禁断CLOSER#87 第3部 純血愛-out-
3.隔離−Fight alone− -3-
入浴を終えて、髪をブローして、歯を磨いて、いつベッドに入ってもいい状態で那桜は浴室を出た。廊下に出るといったん立ち止まる。そんな習慣がついた。地下室へ行きたい気持ちがそうしてしまうのだ。いないとわかっていても。
下くちびるを咬んで、それからリビングに向かった。
「お母さん」
声をかけられた詩乃が反応を示したのと同様に、隼斗もまた那桜に意識を向ける。いままでもそうだったのか、いまだからそうしているのか、こっちを見ていなくてもそんな気配が感じとれる。
詩乃は那桜を見て首をかしげ、無言で何かしらと問いかけてきた。
「明日、大学の帰り、郁美と買い物したいんだけどいい?」
「どこだ?」
詩乃が答えるまえに隼斗が顔を向けて訊いてきた。
「セントラルタウン。明日で試験終わるし、バレンタインデーの贈り物とか準備したいの」
却下されるまえにと急いで付け加えたことは余計だったと、那桜は云ってしまってから気づいた。贈り物と拓斗が結びつけられるかもしれない。それも目的の一つであることは否めない――いや、それが最大の目的だ。
「和惟に送迎させる。それでいいな」
那桜の希望は意外にも簡単に受けいれられた。もっとも、二十一歳にもなってこんな許可をもらわなければならないほうがどうかしている。拓斗が扉を開けてくれてから出かけやすくなっていたのに、また那桜は窮屈になった。
「はい」
リビングを出るとため息をつきながら、ひんやりとした廊下を階段へと向かった。
「那桜」
戸が開いた音がしたと思うと詩乃が呼び止めた。
「明日はちゃんと朝ご飯を食べていくのよ。頭が痛くならないように。わかったわね」
「うん」
那桜がうなずくのを確認すると、詩乃はすぐリビングに引っこんだ。
詩乃の口ぶりは、食べないと行かせないといった雰囲気だった。おなかが空くと頭が痛くなるわけではなく、それどころかまったく因果関係はない。詩乃流の心配のしかたなのだろう。このところ、食欲が落ちているのは那桜自身がいちばんよくわかっている。
階段の下まで来るとまた立ち止まった。
拓斗はまだ帰っていない。あの日から二週間、一目も見ることはかなわない。拓斗の携帯電話はずっと電源が切られていて、声も聞けないし、メールでコンタクトを取ることもできない。
那桜の携帯電話は通じるのに、拓斗からかけてくることはない。それは拓斗の意志がいかに固いかという表れだろうから、たぶん帰っているという時間でも、那桜のほうから地下室を訊ねることははばかれる。そのわがままは、闘っていることをふりだしに戻してしまうとわかっているから。
二階に行くと、那桜は自分の部屋ではなく拓斗の部屋に入った。
那桜――そう最後に呼んだときの拓兄の顔、見ておけばよかった。そんな後悔をしている。
せめて、拓斗の香りにくるまれていたくて拓斗のベッドで眠る。
けれど、香りは徐々に、確実に失われている。
また忘れてしまいそうで……。……また……ってなんだろう……。
眠りにつきながらそんな疑問を持った。
*
一月の終わり、暖房が程よくきいた教室から一歩出るだけで、コートを羽織っていても肩をすぼめるほど今日は気温が低い。膝丈のスカートとショートブーツの間の脚が、寒さで棒のようにこわばってしまう。ロングブーツにすればよかったとちょっとだけ悔やんだ。
外に出れば、天気はいいのに冷たい風が太陽の力を無効にしている。那桜はカメみたいに首を縮めて中央キャンパスの正門のほうへと向かった。待ち合わせ場所にある青南学院創立者の上半身だけの銅像は恰幅がよくて、台座にどっかりとかまえている。なんとなく悪い気がしながら那桜は風よけに使わせてもらった。
「那桜、お待たせ」
軽快な足音が近づいてきたかと思うと、郁美が傍ですとんと立ち止まった。肩よりちょっと長い髪をハーフアップした那桜と違い、郁美はトップでおだんごヘアにしていて、ネックウォーマーはしているものの首筋が寒そうだ。
「わたしもいま来たの。どうだった?」
「いいんじゃない。明日から休みって思うともうどうでもいい感じ」
「春休みは就活でしょ? 今時、エスカレーターの子でも青南の名前だけじゃ難しいらしいし。休む暇ある?」
「もちろん就活やるけど、それは苦にならないというか――実はわたし、奥の手があるんだよね」
「奥の手?」
問い返すと郁美は得意そうにも見える含み笑いをした。
「フレビュー」
那桜がまさかといった顔を向けると、郁美は悪びれた様子は一片も出さずに首をひょいとかしげた。
「郁美、もしかして立矢先輩に負担かけてるわけじゃないよね」
「逆よ」
郁美はやっぱり得意げな面持ちで笑った。
「逆?」
「そ。スカウトされてる、開発部門に来ないかって。新商品の開発とか研究をやってる部門だって。そういうのは嫌いじゃないし――というより、美のためっていう仕事なら願ったりなんだよね。がんばってレポート出してた甲斐あったかも」
出していたというよりは“押しつけていた”だ、という突っこみは遠慮したものの、那桜は心底から呆気にとられて郁美を見つめた。郁美は至って普通の公務員家庭育ちだが、その安定した環境にあるせいか、けっして力んでは見えないパワフルさで順風に帆を揚げて人生を乗りきっていくのだろう。
そんな郁美に比べて、那桜は裕福な――“裕福”に付き物の“何不自由なく”という点では落第しているけれど――家庭環境がありながらも波乱という言葉のほうが似合っている。
「郁美、呆れるのを通り越して尊敬する。いまは心底うらやましいかも」
郁美は、ふふ、と首をすくめた。それから、憂うつそうにため息をついた那桜に気づき、「そういえば」と覗きこむようにして首をかしげた。
「那桜、何かあった?」
「……何かヘン?」
「いまのため息。試験中、多くなったから。何か考えこんでる感じだし、会うたびに一回はやってるよ。那桜に就活の悩みなんてあるわけないし。となると、お兄さん?」
郁美は鋭く指摘してきた。世界が限られているとこんなふうに簡単に云い当てられてしまう。自分の境遇が恨めしく、またため息をつきそうになって那桜は慌てて息を呑みこんだ。
「違うよ。大学卒業したら何するんだろうって思ってるだけ。働いてみたいけど、暗黙の了解でそうできない雰囲気だから説得する方法を探してる」
すんなり口から出たごまかしは、今回の問題が起きるまで真剣に考えていた悩みだった。
「ふーん――」
「那桜」
納得してなさそうな郁美の相づちをさえぎるように、那桜の背後から翔流の呼びかけが届いた。隣接するキャンパスと繋がっている近道のほうから聞こえて、那桜が振り向くまもなく続いて「郁美」と勇基の声がする。
振り向く途中にまた別の人影を捉える。合流するタイミングを計っていたかのように正門のところに和惟が現れた。
郁美が小さく「あれ?」とつぶやいたけれど、訊ねるまもなくほぼ同時に男たち三人が待ち合わせ場所にそろった。
「明日から休みとなると打ち上げか。大学生はお気楽だな」
挨拶を簡単にすませたあと、和惟は皮肉っぽく口にした。大学生という括りは表面上のことにすぎず、翔流はそれが自分一人に向かっているように感じたのか、和惟に向けてわずかに顎をしゃくった。
「年相応ですよ。破目を外してるわけじゃない。衛守さんが“金魚”についてまわる必要はないと思いますけどね」
和惟は自分が“フン”に例えられたことをおもしろがっているのか不快に思ったのか、口を歪めて笑った。
「お気楽だな、ってもう一度云っておく」
それから和惟は、「来て、送っていこう」と首を傾けて正門の方向を示した。
和惟が背を向けたところで、歩きながら郁美が那桜の腕をつついてきた。見ると、可笑しそうに目を細くしている。郁美は顔を寄せてきてこっそりといった様で口を開いた。
「なぁんか火花散ってるって感じ。これでお兄さんいたら、真空状態だね」
「どういう意味?」
「摩擦係数が最大値になりそうってこと」
そう云う郁美の頭のなかは何やら想像力が最大値のようだ。
正門を出てすぐ左に曲がったところに和惟の私用車が止まっていた。
「なぁんだ。衛守さん、私服だと思ったら、やっぱりいつもの車じゃないんですね。高級車、乗ってみたかったのに」
郁美はがっかりした声で無遠慮に云い、和惟は苦笑いをする。
「残念ながらVIP車は四人乗りなんだ。これでも国産のなかでは最高級車の部類に入ると思うけど」
和惟が自分の車を擁護しているうちに、那桜は郁美の発言からふとしたことを思い至った。私服だということは仕事中ではないということだ。
「和惟、まさか店のなかにもついてくる気?」
「心外な云い方だ。そうするとしても目立たなくやる。いないと思って楽しめばいい」
と、聞きわけのよさそうな柔らかい声ながらも、和惟の云い分はまったく逆の意味を含んでいるように聞こえた。
セントラルタウンの一画に、国内四大総合商社の一つ、松井商社の子会社であるセントラルマネジメント社がある。このセントラルタウンという居住から興行まで備えた、一つの街のような複合施設を運営管理している会社だ。
松井商社から有吏にセントラルタウンのプロデュース依頼が来たのは六年まえだったが、その二年後――四年まえに松井銀行の立て直しに携わったことから、同年開業後のフォローは拓斗が先導して請け負っている。何か問題が発生すれば相談を受けてきたわけだが――。
社長室のなか、脚の上に腕をのせてまえのめりにしていた躰を起こすと、拓斗はソファの背にゆっくりともたれた。
合わせたように、向かいに座った社長の小森は、テーブルに置いたセントラルタウンの全体地図から顔を上げた。
「申し訳ありませんが、社長、ここに遊園地をつくる意味がわかりませんね。公園を潰す気ですか。こちらに伺うまえに視察させてもらいましたが、公園では公園なりの楽しみ方があるようですよ。いまの時期はスケートリンクが人気ありますし、それくらいで充分かと。遊園地のメンテナンスはかなりの負担になります。黒字化は目のまえです。支出できるのなら五周年を期にリニューアルすべき点を考えられてはどうです」
「だろうな。この案は取り下げよう」
土曜日という休日に急に思い立ち、わざわざ出勤したわりに小森はあっさりと引いた。
「では――」
「ああ、拓斗さん、ちょうど昼だ。昼食にでも付き合ってくれないか」
「……かまいませんよ」
この二週間、拓斗は朝食を除き外食ばかりで食傷ぎみだが、そのため息は押し殺して立ちあがった。
社長室を出ると、当番で休日出勤している社員たちと軽く会釈を交わしながら外に出た。とたん、楚々とした出で立ちの女が目につく。拓斗は小森の目論見を察した。
Aラインのショート丈のジャケットにプリーツキュロット、頭にはベレー帽と、いかにもお嬢さまらしい装いをした小森美鶴が父親のまえに立った。近づいてくる間、素知らぬふりをしていた顔は、拓斗のほうを向くなりにっこりと笑みを浮かべた。
「拓斗さん、こんにちは」
いったん口を開くとおとなしそうな見かけとは違い、快活な印象を受ける。ここ二年、片手ほどしか会ったことはないが、ついさっきまでの意地を張ったような知らぬ顔といい、拓斗は美鶴に同じ挨拶言葉を返しながら、那桜と雰囲気が似ていると思う。
けど、違う。
那桜――意識なく、ましてや姿はないというのに呼びかけてしまうと、それだけで躰も心底も痛むほどに疼く。
あれから二週間。何か進展しているかといえば、隼斗の明らかな意図によって日中は仕事、夜は有吏塾生の指導と必要以上に役を与えられて何も進んでいない。
私用の携帯電話は隼斗に預け、連絡を取ることもしない。まさに眠るだけのために家にいる間、すれ違うこともないという目下、それらを那桜はどう捉えているのか。この二年の間に甦生してきたことは未完だったかもしれないという――いや、それ以前に完全になることはないのだという一抹の戦慄は拭えない。
「パパ、一緒に食事をどうかって思ったんだけどまだお仕事?」
「いや、仕事は終わったんだが……拓斗くん、どうだね、美鶴も一緒にかまわないかな」
白々しい会話のあと、案の定、断るには理由がない状況で拓斗は決断を振られた。
だいたいが仕事の付き合いをするなかで、依頼者の家族と会うことはめったにない。それを考えれば、片手といえどもかなりの確率で美鶴とは“偶然”会う。そのあたりの露骨さは悪気がないといえばそうだろうが、公私混同の迷惑でしかない。どっちがどっちの意に沿っているのか。
「かまいませんよ」
うんざりした気分を隠し、拓斗はうなずいた。
セントラルタウンは、二十歳になった那桜の誕生日プレゼントとして拓斗からデートに連れてきてもらった場所だ。そのあとは一度しか来たことがないけれど、変わらず人は溢れ返っている。
「那桜、何かあったのか」
昼食を食べたあと、郁美と勇基からちょっと離れて歩きながら翔流が訊ねた。
「何かって?」
「送迎が兄貴じゃないからさ。さっき、郁美がここ最近ずっとそうだって云ってたし、なんとなく那桜の様子が違ってる」
惚けてみたところで何もならなかった。郁美は目敏いが、翔流もそうだ。
「翔流くんの云うとおり」
「何が」
「行動できる範囲が狭いってこと。身内しか頼れなくて、でも、その身内ももう頼れないかもしれない」
足を止めることなくまえを向いたままでそう云うと、翔流はしばらく押し黙った。
こういうとき、雑踏のなかはざわついていて沈黙が気になることなく助かる。
「那桜、もしかして……」
翔流は云い淀んでいる。那桜は少しためらったのち、小さくうなずいた。
「大丈夫。拓兄はちゃんとしようとしてくれてる」
「ちゃんと、って……できるのかよ」
「そうしてもらうの! 大丈夫」
せっかくの勝ち気な云い方も、付け加えた『大丈夫』が心もとなくさせている。
翔流はめいっぱいの息をついた。それからもう一度ため息をつく。
「那桜、かえってさ、いい機会ってことじゃないのか」
「え?」
「兄貴と離れる、ってことさ。相手が衛守さんていうほうがまだ納得できる。といっても、どうせ兄貴とだめになるんなら、おれも引き下がるつもりはないけど」
離れたくない!
翔流の口から飛びだした言葉を聞かされた瞬間の、その叫びは声にならなかった。
それは拓斗を信じる気持ちが欠けているからかもしれない。そう思ってまた泣きたくなった。