我慢できず、自分のした質問があまりにストレートすぎたと後悔したところですでに遅く、詩乃と咲子は那桜を見て同時に笑いだす。それが空々しく聞こえるのは気のせいだろうか。
「そんな人、いないわ」
咲子は云いながら首を横に振って、ボヘミアンぽく波打った、顎までの髪を揺らした。
笑ったくちびるはふっくらしていて、大きな目はいつも潤んでいるように見え、咲子は人にやさしい印象を与える。和惟は間違いなく咲子の見た目を引き継いでいる。
和惟と違って咲子の場合、やさしい印象は中身まで伴っている。ただ、一族のだれもがそうであるように隠し事が好きなのは同じだ。
よくよく考えれば、仁補家夫妻は戒斗と深智のような関係だし、矢取家の美砂は茶道の百家流という家元の長女、詩乃は公家華族の出、咲子に至っても、ここが目をつければ間違いないと一目置かれる投資会社の社長の娘という、つまり、皆が一般家庭の出身とは云いがたい。結婚が“決められていた”としてもなんらおかしくない。
那桜の疑る気持ちは顔に表れていたのだろう。
「嘘じゃないわ」
詩乃が云い添え、咲子はからかうように首をかしげた。
「世翔くんは一目惚れっていう話よ。どこからそういう発想になったのか知らないけど、那桜ちゃん、どうせ想像を逞しくするならロマンティックなほうが楽しくないかしら?」
「でも――」
「咲子奥さま、旦那さまが皆さまに夢想仙楽をとおっしゃっていますが、お湯わりでよろしいでしょうか」
鳥井が入ってきて話は中断された。
「主人だったらストレートだけど、好みもあるだろうから用意していってくれるかしら。ロックもお願いね」
咲子の指示を受けて鳥井は早速、準備をし始めた。鳥井がいる手前、これ以上は聞けそうにない。那桜はため息をつき、「持っていってちょうだい」と詩乃に云われるままゼリーを運んだ。
それから那桜は楽しむに楽しめない。従姉妹三人で固まっているものの、お喋りしているのは深智と美咲がほとんどで、那桜は相づちでやりすごしていた。
自分が一つしか希まなくなったら怖いと思っていた。拓斗の腕も、和惟の“愛してる”も儚くて、もしかしたら那桜はだれのいちばんでもいられなくなって――そのことも同じくらい怖い。
五年たったらわたしはどうなるんだろう。
「どうしたんだ」
その声と同時に頭上からゼリーがおりてきた。
「これ何?」
手のひらを出して受けとると、暖房がきいたなか、ガラスの器からひんやり感が染みてきて気持ちいい。
「梅酒のジュレだ。那桜の不機嫌を直すにはゼリーだろう。それにお酒が加われば直るどころか上機嫌だな」
「え、那桜ちゃん、機嫌悪いの?」
深智がきょとんとして那桜を見つめ、次には目線を上昇させて和惟を見やった。
「じゃないとしたら、おれは従者失格だな。那桜、酔っぱらうなよ」
実際、酒類はなんでも好きだけれど、那桜はすぐに正体をなくしそうになる。そんな那桜をからかうことを忘れず、和惟は忠告して離れた。
「さすがだよね」
美咲はスプーンを奪い、那桜より早くジュレを頬ばって感心したようにつぶやいた。
「美咲ちゃん、お酒!」
「ちょっとだけ。ナマもの食べたから毒消しにちょうどだよ」
美咲は未成年者飲酒という犯罪を自分に都合よく正当化した。
ごっそりと減ったジュレを見て那桜はため息をついた。美咲からスプーンを取り返して一口含む。とろりと口のなかが潤う感覚がなんともいえず好きで、加えて梅酒が体内に熱を発生させて気分よくさせる。
那桜がジュレを口に運ぶたびに、美咲が美味しそうといった顔つきでスプーンを追ってくる。
「美咲ちゃん、『さすが』って何?」
気を逸らしてあげようと問いかけてみると、美咲は思惑どおり、ジュレから目を離して従兄たちが集まる場所に移した。美咲は頭がいいけれど、単純――長所的に云いかえればまっすぐだ。
「あたしたちにはわからない、那桜ちゃんの気分を当てるなんて和惟くんにしかできないでしょ」
一回り近く年が離れているのに、美咲は和惟を“くん”付けして呼ぶ。美咲に限らず、裏分家の子たちもそうだ。美咲より遙かに幼い子からも『和惟くん』と呼ばれる和惟は、物腰が柔らかく、やっぱり咲子の血を引いている。
「でも那桜ちゃん、どうして不機嫌なの?」
深智が首をかしげて訊ねた。その角度は、有沙と同じで計算されたようにきれいに見せる。深智の場合は従姉妹だからなのか嫌味はなく、それに、“きれい”と一言で括るにはもったいない。表情を備えた人形のようで、つい、かまいたくなる。だから、“可愛かったから”という理不尽な理由で誘拐のターゲットにされたのだろう。
「……不機嫌じゃなくて、頭が痛いだけ」
説明するのは面倒で、いや、それ以前にだれにも説明のできないことで、那桜は頭痛のせいにした。
「ふーん。頭痛で機嫌が悪いんだ。そういうのがわかるって、やっぱり忠実だよね。ずっと見ていないとわからないことだし。そういうとこは啓司さんと一緒。ね、お姉ちゃん」
「そうかな……わたしはわからないけど」
美咲に振られた深智はちょこんと首を傾けた。
「そうだよ。お姉ちゃん、わかってないって啓司さん、報われてないかも」
那桜にとっての和惟は、深智にとっては瀬尾啓司だ。
深智の誘拐事件では瀬尾が助けだしたという。事件を那桜が聞かされたのはずいぶんとあとだったけれど、思い返せば、その頃から深智は少し変わった気がする。戒斗には遠慮がちで、瀬尾には――誘拐以前がどうだったのか、あまり瀬尾と会うことのなかった那桜には曖昧だけれど、とにかくいまはつんとした感じだ。ほかに対しては当たり障りなく、本当に人形みたいににっこりした笑顔を振りまいている。
大学の送迎なんかでたまにふたりを見かけると、瀬尾は確かに深智をよく追っている。和惟も同じだ。那桜と深智が違うのは、那桜は見なくても和惟が自分を追っているのをわかっているということ。
「そうだとしたら一族としての義務だよ」
深智は乾いた声で笑う。やっぱりつんけんした口調になった。
「そう? でもあたし、那桜ちゃんと和惟くんを見てると、くっついちゃうんだろうなって思ってる」
美咲にはそんなふうに見えているのだと驚きつつ、那桜は首を横に振った。
「そんなことはないよ。わたしには……――」
「那桜ちゃんには何?」
拓兄がいる、とそう云いそうになって口を閉じたのだが、そんな那桜を見て美咲は不思議そうに首をひねる。那桜にしろ、無意識に回答しそうになって戸惑っている。
「なんでもない」
「気になるなぁ。那桜ちゃんたち、一時期は離れてたみたいだけどいまは戻ってるし、いい感じだなって思ってたのに」
美咲は幼いなりにもよく見ていたことに感心しながら、一方で、美咲の見解を打ち消したもう一つの理由、“決められた”ことをまた思いだす。
深智の冷めた『義務』という言葉で気づいたけれど、『愛してる』は仕事の延長かもしれない。そのうえ、和惟の向こうにだれかがいるのなら、それは那桜にとってなんにもならない。
そのことはなぜか、すでに決められたことが待っていると承知している拓斗と関係まで危うくさせ、那桜を拓斗の腕からはぐれた気にさせる。もどかしくて心もとなくて、せめて確かめないではいられなくなった。夕食が終わるまでなんて待てない。
「やっぱり頭痛が酷くなりそう」
「帰っちゃう?」
「大丈夫?」
「うん。拓兄が一緒に来てくれると思うから」
那桜は立ちあがって、まずは両親たちのところへ行った。
「お母さん、頭が痛いの。さきに帰ってたいんだけど」
「いつもの?」
那桜がうなずくと、生理まえによくあると知っている詩乃は疑う様子もなくため息をついた。
「拓兄についててもらったほうがいい?」
「そうしてちょうだい」
窺うように訊ねると、詩乃は案の定、那桜が仕向けた答えを返してきた。
「那桜ちゃん、大丈夫? 鳥井さんがいまティータイムの準備してるの。ケーキを持って帰るといいわ」
「うん、ありがとう」
早速、咲子は席を立ってキッチンに向かう。詩乃の「気をつけてね」という言葉にうなずいて、那桜は従兄たちが集まった場所へ向かった。
拓斗と惟均の間のちょっとしたすき間に座りこむ。
「拓兄、頭痛」
拓斗の目が向くと同時に訴えた。
「お母さんには帰るって云ってる。拓兄についててもらえって」
拓斗はしばらく那桜に目を留め、それから「帰るぞ」と応じておもむろに立ちあがった。
「どっちが操縦されてんだ?」
従兄たちは様子を見守っていたらしく、食事のときを蒸し返した揶揄が飛んで、吹きだすような笑い声が湧いた。拓斗は我関せずで一瞥する。
「那桜、お酒入ってるから薬は飲むなよ」
那桜が立ちかけているなか、和惟が忠告した。
「うん」
「眠ることだ」
それが意味深に聞こえるのは那桜だけだろうか。
「そうする」
と、素直に答えてみると、後ろ髪を引かれるような眼差しが向く。拓斗を認めながらも和惟がそういう意思を見せるのは意図してのことだろうか。いつもならそれで怖さは和らぐ。けれど、いまは役に立たない。
「那桜」
拓斗の呼びかけが、那桜と和惟の間を断ちきった。
*
ケーキをもらって衛守家を出ると五軒先にある家に向かった。
「拓兄、手」
「だめだ」
斜めまえを歩く拓斗は振り向くこともなく拒絶する。
「頭痛いんだから――」
「それが本当ならおんぶしてもいい」
黙りこんでばかりだった拓斗が応じてくれるようになって、それがうれしかったのは一時で、この頃は、反対に那桜を黙らせるという、ありがたくない技術を習得している。
どうしてわかったのだろうと思っていると、「痛いときは顔をしかめてる」と、拓斗はまるで読心術の達人並みに答えた。
今度“頭痛”を口実にするときは注意しようと頭のなかにメモをする。ただ、那桜も拓斗の技術にめげるほどおとなしくはしていられない。それに、嘘だとわかっていても拓斗は応じている。
「小さい頃はおんぶしてくれた?」
「おまえの想像どおりだ」
想像というよりは願望に近い気もするけれど、拓斗の返答を当てにしていいのなら、数えきれないほどそういうことがあったのだ。
家のなかに入るとリビングに行って、拓斗はケーキの入った容器を置いた。とたんに拓斗の携帯電話が鳴る。見守っていると、「取りにいくからいい」と云う返事で通話は終わった。
「母さんだ。もう夕食の話だ」
拓斗が呆れたようにつぶやき、那桜は時計を見た。ちょうど三時だ。
「ケーキ食べるのか」
拓斗はテーブルに携帯電話を置いてキッチンに行き、コーヒーをセットし始めた。
「拓兄は?」
「おれはいい」
思ったとおりの答えでもがっかりはしなくて、ふたりきりという、なんの隠しだても必要のない時間はうれしい。ほんのわずかな時間しかなくても。だからこそ。
「わたしもいい。ジュレを食べたから」
拓斗はコーヒー缶を開けかけた手を止め、伏せかげんにしていた目を上げた。カウンター越しに那桜を見つめて、問うようにかすかに首が傾く。
「夕食の時間まで三時間くらいしかないの。だから『もう』じゃない。それに、五年たったらふたりでいる時間は、いまよりずっとずっとなくなる」
「五年?」
拓斗はまるで否定しそうな気配で眉をひそめた。
「ごまかさなくてもいい。拓兄は決められたことがあるって云って、それはわかってるから。和惟にもいるっていうのは思いつかなかったけど」
そう云ったとたん、眉間のしわどころじゃなく、拓斗ははっきりと顔を険しくした。
こんなふうに拓斗はごくたまに、明確にした感情を表に出すようになった。ほんの数時間まえ、従兄弟たちのまえにもかかわらずため息をついたこともそうだ。
ただ、いまの表情はあまり歓迎したくない感じだ。拓斗はゆっくりとキッチンを出てくる。
「それが昼、おまえが怖がっていた理由か」
和惟のことを聞けるかと思って鎌をかけたつもりが、まったく答えになっていない、しかも不機嫌な質問が返ってきた。
那桜は目のまえに立った拓斗を戸惑いながら見上げた。
「……怖がってる?」
「深智たちから何を聞かされたのか知らないけど、そういうことだったわけだ」
和惟だけじゃなく、拓斗もやっぱり那桜の表情からよく心境を読む。逆に、那桜には読めたためしがない。ただ、怒っているなどという負の感情だけは感じとれる。
いまもそうだとはわかるものの、突然そうなった理由は見当がつかない。
いつかは人のものになるとわかっていて、那桜はそれを我慢すると拓斗に云った。
それなのに怖がるから?
「だって、やっぱり嫌だと思うの。我慢するって云ったのは本当。でも、それと嫌だっていうのは別なの。だから、その人を抱くとき、違うって思うくらい、わたしの躰を憶えていて。そう思うのもだめなの?」
拓斗は答えないまま射貫くように那桜を見下ろしている。
嫌わないで。
久しくつぶやくことのなかった言葉が口をついて出そうになった刹那。
「おれの部屋だ」
「……うん。今日は大丈夫だと思う」
那桜が手を伸ばすと同時に、少しかがんだ拓斗は片手で腰を支え、もう片方の手でお尻を持ちあげる。しがみついて首もとに顔をうずめると、拓斗に馴染んだノーブルブラッドの香りが那桜を心地よくくるむ。パチョリを使ったパーフュームは、甘さと辛さの両方を備えて、深い森にやさしくくるまれているようなノスタルジアを感じさせる。
拓斗の部屋に行くと、暖房をつけたあと、那桜は手早く服を脱がされた。拓斗もすべてを脱ぎ捨てて、ふたりしてふとんのなかに潜りこんだ。
那桜の脚が割られて、拓斗の下半身がその間に収まる。那桜の顔の真上に拓斗の顔が来ると、ちょうど拓斗の慾が躰の中心に触れた。それはすでに昂ぶっていて、那桜は小さく呻く。
間近に顔を寄せたまま、拓斗は那桜を見下ろすだけで何もしない。目を離せなくて、拓斗の瞳のなかにいる自分を見つめる。それなら那桜の瞳にも拓斗が映っているはずで、そんな自分を見て拓斗は何を思うだろう。
わたしは……こんなふうに拓兄のことだけ考えていられたらいいのに――不安も怖さもなく……そう希う。
ちょっとしたふとんのひんやり感は、那桜の躰を覆った拓斗の熱で暖かさと入れ替わった。
ふ、はっ……。
ふいに那桜の口から熱が漏れる。ふたりは身動き一つしていないのに、ずっと互いの呼吸が互いの中心を緩やかに刺激していた。
那桜の反応を待っていたかのように、拓斗は呼吸を重ねた。舌でくちびるに触れ、緩く吸いついたあと、キスはいきなり攻撃的に変わった。舌が這いまわって那桜に絡みついてくる。その激しさがふたりの躰を揺らして、脚の間のキスをも刺激する。呻いた声は拓斗の口のなかに消え、快楽はふたりの躰を循環し始めた。
そうなると那桜が果てにたどり着くのは目に見えている。拓斗の慾がぴくぴくとして、敏感な場所を擦っているうちに那桜の感覚は沈んだ。そして。
んんっ……ん――――っ。
拓斗の下で酷い身震いが躰を突き抜けた。拓斗もまた小さく呻いてくちびるは解放される。那桜の口から悲鳴に似た喘ぎ声が飛びだした。
だんだんと吐息が穏やかになっていくなか、またもやふたりは互いの目のなかに閉じこめられた。いつもなら待ったなく攻められるはずが、乱れた呼吸が鎮まっても拓斗は動こうとしない。
「拓兄?」
「那桜、何を希む」
それはやっぱりさっきの那桜の心を読んだような質問だった。那桜は考えもなく口走る。
「嫌わないで」
拓斗は目を細めた。
「嫌う?」
「これからだって……嫌だって云うかもしれない。でも、わたしを嫌いにならないで。嫌でも……拓兄と繋がっていられるほうがいいの」
拓斗の手がこめかみに触れてはじめて自分が泣いていることに気づいた。
「それなら一つ、おまえに誓ってほしいことがある」
「……何?」
「おれを疑うな。いまみたいに」
なぜ拓斗なのか。ここから始めればいつかわかるのだろう――あの日、銀杏の木の下でそんな予感がした。見失うことはない――その言葉どおりにいまは途切れることなく、拓斗の視界には那桜がいて、那桜の視界には拓斗がいる。
「疑ってない。離れることが……怖すぎただけ」
拓斗は喰いいるように那桜を見つめる。そこには、文化祭の日と同じように、なんらかの意思が満ち溢れて見えた。
「那桜」
「うん」
「闘ってやる」
その意味を問う暇もなく躰の中心が貫かれた。息が詰まったあと、漏れだした悲鳴は拓斗のくちびるがすくった。
*
荒れ狂ったあとの静けさのなか、那桜は意識を離れた。
ひまわり畑に還ったようにぐったりした躰を抱きしめ、拓斗は手にした、つかの間の幸という苦辛に時間を委ねる。
*
薄らと意識が戻ったのはドアの閉まる音が聞こえたからだ。
拓兄……?
内心でつぶやきながら今度は足音を聞く。
足音……?
拓斗が足音を立てないこと、そして、腕にくるまれていることに気づく。
無意識に躰を起こそうとした那桜を腕が引き止めた。
那桜がはっきり目が覚めたのと、拓斗の部屋のドアが開いたのは同時だった。
「拓斗、那桜はどこなの。部屋にいないん……」
詩乃の声は途中で切れた。
「ここにいる」
拓斗の声は冷静すぎた。片肘をついて拓斗が顔を上げると、すぐ傍に見える右肩がふとんからはみだした。同時に那桜の裸の肩も露わになる。
「何……してるの」
詩乃がベッドの脇に散らかった服を目にしたことも、その顔がショックに歪んだことも、那桜は詩乃に背を向けていて知る由もない。
「わかるだろう」
そう答えた声は冷たいんじゃない、ただ残酷だった。
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