禁断CLOSER#79 第3部 純血愛-out-
1.甦生−Revival− -4-
言葉の意味はわかっても、その気持ちの根底は少しもわからない。
しばらく和惟を見上げていると、そのくちびるが声にならない口癖を放った。
「わたし……いま幸せ?」
「拓斗はくだらないことに付き合ってるだろ」
ピント外れの答えが返ってきたものの、今度は和惟が云おうとしていることが那桜にも理解できる。
「でも……だとしたら、幸せって怖さと隣り合わせ」
「怖い? まえもそんなこと云ったな」
「わたしは隔離されてるから、わたしのなかにあるものってすごく限定的。例えば、それが一つしかなくなったら……それだけでいいと思うことがあったら、その一つがなくなったときに残るものがない気がする」
和惟の瞳がわずかに淀んで那桜を見つめる。
そのたった一つが拓斗だったら、明らかにどうにもならない果てが見えている。
拓斗に相手にされていないことを知っていても、その有沙の存在が許せなかった那桜に、まだ陰の存在でしかないだれかが果たして受けいれられるだろうか。いま、そう思っただけで、のどが痞えそうに息苦しくなるのに。
「そんなことにはならない」
やがて口を開いた和惟は、那桜の気持ちとはかけ離れて無意義におもしろがった様だ。
「通じてない」
そう剥れて、那桜は踵を返した。勝手に歩きだした那桜の背中に和惟の手が添う。
「そう云いたいのはおれのほうだけどな」
笑み混じりの声がつぶやいた。
「どういうこと?」
「おれはなんだ――ってことだ」
遠回しな云い方をされても那桜にはさっぱりわからない。下から覗くようにしていた那桜は、気に入らないといったふうにつんとしてまえを向いた。
「考えるのはもっとさきにする」
逃避主義を露呈した那桜の宣言に和惟は短い笑い声で応えた。
しばらくメンズコーナーのまえを通っていると、だんだんと香気が近づいてくる。正しくは那桜たちが近づいているのだが、そこでふと思いだした。
「和惟、ここ、フレビュー・メンズ入ってる?」
振り仰いだ和惟はかすかに顔をしかめた。
「入ってる」
「ホント? ちょっと待って」
那桜は通行の邪魔にならない店の合間を見つけて立ち止まった。携帯電話を取りだすと立矢の番号を呼びだす。
「なんだ?」
「拓兄のバースデープレゼントを思いついたの」
和惟に答えている間に電話は通じた。
『那桜ちゃん?』
「立矢先輩、こんにちは」
『こんにちは。さっき、郁美さんから電話あったよ』
立矢は可笑しそうに教えた。一方で、那桜はため息をつく。
「それ、きっとわたしが余計なこと云ったから。なんだか、ほんとに申し訳なくて」
『褒めたたえられるのはうれしいことだよ。それで?』
およそにおいて、用事があるときにしか那桜から連絡することはなく、そう知っている立矢はさきを促した。
「立矢先輩が云ってた拓兄の香水を教えてほしくて。いま、お店の近くにいるの」
『“NOBLE・BLOOD”だよ。名まえを忘れたら赤い瓶だって云うといい』
「わかりました。ありがとう」
『つけてくれるかな』
「つけてくれなかったら振りまいちゃう」
電話の向こうで立矢が派手に笑いだした。
『がんばって。どうだったか教えてくれるかな』
「はい、成功した暁にはそうします。じゃあ」
笑い声の余韻を残して電話は手短に終わった。
携帯電話をしまって和惟を見上げると、目を細めて何か云いたそうに那桜を見据えている。
「云いたいことはわかる気がするけど、わたしのことに関するかぎり、立矢先輩にはなんの罪状もないよ」
「誘拐罪、監禁罪は成立する」
「でも、それはわたしを助けるためだった」
和惟はあからさまに目を細めて不穏さを剥きだした。
「信用しすぎだ」
「わたしの立場を理解できて共感できる人は立矢先輩だけなの」
「共感?」
つぶやくように云って和惟はしばらく考えこんでいた。そして、思い当たったような表情で口を開く。
「香堂姉弟のべったりぶりは……そういうことか?」
立矢はあの日、やっと姉の呪縛から解放されたという。有沙が云った“異性の姉弟にありがちなこと”ではなく、本当に好きという気持ちがあったからこそ、ゼロにはできなくて、立矢はずっとこだわっていたのだろう。
「和惟が想像するほど“そういうこと”まではないよ。それに、べったりって云ったら立矢先輩はショックかも。有沙さんのもらい手が見つかったってホッとしてたから」
「“ソーシャルグレイス”の古雅社長だろう」
和惟は、那桜がほんの二日まえに立矢から聞かされた情報を口にした。
ソーシャルグレイスは、美容外科まで運営しているトータルビューティを売りにした会社だ。もともとフレビューとは美容品の取引からともに成長してきて、持ちつ持たれつの関係にある。先代の女社長から、三十五才という若さでその息子へと世代交代したばかりという。
立矢によれば、条件としては非の打ち所がなく、有沙は満更でもないらしい。
「知ってるの?」
「香堂有沙にはあつらえ向きだ」
和惟の声は皮肉っぽい。そのことが、ついさっき湧いた那桜の疑惑を裏づけた。
有沙との一件については、拓斗から隼斗へと事後報告されている。拓斗自ら高等部時代の愚行を曝し、那桜を人質に婚姻の強迫というシナリオで合点された。
有沙の所業、並びに婿探しは裏づけが取れていることであり、有吏が事情聴取するわけもなく、拓斗は、もし有沙の口からふたりのことが漏れるとしても悪あがきで処理できると断言した。
那桜は隼斗から内々で大丈夫かと窺われて、詩乃には秘事とされた。駄目押しで、拓斗が、あるいは隼斗が動いたとしてもおかしくはない。
「何かした?」
「何かしたのはおれじゃないけど、有吏が働きかけたことは否定しない。社長に、世間体上、身を固めたほうが一挙両得だと考えを改めさせたまでだ。あの社長には妙な性癖がある」
「……どういうこと?」
「女を監禁したがる。戒斗についてるもう一人の――和瀬ガードの瀬尾啓司を知ってるだろう。瀬尾家は裏商売として接客業をやってる。そこに依頼が来るそうだ。内密で、例えば一カ月間、四六時中、自由にできる女が欲しい、とか」
目を丸くした那桜を見ながら、「金があれば寿命だって買えることがある」と云い、和惟は続けた。
「結婚すれば金を出さなくても監禁できる。一年でも三〇年でも」
「……有沙さん、知ってるの?」
「そんなわけないだろう」
「逃げだしちゃいそう」
有沙については、立矢を介して近況を知ることはあっても那桜が会うことはない。結婚相手を物色中でおとなしくしていることは確かだったが、和惟の云うようなことがあれば、あの有沙が黙っているとは考えられない。
「だから、そうできないようにフレビューと密接な関係にあるソーシャルグレイスを人身御供にした。いくら娘が可愛いからといって、香堂社長がグレイスとの関係悪化を望むはずがない。古雅社長に、躰を傷つけるほど痛めつけるというまでの趣味があるわけでもない。有沙の悪癖は知らせてある。香堂社長への切り札にもなるだろう。それで思う存分やれるって乗り気になった。あの女にとっては自業自得ってやつだ」
立矢は知っているのだろうか。フレビューのステータスを捨てたと云っていた立矢は、有沙を自由にさせないがために考えを変えて後継を目指すという。つまり、有沙の包囲網は二重に張り巡らされた。
「……よくわからないけど」
那桜が顔をしかめると、「いろんな奴がいる」と和惟は肩をすくめた。
「あの女が、那桜や拓斗に絡んでくる余裕はない。願ったり、だろう?」
「あの人のことはもういい。きれいだし、頭のなかも完璧だったらまだこだわってるかもしれないけど、思ったより聡明じゃなかったから」
「確かに身持ちは悪いし、軽かったな。ああいう女に引っかかるのは迂闊でしかない。けど、だからこそ色遊びにはもってこいってのもある。拓斗の場合は、憂さ晴らしっていうほうが合ってるのかもな」
揶揄した和惟の発言に、つと、いままで那桜が考え至っていなかったことを気づかされた。訊ねようと口を開いた矢先、「ここだ」と和惟が歩く方向を変えてしまって訊きそびれてしまう。
和惟について、お洒落にレタリングした『フレビュー』の文字の下をくぐった。
店内は紳士服店と同じで華やかさはなく、ただ、メンズといっても女性店員ばかりが目立つ。寄ってきた店員が和惟に声をかけるまえに、那桜のほうから先手を打って話しかけると、香水を頼み、さっさと支払いをすませて店を出た。
しばらく歩いていると、和惟が笑う。
「何?」
「追い払わなくても眼中にない。拓斗と一緒のときもああやってるのか」
和惟はすっかり承知だったらしい。那桜は顔をしかめて、次には口を尖らせた。
「拓兄の場合は見られるだけ。和惟と違って近づける雰囲気ないらしいから。それに眼中にあるとかないとかじゃなくて、わたしが無視されるから嫌なの」
「そうなのか?」
それは、問いかけのようでいて答えは期待していない、何かを試そうとする、あるいは確かめるような声音だ。
「……ほかに何かある?」
「拓斗がいれば充分だろうって思っただけだ」
「……話、ずれてない?」
「まあいい。無意識でも通じてるらしいから」
和惟はまったく那桜に通じないことを云う。
「全然わからないんだけど」
「それでいい」
和惟はやはり訳がわからなく終わらせた。
そのあと、拓斗から一向に連絡がないまま、目的もなく歩き続けているといいかげん疲れてきた。人混みデートが楽しいのも拓斗がいなければ、ただの頭痛のもとにしかならない。
「和惟、拓兄に電話していい?」
「場所を変えてもいい。車の鍵は預かってる」
その答え方は電話するなということだ。那桜は不機嫌な気持ちにさせられる。
「そうする。頭が痛くなりそう」
「人に酔うくせにこういうところに来るからだ」
呆れたように云ったあと、和惟は那桜を連れて、迷うことなく拓斗が駐車したスペースへと到達した。
「拓兄、ここに来ないって云ってたけど、『いつものところ』とか、それを和惟が知ってるってどういうこと?」
場所を憶えてもいなかった那桜は、ますます機嫌を損ねてつぶやく。
「“指定席”だ」
和惟は壁を指差した。なるほど、そこには『有吏LTD』と書かれたプレートが貼られていた。
「和惟の車は?」
「今日は和瀬との引き継ぎ業務だったから送ってもらった」
「拓兄の用事って何? 一族の合宿はお父さんがいるんだし」
「仕事だ」
「会社は休みなのに」
「裏の仕事があるってことはわかってるだろう」
「拓兄じゃなきゃだめなの?」
「絡むな。拓斗は有吏一族の次位の指令官だ。十五年後には否応なく首領となる。那桜も優先順位は弁えておくべきだろうな」
矢継ぎ早に突っかかっていると、和惟からそう云われ、那桜は自分の順位を考えてしまった。それなら、いまでさえ二番めで、もし決まった相手が現れれば三番めだ。
「……頭痛い」
「乗って」
ため息混じりに云って首を傾け、和惟は助手席を示した。
すると、ドアを閉めて運転席にまわりこむ途中、和惟の携帯電話から着信音が鳴りだした。車に乗りこみながら那桜をちらりと見やったあと、相手と話しだした。
そのしぐさから、おそらく拓斗だと見当をつける。短い言葉の応酬のあと、和惟はエンジンをかけた。
「まだかかるそうだ」
その『まだ』とはどれくらいだろう。車の時計は五時をすぎている。あと一時間というのであればそう云えるはずであり、ということは、予定が立たないということに違いなく、那桜は返事をする気力も失う。シートに頭を預けて目を閉じた。
和惟はそんな気分を知ってか知らずか、どこに行くとも云わずにシフトチェンジをして車を出した。
それから車の振動に躰を委ねているうち、那桜はいつしか眠っていたらしい。和惟から起こされたとき、車はホテルのエントランスまえに止まっていた。
和惟はホテルマンに車を預け、また別のホテルマンが恭しく頭を下げるなかを通り抜けてホテル内に入った。
起き抜けということ、無理やり起こされて頭痛が現実化していること、その二つは那桜をぼんやりとさせていた。ようやく状況を受けいれられたのは、案内された部屋に入ってからだ。
広々とした部屋は、有吏塾内にある邸宅の応接間と同じくらい、品よく整えられている。カジュアルな恰好が貧相に感じるくらいだ。
「頭痛はどうなんだ」
那桜は顔をしかめて「まだ」と答えた。
「風呂に入ってリラックスしてくればいい。すぐ入れるようにしてもらってる」
「ここ、どこ?」
「台場だ。あとで拓斗も来る」
外に目を向ければなるほど、水面が広がっている。窓に近づいていくとすぐそこにテラスが見え、その真ん中には花の浮かんだ水槽がある。
「もしかしてお風呂ってここ?」
確かに眺めはいいが――。
「プライベートガーデンだから見られる心配はない」
疑い深くした那桜の顔を見て和惟は口を歪め、「なんなら水着を調達してもいい」と付け加えた。
「なかにもあるよね? 外は拓兄が来てからにする」
「無難な選択だ。あがったらすぐ食べられるように夕食を頼んでおく」
からかわれたのはいいとして、どうして那桜にとって大事なことをこんなに遠回しに告げられるのだろう。次には拓斗を迎えにいくとか云われて、そのまま帰ることになるのではないかと疑ってしまう。
「拓兄は……ほんとに来られるの?」
「だいたいがここは拓斗が取った部屋だ。そのうえ、おれに警告しておいて来ないわけないだろう。あとはすぐ“眠れる”ようにしていたらいい」
和惟は拓斗の約束を聞き逃すことなく、しかも意味を把握している。
「警告?」
「那桜が望まないかぎり、おれが手を出すことはないのに」
那桜にとってそれは心外な発言に聞こえた。
「それは嘘! わたしは嫌だって何度も云ったことある。それでも――」
「本心の話だ」
和惟は静かに、そして鋭くさえぎった。
すぐには云い返せなかった。和惟の云うことはわからない。
「……和惟がしてるのはわたしの話じゃない」
那桜は和惟から離れて浴室を探しながらつぶやいた。
「無論、おれが自ら女を触りたがることはない。那桜以外は」
和惟が真に望むのはなんなのか、まったく理解できない。そして、那桜は訊きたかったことを思いだして、足を止めて和惟を振り向いた。
「和惟って有沙さんのこと知らなかったの? 同級生なのに」
「生徒会にいたときの彼女は知ってる。けど、同じクラスになったことはないし、向こうが“衛守セキュリティ”に関心を示したことはない。青南にはそれ以上のステータスを持った奴が溢れている。それに、おれは女に興味はないし、接点はなかった」
「女に興味ないって……でも……」
「ああ、来るもの拒まずで遊んだかもしれない。いや……正確には足掻いていた。もしくは挑戦。けど、おれを男にできる女はいなかった」
和惟は以前、果歩に云ったことと同じことを口にした。あのときは実際に目にしたわけではないから、本当に“男”になれなかったのかは果歩が見せた反応を当てにするしかない。
那桜が首をかしげると、和惟はまともな様がからかった気配に変わって近づいてきた。
「いいだろう。本心と思いたがるのはおれの願望かもしれない」
そう云って那桜の手を取ると、和惟は自分に触れさせた。
「和惟!」
手を引いてもびくともしない。かわりにびくっとした反応を見せたのは手のなかの和惟だ。和惟は何かを堪えるように目を細め、それから手を離した。
「那桜とバスタブを結びつけるだけでこうなる」
和惟は自分のことなのにおもしろがって云い、「浴室はそこだろう」と指差した。
「警戒は必要ない」
那桜はその言葉に追われながら浴室に行った。
一瞬だけホールドアップしてみせた和惟を信用するしかない。人を喰ったような云い方をしても、拓斗には従っている。
従わないのは挑発するときだけだ。『もっと』――何度も繰り返されて耳に残っている言葉にそう知らされた。いまは挑発する理由がない。和惟が歯止めとして、いまの那桜と拓斗を望んでいるなら。
*
ふいに心地よさから離脱した。
こもった話し声がする。その抑揚の一つは拓斗だと判別がついた。そして、もう一つは和惟の声で――そう意識したとたん那桜はぱっと目を覚ました。見慣れない背景が目に入り、数秒後に現状が返る。
お風呂に入って、和惟が手配してくれた頭痛薬を飲み、部屋で夕食を取ったあと、休んでいればいいと云われるままにベッドで横になっていたのだが、また眠りこんでいたらしい。頭を動かしても頭痛がすることはなく、薬は効いているようだ。
声はドアの向こうから聞こえている。頭を持ちあげてベッドヘッドの時計を見ると、十時になろうかとしていた。
もう眠る時間はない。
がっかりした気持ちと拗ねた気持ちがごちゃ混ぜになった。
那桜が片肘をついて起きかけたとき、ちょうどドアが開く。
「拓兄、酷い!」
拓斗が目に入ると那桜はそう叫び、躰に巻きついていたシルク毛布をはね除けるようにして上体を起こした。
躰がすかすかだと感じたのと、那桜を見る拓斗の目が狭まったのは同時だった。