禁断CLOSER#77 第3部 純血愛-out-
1.甦生−Revival− -2-
車を発進させた拓斗から「どこに行く」と訊かれると、那桜はなんとなく挑戦したくなった。
「人が多くて、ショッピングができて、お洒落なデートって感じのところ」
アバウトすぎたせいか、ちらりと向いた拓斗は、何がしたいんだと訊きたそうに見えた。結局はそうすることもなく、車は勝手に行き先を決めたようにひたすらに進んだ。
だんだん都心部に近づいて、拓斗が連れてきたのは、緑の敷地に隣接して異様に高いビルがある場所だった。
「ここどこ?」
「セントラルタウンだ」
巨大な――那桜からすればだが、ショッピングスペースに入ると拓斗の先導のもと、人が少ないうちにと最初はレストランに入って、少し早いランチを取った。
オープンキッチンで、金属の触れ合う軽やかな音が気分を和ませる。店内に上るお喋りもうるさくはなくて、むしろ、めったにデートという機会がない那桜には願ってもいない効果音になっている。
ゆったりしてメイン料理を平らげたあとに、シャーベットメインのお任せデザートとコーヒーが運ばれてきた。
「何が欲しいんだ」
食べ始めてまもなく、拓斗が訊ねた。
「特別に欲しいのはないの。でも、拓兄にしてほしいことはある」
「なんだ」
拓斗はわずかに目を細めて那桜を見つめる。答えるまえに那桜は店内を見渡した。
カップルと女性同士という組み合わせが半々くらいだろうか。ふと二つ向こうのテーブルにいる女性と目が合った。拓斗と人のなかにいるといつも遭遇する現象だ。郁美も云っていたとおり拓斗は目立つ。
那桜はつんとわずかに顎を上げて拓斗に目を戻した。
「文句を云わないでほしいって、それだけ」
何が待ちかまえているのか保証は皆無なのに、拓斗は首をひねるだけでだめとは云わない。
拓斗はコーヒーカップを口につけた。デザートは手つかずのままだ。
「拓兄のシャーベット、カシスだからあんまり甘くないと思うけど食べないの? わたしのグレープフルーツのほうがいい?」
「食べればいい」
食べさせ合いっこがやりたいという那桜の意向はまったく伝わっていない。
拓斗がべたべたするわけがないと自分自身が云ったはずも、那桜は押しやられてきたデザートを見てがっかりした。ため息をついて眺めた、やたらと大きいデザート皿にちょこんとのっかった赤紫のシャーベットは、自分のようだとも感じる。
どことなく毒々しい色が、デザート皿の岩肌のように曖昧な色合いのなかにしっくりくる。散らされたブルーベリーソースは、泣き腫らしたあとの、どす黒い血の涙のように感じられなくもない。
そのうえ、カシスは拓斗にうざったく扱われた。いや、那桜もずっとまえはそうされたと感じたこともあったけれど、いまはそうじゃない。それどころか、ずっと拓斗にあったのは那桜のなんらかに対する拘泥した心だ。
それなのに、ブルーベリーにまみれたカシスを見て、漠然とした未来かもしれない――と、那桜はそんなことを思ってしまった。
不吉な予感を壊そうと、那桜は小さなテーブルの真ん中にあるカシスシャーベットにスプーンを伸ばした。グレープフルーツのシャーベットもそうだが、食べてみると甘さ控えめどころか、涙の味みたいに酸っぱさしか感じなかった。
こういうのが大人の味というのなら、無理して大人になることもない。世間からすれば二十歳になった那桜は大人だ。とはいえ、十九歳と二十歳はなんらの差もない。
那桜は酸っぱくした口直しに、添えてあった角切りのマンゴーを食べた。口のなかで蕩ける甘さがなんともいい。残すのも行儀が悪く、那桜はかわりばんこに食べ始めた。
ふと目を上げると、拓斗の眼差しとまともに合う。手持ち無沙汰なんだろう、肘を立てたほうの指先が顎を支えていて、そんな姿はいつになく砕けてみえた。伴って、わずかに躰をのりだすような恰好だから、距離が近づいて親密にさえ感じる。
もっとも、那桜と拓斗の間以上に親密と呼べる関係はどこにもないだろう。ただ、たまにだけれど、親密という間柄なわりに那桜はどきどきしてしまう。いまもそうだ。拓斗が応じるまえのほうが気軽だった。
「食べる?」
髪に隠れた耳はきっと赤くなっている。那桜はごまかすように、フォークに刺した最後のマンゴーを向けて問いかけた。
「おれはいい。美味しそうにしてる」
付属した言葉は拓斗の変化を顕著にする。「うん」と返事して食べたマンゴーは格段に美味だった。そして、残ったブルーベリーをフォークでつついた。とたん。
「あ」
那桜が小さく叫んだのと、ブルーベリーが拓斗のコーヒー皿に着地したのは同時だった。拓斗は首をひねり、那桜は吹く。
「やっぱり粒を食べるのは苦手」
「刺すんじゃなくて最初にすくって食べないからだ」
苦手だからと後回しにしていたけれど、拓斗に指摘されてなるほどと気がつくあたり、要領が悪いという証明だ。
拓斗の空いたほうの手が動いて指先がブルーベリーを摘むと、お皿のなかに放ろうとする。那桜はとっさに口を開いた。
「拓兄、また飛ばしちゃうと思うんだけど!」
拓斗の手は止まり、目は那桜を向く。
「きっと……和惟なら最善策を取ってくれると思う」
ためらったすえにほのめかすと、拓斗は目を細めた。はっきり気に喰わないのだ。わかっていても云った。対抗心に火がついたら、べたべたへの挑戦はまず一歩めの成功となる。
そして、拓斗は憶えていた。那桜は目のまえに来たブルーベリーを指先ごと咥える。粒は口のなかに落ちて、くちびるがソースのついた指先を拭う。
「ありがとう、拓兄」
くすくす笑う那桜とは対照的に、拓斗は変わらず不機嫌そうと見えなくもないが、那桜の願望が見せる幻影でなければ違うことを考えている。
最初に『どこに行く』と訊かれたとき、那桜の『一緒に眠りたい』は通じていないような気がした。本当はどこでもいいから、だれにも気兼ねなくふたりでくっついていられたらよかったのに。それを素直に訴えられなかった自分をはがゆく責める一方で、那桜だけが一緒に眠りたいと願っているなんて不公平だと思う。だから、不機嫌になるくらいでちょうどいい。
レストランを出ると、来たときよりも歴然と人の数が増えていた。
いい感じだと思いつつ、拓斗の左腕に巻きついた。案の定、拓斗は何も云わない。
「どうするんだ?」
「うん……拓兄ももうすぐ誕生日だし、何か欲しいのある?」
「べつにない」
予想どおりの答えだ。那桜と違って――いや、那桜も云えば好きに買い物をさせてもらえるけれど――報告しなくても自由に使えるお金があるというのはこれだからつまらない。
定めし、使いきれないほど持っているのだ。拓斗を伴って買い物をする機会は少ないけれど、金額を気にしているところは見たことないし、戒斗もそうで、隼斗に至ってはインビテーション制という本物のブラックカードを所持している。翔流と勇基がいつか“幻のクレジットカード”の話をしていたことがあって、見覚えがあった那桜は隼斗から見せてもらったのだが、そのあとすぐにネットで調べてみて確信した。
「わたしが欲しい、とか云ってくれてもいいんだけど」
拓斗は那桜を一瞥すると、だんまりを決めこんだ様できっぱりと進行方向に目を戻した。遠回しを解除したのに、それを無視するとは、やっぱりさっきのは幻影だったらしい。
ため息が出そうになったものの、那桜は手を繋いでいられるだけでもいいと自分に云い聞かせた。
半歩というほど差もなく拓斗がさきを行く。歩調はゆっくりしていて、先導しながらも那桜が足を止めると拓斗も合わせる。
そうしてウィンドウショッピングをしているうちに、那桜はふと疑問に思った。
「拓兄、ここ、よく来てる?」
「来ない」
そのわりに、来たときもそうだったが進路に迷いがない。しかも、建物の中央は吹き抜けになっているけれど、メンズショップが並ぶ側は見事に避けている。案内板を見ていることもない。
「もしかして……デートで来たことある?」
那桜が覗きこむと拓斗は首を振るようなしぐさを見せた。
「ない。暇はないと云った」
「でも……拓兄はここのことをよく知ってるみたい」
「仕事だ」
「え?」
「コンサルの仕事で構想時に係わった。プロデュースしたのは有吏だ」
疑ってしまったことが間抜けなくらい、れっきとした理由だった。
「なぁんだ、よかった」
口もとを引き締めても笑みが零れてしまう。そんな那桜を見て拓斗がふと立ち止まる。不自然な沈黙のあと。
「この場所に限らず、おれはだれかといまみたいな時間をつくったことはない。おまえにとって、おれに対する勘繰りは一切不要だ」
思いがけなかった。こんなふうに断言してもらえると、それが拓斗であるからこそ、約束としてずっと守ってもらえると信じられた。もしかしたら、いちいち否定するのが面倒くさいだけともとれる。ただ、そうだったら嘘をついたり釈明を口にするよりも無視するほうを選ぶだろう。
ふたりは川の中洲みたいになっていて両脇を人が通り抜けていく。たまに目を留めていく人がいる。それでもかまわず。
「うん」
「那――」
拓斗の咎める声が半分しか呼びきれないうちに、那桜は抱きついた腕を放した。
「ちょっとだけ」
事後断りを入れると、拓斗は気分を入れ替えるように首を振っただけで歩きだし、那桜はまた左腕につかまった。
拓斗からべたべたすることはなくても、甘やかしてはもらっている。人混みデートは、ふとクリスマスデートのことがよぎったという、ただの思いつきだったけれど、お気に入りの一つになった。
上のフロアに行くと、アロマテラピーとネイルサロンの間に挟まれて、イーゼルに飾られた写真がいくつも並べられているショップがあった。何かと思いきや、写真スタジオだ。
七五三や成人式の写真があるかと思えば、ごく日常の恰好で撮られた写真もある。一番大きいサイズはブライダルフォトだ。伏せがちな目に微笑という斜め横から捉えた表情は、これからの幸せが保証されているかのようだ。
ずっとまえにもそんな自分の姿を思い描いたことがある。そのとき結論づけたとおり、那桜と拓斗のふたりの間では想像しかできない姿だ。
「那桜」
呼ばれて那桜が振り向くと、拓斗は逆に写真に目を向けた。
「拓兄、写真、撮っていかない?」
拓斗はブライダルフォトから那桜へと視線を戻すと、おそらくは拒絶を示して首をひねった。
「違うよ。ブライダルのほうじゃなくって、こっちの普通っぽい写真。二十歳と二十五歳で記念にはちょうどよくない? ふたりで写ってるのはないし」
「家にある」
拓斗はまったくわかっていない。那桜は繋いだ手を離して拓斗の正面にまわった。
「五才と十才の写真なんてとっくに時効。いまだからいいの!」
たとえ、いや、たとえではなくて拓斗には将来が決まっている。だからこそ、だれにも邪魔されない、だれの影響も受けない、ふたりのいまの時間は貴重なのに。
しばらく黙って那桜を見おろしていた拓斗はかすかに息をついた。その手が那桜の口に伸びてきて触れられるまで、自分がくちびるを咬んでいたことに気づかなかった。
「それがしてほしいことか」
どこで折り合いをつけるかと思えば、ここに持ってくるなんて拓斗に油断は考えられない。今度は那桜がため息をつく。
「それでもいい」
「わかった」
それから写真スタジオに入ると、メニューの説明やどういったイメージで撮りたいかという打ち合わせが念入りにされた。たかがポートレートに大げさだと感じつつ、那桜はちょっとしたメイク直しをしてもらってから撮影スペースに行った。
そこは那桜が思っていたような、壁に囲まれた密室ではなく、外側の壁一面はクリアな窓で、緑が覗いて開放感がある。面格子が外の光を程よく調整していた。
最初は白い壁を背景に、顎を引いてとか少し窓のほうに躰を向けてとか、ポーズにいろんな注文がつけられた。
そして何枚くらい撮れたのだろう、シャッター音が連続したあと、いったんレンズの焦点が那桜たちから外れる。三〇代と思われる、人懐っこいカメラマンの笑顔がちょっとした緊張を解いた。
「あとは勝手に撮りますから、いつものとおりのおふたりでどうぞお気楽に。動いてもらってもかまいませんよ」
隣を見上げると拓斗もまた那桜へと目を向ける。那桜が笑った瞬間にストロボが発光した。パッヘルベルの“カノン”をアレンジした歌が流れ始めて、空気が和んでいく。
「いつものとおりって云われるとかえって考えちゃう」
「いつものとおり、どうでもいいお喋りをすればいい」
「……それ、酷いこと云ってる?」
「聞いてる」
拓斗が放つ言葉の威力はだれも持ち得ない。たった一言で那桜の機嫌を変えてしまう。
「じゃあ何を話そうかな……」
那桜が考えているさなか、カメラマンが口を挟む。
「カレ、笑わないのかな? 笑わなくても充分だけど、小さい頃からこんな感じ?」
リラックスした雰囲気を壊さないためか、カメラマンはそれまでと違って気さくだ。その間もカメラをかまえている。
「たぶん」
拓斗は首をひねるだけで、かわりに那桜が答えた。
「それでよくくっついたね。というより、従兄妹同士だから理解し合えるってことかな」
「たぶん」
同じ答えを返すとカメラマンは笑い、「無理しないでいいよ。このまま行こう」とカメラに目を落とした。
打ち合わせのとき、那桜が“拓兄”を連発していると、不思議そうに、あるいは怪訝そうに見られた。拓斗も弁明はしないし、気づかないふりをしているといつの間にか従兄妹だと解釈されていた。人の思考は受け入れしやすいほうへと働くらしい。
ただ、恋人同士と認められているようでいて、その実、明確に否定されたのと同じだ。どんなに人混みに紛れても根本は変わらない。
「なんだ?」
いきなり拓斗が問う。もしかしたら複雑な内心が表情にも出ていたのだろうか。
「なんにもないよ? 笑わない、っていうので思いだしたけど頼朝の話」
「今頃またなんだ?」
「舞台の頼朝、拓兄モデルだったんだよ」
これももう時効だろうと打ち明けてみると、拓斗は顔をしかめたように見えた。
「おもしろくない?」
「解釈は人の自由だ」
無難な答えが返ってきたそのとき、ふいに携帯電話の着信音が響いた。拓斗の音だ。カメラマンがすぐさま、「出てどうぞ」と声をかける。拓斗がお尻のポケットから携帯電話を取りだすのを眺めながら、那桜は反対に、出なくてもいいのに、とこっそりつぶやいた。
「おれだ。どうした」
その受け答えは、電話の内容が最初からわかっているような口ぶりだった。相手の話を聞きながら那桜を見おろして、拓斗はいつものごとく、「ああ」という返事で粗方をすませている。「和惟を呼んでくれ。三〇分後だ」という言葉で終わったときには、覚悟したことではあったものの、がっかり以上に泣きたくなった。
そんな気持ちは見透かされていて、那桜の精神安定剤化している拓斗の手が額に触れた。
「夕食で合流だ。いいな」
理由も告げられなければ謝罪の言葉もない。それでも充分な気にさせられるのは、ここでふたりの時間が打ちきられたわけではないこと、延いては那桜をないがしろにしているわけではないと明示されたからだ。とりわけ、桜が舞う春をイメージさせるようなうららかな声色は申し分ない。
拓斗の手に両手を重ねると、ふたりの手は額から離れて緩く絡む。
「はい。隆大さんに云わせれば、わたしは義経だって。でも、わたしはちゃんとわかってるし、拓兄のことが好きだから」
そう告げた瞬間、撮影の終了を告げられた。