禁断CLOSER#75 第2部 破砕の扉-open-
5.迸出-Gush- -27-
拓兄。
そうおれを呼ぶのは唯一無二。
自制と疼痛の狭間。
捨てるべきだという自制が拓斗を縛り、なぜ那桜が――許さないという疼痛が心底を突きあげる。
拓兄。
和惟の躰の下で那桜が呼び続ける。
あのときも――あのひまわり畑の下でも那桜はそうしたのか。
予定よりも遅れた下山、待ちくたびれた那桜。
この夏のように、ひまわり畑のなかに埋もれ、出られなくなったのかもしれない。
そのまま那桜はおれを見失ったのかもしれない――いや、それは不確実な可能性じゃない。そのとおりだ。
おれは那桜が希む“拓兄”を捨てた。
拓兄。
おれを呼びながらも那桜は和惟に応える。
無意識の断罪。
裏を返せば孤独を映す。
おれはまた背中を向けるのか。
見ていること。苦辛をともにすること。それが那桜へのプライドだと誓った。
けど、それはプライドじゃない。云い訳だ。
守ることを放棄して、逃げたからこそ、誓いは容易くひるがえった。
――キスはだれにもしないで。躰のなか、拓兄にしか許さないの。
劣情がわがままを増す。
守りたがるから畏れ、苛立ち、迷いが巣くう。
同じように那桜に自分を植えつけ、守りたがる和惟。
和惟は何をその心底に誓い、守り続けているのか。
おれの心底が劣るはずがない。
拓兄。
那桜がおれを探す。
拓兄。
那桜がおれを求めて叫ぶ。
いままた応えないでいいのか。
違う。
見ないふりをして見続けるくらいなら。
呻き声のあと、ジッパーの音がしたと思うとまた鈍くぶつかる音と振動を感じた。
捕まれていたふくらはぎにはじんとした痛覚が残っているけれど、聖地が守られたことだけはわかった。那桜は子供みたいにしゃくりあげながら背中から頭上へと這いあがる。肘をついて、引っ張られる手首が痛みながらも上体を起こしていった。
そうする間、堪えているのに漏れてしまったというような声、どさりとこもった音、そして引きずるように軋む音が室内をいっぱいにしていた。
どういうことかと不自由な恰好で目にした光景は、那桜の嗚咽をぴたりと止めた。ベッドが三つ並ぶ狭いなか、拓斗と和惟が取っくみ合っていた。
那桜は止めるということすら考えつかないほど息を呑んで見入った。
拓斗が腹部に拳を入れたかと思えば、和惟が顔をしかめながらもやり返す。足を引っかけられて倒れ、拳に押され、ベッドは躰がぶつかるたびに身をすくめたくなる嫌な音を立ててずれる。壁に突き当たっては衝撃で室内が揺れる。
テラスでの和惟は、一度に何人もの相手をしているというのにそれらの抵抗を難なく避けていた。もしくは、その抵抗を利用して倒していた。それなのにいまは避けることなくまともに受けている。
拓斗もそうだ。顔への攻撃は前腕で防いでいるが避けてはいない。
やっぱり止めるという思考には及ばず、ただ、ふたりがへんなところに頭を打つんじゃないかと那桜は独りびくびくしていた。
「拓兄」
混乱して不安さえ伴うなか、拓斗を呼ぶ音が耳についてはじめて自分が声を出したことに気づく。同時に、拓斗が那桜を見やる。
「甘いんだ」
その声も同時だった。和惟の拳が拓斗のみぞおちを突きあげた。背中から壁にぶち当たった拓斗は苦しそうな声で足掻き、那桜は悲鳴を呑みこんで首をすくめる。
殴った和惟もまた息を切らしていて、その荒い呼吸がふたりとも真剣に闘っていたことを示している。
拓斗が那桜から和惟を引き剥がすだけでは終わらなくて、何がふたりをそうしたのか、那桜の思考力では見当がつかない。
痛むのか少しまえかがみになった拓斗を和惟が見おろす。
「拓斗、おれはどうするべきだ?」
しばらくして、息切れした声が問う。拓斗は壁に寄りかかるようにしてゆっくりと背中を伸ばし、そして躰を起こす。和惟の問いには答えないまま、那桜のベッドに近づいてきた。
「拓兄」
ほかの言葉を忘れてしまったようにそれしか出てこない。拓斗の伏せがちにした瞳と那桜の上向けた瞳が筋交う。そこに冷たさは見当たらず、かといって無でもなく、なんらかの意思が漲って那桜に注がれる。それはどこか那桜をつらくさせた。
いや、つらいという表現では拓斗に対して気が咎める。そう感じさせてしまう拓斗の意思とはなんだろう。
じっと見上げていると、つと目がすれ違い、少し上体をかがめた拓斗が那桜の手首を縛った帯をほどいていく。
自由になって身動ぎをした刹那、何が起きたのかわからないうちに寒さが痛みに変わった。ひまわり畑のときと同じだ。拓斗からこうしてくれるのは二回め。苦しくなるくらい拓斗の腕が那桜の躰を締めつける。
瞳のように、腕もまた何かを伝え注いでくる。心地よく、相反して那桜は慄いてしまう。
「見ていればいい」
じっと包まれていると、やがて拓斗は声を低く響かせながら頭上で云い放った。
「なるほど」
何を? と、那桜が思っているうちに和惟が応じた。拓斗の返事に何を見たのか、和惟はせせら笑うような声音ながら満更じゃない響きもある。
拓斗は腕を解くと、やっぱり意思を浮かべた目を那桜の顔に留め、それから濡れたこめかみを手のひらで拭った。額に触れる手のひら、那桜の手をつかむ手のひら。それと同じで安らぐ触れ方だった。
和惟が室内をもとどおりにしている間に、拓斗は那桜を人形扱いして服を整えた。厳密にいえば着物で、那桜は自分で着つけができないから助かるのは助かる。有吏家は、元日は着物ですごすという習慣があって、那桜はいつも詩乃任せで着せてもらうのだが、自分で着つけする拓斗は手慣れている。
こんなふうに拓兄から着せてもらうのもなんだか自分が妹みたいでうれしいけれど――と、思ってみたところでおかしな云いまわしだと気づく。元来が妹なのに。
半巾帯も器用に文庫結びで仕上がる。ほどくときに手惑うことがなかったはずだ。そう思ったとたん、那桜はハッとしてベッドを見た。すると、気にした汚れはなく、漏れた感触は錯覚だったらしいとほっとした。
反面、困惑を覚える。嵐のまえの静けさというけれど嵐のあとにも静けさはあるのだろうか。いまは不思議なくらい穏やかななかにいる。
「行こう。あと一時間もない」
和惟の言葉は那桜を現実に返らせた。今日一日いろんなことがありすぎた。
さっきまで何が起こって結果どうなったのか、まるでわからない。見境もなく自分が乱したベッドをもとに戻すという和惟の姿は滑稽なのに、穏やかな雰囲気のなかでも戸惑いが大きく、那桜は笑うことも喋ることも憚られていた。
拓斗が那桜の背に手を添える。見上げた拓斗の目にやっぱり冷たさはない。
「拓兄」
「なんだ」
いつもと同じ返事だ。これまで拓斗と和惟には感じたことのない緊張という心地が少しだけ解ける。
「トイレ行きたい」
入り口で待っている和惟が呆れたように笑い、拓斗は首をひねった。
*
花火大会を最後に青南祭は幕を閉じた。テントとステージのみ大まかに片づけて、あとは明日十時からいっせいに後始末だ。名残さえも消えるだろう。
気が抜けるようなさみしさを感じる一方で、最終日、あまりに騒々しくて、しかもいいことなんてなかった気がするのに、保健室を出て以降、空気は冷えこんでいるなか、ずっと暖かいフィルターにくるまれているような感じだった。
なんだろう。
「風呂行け。溜まってる」
どう見ても普通じゃない車に乗って帰りついたのは九時すぎで、だれもいない家のなかに入るなり拓斗が云い、那桜の疑問はさえぎられた。
「うん」
二階に行って、バッグのかわりに着替えを持っておりた。すると、拓斗の声が聞こえる。聞き耳を立てると、若干うんざりしたニュアンスが感じとれ、電話の相手は詩乃だとわかる。
詩乃は云い訳を云わせないし、無視も許さないからCLOSERも手こずる。
那桜は小さく笑って浴室に行った。
今日は久しぶりに拓斗とふたりきりで、一緒に眠れる数少ないチャンス。けれど。
なんだろう。
またその疑問が浮かぶ。自分から押しかけられそうにない。
保健室で感じていた緊張がまたぶり返してきた。そわそわと落ち着かない。躰の表面が温まっただけで早々と浴槽を出た。
ショーツを穿いてキャミソールを身につけたそのとき、ふいに浴室のドアが開く。そうするのは拓斗しかいないとわかっているのに、那桜はうさぎみたいに飛びすさりそうになった。
そんな那桜に気づいているのかいないのか、拓斗の目が一瞬にして那桜を見尽くす。そして、拓斗は服を脱ぎ始めた。自分が何をしていたのか飛んでしまい、拓斗の露出した上半身をぼんやりと眺めていた那桜は、その手がカジュアルスラックスのベルトにかかるとやっと我に返った。
そこが昂っていたのは見間違いか、いずれにしても居心地が悪い。
「那桜」
那桜がパジャマを着るより早く脱ぎ終わった拓斗が呼びかける。ボタンをかけていた手を止めて見上げた。
「おれの部屋だ」
「……。はい」
息を呑んだあと那桜が返事をしたとき、拓斗はもう背中を向けていた。躰の前面に見えた痣は、特に最後の一撃だろうという場所が目立っていたけれど、背中には一つもなくて、それは逃げなかったことを裏づける。
那桜は髪を軽く乾かして歯磨きをすませて浴室を出た。
拓斗が指示してくれたことは助かったけれど、待つ間は嫌になるくらいそわそわした。考えはまとまらないし、まず何を考えるにも断片ばかりでテーマさえ決まらない。
ベッドに座ってもふとんに潜っても落ち着かない。
そして、まんじりとしているうちに部屋のドアが開いた。
那桜がばかに思えるほど拓斗はなんともなくベッドに近づいてきた。ベッドの真ん中にぺたりと座って固まっている那桜を見つめる。
「なんだ?」
那桜がいつもと違うことを察している。
「なんだか……のぼせたみたいにドキドキしてるの……風邪かな……」
喉が渇く。
拓斗の手が那桜の額を覆った。
「熱はない」
「……うん」
額から離れた手がふとんを剥ぐと、さっき着たばかりのパジャマのボタンが外されていく。キャミソールまで脱がされてベッドに寝かされると下半身も丸裸になる。
エアコンの音だけという静けさは息苦しい。
那桜が見ているなか、今度は拓斗が強靭な躰をひけらかす。ベッドに上がってきた拓斗は、那桜の脚を開いてその間に納まった。那桜の手が片方ずつ取られる。
手首にはかすかに痣が浮いている。拓斗はうなだれて脈にくちびるをつけた。
そのしぐさはなんだろう。単純に謝罪だろうか。
両手首にキスをしたあと拓斗はまえのめりになって、帯のかわりに自分の手で那桜の肩の横に括りつける。拓斗の顔が真上にきて、不自然なくらい見入られた。
常の性急さがない。そう気づいてわかった。
いつもと違うのは那桜ではなく――。那桜を戸惑わせているのは拓斗だ。
「拓兄」
呼んだとたん、拓斗の顔がおりてきた。触れる寸前で止まる。
「なんだ」
「……どうかした?」
「どう見える?」
拓斗は問うや否や答えも聞かずに那桜のくちびるをふさいだ。
呼吸を繋ぐためではない、那桜が希うキス。ゆっくりと享受するように吸着して那桜のなかをまさぐる。拓斗とキスから始まるセックスはかつてない。
そのあとも拓斗は那桜の氷肌にくちびるを這わせていった。時間の速度が落ちたんじゃないかと思うくらい、キスは緩やかに移動する。
くちびるから頬に滑り、耳に落ち、そこで拓斗の呼吸が那桜の全身をふるわせる。顎を伝い、首の頸動脈に沿って、今度は那桜の脈動が拓斗のくちびるをふるわせているかもしれない。
それが胸もとへとおりていく頃、那桜は気づいた。拓斗が和惟の痕を追っていることを。那桜が希うもう一つ――きれいにして。拓斗の包容のなかでなら那桜は際涯なくきれいに戻れる。そんなことを思わせるキスが胸のふくらみを襲う。
かと思うと、拓斗のキスは和惟の痕跡を超えて胸先を含んだ。
あっんっ。
熱い舌の刺激がふくらみの天辺を硬く反応させる。もどかしいくらいのスローなキスは、那桜の躰に巡る血を確実に温めて火照らせた。
すべてを委ねたくなる。なんだろう、大切にされているという感覚。どちらかというと激しいばかりで、こういうセックスがあることを知らなかった。
さらにキスは進む。手首を離した拓斗は膝の裏を支え、自分の躰を少しずらしてから那桜の中心を開く。
ああぁっ、ふっ。
ふくらんだ襞を拓斗が咥えた。くちびるの吸引が繰り返されるうちに、拓斗が支える必要もないくらい脚は力をなくして開いた。
「あ、あ、あ、うくっ……拓……にぃ……ふ、あっ、ぅっく……っ」
いつもと違う。全然違う。自分が漏らす声も違う。なぜ泣いているのだろう。
その疑問もすぐに途切れ、拓斗のくちびるの下でそこはゆっくりと果てを目指していく。どこまで行けるだろう。それほどの長い時を経て、那桜は息をつまらせる。全身が硬直したあと、一瞬にして酷い痙攣に変化した。
ぁあああ――ぁっ。
顔を上げた拓斗が指先ですっと襞を撫であげ、過剰すぎる刺激に那桜は悲鳴を漏らしながら躰をうねらせた。
「拓……にぃ……」
拓斗の手が伸びてきて濡れたこめかみを拭う。額に手を置くときのような触れ方で、涙の意味を悪く誤解しているふうではなく、那桜はほっとした。
「行くぞ」
那桜は喘ぎながらうなずいた。
やっぱり違った。前置きすることなんてなかったのに。
まだ治まりのつかないなか拓斗が躰の奥に沈んでくると、それまでとはまた別の快楽に襲われて反射的に腰をよじる。それが拓斗にも影響を及ぼしたようで、その息がこもった音を立てて漏れた。それからの、那桜のなかで繰り返された確かめるような緩い満ち引きはかえって感覚を研ぎ澄ました。
「拓兄っ」
拓斗が腕に脚を抱え、伸しかかるようにして那桜の真上に顔を見せた。その手がまた那桜の手首を捕らえる。腰が浮いて互いの躰の中心がぴたりと密着し、拓斗はすべてのキスを完成させる。くすぐったさに似た快楽に脳内まで痺れていく。
「あ、あ……拓兄っ、またっ……あっ」
「イケ。何回だろうが……」
苦しさに唸るような声がつぶやく。
それはずっと?
訊くことはかなわなかった。一回目の引きずるようなストロークで那桜の躰は弛緩した。
そのあとはよく覚えていない。ただ最後まで酷く静かだったことを覚えている。ベッドが微風になびくプールのようで、那桜はふんわりと揺られながらずっと浮いていた。
*
気だるい感覚のなか、ふと体温が遠ざかる。
たくにー。
つぶやきは声になったのか、額に触れた手に安堵した。
動きまわる気配のなか、足音はなくても振動はあってベッドがわずかにふるえる。それが心地よくて微睡みに任せた。
カーテンを開いた窓から日が差しこみ、部屋が明るく照らしだされる頃、那桜は薄らと目覚めた。すると、いきなり耳もとで音楽が鳴り始めて飛び起きた。
さっと部屋を見渡して現状が返るとともに逸早く拓斗がいないことに気づく。枕もとに那桜の携帯電話が見つかった。目覚ましではなく着信音だ。それに、相手は拓斗を示している。
「拓兄、どこ!?」
叫ぶような声は自分でも心細く聞こえる。
『那桜』
いつもの声音とは違う。
「……どこ?」
『ここに来い』
「ここ、って?」
『探せるはずだ』
短く云って電話はとうとつに切れた。
どこ?
途方に暮れて目のまえにある窓の外をぼんやりと見つめた。どこからか、風に乗った葉が舞ってきて、窓に当たるとひらひらとベランダに落ちた。
その紅葉に見入っていると、ふと那桜は『ここ』がどこかわかった。
そもそも拓斗と那桜の間に『ここ』で通じるほど特別な場所はない。そんななかで、思いつくのは迷宮のように惑わされるひまわり畑、そしてもう一つ。那桜が独りでも行ける場所は、知っているというノスタルジックを感じたあの公園しかない。
那桜は急いでベッドをおりた。寒さも、拓斗の欲心の証が零れるのもかまわず、部屋に走った。
朝の八時。あとから大学に行くことを考えてデニムのスリムパンツにカットソーを身につけ、ブルゾンを羽織りながら階段を駆けおりた。
玄関、そして門を抜けたとたん、そこには和惟がいた。当然、独りで出かけられないことはわかっている。
「拓兄は?」
「知らない。おれは那桜についていくだけだ」
和惟は首を軽く動かして促した。
「拓斗はどうだ?」
那桜の一歩後ろをついてきながら和惟が問う。歩きながら振り返った。
「……どうって?」
「愛されたかって訊いてる」
愛された?
拓斗に愛されるということがよくわからなくて、那桜はつと考えこんだ。そして、昨夜のことが甦る。
泣きたくなるセックス。それが愛されること?
「わからない。でも……」
「なんだ?」
「違ってた」
那桜のその返事に和惟が応えたのはずっとあとだった。住宅街から大通りに出て右に曲がると公園の入り口が見える。どっちも喋ることなく、昨日のことがあっても気まずさは感じられなくて、自然と合う歩調のように長閑ななか和惟が応える。
「那桜、これからだ」
昨日、拓斗が口にした『見ていればいい』――そこにあった決意みたいな響きと同じ声音だ。
那桜は足を止めた。
「これから?」
「そうだ」
和惟はそう云うだけで那桜の背中を押す。
それからずっと添えられていた手を抜けだしたのは、公園に入って銀杏の木が丸ごと見えたときだ。周囲を見渡すこともなく、一散にそこを目指した。白い息が目のまえで広がる。
そして、黄色く敷きつめられた地面に片方だけ投げだした脚が見えた。
那桜はスピードを緩めていき、最後は歩いてその足もとにたどり着いた。
木の根っこは子供が身を隠せるくらいの窪みがある。拓斗はそこに背中をもたらせ、膝を立てたほうの脚に片腕を預け、うつむきかげんで目を閉じていた。
那桜が来たことを気づいているだろうに拓斗は反応しない。
「拓兄……見つけた!」
拓斗はゆっくりと目を開いて上向いた。まさか息がないとは思わなかったけれど、目が合うとほっとして那桜は首をかしげて笑う。拓斗は立てた脚をまっすぐにしながら手を那桜へと伸ばした。反射的に手を重ねるとぐいっと引き寄せられて、那桜は転びそうになりながら拓斗の脚を跨った。
「那桜」
ちょっと上から、確かめるような響きで拓斗が呼びかける。
「うん」
「見失うことはない。おれもおまえも」
拓斗の言葉は端的すぎていつも意味がわからない。
けれど、目のまえの瞳は昨日からずっと何らかの意思を映していて、その意思が少なくとも切ることを選ばなかったことはわかっている。
最後のセックス――そんな感傷を抱く拓斗じゃないから。その拓斗が、いまそんなふうに云うのなら。
「これから?」
和惟の言葉が意味を持つ。
「ああ」
「……ずっと?」
ためらった問いかけに拓斗は答えない。ただ、じっと那桜を見つめる。その間を黄色い銀杏の葉が舞って、ふたりして顔を仰向ける。
残り少なくなった葉がまた落ちてきて、雫という幻影に変わる。ちょうど那桜のくちびるにおりた。くすくすと笑いながら顔を正面に向けると、拓斗の手がくちびるから落ちる葉をすくう。
そして。
拓斗がふっと息をつく。
――違う。そのくちびるはしなやかに――迸る。
扉は破砕した。
ずっと。その答えをもらった気がして胸が痞えた。
那桜が目のまえで笑い、一滴の雫を落とす。
銀杏の葉のかわりに雫が舞う――その夜。
那桜の躰は冷えた拓斗を温めていた。拓斗の躰は那桜の熱を冷やしていた。ふたりを補う互いの躰。
忘れろ――そうじゃない。
あの時、止めてしまったこの場所から、たったいまから。
那桜を泣かせなければ離れられないくらいなら――。
真っ向から。
――闘え。
−第2部 破砕の扉-open- The End.−