禁断CLOSER#84 第3部 純血愛-out-

2.Come Out -4-


 その瞬間を見ていないにもかかわらず、なされたことは容易に想像できる。(はた)いた音は、はちきれそうにふくらんだ風船が弾けるよりも酷く、那桜の耳から残響が消えない。自分に降りかかってきたことのように那桜の躰も心も萎縮した。弾けた風船のかわりに、那桜のなかでただ怖いという感情がふくらんでいく。
 和室は、崩した文字が並んで何を書いてあるかわからない大きな掛け軸と二本の剣が床の間にあるだけという味気なさのなか、畳の青い匂いが漂って荘厳な雰囲気を持つ。その空気が、おまえはふさわしくない、と那桜を排除したがっている。そんな現実離れしたことを思い、またそれが怖れを増長させる。

 拓兄。
 それは声になったのか、ならなかったのか。
 怖々としながら拓斗のほうへ目を向けると、あれだけの音がしたのに微動だにしていない拓斗が、まえかがみにしていた躰を起こした。そして、那桜を向いた。
 打たれたのは那桜の目に映るほうとは反対側の頬だろう。表情にはもちろん痛みも見えなくて、拓斗はいつもと変わりなくしている。
 ――否、閉ざされっぱなしの表情が、いまは少しだけ何かを語りかけてくる。那桜を安心させようとしているように見えた。そのとおり、目が合うまえから那桜の驚怖を悟っていたように――
「息してない」
 と、慰撫した声音で云いながら拓斗は那桜へと手を伸ばしてくる。
「出ていけ」
 拓斗の手が那桜へと届くまえに、隼斗がそれをさえぎった。地底から響いてくるようなどす黒い声だ。
 拓斗は手を引っこめて隼斗に向き直り、那桜は首をすくめて目を伏せた。

「出ていくときは那桜も連れて出ます」
 拓斗の答え方から、この部屋ではなく家を出ていけと云われたのだとわかった。
「兄妹の身でありながら何をほざく。勝手なことは許さん。一族の長たる身。拓斗、その自らの立場も弁えていないのか。何を学んできた。恥を知れ」
 空気のふるえを感じるほど、隼斗は腹の内から咆哮した。
「兄妹だからこそ、です。一族の長だからこそ、なおさら守りきれるのはおれしかいません。ご賢察いただけませんか」
「それを勝手と云わずして何を勝手と云う。一族の決定事項は執行する。おまえにも那桜にも――」
「父さん」
 隼斗をさえぎった声は、剣が空気を切り裂くようにごく静かに鋭く響いた。
 その異質さに那桜は思わずちらりと隼斗を見やると、何を云おうとしたのかその口は真一文字に結ばれた。
 一方で、拓斗は背後の和襖(わぶすま)に向かった。
「和惟」
 呼びかけに応じて和襖が開くと同時に、拓斗は那桜の強く握りしめた手に自分の手を被せた。顔を上げると拓斗はうなずいてみせた。
「ここはもういい。和惟といろ。いいな」
「……はい」
 耳に届いた声は自分が思っていたよりもずっとかぼそかった。
 拓斗は後ろにいる和惟を見上げて「頼む」と云い添える。それを受け、和惟が「那桜」と声をかけながら腕を取った。立てるかどうか、おぼつかないなか、那桜は和惟の支えに腕を委ねて立ちあがる。
 和室に入ってすぐ見たきり、それ以降、まともに隼斗にも詩乃にも目を合わせられないまま那桜は部屋を出た。

 戸が閉まり、重苦しい和室とは遮断されたものの、何を云っているかわからない、こもった詩乃の声が聞こえる。
 それが那桜に奇妙な感覚をもたらす。ふっと時間が退行したような、そして同時に、心底からがたがたとしたふるえを感じるほど怯えた。なぜそうなるのか自分自身のことなのにわからなくて、それがさらに那桜を震撼させる。拓斗との間が知れたことではなく別のことが要因のような気がした。
 ここにいてはいけない。そう思うのに、逆に足はすくんでしまっている。

「和惟」
 細い声が漏れる。ここは嫌――と訴えるより早く、和惟は那桜が自分で動けないことを知っているようで、背中に手を添えて押した。



 那桜が出ていった応接の間は、いまにも軋んだ音が走りそうなくらいぴりぴりとしている。そんな耳障りな音が立つかもしれないことを怖れもせず、口を開いたのは詩乃だった。
「拓斗」
「はい」
「守る方法ならいくらでもあったでしょうに。なぜ、わざわざ那桜を追いつめる立場に置く必要があったのかしら」
 辛辣で、なお且つ拓斗にとっては急所をつかれた叱責だった。

 打たれた頬よりも心中が痛みに疼く。
 なぜこんな方法しか取れなかったのか。それは拓斗の意思表示であり、わがままでもある。いや、詩乃が指摘したとおり、激情のもと兄妹という関係を破棄したのは拓斗であり、つまり自分のわがままでしかない。そうした最初にあった気持ちに決断も覚悟もなかったこと、それは弁解できない。ただ、那桜に云い訳をするのなら、その根本にある心意は一時(いっとき)のものでも不真面目なものでもない、とその限りだ。

「それだけの宿意があると考えてください。言葉がすぎることを承知で云います。那桜を見ず知らずの、ましてや蘇我に嫁がせることを黙認してきた母さんはどうなんです?」
「拓斗」
 云い終えるが早いか、隼斗が唸るように一喝した。
「詩乃、おまえも下がっておけ」
「貴方にも拓斗にも、一言云っておくわ。那桜を傷つけるなんてたくさんよ」
 拓斗から隼斗へと視線を移しながら云い放ち、詩乃は立ちあがって出ていった。その心情を表すかのように、ぴしゃりとした襖の音が立った。



 和惟は何を考えているのか、声をかけることもなく那桜をリビングのほうへと連れていく。
 浴室の横から階段に差しかかろうかというとき、また和室の戸が閉じられた音がした。まもなく足音がして、そのことが詩乃だと知らせる。
 那桜の足が再びすくむ。追随して立ち止まった和惟は和室のほうへと躰を方向転換させた。足音は那桜の鼓動の二拍分という速度で近づいてくると、すぐ傍でぱたりと止まった。

「和惟くんは知ってたのね」
 それは挑むような口調だった。
「はい、そうです」
「なぜ?」
「拓斗が云ったとおりです。拓斗しか那桜を救えないからです」
 和惟が答えると、じっと立ち尽くしているのがつらくなるほどの沈黙がはびこった。
「……知ってるの?」
 和惟の言葉に何を見いだしたのか、詩乃を背にしている那桜がその表情を見ることはなかったが、用心深い声に聞こえた。
「僕は忘れたことはありません。首領夫人には及びませんが、背中の傷に同然の苦辛を記憶しています」

 今度は那桜がふと和惟の言葉に耳を留めた。
 背中の傷?
 それは、いま怖れだらけという那桜の気が逸れるほど意外な発言だった。
 あの傷はまえに那桜が問いただしたとき、和惟はフリーランニング中の負傷だと云った。あれはやっぱり嘘で、ましてやいまの云い方からして詩乃に関係しているということだ。
 時期を同じくして那桜がやっと気づいた、和惟の詩乃を追う目。和惟は那桜に対するものとは違うと云った。それなら、ふたりの間に何があるのだろう。
 知ってるの――何を?

「そう」
 詩乃がなんらかを口にするまで不自然に時間が空いたのだが、そのわりにたった一言の相づちを打っただけで、詩乃は那桜たちの横を通り抜けた。
 すると、和惟が詩乃の背を追うように躰の向きを変えた。

「姫の宮詩乃さま」
 それは那桜がはじめて耳にする呼称だった。そして、いつになく畏まった和惟の声音は仰々しい。詩乃が足を止めたのを確認して和惟は続けた。
「貴女の心痛を更なるものにしようとして、総領と那桜さまのことを是認したわけではありません。むしろ、結果的にそうしてしまったことは、私にとってこれ以上にない不本意です。私の記憶を救ったのは那桜さまです。姫の宮詩乃さま、それだけです」
 詩乃はゆっくりと振り向いた。
「懐かしい呼び方ね。和惟くんのお父さまからよくそう呼ばれてたわ。大嫌いだったけど……いまは懐かしいって思えるのはなぜかしら」
 詩乃はふっと微笑んだ。それは一瞬のことで、現状の深刻さを示すようにすぐに清冷な様に戻った。
「和惟くん、それなら全力で那桜を支えて、守って。那桜が拓斗を必要とするのなら、拓斗のことも」
「御意」
 和惟は深々と頭を下げた。
 和惟が顔を上げると詩乃はかすかにうなずいた。その目が那桜に向く。
「那桜」
「……はい」
「あなたが悪いってことは何もないんだから、有吏一族本家の娘として堂々としていなさい。何があってもだれにも何も云わせないわ」
 詩乃が最後に放った言葉は、那桜へというよりは自分自身へ向けたもののように思えた。

 事実を知ってもなお、詩乃は那桜のことを忌み嫌っていない。その言葉どおり、事実よりも母親としての保護本能に重きがあるのだろうか。けれど、いつのときも自若した隼斗が声を荒げ、手まで出したのだ。その怒りは本心であるということにほかならない。
 出ていけ――その言葉が鮮明に脳裡に甦る。
 拓斗を独り占めしたいと思ったことは何度もある。ずっとそう思っているかもしれない。けれど、それは家族という場所にはいられなくなること――そんな怖さを代償にしなければならないとまで考えたことはなかった。
 詩乃と隼斗の意見がまったく違うことが、不安定さを浮き彫りにする。

 那桜は詩乃から目を離せないまま、かすかにうなずいた。
「落ち着いたらおりてきなさい」
 詩乃はそう云って身をひるがえすとリビングに向かった。



 詩乃が出ていった和室はしばらく反目した静寂に沈んだ。

「一族の業に関してはおまえも知ってのとおり、詩乃には決定権もなければ発言権もない」
 険しく目を細めた隼斗の口から刺すような声が飛んできた。
「父さんが母さんをかばう気持ちと同じだけのものがおれにもあります」
「一族が取り決めたことだ」
「父さんの一言で変わります」
「蘇我との約定は、軽々しく(くつがえ)せるほど安易に決定したことではない」
 隼斗は語気を強めた。その意を変えることは容易ではないと、あらためて拓斗は知る。
 頑なにならなければならない理由はなんだ? 那桜のことがどこまで関与する?
 直截(ちょくさい)に訊ねても答えを得られないとはわかっている。それでも拓斗は口にした。
「なんのためです? なんのために那桜が犠牲にならなければならないんですか」
「犠牲ではない」
「蘇我に嫁ぐことが犠牲ではないと? あの一族がどれだけ下卑た歴史をつくってきたのか承知していながら、そう云いきれるんですか。蘇我は、役に立たないとなれば平気で切り捨てる。(かみ)までも(おとし)めた」
「私は私で那桜を守ろうとしている。私には私のやり方がある」
「十五年まえです。父さんが意見を変えたのは」
「なんのことだ」
 隼斗は苛立ちとまがうような面持ちで首をひねった。
「おじいさんも蘇我との共存を考えていた。けど、父さんは乗り気じゃなかった。それどころか、引き止めていたはずです。何があったんです?」
「何もない。考えが変わった。それだけのことだ。長として翼下を守る義務がある。決議したものを、長の都合で方針を変えるのなら組織として疲弊する。ただの独裁だ」
 促してみたところでそう簡単に打ち明けられるはずもなく、隼斗はにべもなく言葉を並べた。

 戒斗につく和久井家と瀬尾家、その二つを窓口として、蘇我は終戦後、何度も何年にも亘って和解を申しいれてきた。有吏を出し抜き、上を(あざむ)き、大戦という惨事をもたらした蘇我からの謝罪は当然であり、だが、それを赦免することはまったく別問題だ。
 先々代の時代、戦地に赴いたすえに数多くの一族を失った。その後遺症として、先代である祖父、継斗(つぐと)の時代は有吏の業に支障を来していた。和解は、蘇我をのさばらせないための手段として一考されたものの、隼斗は強硬に反対していた。
 それは、いまの拓斗の蘇我に対する考えと一致していたからのはずだ。

「それが蘇我そのものです。いくら和惟を傍に置くとはいえ、那桜が人質であることをどう考えると思われますか」
「那桜が事情を知ることはない」
「そんな保証はどこにもないんです。おれは許さない」
「……許さない?」
 隼斗は怪訝に眉をひそめる。そのしぐさは相手を怯ませるほどの威嚇が潜んでいるものの、親子である拓斗には通じない。
 これ以上、傷つけさせない。詩乃と変わらない、いや、それ以上の誓いのもと拓斗は隼斗を見据えた。
「約定まで五年。その間になんらかの対案を提議します。ゆえ、父さんには腹積もりを、そして一族には早急に周知を願います」
「勝手なことはさせん」
「そのまま返します。批難はふたりで……できうる限りおれが引き受ける。那桜とのことをお許しいただきます」
「許されると思うほどおまえは愚者ではあるまい。不届きなことをどこのだれが承諾する?」
「許されるまで、出ていけという命令に従うつもりはありません。総領という立場も捨てません。知れた以上、許しを得るまで節義に反するつもりはありませんが、信用が置けないということであればおれを地下に閉じこめておけばいい」
「自分で云ったことを憶えておけ。一切の接触を許さん。頭を冷やせ」

 頭を冷やしていた時期は十年にも上った。幼いという云い訳はなんの有用性もなく、疼痛は心底に積もっていた。適えられない子供ではなくなったいま、疼痛に逆らうことは敵わない。

「おれと那桜が兄妹であることは取り消せない。ただ、男と女である事実ももう消えませんよ」
 背後で再びぴしゃりと音がした。

「那桜」
 無意識でつぶやく。
 しばらく手にすることのできない那桜の躰はこの躰に刻印されている。
 そう――しばらく、だ。
 どんな試しがあろうとこの決心が(たゆ)むことはない。
 そう明白だからこそ――拓斗は独り笑った。

BACKNEXTDOOR

* 清冷 … 澄んで冷たいこと