禁断CLOSER#70 第2部 破砕の扉-open-

5.迸出-Gush- -22-


「なんでおれだ、いまさら」
「困ることがないからよ」
「困ることがない?」
「そう。わたしにとって拓斗は完璧だから」

 黙りこんだふたりは、傍から見ればカップルが見つめ合っているようだ。那桜は叫びたくなる衝動に襲われ、くちびるを咬んだ。有沙の手が拓斗の肩に伸びてく。那桜みたいに必死で爪先立たなくても、十センチくらいありそうなハイヒールを履いた有沙は、きっとちょっと伸びあがるだけで拓斗の口もとに届く。
 有沙の手が拓斗の肩に触れたとき、息を呑んだ音を聴きとったかのように拓斗の瞳が有沙の頭上を越えて那桜へと向かってきた。もしかしたら気づいていたのか、まるで驚きもなければ、ただ普段どおりに射るように見て、その一瞬後にはゆっくりと目を伏せた。そうする余裕があるということは、いつか那桜がした出し抜けのキスのときと違い、拓斗がごく冷静であることを示している。
 それでも止めることはしない。
 有吏の会社で云ったこととあの公園でのキスは繋がっていて、それは約束で、誓いで、絶対に譲れないもので、拓斗には通じていると思っていたのに。
 那桜の目のまえでそうするのなら――まだ切る意思は消えていない。

「拓兄っ」
 有沙のピンヒールが浮いた瞬間、堪らず那桜は叫んだ。
 拓斗の瞳はまたおもむろに那桜を向いた。有沙は動きを止め、次には拓斗の右肩から左手を離して那桜を振り返る。
 有沙はほくそ笑んだ。那桜はそのしたり顔を見るか否かのうちに訴えるように拓斗に見入った。
 どうせ壊れるなら。
「拓兄っ、だめなの! 有沙さんとだけじゃない。だれとでもだめっ」
 それだけは許せない。
「拓斗、虚言なんでしょう。キスなんてできるはずよ。いまは気持ちがなくても。那桜ちゃんは結婚できないって知るべきよ、わたしと違って」
 有沙は拓斗へと向いているが、最後の言葉は疑うまでもなく那桜への当てつけだ。それに――。
『CLOSERのキスはわたしのもの』
 ブログに書いたそのままを日記にも書いた。その譲れない拘りを有沙は気づいているんだろうか。
「拓兄!」
「キスくらい、わたしは許してあげてもいいけど。挨拶がわり――」
「“キスくらい”ならしないで!」
 有沙に答えることのない拓斗は、那桜の声にも虚しいほど反応しない。ただ眼差しが那桜から逸れることがないだけだ。
「誓いの印ってキスじゃなかったかしら」
「拓兄はクリスチャンじゃないから!」
 有沙は呆れたように鼻先で笑う。那桜は縋るように拓斗を見つめた。
「拓斗、結着つけたほうがいいんじゃない?」
 決着をつけられるべきなのは有沙のほうだ。那桜は急いで拓斗に近づくと、有沙との間に割りこんで躰を押しつけた。那桜の力に逆らわず、あとずさりした拓斗の肩から有沙の手が離れ、背中が扉にぶつかる。
 躰が密着したまま首をのけ反らせて拓斗の瞳にしがみつく。
「拓兄。さっきのが最後でもいい。でも……。……だから!」
 那桜が希むことをわからないはずはない。拓斗は応えたはずだ。
 見下ろしてくる瞳にはぶれることなく那桜の顔が映る。
「拓斗」
 有沙の煽るような声が那桜の背中に降りかかる。それでもふたりともが微動だにしない。
 那桜の瞳を捕らえながら拓斗はいま、何を思って、何を得ようとしているんだろう。
「もういい」
 今日、二回目だ。その言葉の裏で拓斗がどう結論づけたのか、些細もわからない。
「……拓兄」
 問いかけるように呼びかけた刹那。

「姉さん」
「拓斗」
 打ち合わせていたかのように、背後から立矢、すぐ横の扉から和惟が同時に現れた。拓斗の手が那桜の肩をつかんで躰を引き離す。
「那桜ちゃん、席を譲ってもらっていいかな」
 立矢は拍子抜けするようなことを口にした。それとも頭が回っていない那桜が何か聞き漏らしたのか。那桜は訳がわからないままうなずいた。
「立矢、どういう――」
「姉さん、行こう。話したいことがある」
 立矢の一言でどう転換されたのか、有沙は了解とばかりに小さく息をつく。それから有沙は那桜を見て薄く笑い、拓斗を見上げて目を留めた。
「またね、拓斗」
「“また”はない」
「会わないわけにはいかなくなるわよ。立矢、案内して」
 有沙は艶然として身をひるがえした。
「那桜ちゃん、悪いね」
「……ううん」
 那桜が返事したとき、それを聞きとげたのか、立矢はすでに有沙に追いついていた。

「那桜」
 和惟が腕を取り、那桜をエントランスのほうに引っ張った。後ろを拓斗が来て、扉が閉まる音がする。
「拓斗、どうする?」
 和惟のたった一言は、穿(うが)ってみればすべて聴いていたことになる。
「変わりない。監視だ」
「おまえがあの女と行ったあと惟均から連絡が入った」
 場内へと行く正面入り口のまえに来て和惟は立ち止まった。続いて那桜、そして拓斗も足を止める。拓斗を見上げると和惟に向かっていて、目を細めてさきを促した。
「予告された」
 和惟の報告を聞いた瞬間、呼吸から瞬きまで、拓斗の躰の全機能が止まったような印象を受けた。拓斗の眼差しは和惟から那桜へとおりてきて留まる。そうしたまま拓斗は和惟に訊ねた。
「いつだ」
「今日、青南祭で」
 拓斗は那桜を捕らえて離さず、時間が止まったように静かになる。
 まずいことだとはわかっても何がなんだか、那桜にはさっぱり見当がつけられない。疑問をぶつけようと那桜が口を開きかけたとき、それをさえぎるように拓斗が沈黙を破った。
「やることも浅ければ固執物も単純だ。弱点はそこにある。証拠をつかむぞ。そうすれば落ちる」
 和惟を見やったのと、その目が那桜を向いたのはほぼ同時だった。和惟もまた那桜に目を留め、それから拓斗へと移した。
「証拠をつかむということがどういうことかわかってるんだろうな」
「標的をすり替えればいい」
「だれに」
 短く質問を放った和惟は真意を確かめるように拓斗を見据える。
「陥れようとする奴だ。“似てる”んなら、うってつけだろ」
 和惟は片方だけ眉を跳ねあげ、「上等だ」と吐いて笑った。
 笑うような話じゃないことは判断がつく。それどころか非情な雰囲気さえ感じる。
「なんの話なの?」
「独りになるなってことだ」
 那桜の問いには和惟が答えた。拓斗を見ると、ますます頑なに表情を無くしている気がした。

 場内に入って拓斗たちがいた場所に行くと、翔流が壁から躰を起こした。薄暗くてよくわからなかったが、那桜を認めた翔流は首をちょっと動かすという反応を見せた。
 那桜は拓斗の右手に自分の右手を重ね、指を絡めながら舞台へと躰の向きを変えて壁にもたれた。拓斗が手を引き抜くことはなく、那桜のお尻と壁の間でふたりの指は交互に絡み合う。
 合わせた手のひらの空洞に互いの体温がこもり、そのなかで発熱する。けっしてその熱が絶えることはないと思うのに、そこに閉じこめて、けっして表に漏らしてはいけない。
 わたしたちはどうなるの?
 いちばん訊きたいことなのに、何よりもしてはいけない質問。そうしたら、さっき口にした那桜の一縷の希みは酷く軽薄なものになってしまう。どうにもならないとわかっているから。

 *

 その後、舞台はスタンディングオベーションという最大の賛辞のもと幕を引いた。拓斗は何も云わなかったけれど、和惟は「いい出来だ」と、那桜や翔流と同じく拍手に加わっていた。
 そして、四人は余韻に浸るのもそこそこに中央会館を出た。翔流は、那桜とフィナーレで会う約束を確認してから勇基たちのグループと待ち合わせた場所へ、那桜は拓斗と和惟を伴い、クラスの催し物である茶屋へとそれぞれに別れた。
 那桜は文学部一号館の入り口で郁美と合流して校舎に入った。厨房と控え室を兼ね、茶屋の隣にある教室が準備室になっているのだが、まずそこで隅っこにある黒い幕に仕切られたスペースに行き、着付け担当の子に手伝ってもらいながら急いで(かすり)の着物に着替えていく。

 絣の衣装は、那桜のクラスが茶屋をすると知ったとたん、隼斗がクラス全員のぶんを手配してくれた。
 着物は日本三大絣の一つ、久留米(くるめ)絣といって福岡から取り寄せられた。紺地に白い蝶、帯の色はカーネーションピンクと可愛い印象の組み合わせだ。今日の青南祭フィナーレはみんなこの衣装のまま参加しようということになっている。
 今回のことではじめて那桜は知ったのだが、隼斗が、なのか、有吏一族引っくるめてなのかはわからないけれど、とにかく隼斗は伝統に関して重きを置く。いろんな技術に投資しているようで、着物という日本の民族衣装のなかで絣の伝統も守られるべきと考えているのだ。
 今時、絣というと絹より高価なことも多い。ただ、絣はあくまで普段着だから需要が少ないらしい。「良き文化を知るということはいい」と、絣を再認識させる意図もあって男女問わず下駄まで一式を奮発してくれたという次第だ。
 肝心の企画、茶屋は成功といっていいだろう。客がまったく途絶えるということはなく、特に那桜の当番時は最後ともあって入れ替わりが激しい。
 那桜はお茶の担当で、抹茶立てから配膳までと忙しく、団子担当の郁美とは話す暇もない。模擬店が終わるまで三〇分という五時近くになって、やっと交代で休む余裕ができた。
 休憩の割りふりで那桜と郁美はそろっていちばんめになった。

「ラッキー」
 郁美のうれしそうな声を背中に聞きながら、那桜は茶屋の戸に手をかけた。すると、那桜が開けるよりさきに外側から戸が開く。拓斗が目のまえにいて、那桜はびっくり眼で見上げた。
 和惟は音沙汰なしだが、拓斗はずっと廊下で那桜の身張り番をしていた。大学構内にいてもやっぱり那桜のことは監視下に置いておきたいらしい。通りすがる人からじろじろと――不審者扱いではなく目の保養だろうが、見られても気にするふうでもなかった。
 一方で、那桜はその過保護ぶりを不満に感じなくもない。大丈夫といくら云ってもきかないことは百も承知で、あえて抗議するという無駄なことはしないけれど。
「お団子食べる?」
「ちょっと用事がある」
「用事?」
「隆大がもうすぐ来る。独りにはなるな」
「わかった」
 那桜は少し口を尖らせて答えた。暗になんの用事なのか訊いたつもりが、拓斗は答えるどころか、自分の主張だけ押しつけた。
「拓兄、最後までいるんだよね?」
「ああ、戻ってくる」
「フィナーレのまえに委員会で集まるんだけど」
「時間はかからない。隆大から離れるな」
「だから、わかってる」
 会話が成立しているのかいないのかという応酬を終えると、拓斗は背中を向けて昇降口へと向かった。

「素っ気ないのに心配してるって、お兄さん一号って複雑だね」
 郁美がからかう。
「わたしだって複雑」
 準備室に入りながら、郁美はケタケタと笑った。空いた台に座って一息つくと、郁美が調理台から持ってきたよもぎ三個の串刺し団子を差しだした。
「ありがと」
「やぁっと落ち着いたって感じ。採算は取れたよね」
「うん、絶対ね。打ち上げ楽しめそう」
 受けとった団子を頬張ろうとすると戸が開いて、隆大が顔を出した。
「那桜さん」
「隆大さん、どうぞ。拓兄から聞きました」
 手招きに応じた隆大が入ってくる。と、そのとき携帯電話の着信音が鳴り始めた。隆大のものらしく、スタッフジャンバーのポケットから携帯電話を取って、すぐに話しだした。そのさなか隆大が那桜を向く。
「委員会室にすぐ集合らしい。抜けられるかな?」
「あ、ちょっと待ってください」
 立ちあがりかけると事情を察した郁美が入り口を指差す。
「あ、班長、いま来たよ」
 すぐ呼びとめて頼んでみると班長は快くオーケーを出してくれた。那桜が返事するまでもなく隆大はうなずいて電話の相手に伝える。
「たいへんだねぇ」
 那桜は郁美のつぶやきを聞きながら団子を一個だけ口にして、更衣スペースに置いたバッグを取りにいく。戻ってくる間に隆大は電話を終わっていた。
「隆大さん、一個」
 団子を目のまえに差しだすと隆大は可笑しそうな眼差しになる。
「遠慮なく」
 隆大が食べる間に、那桜は着物の上からスタッフジャンバーを羽織った。残った一個が戻ってきて串の側面からかじると、郁美が那桜の口もとを指差した。
「那桜ってやっぱり変わってるよ」
 郁美が呆れた声を出しながらも笑う。云われて気づくのははじめてじゃなく、それどころか繰り返してしまうのは那桜の鈍感さなのか。
「郁美ともやるでしょ。同じことだよ。親しくない人とはやらないし」
「まあね。でも勘違いのもと。ね、東堂さん」
「僕の場合、那桜さんに限っては勘違いすることはないけど。ただ、分け隔てないっていうか、那桜さんのそういう自由な感じはいいなって思うよ」
「自由? そんなのがわたしにあるとか思ったことなかった」
 那桜が目を丸くすると、隆大は肩をすくめて笑う。
「じゃ、那桜さん、行こうか」
「はい。じゃ、郁美、またあとでね」
「がんばって」
 郁美は手をひらひらと振って那桜を見送った。


 隆大とは青南祭の感想を話しながら南館へと向かった。外はすっかり暗くなっていて、模擬店の行列は照明のもと、いかにもお祭りという雰囲気になっている。
「フィナーレは弘志も――あ、綾瀬のことだけど、委員活動に加わることになった」
「胃潰瘍で入院してたっていう、もと委員長?」
「そう。こっちはプレッシャーかけちゃまずいと思ってるし、弘志は迷惑かけたって遠慮してる。立矢が気をきかせて間を取ったわけだ」
「そうなんだ。綾瀬先輩、がんばったんだし、いい思い出になってほしいからよかった」
「だな。委員会も雰囲気よく解散できそうだ」
 人込みを抜け、建物のなかに入ってドアが閉まると外の音が遮断される。下駄の音がやけに館内に響いた。玄関から二つめの曲がり角を折れて奥のほうにある委員会室へと廊下を進む。那桜たちが一番乗りなのか静かだ。

「でも、もう終わっちゃうのかって思うとさみしい感じ。なんだかもったいない」
「こういうことでも燃え尽き症候群あるらしいよ」
「わかるかも」
 那桜の即答に隆大は可笑しそうに吹いた。
「僕は那桜さんと会う機会がなくなるほうがさみしい気がする」
「逆かと思ってたけど」
「逆?」
「監視役、押しつけられてるからせいせいしたかなって」
「大丈夫。和惟さんみたいに戦うボディガードにはなれないけど、那桜ちゃんみたいに奔放だと自然と目が離せないってなってる」
 隆大はからかう。
「奔放?」
「そう。拓斗さんが頼朝なら、那桜さんは義経だな、って僕の偏見」
「それって、あんまり笑えないかも。義経は頼朝に殺されちゃうし」
 実際、その痕跡はしばらく那桜の首もとに残っていた。頼朝と義経の関係がもし劇の解釈のとおりだと考えるなら、モデルになった拓斗は、手をかけた瞬間に心底では那桜をどうしたいと思い、それまで――いや、いまも、那桜にどうあってほしいと願っているのだろう。

「あれ。やっぱりいちばんだ」
 ドアを押し開けてさきに室内に進んだ隆大がつぶやいた。
「じゃあ、わたし、ちょっとお化粧室に行ってきます」
「ああ。気をつけて」
 お手洗いだと察した隆大はさすがについてくるとは云わなくて、那桜はほっとする。すぐ向かいにあるから心配するには及ばないだろうが――と、そこまで思って委員会の集まりが早くなったことを拓斗に連絡しておくべきだと気づいた。
 帯の間に入れていた携帯電話を出しながらお手洗いへと躰をくるりとまわして一歩、背後でドアが音を立てて閉まった刹那。机か椅子か、もしくは両方が倒れるような音が振動さえ伴ってびっくりするほど廊下に響く。けたたましさに紛れて叫び声が聞こえたのは気のせいか。
「隆大さん!」
 考えるより早くドアを押した。けれど、何かがつかえて開けきれなかった。勢いのあまり那桜の肩がドアにぶつかる。
「痛っ」
 小さく叫びながら顔をうつむけると、倒れた長テーブルや椅子のなかに紛れて靴が目に入った。ドアを開けるのを邪魔したのは、隆大のものであろう、床に伸びた脚だった。それが目のまえで引きずられるようにしてドアの死角へと消えそうになる。
 那桜はすき間から素早く室内に入った。脚に押されてドアが閉まる。
 そこにいたのは隆大だけではなかった。床に倒れた隆大の頭上でうずくまるようにしていた人影が立ちあがる。

「……っ……立矢先輩!?」
 ドアが閉まり、ドアノブに立矢の手がかかったかと思うと、ゆっくりと鍵がかけられた。呆然としているうちに立矢が手にした布テープを見せつけるように掲げる。
「那桜ちゃん、奥に行って」
 立矢は長テーブルの向こうを指差した。喋るという機能が利かず、那桜はかすかに首を縦に振り、あとずさるようにしながらテーブルを回って奥に行った。
 それを見届けると、立矢はまたかがみこみ、隆大の口、背中に回した両手首、そして足首を布テープでぐるぐる巻きにした。まったく抵抗しない隆大が、少なくとも気絶しているということだけは判断した。
 立矢は立ちあがり、那桜へと近づいてくる。足がすくんで逃げられない。そのかわり、貼りついたような舌をやっと動かして問いかけた。
「立矢先輩……何……してるの」
「姉さんのためだ」
 那桜が見誤ったのか、それは信じられない言葉だった。

BACKNEXTDOOR