禁断CLOSER#68 第2部 破砕の扉-open-

5.迸出-Gush- -20-


 拓斗が立てた音と那桜の鼓動音が加勢して、耳の機能はおかしくなっている。
 何を見たのだろう。まっすぐに射る拓斗から目を離せない。
 立ち尽くした那桜を動かしたのは和惟だった。
「那桜、行け」
 背後から囁き声がした。やっぱり耳がおかしいのかもしれないと思う。なぜなら、その声は励ますようにやさしく聞こえた。
 振り向くとそこには、『変えることを宿命にすればいい』とそう云ったときのなだめるような表情があった。
 和惟のやることは矛盾の連続で、那桜にはまったく理解できないで戸惑わされる。ほんの十分もたっていない間に態度はがらりと邪険に変わって、またもとに戻った。
 性愛にのめっているまで、和惟は遠慮なく甘えて甘やかしてくれるすべてに寛容な従兄だった。従兄妹同士の関係を越えたときもその延長で、だからただの性愛のつもりで、そこから(セックス)という言葉を外した感情があったのかどうかはわからない。違和を感じるようになって――その理由が、いまでは和惟が詩乃を見ていたからとわかっているけれど、そのときから離れようとしたとたん、和惟は“愛している”と吐きながら執着と残酷さを示威して弄し始めた。
 那桜がやらないなら――和惟は何をするのだろう。
 上半身をねじるようにして自分を見つめる那桜の背中に手を添わせ、和惟は軽く押した。
 那桜はつまずくように一歩を出し、その勢いに手伝われて早足で入り口に行った。その間、拓斗の目は和惟にあり、那桜が目のまえに立ち止まってようやく視線が合わせられた。
「拓兄……来てくれたの?」
 わかりきったことを訊ねると拓斗はまた和惟を向く。
「和惟、気が向いたら、と云ったはずだ」
「拓斗、おまえは今後の有吏にとってのキーパーソンだ。疎かにはしない。けど、忠臣は二君に(つか)えない。無論、おれの主君は一人だ」
「何を考えてる」
 拓斗はわずかに目を細めて不穏さを表に出した。対して和惟は薄ら笑う。
「愚問だ。おれは常に那桜のことを考えてる」
 半ばパニック状態にいる那桜は、ふたりの会話がなんのことかよくわかっていない。和惟の放言のあとは、ただ緊迫した無言の時間が過ぎていく。
 最初に動いたのは拓斗だった。見上げた那桜に視線を落とし、その目はさらにくちびるまでおりてきた。
 拓斗の手が上がってくるのが見えると、那桜は条件反射のように首をすくめる。手のひらがくちびるを覆う。そうする意味がぴんとこないうちに、撫でつけるようにして手は離れた。
「拓兄」
 無意識で名を呼ぶと、拓斗はなんの反応もなく階段のほうへと向きを変えた。背中がだんだんと離れていく一方で、後ろからは足音が近づいてくる。
 また動けなくなっていると、ふいに拓斗が立ち止まり、振り向いた。
「昼を食べてない。案内しろ」
 一瞬、そんな簡単な要求も把握できなかった。拓斗が首をひねって、それではじめて促されていると気づく。
「はい」
 従順だと示すとき専用の返事をしたあと、那桜は急いで駆け寄った。
「隆大さんのところの野菜カレー食べたいの。時間が合わなくてまだ行ってなかったから。いい?」
 遠慮がちに云ってみた。少なくともだめだという返事はなく、了解と受けとっていいのだろう。拓斗に伸ばした手はほどかれることなく、那桜はその手をしっかりとつかんだ。

 *

 隆大のところへ行くと食事時でもあって大盛況だった。順番待ちの人だかりができている。
 戒兄のバンドは見逃したくないし……と迷いながら向かっているとタイミングよく隆大が出てきた。果たして、那桜が行くかもしれないと云っていたせいか、それとも、三人が――いや、正確にいえばふたりが目立っているせいか。
 少なくともふたりがいたから、こっそりではあったけれど順番を無視してまでも優先された。そんなふうに優遇されるとき、那桜が心苦しさを覚えるのと違ってふたりは当然として受ける。それがいま時点の戒斗だったら隆大の申し出は断ると思うのに。おかげで昼食にはゆっくりありつけたし、戒斗を見るにも余裕で間に合ったけれど。
 昼食を取ってすぐ行ったさきの屋根付きのメインステージ会場は、ぎゅうぎゅうというほどではないけれど割りこむにはひんしゅくを買ってしまいそうに人が多い。そこを助けたのは、あらかじめ行く時間をメールで知らせていた郁美だ。
「那桜、こっち!」
 郁美はステージの真正面辺りをキープしている。人垣を潜るようにして那桜を発見したのか、背の高い拓斗たちが目についたせいか、郁美は演奏の合間に恥ずかしいくらい大声で叫びながら万歳した手をぶらぶらと振る。その後ろに苦笑いしている翔流と勇基が見えた。
 那桜の手を取り、人垣のなかを率先して入りこんだのは拓斗だ。普通なら波縫いのように進まなければならないところを、二年まえのクリスマスの買い物のときと一緒で道が開くから不思議だ。背後は背中に手を添えた和惟がかばい、那桜はだれにもぶつかることがなかった。
「こんにちは、お兄さん、衛守さん」
 郁美は屈託なく呼びかけた。
 まったく物怖じしないのは郁美の最もすごいところだ。和惟は問題ないとして、今年の二月にあったエスケープ事件では、那桜を捕まえにきた拓斗からこっ酷く冷たい目を向けられたのに、郁美はめげることもなく、それどころか拓斗の目のまえで『また行こうね』とあっけらかんとして誘ったのだ。いまも、拓斗のうなずくだけという無頓着な挨拶返しを気にしているふうでもない。
 男同士の挨拶交換は、すぐ演奏、ヴォーカルと入って、目を合わせるだけで終わった。
 リズムを取るベース音だけだったライヴ会場は、隣同士の会話も難しいほど大音響に包まれる。
 遠くからでもそうだったが、近くで聴いてもけっして雑音じゃなく、うるさいとは感じない。少なくともヴォーカルは抜群だ。低音から高音へ移るときのちょっと裏返るような声が特徴で、色っぽい印象を受ける。確か、この一番手のバンドは青南祭が始まってすぐトラブルがあって、ヴォーカルはピンチヒッターだ。本来ギタリストらしいが、歌うのもうまいし、那桜は好きだと思う。
 ライヴ参加もほかのイベント同様、先着順の申請でステージに立てるわけではなく審査がある。実行委員なり立てのときにそれを教えられて那桜は驚いた。それゆえに青南祭のバンドライヴは好評なイベントの一つだそうだ。いまのバンド一つを見ても、那桜は充分に好評を納得できる。
 最初のバンドがラスト曲を終わって、入れ替わりの合間にFATEの紹介がなされる。リーダーの戒斗から航、食堂で見かけただけの良哉、それから最後に紹介されたヴォーカル兼ギタリストの名は、ユーマの本名だろうか、“カンゼ”と云うだけに終わった。
 真っ黒のサングラスをかけたユーマはテレビに出る人ではないから、メジャーアーティストだと知っていても正体不明に感じる。ただ、絶対的にバイオフォトンが違った。四人セットで見ると、那桜の身内びいきなのか、まえのバンドに比べて存在感が際立っている。
 ステージ上では笑った顔も覗けて、観客側にも楽しんでいそうな雰囲気が伝わってくる。ちょっとした音の確認をそれぞれにやったあと、戒斗たちは顔を見合わせてうなずいた。
 直後、航がドラムスティックでリズムを取り始め、そして一気に音が満ちた。ヴォーカルが加わってみると、ユーマの歌い方は聴き慣れたものとは違う。見破る人はいないだろう。
 素人なりだが、ユーマの実力を差し引いても、この春に結成したばかりというのに音の安定度が高いと感じる。戒斗が自ら宣言したとおり、ただの趣味で終わらせるつもりではないことは確かになった。
 あとがやりにくいんじゃないかというインパクトを振りまいて、FATEは二曲だけというのが惜しいほど早く終わってしまう。それは那桜のひいきじゃなく、怒涛のような歓声が証明している。ユーマと渡り合えるようなギタリストとヴォーカルがそろったら、というFATEの未来を那桜に予感させた。

「那桜、ちょっと……じゃなくて、とにかくお兄さんバンドすごいよ! って、あれってだれだったの?」
 郁美が興奮冷めやらぬ声で叫ぶように訊ねた。ステージ上は次のバンドに変わったが、翔流と勇基もその表情に満足そうな余韻を残している。
「今日まで内緒」
「ええぇー」
 那桜が人差し指を立てて口に当てると、郁美は不服そうに口を尖らせた。
「すごくよかった。ね、拓兄」
 すぐ傍らに立つ拓斗を見上げると、那桜たちのような感動という余韻は欠片も見られない。拓斗はお決まりの首をひねるというしぐさで那桜への同意を避けた。
 もっとも、同意とかそんな期待はしていなかった。拓斗が音楽を聴いているところは見たことがないし、車のなかでもラジオすら聴かなくて、那桜が操作したりCDを持ちこまなければ何も音がないという始末だ。
「戒斗が目立ちたがりとは知らなかったな」
 拓斗のかわりに和惟がおもしろがって答えた。
 それからFATEの二つあとのバンドが始まる頃、戒斗が那桜を探してやってきた。手を取られて人のなかを抜け、拓斗と和惟が伴う。
「那桜、どうだった。進歩しただろ」
 戒斗は開口いちばん、那桜に感想を求めた。
「わたしのおかげでしょ?」
「はっ。いい音、聴かせてやっただろ。いつになったらチャラになるんだ」
「そのうち」
 戒斗は片方だけくちびるを上げて笑い、次の瞬間にはちょっと真面目な様に変わった。
「話、変わるけど、おれたちのまえのバンドはコラボだって?」
「え?」
「歌ってた奴を探してる。終わったあとに捕まえたかったけどバンドごといなかったんだ。司会に聞いたら、伊東高弥って名前しか知らないって云うし。青南の奴だろ? どこの学部だ。何年?」
 戒斗は矢継ぎ早に質問をしてきた。めずらしくハイな感じだ。
「あ、えっと……わたしと同じ一年。たぶん……法学部だったと思う。もともとはギタリストなんだよ。ヴォーカルの人がのど痛めちゃったとかで、ぎりぎりでヴォーカルまで引き受けたみたい」
「助かった。おまえにはまた借りができたみたいだ」
 戒斗はいますぐ探しにいく気満々に見える。だからこそ、那桜のところへ来たんだろう。そして、戒斗は拓斗を向いた。
「つまらなかったか?」
 戒斗の挑むような問いかけを受けて、拓斗はさっきのように首をかすかに動かした。返事しないかと思いきや。
「父さんを説得するにはまだまだだ」
「わかっている」
 戒斗はおもしろがって答え、そのままの表情を那桜に向けるとさらに可笑しそうな顔つきなった。那桜自身も少し――いや、かなり拓斗の意見には驚いた。まるで認めているみたいな云い方だ。
「とことんやればいいんだ」
 そう煽ったのは和惟だ。戒斗の反抗期みたいな行動をどう思っているのか、いままで聞いたこともなかったけれど、どうやら和惟は肯定的らしい。
「そのつもりだ」
 はっきり宣言すると、戒斗は躰をかがめて那桜の耳もとまで顔を寄せてきた。
「がんばってるらしいな。もうちょい行けよ」
 戒斗は無責任に那桜をけしかける。なんのことかは問い返すまでもない。
「じゃあな」
 戒斗が躰を起こして軽く手を上げたその刹那。
「あー、お兄さん二号さんっ、握手をしてもらっていいですか」
 と、郁美がまたもや恥ずかしげもなく呼び止めた。戒斗は苦笑いしながら自分に向かって差しだされた手をちらりと見おろす。
「おれと?」
「そうです。未来のゲーノー人でしょう?」
「なるほど」
 戒斗は口を歪めて笑い、ゆっくりと握手に応じて、二回めとなる「じゃあな」を云ったあと立ち去った。

「やっぱり気取ってなくていい感じ」
「わたしもそう思ってる。三年まえだったら握手なんてきっと無視されてるよ。っていうより近づける雰囲気じゃなかったかも」
「へぇ。果歩もそんなこと云ってたよね……って思いだした。那桜、果歩はどうしちゃったのかな。ライヴ見たいって云ってたのにメールしても連絡ないし、見当たらないし……」
 果歩の名が出たとたんに那桜の顔が曇ったのを見逃さないで、郁美は考えこむように言葉を途切れさせる。少しの間を置いて首をかしげながら続けた。
「那桜には連絡あった?」
 翔流も郁美と似たような面持ちで那桜を見つめる。
 斜め横に立つ和惟を見上げると、わずかにその顎を突きだしてみせた。隠さないでもいいという合図だろうか。
「連絡っていうか……会ったの。それで……ちょっと揉めた」
 ちょっとという表現ではすまない。もしかしないでも果歩とはこのまま離れることになるだろう。
 拓斗は何か思い当たった節で那桜から和惟へと目を向ける。LL室で何があったのか、まだ触れないほうがいい気がして、つまり、拓斗は本当のところを知らない。
 翔流は顔を険しくして、郁美はますます首を傾けた。
「揉めたってケンカしたってこと? おかしいとは思ってたけど……何が理由?」
「郁美には話せないことだよ。郁美は普通に果歩と付き合っていいの。わたしと果歩の問題だから」
「でも、この時点でメール返ってこないってことは、果歩はわたしたち丸ごとと付き合う気ないのかも。もともと、わたしは那桜を通して仲良くなったわけだし。わたしが果歩だとしたらそうなると思う」
 ついさっきまではしゃいでいた郁美は、一気に声のトーンを落とした。それから慮ったようにため息をつく。それは那桜にも伝染した。
「ごめんね」
「わたしは何もわからないし、何かされたわけでもないし、だから、那桜がわたしに謝ることじゃないでしょ。わたしはわたしで、果歩とはなるようになるよ」
 郁美はいつものことながら前向きに答えた。
「那桜、舞台まで二〇分切った。行くんだろう?」
 和惟がうっ結した気配を振り払うように口を挟む。
「あ、うん。郁美はこっちにいるんだよね?」
「うん。わたしは昨日、観たから。また観ていいくらいおもしろかったけど、もっと多くの人にも観てもらいたいかなって感じ」
「じゃあ、また当番のときだね」
「オッケー」
 手をひらひらさせて、郁美は勇基と一緒に奥に入っていった。一方で残ったのは翔流だ。
「おれは一緒に行く」
 そう云った翔流は拓斗と和惟に順番に目をやり、何も異存がないと判断して那桜に目を戻した。
「行こう」
 偶然なのか、翔流の言葉に合わせたように拓斗がさきに行く。那桜、それから和惟と翔流が並んで続き、まるで決まり事でもあるのかという順番で中央会館に向かった。

 *

 会館の外には満員御礼という即席の立て看板があって、そのとおり開演十分まえ、なかに入ると人で満杯だった。
 舞台“ザ・源頼朝”は一押しイベントだからこそその反応については戦々恐々としていた実行委員会だったが、郁美も認めるように、思った以上に内外から高評価を得ている。
 観劇の前後にアンケートを取っていて、回答してくれた百パーセント近くの人が頼朝の印象が変わったと答え、好感度も義経を上まわるほどアップしている。それを裏づけているのが来場客の増加だ。この三日間、午前午後に一回ずつ、トータルで六公演あるのだが、二日目以降、口コミで満員になり、今日は立ち見までという賑わいだ。係わった那桜としては、できすぎというくらい感慨無量だ。
 拓斗とふたりで舞台裏に顔を出すと、だれもが忙しそうで声をかけるにもはばかれた。入り口でためらっているうちに拓斗から背中を押され、同時にサークルの代表から発見された。
 代表は、那桜には緊張と興奮の入り混じった口調で最後の舞台抱負を聞かせ、拓斗を見れば感激といったふうに手を差し伸べて握手を求める。これだけの人気に加えて、拓斗には内緒だけれど、舞台の源頼朝は拓斗がモデルになっているためだ。代表が恩義を感じても無理はない。
 控え室はすぐに引きあげた。

 廊下を歩きながら那桜はふと満杯の会場を思いだす。人がいるところでは繋げない手を拓斗の手のひらに忍ばせながら、覗きこむように見上げた。
「拓兄、実行委員用の席はあるけどほかの人も視察来てるし……」
「立ってるからいい」
 拓斗が答えているわずかな間、カーペットに吸いこまれながらもその足音に気づいたのは那桜がさきだったかもしれない。一秒もたたないうちに拓斗が那桜の手をほどいた。
「拓斗」
 カーブになった廊下の死角から有沙が現れる。
 果たして、拓斗はそれが有沙だとわかっていたのか。
「時間、取れたみたいね」
「有沙さんは何が欲しいんだ?」
 互いに驚くこともなく相容れない会話が応酬された。それとも有沙には通じているのか、ふたりの一メートルさきくらいで立ち止まると、その顔にはふふっと訳のわからない笑みが浮かぶ。
「プレゼントしてくれるの?」
「姉さん」
 拓斗が返事をするまえに立矢の声がした。有沙の背後から心持ち急いだ様子で近づいてくる。
「拓斗さん、こんにちは。来ていただいたんですね」
「舞台は評判がいいと聞いている」
 拓斗が答えたとたん、有沙の目が那桜へと移り、釣られるように受けとめてしまった。それまで圏外扱いしていたわりに有沙の焦点は那桜を捕えてぶれず、むしろ、ぞっとするほど見入られる。果歩の忠告が脳裡をよぎる。那桜はさりげなさを装って立矢へと視線をずらした。
「拓斗さんのおかげです。ありがとうございました」
 口止めしているにもかかわらず、立矢は微妙なお礼を云う。
 拓斗の答えはちょっと首をひねるだけに終わり、このときだけは那桜も拓斗の無口無関心ぶりを救いに思った。もし、なんのことだ、とでも云おうものなら立矢は頼朝モデルの話をするかもしれないし、拓斗はそれを侮辱と思うかもしれない。
 那桜としても実を云うと、舞台の成功はうれしいものの、モデルが拓斗だと思うとどうにも納得がいかないことがあるのだ。
「姉さん、こっちは部外者立ち入り禁止だ。摘みだされるまえにすぐ戻ろう」
「拓斗もそうでしょ」
「拓斗さんはアドバイザーだ。行こう。じゃあ那桜ちゃん、委員席で」
 未練たらたらな有沙に有無を云わさず、立矢は強引にこの場を切りあげようとしている。
「はい」
 うなずくと、立矢は一瞬だけ那桜に目を留め、それから有沙の背中を押して、もと来たほうへと方向転換させた。そこを無理やり有沙が振り向く。ちらりと那桜を見たあと拓斗へと移る。
「拓斗、来てくれてよかった。あとでね」
 拓斗への微笑みはそのまま那桜へと流れてきたが、正面へと向き直る間に消えていた。

 何やら会話を交わしている立矢と有沙の姿が消えるまで、那桜たちは一歩も動かないでいた。見えなくなって拓斗が歩き始めたとたん、那桜は正面にまわってその足を止めさせた。
「よかった、とか、あとでって何?」
「知らない」
 拓斗は一言で一蹴した。
 よくよくたどってみれば、おかしいのは最初の有沙のセリフもだ。
「待ち合わせしてたみたいな云い方。来られないとか云って、ほんとは拓兄、こっそり有沙さんと――」
「おれを呼びだしたのは和惟だ」
 拓斗はさえぎって、那桜が思ってもいなかったことを明かした。てっきりGPSが利用されたと考えていた。それなら、和惟は知っていながら――。やっぱり、行動と『行け』は相反していて混乱する。
「有沙さん、お父さんに云われて結婚相手探してるって。だから、拓兄のことを……」
「だれが云った」
 拓斗が冷ややかに口を挟む。答えなくても拓斗は判断している。それでも問いただすのは和惟と同じで、那桜が云わなかったことが不快極まりないのだろう。
「立矢先輩のこと、よく思っていないこと知ってたから云えなかっただけ。でも――」
 悪い人じゃない、とそう続けようとして、ほんの二時間まえに自らがやったことの二の舞を踏みそうだと気づき、那桜は口を閉じた。
「なんだ」
「……果歩と有沙さんが連絡を取り合ってるってことも聞いたの」
 目を伏せてそう云ったあと拓斗が口を開くまで、何も云ってくれないのかと思うほどの間が空いた。
「おまえには関係ないことだ」
 果歩は友だちで、もうそうは呼べないのかもしれないけれど、少なくとも関係ないことないのに……。
 そこまで思ってからふと気づいた。言葉をちょっと入れ替えてみれば――心配ない、そんなふうに取れなくもない。そうしたら、いままでの言葉も遠まわしなだけで別の言葉に置き換えられるのだろうか。那桜はそんなことを思う。
「はい」
 那桜が答えると、拓斗は行くぞというかわりにわずかに顎を上げて促した。

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