禁断CLOSER#83 第3部 純血愛-out-

2.Come Out -3-


「何を、してるか……わかってるの?」
 詩乃の声は命が絶える寸前であるかのように途切れ途切れで、いつもの凛とした様子がない。
「もう――子供じゃない」
 その『もう』には何か意味があるのではないかと思うくらい、拓斗が次を云うまでに間が空いた。
 那桜は考えようと試みるが、言葉が空回りするだけで何も得られない。躰はこわばっていて、身動き一つすらかなわない。
「……いつ……いつから、なの」
「いま見てることで充分だろ」
 戦いた詩乃とは対照的といっていいくらい、拓斗の声は険悪に聞こえた。母親であることに対しての敬愛もまったく欠けている。
 すぐ目のまえにある拓斗の胸から心音が聞こえそうなほど、部屋は沈黙に満ちた。実際、那桜に聞こえているのは自分の鼓動だけだ。
 躰の奥から凍りついているように、那桜の息が詰まった。できるならいますぐ気を失って、そのまま目が覚めないほうがいいと思うまでに逃げたくなる。それを阻止しているのは、那桜のくびれた腰を痛いくらいにつかんでいる拓斗の手だ。

 そして、足音がした。遠のく感じがしたから、おそらくは出ていこうとしたのだろうが、足音はすぐに止まった。
 口を閉ざしていた間、詩乃は何を考え、どう折り合いをつけたのか――。
「もちろん、お父さんとはあなたが決着をつけるんでしょうね」
 拓斗の険悪さに負けず、詩乃は辛辣に投げ放った。
「おれにとって、そうすることに覚悟なんてものは必要ない」
克己(こっき)を忘れず、泰然として――そう学んできたのに、拓斗、あなたは立場をわかってないのね」
「立場? そんなものを畏れたことはない」
「拓斗、あなたのことじゃないわ。私があなたの立場を心配する必要があるかしら。あなたは自分で自分の立場くらい守れるわ」
 まるで敵対した者同士のような乾いた応酬に、これからどういうことになるのか、ようやく那桜にも事態が切迫してきた。躰がとうとつに、そして尋常ではなくふるえだす。

「那桜」
 当然ながら逸早く気づいた拓斗は、那桜の名を囁いた直後、顔を寄せ合うようにして掻き抱いた。
 拓……にぃ。
 そう呼ぶ声もふるえていて、自分でも聞きとれない。
「那桜」
 今度は詩乃が呼びかける。那桜は返事ができないまま息を呑んで、あとに続く言葉を待った。
「お母さんはあなたの御方だから」
 そのあと、ドアは、力任せとはいかないまでも必要以上に音を立てて閉まった。
 詩乃が云い残した言葉の真意はどこにあるのだろう。覚悟した批難ではなかった。そして、拓斗に対してとはまったく違って、なだめるような声音だった。
 けれど、なんのなぐさめにもならない。独り占めができないとわかっていたからこそ、拓斗がすべてになるのが怖かったのに、いま、怖さは別の怖さに変わった。
 秘密でなくなったら、一緒にはいられなくなるのに。
 拓兄……。
「どうして……」
「終わらせないための始まりだ」
 耳もとに熱く声がくぐもる。
 腕がきついくらいに頭を抱くのは、その言葉の証明?
「拓兄」
 拓斗は那桜の腰を抱えた腕を緩めると肩から顔を上げた。左腕は頭を抱きかかえたまま、右手が那桜のふるえる躰を摩撫し始めた。

 ふるえているのは寒さのせいではない。それでも、拓斗の手のひらは摩擦熱を生んで那桜のふるえを拭っていく。伴って、那桜の混乱も落ち着いていった。
 眠りにつくまえの言葉と詩乃に対して発せられた言葉が絡んで、それについさっきの冷静だった拓斗の声を考え合わせれば、それが覚悟されていたこと、もっと突きつめればプログラムだったかもしれない。
 拓斗が何を考えているのかわからない。ただ、いろんな時間を経てきて、いま寄り添っている拓斗を信じられない理由は見つからない。いや、信じたがっている。
 那桜が見上げ、那桜を見下ろしていた瞳はふるえが治まったのを認めると、いまの状況にはそぐわない柔らかさを宿す。
 それが決意に見えるのは期待のせいだろうか。那桜は、未来の暗示であるように、と願ってしまう。
「拓兄」
 縋るようにつぶやいた声に拓斗のくちびるが近づく。
 すると、一際強く、かすかな音を伴って、温かい呼吸が那桜のくちびるに吹き寄せる。何かと思って目を伏せ、くっつきそうな口もとを見やった刹那、視界はキスにさえぎられた。
 キスは挨拶みたいに短くて、すぐに拓斗は顔を上げた。そこには刹那に見た欠片の形も残っていない。

 さっきのは……。

 それがそうなら、那桜の信じたがる気持ちの、いちばんの支えになる。
 終わらせるためなら両親に明かすことはないはず。ただ、那桜が泣けばいいだけのことだから。それを、拓斗はいちばん知られてはいけない場所にいちばんに曝けだすという逆のことをした。
 怖くて不安で、これからさきどうなるのか、ふたりの行方はまったく閉ざされている。けれど、拓斗はけっして悲観はしていない。
「拓兄……誓うから」
 拓斗が目を細める。何かを刻みつけているように見えた。
 それから抱き寄せられて、那桜もまた拓斗に絡みついた。心音が同じ律動へと同化するまでそうしていた。

 *

 少しうとうとしていたかもしれない。拓斗の「起きるぞ」という呼びかけで那桜ははっと目を開けた。
 早く服を着終わった拓斗に手伝ってもらいながら身なりを整えると、拓斗の手が那桜の髪を梳く。大丈夫だ、と頭を撫でられているみたいに心地いい。
 那桜もつま先立ってそうすると拓斗は首をひねった。そのしぐさがおもしろがって見えること、それは胸が苦しくなるくらい、たまらなく大切なことに思えた。
 那桜の手をつかむと、拓斗は部屋を出た。階段をおりるほどに息はおぼつかなくなって足はすくみそうになる。そんな那桜を拓斗の手が助けている。
 リビングに行くと、覚悟していた詩乃との対面はなかった。ダイニングテーブルに料理を盛ったお皿があるだけだった。詩乃はそれを届けにきただけで帰ってきたわけではなかったのだ。

「何をした」
 那桜はびくっとして声のしたほうを向く。リビングのソファに悠然と背をもたれて和惟はいた。拓斗から那桜へと視線を移す。
「云わなくてもわかるだろ」
 驚きが治まらないうちに、拓斗は質問をすかすような答え方で応じた。和惟はまた拓斗へと目を戻して首を軽く振る。呆れているのとは違う。やるせないといった雰囲気を感じた。
「さすがに生まれが大雀(おおさざき)だし、首領夫人ともあって沈着だった。けど……残酷だな」
 大雀という詩乃の実家がどう『さすが』なのかは見当もつかないが、たとえ五軒先であれ、詩乃を独りでうろうろさせるようなことはしないだろうし、和惟が詩乃についてきたことは見当がついた。
 そして、二階で何があったのか、和惟は知っている。
「いつ、どんな形であれ、一緒だ」
 拓斗はためらうこともなく無下に和惟の感慨を退けた。
「あと五年ということを考えれば妥当だ。何か見つかるだろう」
 和惟が『残酷』という言葉にどんな意味を込めていたのか、今度は一転したように納得している口調だった。
 ただ、那桜が引っかかるのは五年というキーワードだ。単に、拓斗の決められた結婚をいうには語気が大げさすぎる気がした。
「五年したら何があるの?」
「何もない」
 和惟は自分が口にしたくせに否定した。
「でも――」
「こうなった以上、五年後のことは消滅する。知っても意味がない」
 だろう? と同意を求めるように和惟は拓斗を見やった。那桜が釣られて拓斗を見上げると、「そのとおりだ」と那桜を見つめて拓斗は和惟に応じた。
 那桜は安堵を覚えると同時に、こうなった以上――その言葉を受けて、どうなるのだろうという不安をまた募らせる。
 すると、拓斗が那桜の手をきつく握りしめる。そうされたことで、自分のほうが拓斗の手を強くつかんでいたことに気づかされた。
 心配ないと伝えられた気がして安らぐ。一方で、手を離すことの怖さが鮮明になる。

「食べればいい」
 和惟は立ちあがって、まるで自分の家のようにお皿をレンジに入れたり、食器棚から取り皿をだしたりと準備を始めた。
 鼓動が落ち着かなくて気持ちも焦燥に晒されるなか、食欲が湧かない那桜とは違い、隣にいる拓斗はいつもと変わりなく盛られた料理を摘んで口に運ぶ。
 それをしばらく眺めてから、やっと那桜は栗きんとんを口にした。それからは、正面に座った和惟が、わんこそばみたいに次から次に料理を那桜のお皿にのせてきた。いいかげん、「もういらない」と怒ると、にやりとした笑みが返ってくる。
「これくらい食べておけば倒れることはないだろう」
 からかわれてはじめて和惟に気を逸らされていたことを知った。もしかしたら、変わりなくしている拓斗もそう努めているのかもしれない。そう思って那桜が目を丸くすると、和惟はおどけて笑う。
 その直後、門の出入りを知らせるオルゴール音がリビングに広がった。門に取りつけられたセンサーが人を識別して流した曲は、本家の人間、つまり、いまの場合は詩乃か隼斗、もしくはふたりともを示している。

「拓兄」
「最初は一緒にいろ。いいな」
 拓斗の声はぶれることなく、心もとなくつぶやいた那桜に心強く請け合った。
「はい」
「大丈夫だ」
 和惟がなだめる。和惟が闘う相手じゃないということだけはわかった。それは和惟自身が『認める』と云ってわかってはいたことだが、公になることまでを認めているのかは考えたことがなかった。

 拓斗と和惟は目配せをするとゆっくりと立ちあがる。拓斗に腕を支えられて那桜も席を立った。
 リビングを出ると拓斗は玄関へと向かう。那桜は和惟に引き止められて、リビングを出たところで待った。拓斗が上がり口に着いたところで玄関の戸が開いた。
 隼斗は迎えにでた拓斗を驚くでもなく見やり、それから目敏く奥にいる那桜と和惟に気づいたようで視線を向けてきた。それを追うように詩乃の目も向く。
 那桜は息を詰めた。胸もとで握りしめた手の甲に自分の爪が喰いこむ。

「話があります」
「なんだ」
 その返答から隼斗がまだ知らないことがわかる。
「応接間にいいですか。母さんも」
 はっきりは見えないが、隼斗が眉をひそめたことは予想がつく。
 家の奥に位置した和式の応接間は一族のみの出入りに限られ、ごく内密の畏まった話題のみが上る部屋だ。
「聞いてあげたら」
 詩乃が口添えした。手助けしているという口調ではなく、むしろ突き放すように聞こえた。それに気づかない隼斗ではない。隼斗が斜め後ろに立つ詩乃を振り向き、そして拓斗に向かった。
 目を細めて拓斗を見やっていた隼斗は、やがて顎をしゃくって促した。
「行け」
 拓斗が身をひるがえして近づいてくる。小さくうなずいて那桜のまえを通りすぎ、次に隼斗が続く。
「頭痛はどうだ」
「だ……大丈夫。おかえりなさい」
 びくびくした気持ちを抑えながらどうにか返事をすると、かすかに隼斗は首をひねるようなしぐさをした。こんなふうにしぐさで返事をするのは癖は拓斗と一緒だ。その眼差しを受けながら、倒れるんじゃないかと思うくらい那桜は胸に痛みを感じる。
 詩乃が傍に来ると、那桜はとっさにうつむいて目を合わせなかった。何も声をかけることなく詩乃は奥に行く。そのあと、和惟に促されて那桜はあとをついていった。

 応接間までいつになく長く遠い。詩乃が和室に消えると、那桜はすくんでしまっていったん足を止めた。それが見えていたかのように拓斗が応接間から出てきた。
 手が差し伸べられる。おずおずと出した手は即座につかまれ、拓斗は那桜をなかに連れていった。
 隼斗の目が那桜を認めると同時に後ろで戸が閉まった。そんな普通の音にさえ、那桜はびくっと肩をふるわせて怯える。
 八畳の部屋は畳が敷かれているだけで、和室にありがちな座卓はない。どんな内談も、ここでなされる事柄が何かに記されることはないのだ。それほど有吏には極秘事項が存在することを示す。
 そういう隠密の間に、隼斗と詩乃は庭を背にして座ぶとんに座っている。
 隼斗の視線は那桜の顔から下へと伝って、繋いだ手に留まった。あまり感情の表れない隼斗の顔に、怪訝そうな険しさがよぎった気がした。
 部屋は暖められているにもかかわらず、熱が出る前兆のように背筋に悪寒が走る。
 拓斗は那桜を詩乃のまえに座らせてからすぐ左側に座った。

「なぜ那桜がこの場に必要だ」
 隼斗の第一声に、那桜は脚の上で手を握りしめ、拓斗は座ったばかりの座ぶとんを横にずらして畳にじかに座った。それからまえかがみになって膝頭の両脇に手をつく。
「承知していただきたいことがあります」
「なんだ」
「那桜はおれが守ります」
 静かな和室がさらにしんと静止する。
「どういうことだ」
 隼斗の声はやけに大きく届いた。何を察したのか、那桜が聞いたことのないくらい太く、低く、空気を振動させる。
 鼓膜が破れそうに感じるくらい自分の鼓動がうるさい。那桜は拓斗が何を云ったのかも考えられなくなっていた。顔を上げて隼斗と対峙した拓斗とは逆に、ただ、伏せた瞳が熱く潤む。
「だれにも渡さない。そういうことです」
「何を云う?」
 険しい声が問う。何事にも動じない隼斗が事実に抵抗を見せたのははじめてかもしれない。
「拓斗は貴方そっくり」
 その真意はわからない。ただ、詩乃の口調には軽蔑に近い皮肉が窺えた。
「知っていたのか」
「わたしが知ったのは――見せられたのは二時間まえのことよ」

 一寸でも動けば無数の針が躰に突き刺さるのではないか。そんな気配が部屋を取り巻く。手がふるえだし、那桜はさらに強く握りしめた。

「拓斗」

 恫喝(どうかつ)するような声が針を揺るがす。

 空気が動いた――そう肌で感じたとたん、()った音が、那桜のすぐ傍から和室いっぱいに広がった。

BACKNEXTDOOR

* 克己 … 自分の感情・欲心・邪念などに打ち勝つこと。