禁断CLOSER#85 第3部 純血愛-out-

3.隔離−Fight alone− -1-


 階段を上ると押しこまれるようにして那桜がさきに部屋に入った。ドアが閉まると同時に、那桜はくるりと躰をまわして和惟と向かい合った。
 和惟の目にはプラスティックじゃなくなった温かさがある。それが余計に怖いと云ったら、いつもの嘲笑に近い、からかった眼差しに変わるだろうか。
「……どうなるの?」
「那桜が煩うことじゃない」
「でもわたしのことなの。どう考えてもどうにもならない」
 拓斗には誓うと云ったとおり、疑いは抱いていない。ただ、どうにかなるなどという気休めはわずかでも那桜のなかには存在しない。
「どうにもならないっていう結論があって拓斗が動いているわけないだろう」
「でも和惟みたいにあっさり認めるってあるわけない」
 何を感じとったのか、和惟のくちびるはゆっくりと笑みを形づくった。瞳と同じようにくちびるの柔らかさもイミテーションじゃない。
「おれのことは当てにしているわけだ」
「……そうしちゃだめなの?」
「そうであるべきだし、そう思っているなら……確かにしばらくはきつい。けど、我慢できるだろう?」
 子供に対するようななだめた云い方だ。けれど『我慢』というからには、拓斗がそうであるように和惟もまた“終わらない”と信じているということだ。
「自信ない。でも拓兄がいてくれるなら……」
 曖昧に途切れさせると、和惟はただうなずいた。
「詩乃おばさんも那桜の御方だ。それほど難しいことじゃないかもしれない」
 和惟は、さっきとは違う、いちばん砕けた云い方で詩乃を呼んだ。

 使いわけることの漠然とした背景は理解している。有吏一族の本家としてある詩乃は、各々の分家の長――主宰と呼ばれているが、その男たちから敬われる存在だ。けれど、『姫の宮』と呼ぶ和惟の声音からはそれ以上の崇敬の意が見えた。
「和惟、『姫の宮』って何?」
「“皇女”の別称だ」
「皇女って天皇の娘のことでしょ。お母さんの実家って……大雀(おおさざき)のおじいちゃんて華族の出っていうだけだったよ。天皇はちゃんと別にいるし」
 にわかには信じがたい話で、那桜を占めていた不安が少しだけ紛れた。
「歴史が定かじゃない、もっと昔の話だ。仁徳天皇の別名が大雀命(おおさざきのみこと)。つまり、大雀家は仁徳天皇から引き継いできた血筋だ。この国には有吏と同じような一族がもう一つある。他国から渡ってきた、争い事が好物の野心にまみれた一族だ。有吏は行動をともにしながら牽制してきた。その信頼のしるしとして天皇――おれたちが云う“上家(かみけ)”との婚姻をその一族に許した。大雀家はそれ以前から受け継いできた純血統の上家になる。だから有吏一族は大雀家の娘を姫の宮と呼ぶ。いま大雀家は途絶えて、そう呼ばれる末裔は那桜だけだな」
 そう云われてもまったくピンとこない。
「そんなに昔から有吏家と天皇家って繋がってるの?」
「もともと上家というのは偶像だ。有吏家の分家が担ってきた。その一族がのさばり始めて実在しなければならなくなった」
「……よくわからな――」
 云いかけていると、ふと和惟の背後でドアが開くのが目に入り、那桜は口を閉ざした。

「拓兄!」
 和惟がさえぎっているぶん全部は見えなくても、短めのざっくりした髪が目に入っただけでわかった。この狭い部屋のなかを駆け寄りたい気持ちはあるのに、足は根が生えたように少しも動かせない。それは、ちょっとした嫌な予感のせいかもしれない。聞かされたくない、そんな拒む気持ちが芽生えている。
 和惟が振り向くと同時に拓斗の全身が現れて、いつもの追いつめるような調子でゆったりと近づいてきた。
「拓兄」
 目のまえで立ち止まった拓斗を見上げた。いちばんに目についたのは左の頬だ。火照ったように発色していて、頬の輪郭が左右違っている。
「拓兄、ほっぺたが……」
 驚いたあまり那桜の声はかすれ、手を伸ばして触れた頬は見た目どおりに熱く感じた。
「なんともない」
 こんなに腫れていてそんなはずはない。拓斗は叩かれても微動だにしなかった。そうされることは覚悟のうえだったに違いない。それをなんともなく見せようとするのは那桜のためだろうか。
 そして、手加減されていないことで隼斗の怒りは本物であると示された。

 心もとなくなって、拓斗の頬に置いた手が滑り落ちる――と、力をなくした手はすくわれ、拓斗は再度、自分の頬に添えさせた。
「あるのは痛みじゃない。誓いのお返しだ」
 わかるか? そう問いかけるように拓斗は首をひねった。
 那桜のなかで拓斗の言葉がいっぱいいっぱいになった。
 デートしたいなどという願いを叶えてもらったり、拓斗の思うとおりに奪われたり、そんなことはあっても、かつて、お返しというものはもらったことがない。そう考えると、始まりという言葉が示すとおりに、拓斗と那桜はいま同等の場所に位置していることの保証をもらったのかもしれない。
 那桜は目を合わせたままうなずいた。とうとつに躰をぶつけるようにして拓斗に抱きつくと、その腕が気持ちまで支えるように、そのタフさそのままに那桜を締めつける。それはつかの間のことだったけれど、気持ちが救われた気がした。

「どうなんだ」
 拓斗の腕が緩むのを見計らったように、和惟は端的に問いただした。
「しばらく留置の身だ」
「留置? ……地下か」
 和惟の怪訝そうにした声に続いてため息混じりのつぶやきが聞こえ、那桜はハッとして拓斗にもたれていた躰を起こした。
「ああ。頭を冷やせって達しだ。けど。……熱傷だろうが凍傷だろうが、もとには戻らない。一緒だ。意味がない」
 拓斗はまっすぐ那桜を見つめて和惟に答えた。
「拓兄、地下って」
(かた)がつくまで兄妹でいなければならない」
 拓斗はまたわずかに首を傾ける。今度は、わかるだろう? と問うようだ。
「潔白を実証するだけだ」
 そう云った拓斗は、さっきとは逆の立場になって那桜の頬に触れた。
「泣くな」
 怖くなるくらい心配しただけで泣いているわけじゃないのに。泣き虫じゃないと云うかわりに、ほんの少し口を尖らせたとたん、那桜のくちびるとは真逆に拓斗のくちびるは微妙に口角を上げて伸びた。わずかな変化だったけれど那桜が見間違えるわけはなく、拓斗がわざと、しかも那桜の反応を見越してからかったのだと気づいた。
「はい」
 今日はじめて笑ったかもしれない――そう思うほど怖がっていた気持ちがこの瞬間だけ薄れた。拓斗がうなずく。
 ちょうどそのとき。

「那桜、さきにお風呂すませてちょうだい」
 そのいつもと変わらなくした声に胸が(うず)いた。こんなふうに下から声をかけるだけで、詩乃が二階に来るということはめったにない。今日、わざわざ上がってきたのは那桜の具合が悪いと思っていたせいだ。

「行ってこい。それまではおれの部屋にいる」
 それまでは――示された期限は那桜を心細くさせる。けれど、闘ってやる、とそう云ってくれたぶんだけ、那桜も闘うべきなのだ。那桜が望んで拓斗が望んだこと。同等であるというのはそういうことだ。

 那桜がうなずいたのを見届けて、拓斗は和惟を連れて部屋を出ていった。



「どうする」
 机の椅子を引っぱりだして座った和惟は、那桜の足音が階下へと消えていくのを待って口を開いた。
 拓斗はクローゼットから無作為に服を取りだしていた手を止め、戸を閉めると和惟のほうを向いた。
「分家の――主宰と総領の意向をそれぞれ探っていく。そこから説得の余地を探す」
「それしかないんだろうな。どれくらい時間がかかるか……どうせなら、首領の激高に乗って、那桜を連れて出ていけばよかったんじゃないのか」
「おまえの云うとおり、いまの時点ではそのほうがラクだ。けど、そのツケはずっとさきにまわる。どうやっても解決する。ただ、結果として、那桜にとって気持ち的に実家と呼べる居場所がなくなるかもしれない。そうしたくはない」
「なるほど」
 和惟はそうつぶやくと、軽く首を振りながら嗤った。
「なんだ」
「いや……考えることが違ってきたなと思っただけだ」
 拓斗は首をひねり、それから肩をそびやかした。
「那桜が大学を卒業するまで……約定のことを知らされるまえには決着をつける」
「そうしてくれ」
 和惟は気負ったように口にした。

「和惟」
 声をかけたものの、拓斗はそのさきを口にするのをためらう。そうした自分に気づいて忌ま忌ましさを感じながらも、ずっと抱えてきた確かめたい気持ちは収まることがない。
「なんだ?」
「なぜ平気でいられる?」
「なんのことだ?」
 惚けた和惟を睨めつける。すると、和惟は顔をうつむけ、拓斗に向けてというよりは自嘲した笑い声を漏らす。そして顔を上げた。
「気になるか」
 自嘲というのは見間違いか、和惟の口ぶりは拓斗を煽る。
「間違いを犯したくないだけだ」
「間違い?」
「那桜に裏切りは必要ない」
 拓斗が云いなすと、和惟は息を吐くように笑った。

「それはこっちの云い分だ。那桜が真に望むことに、おれがどうこう出しゃばることはない。望みごと護るだけだ。ずっとまえ―−戒斗が家を出てからだ、おまえのなかに那桜に対するこだわりがあるのを知った。そのときからおれはそれに懸けてる。一族に関係することである以上、おれでは説得できなくても、おまえの立場なら可能性はある。強行するとしても、おまえが総領であるかぎり――首領であるかぎり、表立って那桜が批難に晒されることはないだろう」

「なぜそこまでする?」
「なぜ? それが有吏だろう。拓斗、ただし、おれが簡単にこの境地に達したと軽くあしらわれるのは心外だ。まあ、平気ではいられないらしいから、おれも少しは報われて、五分五分といったところか」
 和惟は薄く笑う。指摘されたとおりだが、拓斗はそれをはね除けるように首を横に振った。
 確かめたところで、信用とは別次元で、和惟に対するなんらかの感覚が拓斗のなかに(くすぶ)る。それは揺るがない本望があるからこその迷いのせいだ。

「二度めだな」
 和惟がため息混じりに主題を変えた。
「何が」
「地下牢だ。あのときは留置どころじゃなく幽閉だったな?」
「どっちにしてもなんてことない……なんだ」
 拓斗は顎をかすかにしゃくって物云いたげにした和惟を促した。
「あの日、何があったんだ。雲隠れしなきゃいけないほど」
「もう……おれがしたことはどうでもいい」
「なら、何がどうでもよくない? 那桜に記憶を(さわ)らせたくない理由はなんだ」
 和惟からの質問は、さっきの応接間でのことが生々しいこともあって、拓斗の時間を退行させた。

 あの日、襖越しの場景は見えていなかったはずが、なぜか見たことのように脳裡に甦る。肩を抱いて支えた小さな那桜。その躰がこわばった感触はいまでもはっきりと憶えている。
 泣き叫ばなかったのは有吏の娘としての高貴さゆえだったのか。
 拓にぃ。
 囁いた声が拓斗を突き動かした。

「……那桜が死んでもいいと思った。いや、死んだほうがいいと思った。けど、いまはそうせずによかったと思っている。それだけで充分だろ」
 云っている途中で和惟が険しく眉をひそめた。そして、再び同じ質問を繰り返す。
「あの日に、そう思うような何があったんだ? おまえが頑なになったのは約定のせいかと思ってきた。けど、おれたちが約定のことを聞かされたのはおまえが地下牢から出てきたあとだ。それじゃ順番が違う。行方不明との因果関係がない」
「だからなんだ。昔のことはいい」
 拓斗がそう云ったところで、和惟は考えこむように眉をひそめている。そして、おもむろに口を開いた。
「拓斗、おまえ……?」
 和惟はいったん云いかけて、ためらったように視線を泳がせると口を噤んだ。拓斗もまた怪訝に目を細めた。
「……なんだ」
 和惟は「いや」と否定するように軽く首を振りながら立ちあがった。
「三位一体でおれも同罪だろうけど、那桜の送迎をだれかに任せるつもりはない。首領に直談判していく」
 和惟は拓斗の返事を待たずして出ていった。

 拓斗はしばらく睨みつけるように和惟が出ていったドアを見つめていた。

 おれが知らないことを和惟は知っている。
 もしくは同じことか?

 いずれにせよ、そこに触れるのはタブーだ。口にする必要はない。
 だれにも、そうは、させない。

BACKNEXTDOOR

* これ以降、リアルに存在するエンペラー一族に触れ、その立場にある登場人物がいますが、
   あくまで物語のスパイスであり、冒涜する意はまったくありません。物語とご留意ください。