禁断CLOSER#86 第3部 純血愛-out-
3.隔離−Fight alone− -2-
バスタブにもたれて水没しそうになりながら温まる、そんなお気に入りの入浴タイムは少しもくつろげず、那桜は早々と切りあげた。
浴室を出て、さらにひんやりとした廊下に出ると、いったん足が止まる。
脳と足の意思疎通は問題ない、と、どうでもいいことを考えた。もっとも、そういうつまらないことを考えていないと、不安が充満して窒息してしまいそうになる。
逃げないで闘う。そう自分に云い聞かせて、迷っていた足をリビングに向かわせた。
那桜は動悸を抑えられないままそっとリビングの戸を開けた。覚悟していた、すぐさま批難の目が向く、ということにはならなかった。
隼斗はこっち側を向いてソファに座り、眉間にしわを寄せながら目を閉じて背もたれに寄りかかっていた。まえに置かれたコーヒーには手をつけていないことがわかる。
隼斗の向かいに座った詩乃は、何も喉を通らないといった心境は越えたのか、手にしたコーヒーカップをテーブルに置いた。
おもむろに隼斗の目が開き始め、詩乃は首をまわし、二対の目が一緒になって那桜へと向いた。ゆっくりしているから余計にじっくりと突き刺さるような感触がして、那桜は慄き、くちびるが小さくふるえた。
秘密だった間は難しくもなく罪悪感を隠すことができていたのに、気持ちだけではない、躰を交えたことまで知られたいま、断罪のもと、その視線から不浄の烙印を躰中に押された気がした。
御方だとなだめた詩乃にさえ引け目を感じるのに、隼斗の眼差しは他人のような距離感を那桜に与えた。
いや、その距離を生みだしたのは那桜のほうかもしれない。血が垣根にならないのなら、那桜を見る目が兄としてではないという拓斗と同じで、いまの隼斗は父親として那桜を見ているのではないように思えた。和室で感じた疎外感は、部屋の気配ではなく隼斗が、ふさわしくない、と卑しめたのかもしれない。
そう気づくと、那桜は見ていられなくてとっさに目を伏せた。
「……お風呂、あがったから」
それだけ云って躰の向きを変えようとしたとき。
「那桜」
隼斗の据わった声が那桜を呼ぶ。
「はい」
「目を逸らさなければならないようなことをしたのか」
拓斗へ向かった恫喝のような激しさはなくても、その半分くらいの意が声音に込められていることはわかる。
“はい”とも“違う”とも云えない。
那桜が答えなくてもすでに事実として知っている隼斗は、なぜあえて問うてくるのだろう。その真意は見当がつかず、ますます何も口にできなくなった。
「反省する、ということだな」
黙っていると、隼斗は結論を強要してきた。那桜はぱっと顔を上げる。
「もうい――」
「お父さん」
隼斗の、おそらく短いだろう言葉を最後まで云わせないうちに――それを云わせてはいけない気がして、もしくは、那桜が自分の意思を宣言できる最大のチャンスのような気がして、那桜は急いでさえぎった。
何も見逃すまいとするように鋭くした目が那桜を見据える。
「まっすぐ見られないようなこと……人に云えないことをしてるのはわかってる。でも、反省しなきゃっていう気持ちはわからない。……ごめんなさい」
もともと静かなリビングだが、床暖房と天井扇の間に生じた気流の音が聞こえそうに静まった。
「“ごめん”で通じると思うな」
隼斗はぴしゃりとはね除け、そして見たくないといわんばかりに顔をそむけた。
「はい」
詩乃の声は一言も聞かないまま、那桜はリビングの戸を閉めた。
そのまま動けなかった。
肉親から見放されること、肉親を頼れないことの怖れを目の当たりにすると、しばらく忘れていた孤独ということがクローズアップされた。
「那桜」
すぐ横から囁く声がした。それが足の呪縛を解き、那桜は拓斗を見上げた。ふるえを止めようとくちびるを咬んだと同時に、拓斗が片手で那桜の頭を引き寄せた。そのまま無理やり連れていかれるようにして歩いた。
階段の下まで来ると、頭を抱きこむようにしていた腕が少し締めつけて、そして離れた。
「一緒だ」
拓斗はつぶやくように云った。那桜は顔を上げて拓斗を見つめた。
「え?」
「反省という言葉は当てはまらない」
那桜からぶれない瞳と、剣が空気を裂くような声の響き。後悔する余地のない気持ちは互いに同じで、どうにかするという曖昧な自信や約束なんかではなく、決まった心だと思えた。
それは那桜の胸をいっぱいにして鼓動も声も痞えたようになり、うなずくことしかできなかった。
「風邪ひかないうちに部屋に行け」
拓斗は首をひねり、上半身を折って階段に置いていたパソコンを取った。
「拓兄……持っていくの?」
寝るときだけではなく、部屋自体を移動するのだとあらためて知った。
「いままでと同じというわけにはいかないけど、会社には行くし、家にいることには変わりない」
那桜をなぐさめるためか、躰を起こした拓斗は大したことがないといったふうだ。
「ついていっていい? どこにいるか知っておきたいの。地下はずっと入ってないし、よく覚えてないから」
拓斗は迷っているのか返事はない。しばらくたって、拓斗は顎を少しだけ上げて廊下の奥へと那桜を促した。
一時間もたたないまえ、殺気さえあったんじゃないかという和室の手前に書斎がある。そこと浴室の間が収納部屋になっていて、そのなかに地下室への入り口がある。収納部屋は書斎側の壁に作りつけの棚が二つ据えられ、その間が地下室へとおりるドアになっているのだが、一見は収納庫にすぎない。
拓斗がドアを開けると、地上とは違うひんやりした空気が上ってきた。那桜は身ぶるいする。
おりていくと、地下は敷地内の広さもあれば照明もあるのに、窓がないから窮屈でしかたない。剥きだしのコンクリートというせいもあって、空調設備は整っているのに閉じこめられたような息苦しさを伴う。憶えているとおりの、那桜にとって苦手な感覚だ。いくつか固定された部屋のほかは移動間仕切りで、最後に使ったまま適当に区切られている。
その天井のレールからぶら下がった間仕切りは、和惟が云うところの絡繰り戸で、迷路にもなり得る。実際、中等部に入ってまもなく改装したとき、戒斗と惟均に悪戯されて出られなくなったことがある。そのとき出してくれたのは和唯だったけれど、それ以来、那桜が地下に来ることはなくなったのだ。
拓斗も含め、しばらく従兄弟たちは脱出ゲームと称してこの絡繰り戸で遊んでいた。いまになって思うと、遊びじゃなくて、目印を見逃さないで正確に位置を捉えられるようになるためのトレーニングだったと考えられなくもない。なぜなら、間仕切りのなかに動かせないものがあって、それには異なった目印がつけられているからだ。
トレーニングだとしてもそれがどこに役立つのかよくわからないけれど、少なくとも、はじめて行くショッピングモールでも、うろうろした挙げ句に帰るというとき、拓斗や和惟が出口を迷うところなんて見たことはない。
「ここだ」
拓斗が指差したところは、階段をおりてすぐ右という場所で、奥まったところではない。方向的には書斎から外に出たところの真下、つまり、拓斗の部屋のベランダから見下ろしたところじゃないだろうか。
六畳くらいの部屋に入ると、殺風景だが薄ら記憶にあるとおりの様で、いまの拓斗の部屋と大して変わらない。ちょっと狭いだけだ。地下に軟禁と聞いて、牢獄みたいなものを想像してしまったけれど、エアコンも天井にあって、“暮らす”ことに関してはなんら苦痛はないと確認できてほっとした。
拓斗は、奥にある机にパソコンを置いてから、入り口に立つ那桜のところに戻ってきた。拓斗を見たとき、どうしても最初に目に飛びこんでくる頬の腫れはだんだん酷くなっている。
「場所が変わっただけだ」
そう云う拓斗に、那桜は躰をぶつけるようにして巻きついた。
「でも……いままでみたいに一緒にはいられないんだよね? 全然、違うの」
仰向いて訴えたあと、頬を拓斗の胸につけた。
闘うと自分に宣言したのに、もう甘えたことを云っている。
そんなふうに意思が弱くても拓斗はうんざりしないで、それどころか、那桜の気がすむまで好きにさせようとしている。
云い訳をすれば、これ以上はだめだというわがままは我慢している。例えば、キスしたいとか、抱きしめてほしいとか。
いまそうしてくれないのは、潔白を実証するということの表れなのだろう。兄妹でいなければならない。わかるけれどさみしい。
記憶にない子供の頃に還れたら地団駄でも踏んでわがままを訴える。そうしたら拓斗はおんぶでも抱っこでもしてくれる。けれど、タイムマシーンがあっても、那桜が憶えていない、仲が良かったという兄妹の時代よりもいまを選ぶ。
「拓兄……好き」
そんな気持ちは捨てられない。苦しくてもつらくても、このまま終わってもいい、とそう思うほど同化することの至極の熱を知っているから。
囁き声の告白は届いたのか、拓斗は何も反応しなくて――強いて変化を挙げればその瞬間だけ、鼓動がわずかに大きく揺らいだ気がする。その鼓動にあやさられて、微睡みのなかにいるような心地に浸った。
「那桜」
つかの間の安らぎのなか、ふいに拓斗が警告を発した。目を開けると同時に肩をつかまれて、躰が引き離される。押しのけるようなやり方は温まった躰を一気に冷やした。
が、直後にドアが開いて隼斗が入ってくると、そうされてよかったと拓斗の感知力と判断に感謝した。隼斗の鋭く細めた目が那桜へと向かってくると、ここにいることすらまずいことだと気づく。
那桜が拓斗の陰に隠れるのが早かったのか、拓斗が那桜をかばうようにして左半身からまえに出たのが早かったのかはわからない。
「拓斗、鍵をかけなければならないほど辛抱できないか」
この部屋が二階の部屋と大して変わらない一方で、決定的に違うこと、それは鍵が外側に取りつけられているということだ。二階の部屋に限らず、外に鍵がついているなんて普通にない。
「いまはそういう問題じゃない。不必要な心配をさせたくないだけです」
「それが兄としての気持ちじゃないと、なぜ云いきれる?」
「兄としてだと云いきれないからです」
不穏さは拭い去れなくても、一時間まえとは違う、冷静な応酬だった。
「おまえは妹をかばいたいだけだ。那桜、ここに入ることは許さん。いいか」
「……はい」
顔をうつむけた那桜は、隼斗の足もとを見ながら細々と返事をすると、隼斗は何をしにここへ来たのか踵を返した。
あとに続かなければまた隼斗の逆鱗に触れるかもしれない。那桜は拓斗の左手を握りしめ、それからすぐに離した。
「行くね」
顔を見たらまた駄々をこねそうな気がして、那桜はうつむいたまま云った。
「那桜」
「はい」
大丈夫だ、と云い含んでいる声にふさわしいのはその返事しかなかった。
*
いつも自分の部屋で独りで眠っている。だからいつもと変わらない。
それなのに、拓斗の部屋に拓斗がいないというだけでなぜこんなに背中が寒いのだろう。
那桜が望んでいること。
拓兄と離れたくない。一族がいちばんでもいい。でも、その次はわたしだから。いずれだれかのものになっても、その人は拓兄の扉を開けられない。そこにはわたしがいるから。
それがきれい事だというのはわかっている。我慢という言葉がその証拠だ。
いままでのこと、これからのこと、いろんなことを考えて、明日から試験だというのによく眠れない夜をすごした。
朝起きたとき、やっと眠れていたらしいと知った。
那桜。
待ってろ。
そう云って額に触れた手。
そんな夢を見た。
起きてまもなくリビングに行くと、まだ七時なのにすでに拓斗と隼斗はいなかった。
拓斗は那桜の望みを叶えようとしている。
それを心からうれしいと云えないことに泣きたくなった。