、動かないまでもしっかりまえを見据えてる。少なくとも、拓斗さんはね」
「……拓兄と会うことある?」
「一年まえ、姉さんが晴れて結婚したとき報告させてもらった。那桜ちゃんにも拓斗さんと会うって云っただろう。あのときだけだ。まあ、おれがそうしなくても知ってたみたいだけど」
 立矢はどこか含んだような云い方をすると、那桜に向かって問うように首を傾けた。
 和惟から聞かされたことが頭をよぎったけれど、ここでお喋りになってしまえば、少しずつでも一族のことを話してくれるようになったのだから、そのせっかくの信用を失うことになる。
「あー……それはやっぱり気になるだろうから。フレビューもソーシャルグレイスも有名でしょ。有吏の職業柄、そういうことは耳に入ると思うし」
「だろうね」
 立矢はあっさりと相づちを打った。納得したのか、続いた含み笑いは怪しい。
「有沙さんはどうなの?」
「さあ」
 他人事のような返事に今度は那桜が首をかしげた。
 有沙のその後のことは気にならないといったら嘘になるものの、有沙のことを思いだすこと自体があまりない。拓斗は自分がわかっていればいいことと思っているのだろう、話してくれることはないし、和惟にも訊かずじまいだ。
「さあ、って……」
「めったに会うことがないんだ。会っても姉さんは何も云わないからね。古雅(こが)社長には従順なようだし、父が可憐だと思いこんでいるとおり異様におとなしくなったことは確かだ」
「そうなんだ」
 那桜があからさまにほっとした返事をすると立矢は笑い、それから生真面目な面持ちに変えた。

「拓斗さんがまえを見てるから、那桜ちゃんもつかみどころのないふわふわした感じが消えたんだろうって思ってた」
 立矢が過去形にしたのは意図してのことだろう。けれど、那桜は気づかないふりをしてボトルグリーンをさきに手にした。
 メンズものは、長方形というただの四角いスプレータイプの瓶だが、口が真ん中ではなく横のほうにあり、ガラスに貼りつけてあるメタルプレートと相まってどことなくセクシーな感じだ。
 ふたを開けると、元祖のノスタルジックな香りに加えてなんだろう、むせるような甘さが混じっている。そして、最後に嗅いだウルトラマリンの瓶からは、冷たさと紙一重の果てしないようななめらかさを感じた。
「いい感じ。立矢先輩、TACTと和は一つずつプレゼント用にしてほしいの」
「いいよ」
「それと桜を一つ、元祖を二つ」
「二つも?」
「そう」
 立矢は肩をすくめると「オーケー」と云って、近くにいた店員に声をかけた。
「桜のほうは専用のアトマイザーを出してるからつけておくよ。おれからのプレゼント」
「ほんと? うれしい。ありがとう」

 立矢にお礼を云ったあと、那桜は翔流のほうを向いてTACTを差しだした。
「翔流くん、試してみない?」
「おれは柄じゃない」
 翔流は唖然とした様でにべもなく退けた。勧められること自体が心外だったらしい。
「ずっとつけてたらあたりまえになっていくんだよ。拓兄もそう。わたしが隙をみて無理やりつけてたんだけど。だから習慣になるのに一年くらいかかったかな」
 立矢が小さく吹きだす。
「那桜ちゃん、根気あるな。お礼を云わないとね。拓斗さんは上得意さんだよ。ただ、一年まえに会ったとき、元祖を考えてた頃のイメージとは違ってるなと思って――」
 立矢はふと口を噤んだ。その目は店の出入り口の方向にある。わずかに顔をしかめると、那桜がなんだろうと思って振り向こうとしたとたん、立矢は那桜に目を戻した。
「だから、新作として出すことにしたんだ」
「そんなに拓兄は違ってる?」
「わからない? もともと落ち着きはあったけどその落ち着き方が違うというか。言葉にすれば泰然じゃなく悠然といった感じだ」
「わかってる。あの事件から拓兄はわたしを避けることなくなったから。そのきっかけは有沙さんの手柄だけど」
 おどけて云うと、立矢はすっかり吹っきれたのだろう。そんな笑みを漏らした。それは離れることが正解だという証しなのか。那桜は顔を曇らせた。

「でも、いつまでたっても認められない。両親にばれたの。というよりは拓兄がばらしたんだけど」
 翔流がすっと息を呑み、張りつめた沈黙がはびこった。立矢の視線はちらりと那桜の横を通りすぎ、おもむろに口を開いた。
「拓斗さんにはそういう覚悟があるんだろう……というよりそうでなくちゃならないと思ってたけど、本当にそうしたって聞くと……なんだろうな……ぞっとするよ」
「なんだよ、それ」
 聞き咎めた翔流が口を挟んだ。
「悪い意味で云ってるんじゃないよ。那桜ちゃんが――もしかしたら拓斗さんも、有刺鉄線の綱渡りをしてる気分だろうと思った」
 有刺鉄線の綱渡り――だとしたら、振り向く余裕もなくて立ち止まれば傷が深くなる、進めば傷が増えていく。逃れるには飛びおりるしかない。いずれにしろ、救われる道はないということだ。
「けどおれは、あの兄貴だからこそできるって信じていいんじゃないかと思う」
 ちょっとまえ、翔流は疑っていそうだったのに、いまは逆のことを口にした。立矢は翔流に応えてうなずく。
「那桜ちゃん、知ってるかな。ずっと深い海の底は遙か宇宙に行くより難しくて、たぶん人類がマリアナ海溝の底を見極めることはないだろう。それくらい拓斗さんはいろんなことを配慮してるはずだ」
 力づけてくれたにもかかわらず、那桜は曖昧にうなずいた。と――。

「拓斗さん、どの色がいいかしら」

 そう背後で名を呼んだのは立矢でもなく翔流でもない、女性の声だ。
 “たくと”という名はめずらしくない。それなのに那桜は、拓兄だ、と内心でつぶやいた。
「那桜ちゃん――」
 ハッとした那桜の顔を見て立矢は制止しようとしたのだろう。それに逆らって、翔流と同時に後ろを振り向いた。
 その勢いに気づいたかのように横顔が正面を向いて、那桜の勘に受け合った。
 那桜の見開いた目とは対照的に拓斗の顔は平然としている。まるで那桜がいることを知っていたかのようだ。拓斗は動かない。それどころか目は逸れ、途中ちょっと立ち止まり、もとの位置に戻った。
「この色はどうですか」
 そう云う彼女が、拓斗の視線がずれたことにさえ気づかないほど、他人のように無視された。

「那桜ちゃん、あの彼女はセントラルタウンのオーナーの娘だ。有吏コンサルはここと係わってる。仕事だよ」
 後ろからの立矢の説明は那桜をなぐさめるのにまるで役に立っていない。リップの色決めに付き合わなければならない仕事なんて意味がわからない。
 それともプレゼント?
 彼女が覗きこむように拓斗を見上げたせいで、その顔がはっきり現れた。那桜とそう年はかわらないように見える。有沙みたいに強力な美人というわけではないけれど洗練された雰囲気で、なお且つ人を惹くような邪気のなさが感じられる。
 ひょっとしたら、と那桜は思い至った。
 拓斗の決められた相手。
 デートなんてしたことがないと云ったくせに。
 救われる道はなくて、ぼろぼろになって致命傷を負うか、いっそのこと飛びおりて砕けるか。
 那桜はスツールをおりた。

「拓兄」
 傍に行って呼びかけるとゆっくりと目が向けられる。拓斗の眼差しは冷たくも温かくもなく、何もない。
「あとだ」
 拓斗の声を聞いたのはずっと――二週間という時間を超えてずっと昔のような気がした。眼差しと一緒で那桜を救う声ではない。
 あとで。それがどれくらい未来のことになるのかはわからない。
「拓斗さん、お知り合い?」
 彼女が怪訝そうに拓斗を呼び、その目は那桜へと向いてきた。背の高さもさして那桜とかわらない。
「こんにちは」
 まったく屈託のない彼女の笑顔は、裏表があれば別だが、有沙の挑戦的な様よりも怖いと感じた。
「こんにちは」
 いまは無視するほど那桜も子供ではない。けれど、自分の声は振りしぼるように醜く聞こえた。
「あと、っていつ? 電話も繋がらないし、かけてくれるわけでもないのに」
 なじる声はやっぱり子供っぽい。拓斗の目が警告する。

「那桜」

 そう呼ぶ声は二つ重なった。拓斗とは別の声を追って出入り口を見ると和惟が立っている。
 そこでまた気づかされた。
 和惟が拓斗に気づかなかったはずはない。
 それなら、わざと? なんのために? 知らないですむことだったのに。
 また和惟のことがわからなくなる。
 拓斗にしろ、和惟がいることを知っていたなら――その姿が私服である以上、那桜がいると見当をつけていたのかもしれない。店に入ってきた時点で那桜を認めていたのかもしれない。だから驚かなかった。

 那桜は二重の裏切りにあったような気分で拓斗を見つめた。自分の気持ちが頼りなさすぎて睨むというには程遠く、きっと縋るようにしている。ふるえそうなくちびるを咬んで踵を返した。
 そうしたら翔流と立矢の気遣った眼差しに合う。余計に惨めさが込みあげた。

「翔流くん、わたし、さきに帰るよ」
 精いっぱいがんばった甲斐があって声はしっかり出せた。
 それを挫くように。

「那桜」

 すぐ背後に拓斗の声を聞いた。

 自分のなかでどんな気持ちが衝動に結びついたのか――。

 気づいたときは“桜”の香りがどぎつく拓斗と那桜の間を舞っていた。

BACKNEXTDOOR

* tact … 機転、感触、鋭い感覚,美的センス