禁断CLOSER#69 第2部 破砕の扉-open-
5.迸出-Gush- -21-
廊下を少し進んでステージに近い入り口のまえに来ると、拓斗が手を離しかけた。那桜はすり抜けるまえに素早くその手に縋った。引き止める手から那桜の顔へと拓斗が視線を上げてくる。
「拓兄」
「なんだ」
「果歩に手帳を見られたの」
独りうだうだして迷っていたけれど、昨日やっと決心がついたように拓斗にはやっぱり云っておくべきことだ。黙っていることで対処が遅れるよりも伝えておくことでなんらかの善処ができるなら、そっちのほうがふたりの延命措置になる。それでももう手遅れかもしれない。そう思うと、那桜の躰が内部からかすかにふるう。
「どこに問題がある?」
「拓兄とのこと書いてる。見られたっていうよりはすり替えられてたの。いまは返してもらってる」
那桜は口早に告げた。拓斗が口を開くまでに五秒を数えるくらいの間が空いた。
「和惟か?」
拓斗は片時の間に言葉足らずな那桜の説明のなかから経緯を見当つけて、あのLL室にいた理由とすぐに結びつけたようだ。そして、拓斗は再び訊く――いや、問いただす。
「なぜ和惟だ?」
那桜にとってその質問は場違いに思えた。第一に話させてくれなかったのは拓斗だ。
「果歩のことは和惟のほうが――」
「そういうことじゃない」
那桜をさえぎった拓斗の声はいつになく鋭く響く。
何?
問うこと自体が気に喰わないことを示していて、さらにいまは怒っているようにも見えて那桜はすくんだ。
「……拓兄」
呼びかけた直後、拓斗は首をひねってそっぽを向いた。それよりは目を逸らしたのかもしれない。
「もういい」
引き止めるということに考えが及ばないうちに手が解かれる。拓斗が扉の取っ手をつかむ寸前ハッとして、那桜はドアが開いてしまうまえに急いで拓斗の正面にまわりこんだ。
「拓兄、時間……拓兄との時間、大切にしたいから書いておこうって思ったの」
先刻までの会話とは咬み合っていない告白をしたあと、那桜は拓斗の肩に手を置いて爪先立った。顔を上向けても顎までしか届かない。
「拓兄」
囁いてみると拓斗が目を伏せ、那桜の見上げた瞳と焦点を一致させる。那桜の声を聞いているだけじゃなく、いま、その目は那桜を捕らえるようになった。
精いっぱいで伸びあがり、拓斗のくちびるに口づけた。反応するのは声だけじゃない。くちびるも同じだ。力尽きて踵が落ちていく間、拓斗のくちびるは那桜を追ってくる。
踵が地に着いてキスは行き止まり、ゆっくりとくちびるが離れる。そうしても眼差しは逸れることなく、那桜の安堵した気持ちは笑みとなって零れた。見おろしてくる瞳はさらに瞼に隠れて、おそらくは那桜の口もとに目を留めたあと逸れた。
拓斗は取っ手を引いて扉を開き、那桜をさきに通した。
場内は照明が煌々としてまだ明るかった。那桜は隅々まで一通り見渡す。和惟と翔流はいちばん後ろの壁際にいるのを探し当てたが、有沙の姿は見つからない。
立ち止まった那桜の背中に手を当てて拓斗がさきに行くよう促すのと、立矢がこっちだというように手を上げるのはほぼ同時だった。
那桜が背後を振り仰ぐと、その視線の向きから拓斗も立矢に気づいたのがわかった。
「拓兄、どこにいる?」
「後ろだ。和惟といる」
ひとまず那桜はほっとした。
有沙のことは問題にならないということを承知しているけれど、それでも拓斗に近づかれるのは嫌だ。和惟たちといるのであれば、少なくともふたりきりという状況は避けられる。
階段になった通路の壁沿いも人が連なっていて、往来が絶えないなか、拓斗からかばうように背中を支えられて那桜は壁際の階段を上った。十列めの端に確保された委員席まで着いたところで拓斗の手が背中から離れた。拓斗は立矢をちらりと見ただけでそのまま座席と人に挟まれた間を上っていく。
立矢は端っこに座っていてその一つ隣を示したが、奥につめてもらって那桜は通路側に座った。立矢の向こうにいる委員二人と挨拶を交わすと椅子の背にもたれた。
「青南祭、大成功で終われそうですね」
「だといいね」
「……どうかしました?」
立矢の声は淀んで聞こえ、那桜は背を起こして覗きこんだ。
「姉さんだよ。なんで今日に限って出てくるんだってこと」
立矢は声を落として窺うような目を那桜に向ける。さっき廊下で別れる間際、那桜に目を留めたのは警鐘だったのかと思うくらい、立矢の面持ちは深刻そうに見えた。
「……来る予定じゃなかったってこと?」
「拓斗さんが来ないって云ったらしいから」
那桜はつと首をかしげた。
「立矢先輩って……ほんとは有沙さんと仲いい? いろんなこと話してますよね」
立矢は鼻先で笑った。
「姉さんが気取らずに話せるのはおれだけだし、いざというときに利用できる下僕だと思われてるから。それより、飯田さんと何かあった?」
「……どうして?」
那桜は目を丸くして立矢を見つめた。そうしたことで立矢は確信を得たようだ。立矢の口から悲観したようなため息が漏れた。そして、那桜の疑問には答えず質問を重ねた。
「何があった?」
「……果歩とは……決定的にだめになっただけ」
「衛守さんのことは?」
「それがだめになったから、わたしと果歩もだめになったの」
「わかった」
何がわかったのか訊ねようとしたときブザーが開演を知らせ、場内が一斉に静まり返ってしまって訊くことはかなわなかった。
いつになったら有沙のことから逃れられるんだろう。
照明が落ちる寸前に後ろを振り向いて拓斗の姿を認めると、目が合った気さえして、那桜のもやもやした気分も少し安らぐ。
まもなく幕が開き、那桜はまえに向き直って姿勢正しく椅子に納まった。自分から挙手した仕事だからこそ、プライヴェートなことでいいかげんにはできないと云い聞かせる。ステージに意識を集中した。
最終公演となった舞台はさすがに阿吽の呼吸で進み、飛び交う台詞も滞ることがなく、ごく自然にリズムさえ感じて入りこんでくる。リハーサルを見た那桜ですら、つい引きこまれるほど巧みな掛け合いだ。
舞台の源頼朝は、冷徹ではなく生真面目な人物として描かれている。そう解釈したきっかけは“平治の乱”後からの出来事に始まる。
頼朝の父親が平家に敗れ、その際、頼朝は伊豆に流刑となった。そこで監視役、伊東祐親の娘と恋仲になり、それをあぐねた祐親はふたりを裂いて、北条時政に頼朝を委ねる。そして、またそこで時政の娘である政子と恋仲になる。北条時政は平氏一門の父親を持ち、ましてや、親子ともども祐親からあることないこと吹聴されていたにもかかわらずだ。
女性だけではなく、頼朝は北条の嫡男までをも御方につけた。それによって当時ではあり得ない恋愛結婚で頼朝と政子は結ばれている。
敵対の間柄を超えて人を動かす。それは、律儀な真面目さゆえだったのではないかと解釈された。それを示す後日談もある。
のち、平家は滅亡するが、平清盛の継母、池の禅尼の息子一族はその後も存続している。なぜなら池の禅尼は、平治の乱後、慣例ならば斬首されるはずの頼朝を助けた人物だったからだ。
ほかにも、弟である義経との間に馬に纏わるエピソードがある。
馬を引くような下の仕事を与えられて義経は立腹したという。これは、裏を返せば、身内であろうとひいきをしないという、頼朝は上に立つ者として理想的な考えを持っていたのではないか。
何かと義経を敵視していたとされるが、それは常識を度外視した奔放な義経の行動に因るもので、ひょっとすれば頼朝は敵視していたのではなく、義経が自らで気づくようあえて辛辣に接し、意識改革を求めたのかもしれない。
平氏追討の際、頼朝の命で武士が集結することはあっても、いざ朝廷からの頼朝追討を任されたときに、同士のはずである武士たちは義経の呼びかけにほとんど集まらずに果たせなかった。人格の差がそこに現れている。
結果、頼朝に見えるのは真の英雄の姿だった。頼朝が信頼のおける魅力的な人間であり、もしかすると、敵になる娘たちが惹かれてしまうほど義経にも劣らぬ美男子だったかもしれない。
そうなると、拓斗は頼朝のイメージそのものだ――ということになったのだ。
そこまでは那桜も異存はない。が――。
場内には時折、失笑が漏れる。
真面目さを前面に押しだしたために、頼朝は冗談がまったく通じていない人になっていて、だれかがジョークを飛ばすたびに頼朝は固まってしまう。困ったしぐさからは滑稽な様さえ窺える。
上演の全体から見ればほんの一握りのシーンであり、笑いも好意的で、ともすれば頼朝に愛着さえ湧くだろう。
とはいえ、拓斗が――いや、頼朝なのだが、笑われるのは嫌だ。拓斗はけっして困ったしぐさも表情も見せないけれど、妹としてなのか、その立場を超えた気持ちがあるからなのか、とにかくそこだけは認められない。
「那桜ちゃん、みんなが笑ってるとき、那桜ちゃんだけしかめ面だって気づいてる?」
前半が終わり、背景が変わる幕間になって立矢が可笑しそうに声をかけてきた。その口振りからどうやら立矢は那桜の心情を察していそうだ。
後ろを振り向いていた那桜は立矢に視線を移した。
「真剣に見たいだけです」
ますます立矢はおもしろがった。
「大丈夫。だれも拓斗さんがあんなへなちょこな顔するとは思ってないよ。あくまで舞台効果だ」
「あくまで源頼朝です」
那桜が訂正したとたん、立矢は吹きだした。
「確かに」
「立矢先輩、有沙さんは帰ったんですか?」
「知り合いに会ってくるって云ってどこか行ったけど……」
立矢は何かを示唆するように言葉尻を濁した。
「有沙さん、『あとで』って拓兄と約束してるの?」
声を潜めて訊ねてみると、「那桜ちゃん」と低い声が警告を促す。
「立矢先輩?」
「それは姉さんの願望だろう。拓斗さんも衛守さんも来てるから大丈夫だろうけど、さっきの続き、今日はふたりから離れちゃだめだよ」
「……。大丈夫。逃亡したことあるけど、全部捕まっちゃったから」
ちゃかした那桜を見て立矢は呆れたように首を横に振った。
そのとき、場内が暗くなり始めると同時に幕が開いていく。
また那桜は後ろを振り向いた。瞬間、目の隅に場内から出ていこうとする“拓斗の背中”が見えた。拓斗がいるはずの場所を確認しようとしたが、暗くなってしまって確認できない。
見間違えるはずはない。それに、拓斗のすぐまえにいたのは有沙だった気がする。
「立矢先輩、ちょっと席を外します。お化粧室」
理由を添えて立矢の返事も聞かないうちに那桜は席を立つと、ここに入ってきたときと同じ前方の扉から廊下に出た。背後から一発目のセリフが追いかけてきてフェードアウトする。
音をなるべく立てないように注意しながら足早に出口に向かった。すると、今度は有沙の声がフェードインする。
「……って嘘じゃないわよね?」
「このまえ云ったことに嘘はない。有沙さんもわかってるだろう。“普通”じゃない」
声がはっきり聞こえるにつれ、那桜は歩く速度を落とした。
「でも」
有沙は一言で切った。云いたいことはあるという、いかにも意味ありげなイントネーションだ。不自然なくらい沈黙になる。拓斗はなんの反応も示していないのか、首をひねって催促したのか、さきに口を開いたのは有沙だった。
「手に入れたのよね」
何を? と思った那桜よりワンテンポ遅れて拓斗が同じ言葉を発する。
「何を」
「日記、かしら」
拓斗たちの姿が見えるかという数歩手前、那桜は思わず足を止めた。建物の造りのせいか、残響を伴っていた声は急に鮮明になって聞こえ、那桜は考えるよりさきに血の気が失せた気がした。
「なんのことだ」
「これよ。さっき“知り合い”から親切に届けられたの。“拓兄のキスは不器用でわたしのなかに入るときは少し乱暴で”……」
不必要にゆっくりと読みあげられる。走っていって有沙の口をふさぎたい衝動とは裏腹に脚はすくんでしまっている。
それは確かに那桜が手帳に書いた文面だった。違うのは別称が実名にすり替えられていること。
果歩が那桜に対して決別という選択をしたことが明確にされた。
「もういい。だからなんだ。虚言癖だ」
「そうはいっても拓斗、“わたしはそれが嘘だとわかっても”みんながみんなそう思ってくれるかしら、ってことじゃない? 云ったでしょう。スキャンダルには気をつけてって。きっとご両親に伝えたら、“決められたこと”も破談にしてもらえるわね。拓斗からそうしてくれたら、ご両親に伝える必要もなくなるんだけど。スキャンダルにはならないでしょう? だって、わたしがいる以上、那桜ちゃんの日記は嘘にしかならないんだから。提供もとはわたしが潰してあげるわ」
有沙の悦に入った声が耳のなかでわんわん響く。
どうしよう。
蒼ざめた以上に那桜の躰全体が冷や汗をかいた。震えているかもしれない。
“みんな”ならまだいいのだ、たぶん。けれど、両親に知れたら。
有沙が持っているのが、名だけすり替えられた手帳のコピーだとしたら、詩乃なら間違いなく那桜の筆跡だとわかるだろう。コピーじゃないとしても、もしかしたら“まさか”と切り捨てるよりも疑惑を抱くかもしれない。“仲がよくなった”ことは知っているから。
全部がガタガタと崩れていく。
怖いのはなんだろう。考えてみた。なのに、頭のなかがぐちゃぐちゃして何も出てこない。
「拓斗、キスの仕方を教えてあげるわ。キスしないのは潔癖症みたいなものだと思ってたのに、やっぱりはじめてだったから? でも、いまはもう拒否しないわよね?」
拓斗が無言でいることすら判断がつかないまま、有沙の嫌らしい笑みが浮かんでいそうな声が届いた。最後に付け加えられた言葉は脅迫の締め括りだ。
嫌だ。
無言が続くなか、那桜はとっさに歩きだした。同時にタイミングよく那桜の足音を消すように、拓斗はおよそ一時間まえにした質問を繰り返す。
「何が欲しいんだ?」
五歩も進むと緩いカーブを曲がったさきに拓斗の顔と有沙の背中が見えた。舞台裏への廊下とエントランスを仕切る両開きの扉があって、その廊下側に、つまり那桜の側にいる。上演中のいま、人目は避けられる場所だ。那桜は再び立ち止まる。
「拓斗」
忍び笑うような声が一言で答えた。
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* ここで出てくる源頼朝については、資料を拾い集め、作者の偏見をもって解釈されたものです。
当然、一般に認識されている人物像とは異なることをご留意ください。