禁断CLOSER#73 第2部 破砕の扉-open-
5.迸出-Gush- -25-
校舎の裏側は、走るには向いていないほど仄暗く、足の裏は何かを踏んづけてはチクリと痛む。けれど、そんなことにかまっていられない。背後を見ることもなく那桜はひたすら共通講義棟が並ぶ場所に向かった。
一号館の角を折れてしばらくすると、図書館の隣にある生協の屋根が見え始める。ここから向こうはイベント会場がないから人の姿もない。
建物寄りを走っていると、いきなり着信音が鳴り始めて那桜は飛びあがりそうに驚く。慌ててジャンバーのポケットから携帯電話を取りだして、相手を確認するより早く通話ボタンを押した。
「那桜?」
那桜の心音を掻きわけて聞こえたのは翔琉の声だった。ほっとすると同時に、素早く後ろを振り返った。照明がぽつぽつとしかないなか、とりあえず見える範囲にそれらしい姿はなくて、那桜はまた安堵しながら生協の建物を目指した。
「翔流くん、どこ!?」
「……声、うるさくないか。メイン会場だ。おまえはどこ? 委員会、まだ――」
「翔流くん、果歩が、たいへんなの。それで、図書館の中庭――じゃなくって、テラスに向かってる!」
「なんのことだよ。息、切れてるし」
那桜は生協まで来ると建物の陰に入っていったん立ち止まった。グラウンドのトラックを二周ぶんくらい走っただろうか。翔流の云うとおりで、あまり走ることがないからマラソンをしたくらい息があがって、かなりの酸素不足状態だ。
「走ってるから! いろいろあって、説明してる暇ないよ。とにかく、果歩が襲われちゃ――」
翔流が不審そうにしているのもかまわず焦って喋っていると、奇声が聞こえた気がして口を閉じた。苦しいながらも息を止めてみる。メイン会場から終始アナウンスが流れて聞こえてくるなかでも確かに声は耳についた。
「那桜?」
「悲鳴が聞こえるの! 助けなくちゃ――」
「那桜、待て! うわっ……悪い」
那桜を制止したとたん、翔流は驚いた声をあげて謝罪を口にした。明らかに那桜じゃなく、電話の向こうのことのようだ。一方で、こっち側の声は切れ切れだが、絶えることなく聞こえる。
「翔流くん!?」
「とにかく那桜、そこで待ってろ。襲われるとか悲鳴とか、おまえ独りでどうすんだよ。すぐ行く!」
そう云う声は不安定に揺れて、すでに翔流が駆けだしていることを教えた。
「生協のまえにいる! 早く来て!」
「ってか、兄貴たちは何してんだよ!?」
「関係ないって果歩のこと見捨てた。だから――」
「また脱走したって?」
こんなときなのにおもしろがった声が那桜の代弁をした。
「説得する時間がなかっただけ。わたしのせい。果歩のこと、悪く云ったから。でも、果歩は来なくていいって……」
那桜の声はすぼんでいって中断した。ひっきりなしではなくても奇声の音量は酷くなっていて、男女の声が入り混じっている。
「だから意味わかんねぇって。あ、二番めの兄貴はどうなんだよ。あの人、話、わかりそうじゃんか」
息切れしながら云う翔流の言葉で、那桜ははじめて戒斗がいることを思いだした。
「戒兄のこと忘れてた。すぐ連絡してみる!」
「那桜、間違っても独りで行くなよ」
「わかってる」
云うが早いか、那桜は翔流との電話を切って戒斗を呼びだした。だいたい、家を出ていくから存在感が薄れてしまうのだ。そんなことを思いながらかけた電話は一秒もしないうちに通じた。
「那桜? どこにいる?」
急くような声にピンと来た。那桜がいなくなったことを知っているのだ。つまり、拓斗はすでに知っている。あれから何分たったのか、居場所の見当すらつけてこっちに向かっているに違いない。
翔流の忠告を無視して、那桜は駆けだした。戒斗が事情をどこまで知っているのかはわからないけれど、和惟と無事だとかなんとか話していたのだから、何が起きているかというのはわかっているはずだ。
「拓兄も和惟も果歩を助けてくれないの! だから――」
「那桜」
戒斗は素早く那桜の意向を察したらしく、鋭くさえぎったあとなだめるように続けた。
「すぐ行くから――」
「だめ、戒兄より拓兄のほうが早く着いちゃう。そしたら助けるまえに止められるよ!」
「那桜……っ」
戒斗が呼び止めるのを聞かずに那桜は電話を切った。
隣にある共通講義棟の入り口には変わらず黄色いテープが貼られている。そのすぐ横にある、中庭へと通じるアプローチを通った。悲鳴はひっ迫して那桜の耳に届く。中庭の回廊を駆けていき、二階のテラスへと出る階段をのぼっていると、中間にある踊り場に着く寸前、着物がへんに足首に纏いついて転んだ。膝を強かに打つ。
「痛っ」
「や……やめ、てよっ、ぃやぁああっ」
「放してっ……い、やぁあっ」
那桜の小さな悲鳴は金切り声にかき消された。あまりに酷くてどっちがどっちの声だか区別がつかない。
「やだって……あっ」
「やめてっ、痛いっ……ううっくっ」
今度はつらそうな呻き声が混じる。その合間。
「おれのほうが痛いんだよなぁ。手足、ちゃんと押さえてくれないかな。妻に猫に引っかかれたなんて云っても通じないしさ」
「てかオッチャン、コイツら、マジっぽくね? こっちの奴、あんま濡れてねぇし、指なのにきついし」
「緊張してんじゃねぇの。オッチャンに任せればそのうち気分上々ってな」
「そうだねぇ。これまで何も問題にならなかったでしょ。きみたち、そのリアル感、AV女優いけちゃうよ。きれいだし現役女子大生って売りで充分だと思うけど」
男たちの下卑た笑い声がする。
何人いるんだろう。そんな不安がよぎるなか、「脱がそうぜ」という叫び声と拒絶の悲鳴が重なる。那桜は立ちあがってまた階段を駆けのぼった。テラスの光景が目に入った刹那、那桜は叫ぶ。
「果歩っ」
「那桜ちゃん!」
那桜の声にかぶさった声は中庭に反響して、どこからなのかはっきりしない。急いで後ろを振り向いて探すと、アプローチから中庭を出たところに立矢がいた。
「だめだ!」
「だめだから!」
同時にふたりともがまったく違う意味で同じ言葉を吐く。中庭に響き渡った。
「なんだ、おまえ」
背後から声がして振り返ったとたん、怪訝にした若い男から肩をつかまれる。
「放して!」
躰をよじるようにしてその男の脇をすり抜ける。四方からの外灯が影を薄くして、さっきちらりと見た風景がいまははっきりと映る。
テラスは建物の半分が削られたようにかなり広く設けられていて、テーブルや椅子があるなか、ほぼ中央に一部の男が密集し、それを囲むように遠巻きでまた別の男たちが集っている。実行に移す男、見物してるだけの男と分かれているのかもしれない。
その人数はざっと見て二十人を数えそうだった。見物している男たちの脚のすき間から、手足を取り押さえられてコンクリートの上に縛りつけられた姿が見えた。
助けようと一歩踏みだした那桜はまたもや肩をつかまれる。
「待て。勘違いすんなよ。これは合意なの。もしかしてあんたも志願?」
「合意じゃない!」
揶揄した口もとが嫌らしく歪んで顔が近づいてくると、那桜はみぞおち辺りを押しやった。
「わっ」
男がよろけたそのとき、那桜の目のまえに人が立ちはだかった。
「おい、今度は男か? 見たことねぇけどもしかして初参加?」
「那桜ちゃん、ここはおれがなんとかするから――」
「やっ、やだっ、痛いっ」
立矢が云い終わらないうちに果歩とわかる声が叫ぶ。
「果歩!」
「那桜ちゃんっ」
「ちょっと、おまえ、何?」
「捕まりたくなかったらいますぐ帰れっ」
立矢と男の云い争いを背中に聞きながら、そこからは無我夢中だった。
取り囲む男たちに突進し、そのままの勢いで果歩に覆いかぶさる男たちに体当たりした。よろけた一人が別の一人に当たる。それが連鎖して、ぶつかった弾みに男たちの口から奇声が飛びだす。果歩の躰から手が離れた。
「なんなんだ」
「女だぜ」
そんな言葉が聞こえてくる。果歩に抱きついて男たちの侵略を防いだ。
なぜそんなことができたのかわからない。
ただ、果歩は『来なくていい』と云ったから。
下で嗚咽を漏らす果歩の躰が那桜を小さく揺らす。
嫌悪でも憎悪でも、果歩のなかには那桜に対する負の気持ちがある。もしかしたらあの二年まえからずっと消えていなかった。電話で『行くよ』と答えて果歩が呼びかけるまで、那桜が思い巡った二年間のぎくしゃくは、それ以前にどれだけ親しく互いを好きだったか、そんな土台の上にある。
助けようとかそんな高尚な気持ちからではなくて、ただ助けられるのに助けなかったことを後悔したくない。
戻れないことはわかっている。きっと果歩もわかっている。
果歩が罠をひるがえしたのは、那桜と同じで後悔したくなかったんだと思う。
痛みと後悔に紛れた、だれにも伝わることのない小さな誇り。果歩のなかにもこの二年以前のことは残っていて、それだけは信じていようと思った。果歩にも信じていてもらいたいと思った。
「あれ、この子も参加? 着物かぁいいねぇ。きみたち、捕まえてよ」
穏やかな命令はかえって薄気味悪い。この年配の男がリーダーだろうか。
「やめろっ」
「オッチャンがそう云うんならやっちゃおうか」
いったん始まれば性欲を抑えるのは難しい。それを証明するように、立矢の叫びも虚しく理性の利かない声が軽くのった。直後、那桜の腕が両方ともがっしりとつかまれて、引きずるように果歩から離される。
「放してっ。じゃないと酷い目に遭うから!」
男たちは冷やかした笑いを漏らしてあしらう。
はったりでもなんでもない。那桜がここにいるのなら拓斗は――和惟だって動く。
そしてそのとおり、足音も聞こえず――。
「ちょ、わっ」
驚愕した声と一緒に片方の腕が解放された。
後ろを振り仰ぐと眼鏡越しという瞳とかち合う。見慣れていなくても一瞬にして拓斗とわかる。その左手が解放された那桜の左腕をすくい、右手が腕をつかんでいるもう一人の男のほうに伸びていく。拓斗が何をしたのか那桜の右腕は自由になって、間近で呻いた男は転がった。
「大丈夫」
見上げてつぶやくとその瞳の色はわからないけれど、かわりに左腕が絞めつけられて拓斗の意があらわになった。拓斗に支えられながら立ちあがるさなか、ほかでも呻き声があがった。
「な、なんだ?」
「オッチャン、なんかやばいぜ」
「逃げろっ」
慌てた会話が飛び交い、そのとおり彼らは一斉に階段へと向かう。刹那、那桜を片側に抱え、拓斗が傍にいた男の足を引っかけた。バランスを崩した男を足蹴にし、その向こうを横切る男にぶつけて一緒に転ばせる。と思うと、那桜を抱く腕を変え、今度は反対側を通り抜けようとする男にワンステップ踏んで脚を突きだす。無造作に見えて実は計算されているのだろう。その男に突っかかり三人まとめて転がった。
その間に人を喰った声が背後から聞こえてきた。
「おっと。ここは行き止まりだ」
抱えられた腕のなかで頭をまわしてみると、階段の下り口に和惟、翔流、戒斗、隆大、そしてちょっと離れて立矢が立ちはだかっている。
「並べよ、身元調査だ」
和惟が云うと彼らはいっそう立ち騒いで階段に向かう。が、彼らは行く手を阻まれた。翔流と隆大と立矢が一人の相手をしているうちに、和惟と戒斗が数人ずつまとめて一掃した。流線を速やかに描くような動きは何一つつかめず鮮やかすぎた。彼らは抵抗する気をなくしたようで、命じられるまま隅に追いやられていく。
そのなか立矢はこっちに寄ってきた。
那桜のどきどきした鼓動も落ち着いてきて、躰にまわされた腕に触れると拓斗を見上げた。
「来るって思ってたから」
その一言は少しなだめる手助けになったのだろうか。拓斗の腕が緩み、那桜は抜けだして果歩の傍に行った。
「果歩、もう大丈夫だよ」
ブラウスは引きちぎられて下着もずれているけれどちゃんと身につけていて、彼らの会話からしても最後までは行ったわけではない。無論、それが問題にならないほど果歩はショックを受けていて、放心したように服を乱したまま、ただ嗚咽を漏らす。
那桜は果歩の服を直して抱き起こした。ショックに寒さも手伝っているのだろう、躰は震えている。支えた那桜を果歩が払いのけないことにほっとした。
「立矢、どういうことなの」
有沙の声だ。打ちひしがれたような声のなかにも悪びれていない強気が見える。那桜は果歩のことで精いっぱいで、少し離れたところにいる有沙のことまで気がまわらなかったが、見てみると彼女もまたワンピースが引きちぎられたようで破けている。
「姉さん、いつまでも自分の思うとおりになるって信じてるとしたら大間違いだ」
「香堂有沙、云ったはずだ。今度会うことがあったらどん底だと」
立矢に続いて拓斗が追撃すると、きっとした有沙の眼差しが拓斗を向く。
「わたしは被害者よ!」
「これは有沙さんが始めたことだ。そういうサイトと知って誘ったのは有沙さんで、飯田果歩が被害者になることはあっても有沙さんは被害者になり得ない。それどころか有沙さんは奴らより酷い正犯だ」
「正犯?」
「そもそも如何わしいサイトだということを抜きにしても、有沙さんは悪用した。那桜の写真を上げた時点ですべて解析を取り、有沙さんのケータイからという証拠はそろっている」
「姉さん、香堂は潰れるよ」
立矢の言葉が追い打ちをかけたようで、有沙の顔が凍りつく。
「そうなったら立矢だって――」
「おれはとっくに香堂のステータスは捨てた。困るのは姉さんだ。このことがバレたら父さん、どうするだろうね」
「やめてよっ。弟のくせに――」
「いま云っただろ、いつまでも、っていうのは幻想だ。おれは姉さんなんていつでも見捨てられる。どうする? あいつらに犯してもらおうか? そしたら香堂の名が効かなくなっても踏ん切りつくだろ。躰売って贅沢すればいい。不老ってわけじゃないから、姉さんがいつまで売れるか知らないけどな」
「立矢!」
有沙は悲鳴のような声を出しながら立矢を見上げる。
釣られて見た立矢の表情は那桜がはじめて目にする冷たさがあった。いつもの穏やかさはなく、極めて冷静だ。
立矢はゆっくりとかがんで有沙とほぼ目の高さを同じにした。
「おれの云うことを聞いておとなしくするっていうんなら、父さんには黙っていてやる。守ってやるよ。どうする?」
「……わかったわ」
しばらくたって、有沙はかすれた声で小さくつぶやいた。
「じゃあ行こう。姉さんは終わるまで車のなかだ。待ってられるだろ」
「こんな恰好でうろうろするわけないわ」
不満げな口調はこれまでと違って子供っぽく感じた。有沙を敵視するあまり、そういう面に気づけなかっただけなのか。立矢が云う恥曝しはともかく、それ以降、もしかしたら姉弟の間で主導権を握っていたのはずっと立矢のほうだったのかもしれないと思った。
「拓斗さん、あとの判断はお任せします。迷惑をかけて申し訳ありませんでした」
立矢は深々と頭を下げ、有沙を連れてテラスから消えた。
拓斗を仰ぐと眼鏡を外しているところで、手をおろすのと同時に素の眼差しが那桜を見おろす。
薄明かりのせいなのか、それは暗く沈んだ場所から貫くように冷たく見える。
那桜に対してまだ拓斗が一言も発していないことに気づいた。