禁断CLOSER#76 第3部 純血愛-out-

1.甦生−Revival− -1-


「今日の夜は外で食べてくる」
 那桜と詩乃の会話がなければ静かすぎる朝食のさなか、拓斗の言葉はとうとつに響いた。
「そう。仕事?」
 詩乃が隣の隼斗をちらりと見やり、それから斜め向かいの拓斗を向いた。
 仕事かとわざわざ訊くのは今日が土曜日だからだろう。那桜もそんなことは聞いていなくて、隣に座る拓斗をわずかに見上げた。もっとも、拓斗がいちいち仕事の予定を那桜に告げるわけではない。
「仕事じゃない。那桜が誕生祝いにどこか連れていけってうるさい」
 那桜がまったく身に覚えのないことを拓斗は口にした。警告なのか、ちらりとその目が向く。
「ということは那桜もいらないのね」
「ああ」
 那桜のかわりに拓斗が答えた。
「那桜、試験は大丈夫なの? 今日も含めたら、あと三日残ってるけど」
「大丈夫。明日は日曜だし、そんなに切羽つまってやってないから」
 那桜は詩乃に答えてから拓斗に目を戻した。
「拓兄、ありがと」
 うれしい気持ちをそのまま笑顔にして云うと、素っ気ない眼差しがまた一瞬だけ向く。カムフラージュというよりはやっぱり警告だろう。
 見失うことはない――そう云われたのは去年の十一月。それから半年以上たったけれど、あのときに拓斗が見せたほんの小さな微笑は封じられている。それでもずっと拓斗が纏っていた(かたく)なさは消えた。
 三〇分後、ふたりそろって玄関を出ると、朝から夏の熱気に襲われた。今日は七月最後の土曜日で、来週から大学は約二カ月間の夏期休校が始まる。
「拓兄、ありがとう」
 那桜は再びうれしいと思っていることを伝え、あとを続けた。
「試験が終わってから誕生祝いはねだろうって思ってた」
「一族が集まっているから盆まで今日しか空いていない」
 いまの時期、有吏館では高校までの従弟たちが一堂に会している。勉強とか体力づくりとか、いわゆる合宿みたいなものだ。夏休み最初の日曜日に有吏館に一族が集まるのは恒例行事だが、そのあとのことを那桜はよく知らなくて、今回、はじめて拓斗からそう教えてもらった。だからこの時期は、隼斗と同様、拓斗もその指導に当たっていて、家を空けていることが多かったのだ。
 去年、却下されたと思っていたバースディディナーに連れていってくれたとき、その誘いがいきなりだった理由がやっとわかった。
 那桜の誕生日は二十四日であり、今年も誕生日プレゼントはすでにもらっている。二十歳になって隼斗からはロゼシャンパンでお祝いしてもらったし、祖父母からは逸早く振り袖をもらって、詩乃からは、服からアクセサリーまで身につけるものを一揃い買ってもらった。
 拓斗からは相変わらずなかったけれど、去年のことを覚えていてこういうことを思いついてくれるのだったらそれだけで充分だ。
 那桜は拓斗の手をつかんだ。が、自然と湧いたそんな気持ちは無造作に払われる。
「だめだ」
 まえを行く拓斗は振り向きもせず手をほどいて那桜を拒否する。それは今日に限ったことではないけれど、やっぱり納得はできない。口を開こうとした矢先。
「まだだ」
 拓斗が付け加えた。
 何が『まだ』なのか、拓斗の考えていることは全然わかることがない。

「拓兄、出かけること、またわたしのせいにしてる」
「中止にしてもいい」
 にべもなく返ってきて那桜は足を止め、黙りこむ。普段は喋らないくせに、どうしてこんな人の急所を突くような返答ができるのだろう。
 那桜はむっつりとため息をついたあと、さっさと車庫に行く拓斗を追った。
「大学からそのまま? この恰好でいい?」
 拓斗が立ち止まり、那桜を振り向いた。その目は、胸下までと長くなった髪、丈の短いホットピンク色のフェミニンなプルオーバー、勿忘(わすれな)草色をしたフレアのショートパンツ、それから素足に履いたレースアップのサンダルへとおり、それから急上昇して那桜の顔に着地した。
 何気ない視線のようでいて、どこか摩撫するようで、何時間後になるのか無意識下でその瞬間が脳裡に描かれ、那桜は胸の奥が痛いくらいどきどきした。それでなくてもいまは――あの日から、拓斗にどきどきさせられることが多くなった。拓斗はそれだけなんらかを那桜に投げかけているということなのかもしれない。
「畏まったとこに行きたいんなら、そのとき買えばすむことだ」
 拓斗はそう云って、くるっと半回転して那桜に背中を向けた。
 見れば拓斗も、濃いグレーのシャープにデザインされたカジュアルシャツに黒い細身パンツというラフな姿だ。何よりふたり並べば、モノトーンの拓斗にカラフルな那桜が映えて、お似合いな恰好じゃないかと思えた。
「うん。行くとこ、まだ決めてないの?」
「どこに行きたいんだ」
「わたしは……拓兄とちょっとでもいいから一緒に眠れたらいい」
 那桜にとっては切実な願いだが、その返事を聞くまえに車庫に着いてしまった。
 拓斗は那桜が乗りこんだ助手席のドアを閉め、フロントをまわって運転席に収まる。結局、反応を見られないまま車は発進した。
 こういうとき、以前なら拗ねたり落胆したりするところだが――いや、多少はそんな気持ちもあるけれど、否定よりは承認された気配を感じる。

「よく、あった」
 家を出て、水辺公園へ突き当たる道から大通りに入ると、とうとつに拓斗が口を開いた。意味不明の言葉だ。
「え?」
 横を向くのと同時に、拓斗の目がちらりと那桜を向いた。
「勉強中で相手してやれないのに、わざわざおまえはおれのとこに来て昼寝してた」
「……昔のこと?」
 戸惑いつつ、覗きこむように少しまえかがみになって顔を傾けると、ゆっくりブレーキがかかって車が止まる。今度は拓斗の目がきっちりと那桜を捕らえた。
「ああ」
 短い返事に那桜の顔がぱっと晴れる。
 那桜の『一緒に眠れたら』という答えとしては微妙にずれて違うのだろうけれど、こんなふうに憶えていない昔のことを教えてくれるとは思わなくて、那桜にはうれしすぎる驚きだった。それに、してやれない――その云い方は、“したくても”とまえに付け足してみれば、人づてに聞かされる“仲がよかった”という事実を拓斗自身が裏づけたことになる。
「話してくれてありがとう。……拓兄」
 問うように呼ぶと拓斗がわずかに首をひねる。その狙っていた隙に、拓斗の左腿に両手をついて那桜は伸びあがった。シートベルトに引っ張られて、くちびるに触れるか否かのうちにキスは終わった。
「怒る?」
「わかってることをいちいち訊くな」
 拓斗はそっぽを向くように正面に直った。
 避けなかったくせに、とそう云うのはやめた。
 那桜の不意打ちから逃げられなかったのは、拓斗の反応が鈍いのではなくて、容認したからだ。加えて、以前はくだらない問いかけには無言の回答ですませていた拓斗が、いまは素っ気なくても言葉で返してくる。
 信号が赤から青に変わって車が進みだす。
 拓斗が運転する車みたいにすいすいとスピードにのることはなくても、破砕した扉から那桜は着実にその心底に近づいていた。もしかしたら、拓斗のほうから抜けだしているのかもしれない。

 *

 九時から始まった英語の統一試験はリスニングを含めて七〇分、それから、教授の指導なのか雑談なのか二〇分あまり続いてやっと終わった。
「まぁったくもって無意味な時間。大学の教授って暇なのかな」
 教室を出たところで合流した郁美はその表情同様、辟易としてぼやいた。
「暇かどうかは知らないけど、高校までと違って時間にはルーズな気がする」
「だよね。待ち合わせに遅れ――」
「さよなら」
 郁美が答えかけたところで通りすがりに声をかけられた。はっとしたときは那桜たちを追い越して背中が見えるだけだった。
「さよなら!」
 そう応じたのが聞こえたのか聞こえていないのか、なんの反応もなく、顎のラインでまっすぐにそろった短い髪が飛び跳ねそうなくらい、スレンダーな姿は足早に廊下の角を折れて消えた。
「果歩、ボブスタイル定着しちゃったみたいね。長い髪、好きだったんだけどな。那桜と同じ髪型にしちゃったときもがっかりしたけど」
 果歩と付き合いが途絶えた状況は、那桜にとっても郁美にとってもいまやあたりまえのことになっている。どう捉えているのかは知らないけれど、郁美がけっこうドライな性格だということを知った。
「まさか郁美、わたしの“白い肌”の次は果歩の“きれいな髪”?」
 那桜は郁美のストレートにした胸もとまでの髪を見やった。いま那桜と同じ髪型なのは郁美だ。去年まで郁美はこめかみ辺りからくるくるさせていたのに、この春、那桜と同じ時期にストレートに戻した。
「長い髪ってあこがれだよ。もちろん、ツヤツヤのね」
「郁美のストレートもきれいだと思うけど」
「これは模造。縮毛矯正してるんだよ。わたしがくせっ毛ってことは知ってるでしょ。ここまでするのに毎日たいへんなんだから。お金かかるし、髪は傷みやすいし」
「肌色と同じで、気にするほどじゃないと思うよ」
「那桜だからそう云えるんだよ。あ、でも、肌色っていえばフレビューのUVってすごいよね。冬はともかく夏ってどうなんだろうって思ってたけど、このまえ勇基と海に行ったときも肌が赤くならないの」
 郁美の美に対する執着に呆れつつ、那桜は一度だけ首を横に振った。
「立矢先輩にレポート書いて渡したら? また謝礼がくるかもね」
「だって高いでしょ。大学生は貧乏なの」
 からかいを込めて当てこすってみても郁美は悪びれもしない。

 いまや郁美はすっかりフレビューの自前モニター化していて、頼まれてもいないのに意見を送りつけているのだ。申し訳ないと思う那桜だったが、立矢は外交辞令なのか、率直な評価は貴重だと云って郁美の行為を増長させている。
 一方で那桜は、いまも立矢とは携帯電話中心で交流が続いている。といっても、そうしょっちゅう連絡を取り合っているわけではない。拓斗は不快だろうし、立矢もその点で遠慮はしている。
 拓斗が携帯電話の履歴を調べようと思えば、いつでも、即座に、それが可能とわかっているから、那桜も付き合いが途切れたわけでないことは報告ずみだ。もっとも、そのことについて納得しているかといえば“否”だろう。

「フレビューはヘアケア製品もあるよ」
「モニターしてる」
 郁美は、那桜が云い終わるか終わらないかのうちに即答した。呆れるのを通り越して那桜は吹きだす。それを横目に、「でも」と郁美は中途半端に言葉を切った。
「でも、何?」
「んー……果歩とはもうもとに戻らないの? 何があったか知らないけど。いまみたいに会えば果歩は声かけていくし、まあ立ち止まってお喋りなんてことはないけど、完全に無視してるわけでもない。那桜だって嫌ってるわけじゃなさそうなのに」
「相容れないことがあるんだよ。たぶん、だけど」
 那桜は言葉を濁した。
 果歩のしたことはショックで、許せないという気持ちさえあったように思う。いまは曖昧だ。
 やり方は異様でも、和惟がはっきりさせてくれたことで、那桜の苛立ちやら諸々の負の気持ちは消えた。あのとき果歩を助けた那桜の気持ちのなかに、優越、あるいは同情が存在したかもしれない。だから、助けたことに疾しささえ感じている。
「まあ、二度めだからね」
 郁美は首を傾けながら肩をすくめた。ちょうど校舎を出て、郁美が「暑ーっ」とうんざりして云う。それを聞きながら那桜は腕時計を覗いた。十時四〇分だ。

「郁美はデート?」
「うん。お喋りがないぶん勇基たちのほうが早く終わってるよ。メール入ってたから。那桜は? 翔流くんも誘ってお昼でも食べにいかない?」
「ううん。拓兄がもう迎えにきてると思う。今日は誕生祝いにどこか連れていってもらうの」
「なんだか、いい感じだよね。一人ずつ見れば兄妹っていうのはどことなく似てるからわかるんだけど、ふたりまとめた雰囲気はちょっと違うかな」
「拓兄と似てる? 似てないって云われたことはあるけど」
「そう? 那桜のお母さん経由で似てると思うよ。兄妹って知らないならそうは思わないだろうけど」
「普通、兄妹ってそんな感じじゃない? そっくりさんはそういないと思う」
「わたしが云いたいのはソコじゃなくて、禁断がんばって、ってこと」
 郁美は何かにつけてそう云う。本気でそう激励しているのかいまだに判別がつかない。
「勝手にそう思ってて」
 那桜はとりあえず笑って繕った。郁美は気にすることなく、何やら別のことを考えている様子だ。
「いつも思ってたんだけど、那桜って、夏生まれなのに名まえは桜ってつくよね。“お”ってほかの字もあるのに」
「あ、それはほかの子にも云われたことある。お母さんに聞いたら単純に桜が好きって云ってた。女の子が生まれたら絶対につけたかったんだって」
「確かに、ふわふわした女の子ってイメージはあるけど」
 郁美が云っている間にこっちにやってくる拓斗が目に入った。同時に郁美も気づいたらしく、続けて「わお、お迎えだ」とつぶやいた。
「あれだけ目立つとデートもたいへんな気がするけど」
 郁美はおもしろがった口調だ。
「どういう意味?」
「ベタベタしてるところを見つかったらやばいでしょ」
「ぷっ。拓兄がベタベタすると思う?」
「あー……タイプじゃないね」
 そんな会話を交わしているうちに拓斗と合流した。
「お兄さん、こんにちは」
 いつものように郁美がいのいちばんに声をかける。以前と変わったのは、首を縦に動かすというわずかなしぐさだけではなく。
「こんにちは」
 と、拓斗が応じることだ。
「じゃ、那桜。来週ね」
「うん。ばいばい」
 郁美は胸もとで手を振りながら同じように「ばいばい」と返して正門に向かった。

 郁美をちょっと見送ったあと、正面を向いて見上げると、拓斗は促すように首をひねった。
「教授の無駄話で遅くなった。逃亡って思った?」
「おれに逆らう理由はないはずだ」
「自信満々」
「でなければここ止まりだ」
「……どういうこと?」
 首をかしげると、拓斗だけ時間が止まったかのように那桜を見おろしたまま微動だにしない。その瞳に捕まった那桜の時間もこう着してしまう。動けないでいると、結局は那桜の質問に答えることなく、「行くぞ」と、拓斗のほうから視線を逸らした。

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