禁断CLOSER#72 第2部 破砕の扉-open-

5.迸出-Gush- -24-


 何を訊く間もなく立矢の携帯電話が再び音を響かせた。不吉に聞こえるのは思いすごしだろうか。
 立矢は「ああ」という相づちを打つだけで電話相手がだれかは不明だ。けれど、見当はつく。しばらくしてようやく発せられた立矢の言葉がそれを正解だと証明した。

「姉さん、確かめるんだろ? そのままそこのテラスにいれば安全だ。集まる奴らだって犯罪のつもりでくるわけじゃないし、顔は那桜ちゃんたちだってわかってるんだから万が一でも姉さんが襲われる心配はない。……録画? おれは無理だ。実行委員長だってことは知ってるだろ。いまフィナーレまえの見まわり中だ。……テラスから中庭は丸見えなんだし、簡単に撮れるはずだ。……飯田さんのことは引き止めておかないと。掲示板見られたら計画はおじゃんだ。姉さんもアクセスしないほうがいい。……ああ」

 電話を切った立矢は滅入ったようなため息をつく。直後には携帯電話を弄り始めた。そして指は止まり、立矢は画面に見入ったまま微動だにしない。
 何をしているのだろう。見守っていると、やがてまたワンプッシュした立矢は確かめるようにじっと見つめて、それから那桜に画面を向けた。
 那桜は、それを見ても最初はまったく意味が理解できなかった。
 まず目に入ったのが画像だ。どこかのサイトで、なぜか果歩と那桜のツーショット写真がそこにある。前夜祭の日に果歩が携帯電話で撮ったものだ。訳がわからず那桜は眉をひそめる。
 立矢から携帯電話を受けとって、タイトルから添えられた文章まで読んでいると、じきに大まかながらも事情が把握できた。
 画面に映しだされた『RE:オカしてください』という意味がわかったのは内容を読んでしまったあとだ。那桜の目が大きく開く。

『場所、決めました。図書館の中庭です。正門から入って駐車場の奥の角から右に折れて二つめの建物。案内板がずっとあるので迷うことはないです。中庭には図書館の玄関横から通り抜けられます。“ロ”の字に囲まれた場所だから人に見つかる心配もありません。六時に待っています。といっても、できるだけ脅かしてほしいな。そのほうがリアルに感じられるから。それから友だちも誘いました。同じ趣向なので安心してくださいね。嫌がってるのはフリだからめちゃくちゃにオカしちゃってかまいません。天下の青南女子大生がお相手します。多ければ多いほどいいなって期待してます。』

 驚愕して呆けた那桜から立矢が携帯電話を取りあげた。那桜は無意識でそれを追い、また弄りだした立矢の指先を意味もなく見つめた。
「大丈夫。入れ替えたから」
 しばらくして立矢が再度、携帯画面を差し向けた。見せられた画像は、那桜に入れ替わって有沙が映っている。
 かびたような室内の臭いが鮮明になるほど長い時間、沈黙が満ちた。

「……立矢先輩、なんですか……これ?」
「おれの恥曝しな話、覚えてるだろう? 姉さんは似たようなことを計画した。このサイトは相対する立場で特殊な願望を持った人間が集まる。姉さんにとっては好都合で、おれよりも確実に実行してくれるサイトだ」
 那桜は小さく躰をふるわせながら身をすくめた。
 今日何度目なのか、「那桜ちゃんは大丈夫」となぐさめる言葉をかけ、立矢は携帯電話をポケットにしまってから続けた。
「まえのは間違いだって削除したし、ここにいればまず安全だ。かわりに痛い目に遭うのは姉さんだ。このあと、ぎりぎりで現地を共通棟の二階のテラスに変える。自分の価値は最低だって思い知ればいい」
「それが……有沙さんのため?」
「そう。姉さんは色情狂でも、相手を選ぶ。価値が見いだせないなら見向きもしない人だ。どこのだれともわからない男にやられるってことは姉さんにとっていちばんの打撃になる。だからこそ、姉さんは腹いせにその手段を使う」
 立矢は冷静に淡々として云い、那桜のなかには疑問が浮かびあがる。
 確かに有沙のプライドは潰れるだろうが、立矢のやろうとしていることが正しいとはとても思えない。それにまして、立矢にある有沙への真の気持ちはなんだろう。立矢も酷い目に遭わされている。愚弄され、利用され、立矢の真価は少なくとも父親のなかでは地に落ちた。それなのに、有沙に対する憎しみとか嫌悪感は見当たらない。
 姉弟だから……?
 このまま放っておいていいのだろうか。そう自分に問いかけたところで、果歩が一緒に映っていたこと、そして、立矢の『大丈夫』という言葉が自分だけに限定されていたことに気づく。
「立矢先輩、有沙さんはどうして果歩まで犠牲にしようとしたの?」
「口封じだよ。そのために録画するつもりでいるから。女性ならだれだってそういうのを曝されたくはないだろう? 強姦罪は親告罪だし、刑事事件になってもたいていは示談に落ち着く。裁判は耐えられないらしいから。二人以上の集団になると親告じゃなくて警察が告訴できるけど」
「でも、もう果歩をそうする必要は……」
 那桜は半端なところで口を噤んだ。視界のなかで起きている異変に気づいたのだ。
「那桜ちゃんのカレが衛守さんだって信じた姉さんを、飯田さんはわざわざ焚きつけたんだよ。それなのにかばう?」
 那桜の云いぶんを察して立矢が話すさなか、その背後でドアが開きかけていた。



 拓斗が茶屋に行くと那桜は不在だった。真田郁美から経緯を聞いてすぐ、拓斗は人気の少ない非常口から外に出た。隆大と一緒とはいえ、いつになく胸騒ぎがするのは時限錠(タイムロック)をされた箱のなかに閉じこめられた気分のせいか。
 模擬店通りを避け、校舎の裏側を正門の駐車場方面に向かいながら、通話ボタンを押しては切ることを繰り返す。那桜に二回、隆大に一回。それから和惟と連絡を取り、端的に説明して隆大のほうを任せた。そして五回め、ようやく那桜に通じた。
『拓兄』
 のん気そうな――もしくは安堵という感傷のせいでそう聞こえるのか、いつもの拓斗を呼ぶ響きに苛立ちを覚える。
 一方で、那桜が故意にではなく本能で、自分を守るために人を欺くことも知っている。
 那桜と話す間、拓斗は電話の向こうの気配まで見逃すまいと足を止めていた。その声に怯えている様子は窺えない。ただし、微々たる緊張と奇妙なくらいの静けさが聴きとれた。
「那桜」
 拓斗の呼びかけに『全然平気』から始まって那桜はどこか陳腐な返事をした。拓斗は即座に歩きだす。電話が途絶えると、イヤホンマイクと携帯電話を接続して和惟を呼びだす。
「和惟、隆大は?」
『出ない。GPSの反応は構内で間違いない。那桜のも同様だ。おれもいま南館に向かってる』
 拓斗の意向を見越した言葉に、和惟が同じく憂慮しているとわかる。
「まずは実行委員室横の資料室だ。音を立てるな」
 当面は那桜の言葉のなかに一縷のヒントを得るしかない。
『わかってる。拓斗、中継車だ』
 和惟はそう促して電話を切った。拓斗は中継車の番号を呼びだして通話ボタンを押し、携帯電話は胸ポケットにしまう。コール音も鳴らないうちに中継車に繋がって、戒斗の声が『オーケー』と応じた。もう一度その言葉が繰り返されたことで和惟とも通信可能になったとわかる。

 駐車場を通り抜け、青南祭へ出入りする来場者の間を縫いながら、正門正面から奥へと伸びる道を横切る。往来を脱したところで、拓斗は和惟と戒斗のどちらにともなく事務的に喋りだした。
「隆大が受けた電話の相手は普通に考えて香堂立矢だ」
『だろうな。さっき実行委員を捉まえた』
 そう応えた和惟の姿がちょうど南館をまえにして右方向から見えた。拓斗は建物の影に入って和惟を待つ。
「それで?」
『予定よりは早い呼びだしだったらしい。けど、隆大への電話はほかの奴よりも十五分早い。フィナーレのスケジュール確認したとき、那桜と隆大のことは、少なくともそいつは見てないと云った』
「香堂はどこにいる?」
「見まわりだとかで不定だ」
 和惟が追いつき、イヤホンからと直の声が重なった。そこへ戒斗が割りこんできた。
『掲示板が動いた』
「それで」
『待ってくれ……那桜の写真がアップされた』
「すぐアクセス解析を取れ」
『もうやってる。けど、ちょっと状況が違う』
「なんだ?」
『那桜と並んで果歩ちゃんの写真もアップされた。どういうことだ? 依頼者は一人じゃない、二人になってる』
 拓斗は和惟と顔を見合わせた。しかめた顔は和惟も予想していなかったということだ。
「戒斗、とにかく削除だ。二人なら二人ぶん写真を埋めればいい。“念のため”が役に立ったってことだ。入れ替え――」
『いや……どういうことだ?』
 和惟をさえぎって戒斗は独り言のように疑問を口にした。拓斗は再び異変があったことを悟った。
「どうした」
『書き換えられた。こっちの思惑どおりだ。ターゲットは香堂有沙と果歩ちゃんだ。惟均は指示待ちしてるはずだ。なら、だれがやった?』
「解析しろ」
『オーケー。とりあえず那桜はこれに関して心配することはないな?』
「監視は続行だ」
『もちろんだ』

 拓斗と和惟は顔を見合わせて南館のなかに入った。いったん立ち止まり耳を澄ます。外からの賑わいが遠い残像のように漂ってくるものの建物内は静かだ。
 息を殺しつつ、委員会室のほうへと進む。一つ手前の部屋で足を止め、ドアのノブ側に拓斗、蝶番(ちょうつがい)のほうに和惟とそれぞれに待機する。耳をそばだてると、声はしないがかすかにこもった物音がする。ノブに右手を伸ばした和惟は拓斗を見てうなずいたあと、そっと、なお且つ素早くドアを開ける。和惟は躰を半回転させながら室内に入った。
 騒々しい音は立たず、すぐさま「オーケー」とつぶやく声が聞こえた。拓斗はなかに入って静かにドアを閉めた。
 資料室は、これまでの青南祭の記録がぎっしりと詰まった棚に囲まれ、中央にはばかに広い一枚テーブルがある。その脚もとに隆大は転がっていた。和惟がかがんでテーブルの下から引きずりだす。まず、ぐるりと後頭部まで巻かれたテープを頬のところで切って隆大の口を解放した。
「隆大、大丈夫か」
 隆大が喘ぐように息を継ぐなか、和惟は問いかけながら、次にぐるぐる巻きの手首の部分を切り裂く。
「すみません」
「那桜は?」
「立矢と一緒だと思います。有沙さんから那桜さんを守るためだと」
 それは賢明さを示すのか、隆大は拓斗がもっとも必要とする核心をついた。
「場所はわかるか?」
「はっきりはわかりませんが、足音は委員会室よりも奥に行ったような気がします」
「上出来だ」
 和惟がそう報いると、隆大はもう一度「すみません」と謝りながらも気落ちした様から凛々しく表情を変えた。
 拓斗はドアノブに手をかけた。
「さきに行く」
「ああ」
 先刻承知の返事を受け、拓斗は資料室を出た。

 少しの音も見逃すことのないよう、終始かすかな雑音が聞こえる左耳を無視すべく努める一方、拓斗は自分の鼓動を鎮める。鼓動と同じく急く足を制御し、壁を伝うようにして奥へと向かう。
 隆大が委員会室を除外したとおり、すぐ隣の部屋に音はない。もっとも、ここに監禁するほど立矢が無能であるわけはなく、拓斗の考えからしても委員会室は監禁場所としていちばんに除外された。その裏をかくということもありだろうが、青南祭の開催中ともなれば、委員が来ないとも限らない。
 ゆっくりと奥まで行っても特に異変は感じられない。そして、反対側に移動しかけたそのとき、くぐもった、しかし、はっきり人声と認識できる音を聴きとった。視界の隅に和惟たちの姿を捉え、拓斗は片手で制した。
 左耳から戒斗の報告が届く。
『掲示板の書き直しは香堂立矢のケータイからだ』
 拓斗は躰を斜めにかまえて右肩からそっとドアにつけ、しっかりとノブを握る。徐々に手首をひねっていき、ノブをまわしきったところで拓斗はいま一度耳を澄ます。男女と区別のつく声が二つ、その会話は続いている。どちらかというと男の声のほうが聴きとりにくい。となれば、監禁者はドアに背を向けている可能性のほうが高い。
 拓斗は慎重にドアを押していく。そして――。

 まっさきに見えたのは椅子に座った那桜だった。その瞬間、拓斗に生じた感傷は安堵よりは怒りだったかもしれない。

 *

 那桜の目は拓斗を捉える。
 拓斗は素早く室内の状況を把握しながら一歩を踏みだした。
「立矢先輩は大丈夫!」
 背後からその首をつかみとるや否や、悲鳴のような声が拓斗を制した。

 *

 那桜が叫んだ刹那、拓斗の瞳に浮かんだのは怒りだろうか。そう見まがうほど冷たく尖った眼差しが立矢の肩越しから那桜の瞳に突き刺さる。
 一方で、腕で首を絞めつけられた立矢は声を出すことすらできないほど愕然としていたが、事情を呑みこむ冷静さも残っていたらしい。那桜の叫び声で拓斗が動きを止めたように、立矢も抵抗することなく、逆に、引き剥がそうと本能で拓斗の腕をつかんだ自分の手をおろした。
「拓兄、わたしはなんともないよ」
 三人のなかでは那桜がいちばん動揺しているかもしれない。とっさに拓斗を止めたまではよかったが、躰がすくんで動くことすらままならず、やっとそれだけを口にした。電話のとき、確かにほのめかしはして、察してくれるだろうとは思ったものの、こうまで早く周到にやって来るとは思わなかった。
 拓斗は腕をほどき、そのかわり立矢の背を押しやった。つまずくようにしながら立矢は奥へと追いやられた。

「なんのつもりだ」
 云いながら拓斗は那桜に近づいてくると、膝にかけた立矢のジャンバーが落ちるのもかまわず腕を取って立たせた。拓斗が腕を離した瞬間に那桜はその手に自分の手を滑りこませる。
 拓斗が那桜の斜めまえに一歩を踏みだした。背後で足音がして振り向くと和惟だった。那桜の真横より半歩まえに出て並ぶ。
「事がすむまで、もしものために那桜ちゃんを安全な場所に置いておきたかっただけです」
「事がすむ? あの掲示板のことか」
 そう云った和惟を向いた立矢は、首を捕られたときよりも驚いたように見えた。
「ご存じなんですか……」
 立矢は力尽きたようにつぶやき、そしてため息をついてから続けた。
「おれがしたことはまったく不要なことだったようです。申し訳ありません」
 立矢はどこまで悟ったのか、拓斗と和惟を交互に見てそれから頭を下げた。
「どういうことだ」
「これ以上、姉に余計なことをさせないためです」
 その真意を探るためか、拓斗はその気配に威嚇を装てんして立矢と対峙する。
 息を詰めた那桜が苦しく感じ始めた頃、拓斗が繋いだ手を躰に押しつけてきて追い立てられるように廊下に出た。和惟が後ろを護衛してくる。

「戒斗、那桜は無事だ……ああ、続行だ」
 戒斗がどこにいるのか、どうやって戒斗と話しているのか、和惟は独り言のように云った。
 後ろを振り向くと、和惟は綿パンツのポケットから出した携帯電話を弄ってまたしまう。次に耳もとにやってからすぐ離した手にはイヤホンが見えた。それでやっとフリーハンドで話していたらしいとわかる。よく見たら黒いシャツの襟にごく小さい何かがつけられていて細いコードが下に伸びている。
 まえに向き直ると、廊下のさきにいる隆大が目に入った。
「隆大さん! 頭、大丈夫ですか」
「那桜さん、すみません。僕は大丈夫。頭のテープを取るのには痛い思いしたけど。ハゲてないかな」
「ぷっ。よかった」
 隆大は申し訳なさそうに、それから場を和ませるようにふざけて云い、追いついた那桜たちのあとに従った。

「拓兄」
「帰る」
 呼びかけただけでまだ何も云っていないうちから拓斗はさえぎった。止まろうにも拓斗が手を握っていて否応なく連れていかれる。もちろん、那桜を“連れて帰る”ということなんだろう。
「わたし、委員だし、最後までやらなくちゃ迷惑かけ――」
「その迷惑をかけたのはだれだ」
「でも! 立矢先輩は別にしても、ほかの人の信用なくしちゃう。ただでさえわがまま云ってるし――拓兄!」
 子供みたいに足を突っ張って、それでも拓斗が手を引き、那桜は転びそうにのめった。
「あっ」
「拓斗」
 和惟は左腕一本で背後から那桜のウエストを抱えこんで支え、右手で那桜の右手首をつかむ。
 那桜が訴えても聞かなかった拓斗は、和惟に呼ばれると立ち止まった。
 拓斗は和惟のかばうしぐさとそうされた那桜を見てわずかに目を細めた。そのままの表情で拓斗は那桜の瞳に目を留め、和惟に移動する。
「最悪の心配はなくなったわけだし、あと二時間だ。やらせてやってもいいだろう」
 睨めつけるような瞳は自分と繋がっている那桜の右手におり、そして拓斗は手を離した。まるではね除けられたように感じたのはその眼差しのせいだろうか。那桜はその心細さを払うように手を握りしめる。
「隆大、受け持ちはどこだ?」
「中央会館です」
 隆大の返事を受けて拓斗が背中を向けて歩きだし、和惟が那桜を押しだすようにして続く。

 大丈夫。
 あのクリスマスも、翔流に連れられて遊園地に行った日も、ひまわり畑に飛びだした日も、いまのように冷たく見えても、それが心そのままかというとけっしてそうじゃないことを知っている。根底には心配みたいなもの――違う、それだけじゃない、なんだろう、いくら考えても拓斗がCLOSERであるかぎり見ることのできない何かがあるとわかっている。
 その片方の心配がいまは消えたのだから、そのうち機嫌も直してくれる。それがいつものパターンだ。

 那桜は自分に云い聞かせた。が、そこでハッと息を止めた。心配はまだ終わっていない。立矢とは話の途中で終わってしまった一事があったことを思いだす。南館の外に出たところで賑わしい音が届いてくるが、那桜の耳には入ることなく、とにかく携帯電話を取りだして時間を確かめた。まもなく六時――約束の時間だ。
 どうしよう。その言葉が浮かぶと同時に、拓斗たちが掲示板のことを知っていながら、いまやまったく関心を持っていないことに気づいた。
「那桜」
 気を取られていて差しかかった階段から足を踏み外しそうになり、和惟が腕を取って注意する。那桜は短い階段を急いでおりた。

「拓兄、六時! 果歩が危ないの!」
 那桜は焦った気持ちのまま叫んだ。拓斗は止まらないことで意思を示す。
「和惟!」
 今度はすぐ横にいる和惟を見上げるとプラスティックスマイルを宿しただけで、それは実質上、那桜の()いを無視したということだ。
「和惟、果歩を助けなくていいの!?」
「どういう意味だ」
「だって……!」
 そのさきはどう云えばいいのか、何も出てこない。かわりに、矛盾、勝手、そんな言葉が浮かぶ。
「心外だ」
 和惟からすれば――那桜から弁えても、それは当然の気持ちだ。
 けれど、いまは事情が違う。それでも和惟には通じない。
「それとこれとは違うの」
 那桜が立ち止まると、背中に目がついているのではないかと疑うほどのタイミングで拓斗もまた立ち止まり、ゆっくりと振り返った。
「裏切られてショックだったんじゃないのか。そんな奴をなぜ助けなきゃならない? 罠の可能性だってある」
 どうしてこうも非情になれるのだろう。途方に暮れた。
「委員会の仕事があるんだろ」
 和惟は強引に話を打ちきった。

 隆大は気をつかって口を挟むことはなく、よって四人ともが黙りこむという不興な雰囲気のなか、六時から開催の人気恒例イベント「ミスター&ミスキャンパスのグランプリ発表」というアナウンスが大きく響き渡る。
 とぼとぼとするような那桜の気分は否定され、無理やりじみて中央会館へと向かわされる。その手前にある文学部一号館に差しかかった。那桜たちのクラスの茶屋は五時半までだったが、まだ終わっていないイベントもあって人の出入りは程々にある。
「お化粧室、寄っていっていい?」
 云いながらすでに那桜は校舎に向かった。
「もしかしてさっきは結局、行けなかったんだね」
「そう。隆大さんがヘマやるから」
 からかったはずが隆大は肩を落として嘆息した。
「あ、そういうつもりじゃ……」
「本当のことだ。今度、和惟さんに弟子入りさせてもらうよ」
 那桜が後悔すると、すぐに隆大がフォローしてほっとさせてくれた。
「ついてくるにはよっぽどの気迫が必要だ」
「もちろんです」
 那桜は三人を見渡して最後に拓斗を見つめ、首をかしげた。
「じゃ、ちょっと行ってくる」
 拓斗は反応を見せない。隆大の執り成しで那桜は何を疑われることもなく校舎のなかに入れた。案の定、三人ともがついてくる。
 普通ならトイレのまえではなく、校舎の外で待っていてもなんら差し支えない。というより、レディに対する礼儀ならトイレ近辺で待つというのは避けるべきだ。ただ、いまは尊重してくれなくてよかったと思う。フィナーレが始まったいま、トイレ待ちもいない。けれど生理的欲求(コールオブネイチャー)はもう通りすぎている。

 那桜は下駄を脱いで、隅にあるごみ箱の向こうに目立たないように置き、着物をたくし上げると手洗い場の縁にのる。人が充分に通り抜けられる窓を開け、(さん)に足を置くとよじ登った。急いだあまり、不安定に躰が揺れて落ちそうになったところをなんとかこらえる。
 そうしたところで奥から水洗の音、次いで鍵の開く音が聞こえた。薄暗くて想像したよりは高く感じたけれど、見られないうちにと急いで飛びおりた。コンクリートは冷たく裸足を跳ね返す。バランスを崩しながらもすぐに立て直して、那桜は一散に駆けだした。

BACKNEXTDOOR

* 親告罪 … 被害者の告訴がなければ起訴されない犯罪(名誉毀損罪など)