禁断CLOSER#67 第2部 破砕の扉-open-

5.迸出-Gush- -19-


 和惟は周囲の様子を窺いながら人気のある場所からだんだんと遠ざかって、『立入禁止』という黄色いテープを潜ると、(まば)らどころかだれもいない共通講義棟へと入っていく。
「和惟、ここ入っちゃ――」
「断りを入れてる。邪魔されたくはない」
 まえもって予定していたということだ。
「その恰好だったら怪しまれることもないだろう」
 和惟は那桜が着ている実行委員専用のスタッフジャンバーを指差した。いまの季節よりは夏の空を思わせる鮮やかで濃いブルーだ。
 どこへ行くかとついていけば、一階の図書館を通りすぎ、階段を上って視聴覚室のある二階廊下の中央に出た。
 和惟は少人数用の部屋が集まる右へと折れる。反対側は五〇席以上ある大部屋だ。棟内はしんとしていてふたりの足音だけが響いている。奥のほうへと進むうちに和惟は一室のまえで立ち止まり、綿パンツのポケットから取りだした鍵で開錠した。
 そこは十人用のLL(ランゲージラボラトリー)室で、まえを向いて五つ並んだ机が二列あって、教壇の背後には大きなスクリーンがある。
「そこにいて。約束は二〇分後だ」
 室内の時計を見ると、針はまもなく十一時四〇分を指す。
 和惟が那桜に向かって指差したのは教壇の机で、自分は窓際一面の遮光カーテンを半分だけ開けて窓の出っぱりに腰をひっかけた。
 不服そうにした那桜を見て和惟はからかった眼差しで首をひねる。
「かくれんぼは好きなんだろう? それに、本当のことが知りたいなら隠れているべきだ」
 和惟は手帳をかざしてみせた。
 那桜はため息をついて教壇に行くと、机の下に引っこんで膝を抱えた。

「戒斗のバンド、何時からだ?」
「バンド演奏が始まるのは一時からだけど、戒兄たちが出るのは一時半くらいになると思う」
「バンド名、“FATE”だったな」
 そう云った和惟はふっと息を漏らした。笑ったんだろうか。
「何?」
「戒斗らしい……というか有吏の男らしいなってことだ。運命、というよりは宿命だな」
「宿命?」
「そうだ。やるべきことは生まれる以前からすでに決まっている」
「……変えられないの?」
 問いかけともいえないような那桜のつぶやきには答えが返ってこない。
 決まっている。有吏のすべてが、和惟の云ったその言葉に尽きる気がする。決定事項が変更されることは叶わないから、自分の意思を修正するしかない。たぶんそうしてきた拓斗は、だからCLOSERとして在る。
 その氷結させた意思を水に戻そうとするのは、もしかすると痛めつけることになるかもしれない。現に拓斗は惑っている。
「和惟。……拓兄のこと……怖いの」
 それまでも静かだったが、那桜が漏らした言葉は躰が地底に埋められたように、しんとした――それが音ならその音さえもなくなった気がした。
 自分でも思いがけなくて、だからこそ本心かもしれない。
 拓斗の云うとおりにしていれば、拓斗はどんなことからも守ってくれる。けれど、拓斗への気持ちが大きくなったらという不安、心が決まって動かなくなったらという怖さからは守ってもらえない。那桜をそうしてしまうかもしれない拓斗自身からはだれが守ってくれるのだろう。
 足音がして近づいてきたと思うと那桜の目のまえで足がそろう。一カ月まえと同じように和惟の顔が那桜の位置までおりてきた。
「那桜。拓斗のことをおれは、愛すべき、と云ったはずだ。“変える”ことを宿命にしてしまえばいい。それだけのことだ」
 和惟のその那桜に向かってくる気持ちはいったいなんだろう。
「……和惟は……それでいいの?」
「まえにも云ったことだ。それでいいかどうかは拓斗に託すしかない。おれが希むのは――」
 和惟はふと口を噤んで入り口に目を向けた。おもむろに立ちあがると。
「かくれんぼの始まりだ」
 そうつぶやいてまた窓際に戻っていった。

 程なく那桜にもヒールの音が聞こえ、大きくなってきて、止まって、そして戸の開く音がした。
「はじめてかも。和惟さんから誘ってくれたの」
 果歩の声だ。戸が閉まって足音がもっと近づいてくる。教壇のまえを通ったときは、息を止めつつ那桜は身をすくめた。
「そうだったかな」
 足音が止まるなり和惟が応じると、くすっと笑い声がした。
「そう。誘うとしても定期的で、まるでスケジュール。和惟さんはわたしの催促に応えてるだけだよ」
 それから奇妙な沈黙が満ちる。それをさきに破ったのは果歩だった。
「どうかした?」
「どういうことか説明してほしい」
「子供のケンカに親が出るの?」
 本が落ちたような音がしたあと、果歩は呆れて笑うというような声で云い返した。
「ケンカにしてはやることが違わないか」
「やることが違うのは那桜のほう。お兄さんとキスとか平気でできるなんておかしいでしょ。写真を撮ったのだって、和惟さんに目を覚ましてほしかっただけでほかに目的はなかった。手帳にどんなことが書いてあったと思うの? 那桜とお兄さんは兄妹でやっちゃいけないことをやってる。高等部のときから。それなのに、あの迎えにきた日、那桜は和惟さんともキスしてた。わたしに見せつけるように!」
 果歩の一言が増えるたびに那桜は居たたまれなくなっていった。
 あれは果歩に当てつけるためじゃなく、和惟の気持ちを確かめたかっただけ。けれど云い訳にするには那桜のほうが自分勝手すぎる。つまるところ、根底にあるのは、和惟と果歩を認めないという気持ちだから。
「キスはしてない。那桜が拒否したから」
「でも香堂さんはちゃんと見て――」
「香堂さん?」
 果歩が途中でやめたのと和惟が口を挟んだのはどちらが早かったんだろう。どちらともが息苦しくさせるほど黙りこむ。隠れた那桜は身動き一つできない。そして、果歩自身から証拠立てられたことで、やっぱりという以上に心もとなくなった。

「きみが香堂さんと仲がいいってことは知らなかった。意外なところで繋がってるもんだな」
 和惟の声は少しも驚いた様子はなく、むしろ然るべきことといった口調だ。
「……あの人と仲良くなれるなんて人はいない。自己中心的で、人を利用して用がなくなったら終わりっていうような人。だから、わたしも利用してやったの」
「どういうことだろう?」
 和惟は眉をひそめたような声で問いただした。
「さあ……。和惟さんが背中の傷の女の子を捨ててくれたら教えてもいい」
「背中の傷の女の子ってなんだ?」
「触らせてくれなかった。那桜を助けた傷なんでしょ。いまやってるみたいに」
 和惟から失笑が漏れる。
「残念ながらきみの見当は妄想にすぎない。那桜を助けたせいじゃないし、むしろ、だれをも傷つける痕だ」
「それなら、そんなことはどうでもいい。でも、那桜が和惟さんを縛ってるのは確かだし、お兄さんのこともどうかしてる。どうしてわたしではだめなの? 那桜とどこが違うの?」
 果歩の強い口調が和惟に向かう。
「理由はきみが自分自身に訊いてみるといい。自分を()きおろすような男のどこがいいんだ? ってね。きみは根本を間違ってる。那桜がだれを見ていようと――いや、だれを、じゃなく――拓斗を見ていようと、とことん那桜を見守って体することがおれの希んだ宿命だ。それ以上もそれ以下もない。縛るという言葉をあえて使うなら、そうしているのはおれのほうだ」
 最初の辛辣さは途中から際やかに変化し、それは那桜に向けたもので、さっき途切れてしまった答えの続きじゃないかと感じた。
 ヒールの音が四回だけ鳴って止まる。
「わからない。それで和惟さんは何が得られるの?」
「何かを得ようと思ったことはない。すでに宿命として与えられているから。理解できなくても当然だ。だれにもわからない」
「わたしははじめてを和惟さんにあげられる。でも、那桜はお兄さんとだなんて汚い――」
「きみには関係ないことだ」
 聞きたくない単語が成立するか否かのうちに和惟がさえぎった。
 いずれにしろ、汚い、その言葉は那桜のなかで成立した。他人の口から聞かされるとショックであり、拓斗への気持ちを否定されたように感じてわからなくなる。

「そんなに那桜がいいの?」
 混乱している間にも果歩が(なじ)り、那桜はさわさわとしたかすかな音を聞きとった。
「無駄だ」
 嘲った和惟の声は軋んでいるように耳障りだ。
 それから奇異な様相が漂い始める。耳を澄ましてみると、呼吸音はどうにか捉える。何をやっているかは見えなくても、静けさゆえにある程度の見当はついた。睨み合いのはずはなく、那桜はかくれんぼを放棄したい衝動に駆られる。
 そうしてどうするの? なぜ?
 自分に投げかけた疑問にはっきり答えられるのは一方だけだ。止める。
 けれど、なぜ――そこに明確な答えは見つけられない。ついさっき、和惟がくれた答えはその気持ちで充分なはずなのに、それでも自分は引き止めたがるのだろうか。相手が果歩じゃなかったらいい? そこにも答えはない。
 苛々した気持ちでくちびるを咬んでいると、何分たったのか、和惟が不快そうなため息で沈黙を終わらせた。
「きみのプライドは保ってやったのに。なんのつもりか知らないけど、那桜と同じ恰好をしようが意味はない。きみはほかの女と同じで、おれのプライドを潰すことしかできないだろう?」
 スッと息を呑むような気はいがした。なんのことだろうと那桜は眉をひそめる。一方で、プライドを潰されたと主張するわりにおもしろがった笑みを漏らしたのは和惟だ。

 衣擦れのかすかな音がして、そして。
「那桜」
 息を呑むのではなく、止まった。明らかに和惟は那桜に呼びかけている。躰もまた固まって、余計に息がつまる。
「那桜」
 再び和惟が呼ぶ。
「和惟さん、何……」
 果歩が怪訝そうに云いかけているさなか、和惟の足が見えた。那桜がおそるおそる顔を上げると目のまえに手が伸びてきた。鼓動音がばかみたいに大きい。もっとも、聞こえるのは自分だけだ。
「那桜、何度も云う。おれが那桜を裏切ることはない」
「……酷い」
 つぶやきながらも那桜がおずおずと手を伸ばすと、すかさず和惟がキャッチする。
 気まずいどころではない。隠れていたなど意気地なしで疾しさしかない。友人としてどんな裏切りがあったにせよ、いま“酷い”と云える立場に値するのは那桜ではなく果歩だ。そうわかっているから那桜は立ちあがっても視線を合わせられなかった。
「那桜――!」
 そう呼んだきり、果歩はおそらく言葉を失った。
「見てればいい」
 だれに云ったのか、うつむいた那桜はわきを抱えられて教壇の机に腰かけさせられた。
「那桜、触って」
 何を要求しているのかはわかって、それまで和惟と果歩がやっていたことがはっきりした。やだ、と口走る気持ち、そして、プライドって何? と疑問に思う片方で那桜は強く首を振った。和惟の命令を聞けるわけがない。
「もういい」
 そう放って机からおりようとした。が、和惟は那桜の脚を開き、その間にピタリと太腿をつけてきて閉じられなくさせた。

「和惟――」
 和惟の顔はずっと上にあり、見上げたとたん、頬がしっかりと捕まれて仰向けに固定された。
 驚いて緩んだ那桜のくちびるに、和惟はぶつけるようにして自分のくちびるを合わせた。短く呻いた直後、舌が侵入してきて呻き声も封じられた。頬の裏をくすぐるように這い、口のなかの天井を舐めるように撫で、ふくらかな舌を愛でるように絡める。
 ぶつかったときのわずかな痛みは、甘いという錯覚のなかに消えた。キスは甘ったるい毒へと変化して、薬物のように那桜の思考を侵して狂わせる。
 和惟の手が片方だけ離れて、くちびるがほんの少し浮く。目を開くと視界は和惟の眼差しでいっぱいだった。いつもの言葉が那桜のくちびるに流れてきた。
 和惟は那桜の手をつかむと自分に触れさせた。見られないぶん、素の感触に思わず確かめるように手のひらを這わせた。硬くなりかけていたそれは、男を誇示するように那桜の手の下で大きくなった。ピクリと跳ねて逃げそうになった和惟を包むと、のけ反らせた那桜の顔に苦しさを堪えるような唸り声が降りかかる。
 直後、くちびるがふさがれて、かと思うと吸着音を響かせて離れていった。

「簡単だろう? きみがショックを受けることはない。ある種、おれの不能は病気だから。ほかのどの女もきみと一緒だった。おれを男にできるのは那桜だけなんだよ」
 冷や水を浴びせられたように那桜はぞっとした。状況がすっかり飛んでいて、あまつさえ時間が後退していたかもしれない。尚且つ驚きに委縮して、ほどくどころかしっかり握った那桜の手は、握らせた和惟自らがそこからどかした。
 あられもない自分にショックを感じるなか、無意識のうちに果歩に目を向けた。
「果歩……」
 そこからさきは何を云おうとしたのか、何を云うべきなのか少しも言葉は出てこない。
 那桜が呼びかけたことで、果歩は弾けたように、服を直す和惟の手もとから那桜へと視線を移した。その目に浮かぶ気色が痛みから辛辣な様へと変わっていく。
「なんなの。清楚なお嬢さまは見かけだけで、実は男を翻弄する悪女ってわけ?」
「那桜が悪女なら、きみはなんなんだろうな。きみに気がある素振りを見せたことは些細もないし、きみの望みがおれにとって脅迫だったことは云った。きみもわかってるはずだ。きみは、那桜に理不尽なことをしているんだよ」
 和惟がゆったりした口調で那桜をかばい、果歩は目を光らせて剣呑とした。
「和惟、もういい。あとは――」
「なんのこと?」
 果歩は那桜を無視して和惟に詰め寄った。
「有吏を侮るなっていう警告はこれで二回めだ。きみから教えられなくてもつかんでいることはある。跡が残らないと思ったら大間違いだ。すぐ手を引いたほうがいい」
 和惟が云い終えると同時に張りつめた空気がよぎり、そして、果歩は足もとの手帳を拾うと、机に置いたバッグを引ったくるように取って背を向けた。

 和惟の発言からすれば、ただ単に手帳のことではなく、なんらかの策略があるということだろうが見当もつかない。それを気にするよりも、那桜は和惟を押しのけるようにしてとっさに机からおりた。
「果歩っ」
 部屋を出たとたんの呼びとめた声は廊下を通り渡った。無視されたかという矢先、足が止まる。
 果歩は振り向きながらバッグに手を入れ、取りだしたものを自分の顔の横に掲げた。直後。
「忘れてた。返してあげる。もういらないから」
 那桜の足もとに飛んできたのは手帳だった。
「果歩、どうしてこんなこと……ブログのことも!」
「やっぱり気づいたから消しちゃったんだ。それとも郁美が喋った?」
「わたしが気づいたんだよ。果歩がおかしいって思うようになって、それで郁美に訊いた。紹介してくれたのは郁美だったから」
「おかしい? おかしいのはお兄さんと関係持った那桜でしょ。ブログのことはべつに意味はなかった。お互いに退屈しのぎじゃない? わかってくれるかなって思ったし。それに、わたしと和惟さんのことに口出さないんなら、那桜がお兄さんとどんな関係であろうとお兄さんに集中してくれればいいって、それで全然かまわなかった。なのに那桜は……」
 果歩はくちびるを咬んで途切れさせた。突き刺すような眼差しが那桜に向かってくる。
「……和惟は――だめなの」
 那桜はためらい、痞えながら訴えるように口にした。次には謝るべきなのかどうかもわからないまま、謝罪の言葉が飛びだす。
「ごめ――」
「引き止めるのが上手」
 那桜をさえぎった果歩は侮蔑を込めて云い、その視線は那桜を斜めに通りすぎた。
 それを追ってみると、和惟が戸の枠に背中を預けてこっちを眺めていた。那桜を見る目はあやすようで、それから果歩を向いた目はプラスティックスマイルを浮かべる。
 那桜が正面に向き直ると、果歩もそうした。
「那桜、謝らなくてもいいんだよ。わたしはそれなりにお返ししたから。あの人には気をつけてね」
 果歩は形だけの笑みを浮かべて身をひるがえした。その姿は階段に消えて、ヒールの音は徐々に遠ざかっていった。
 そのかわりに後ろから和惟が足音を立ててきて、那桜のまえでかがんだ。手帳を拾い、那桜に渡しながら背中を押して方向転換させた。

「めそめそするかと思ったけどな」
 教壇の机の下から斜めがけのバッグを取って手帳をしまっていると、和惟がからかってきた。指定席みたいにまた窓際に控えている和惟は能天気にみえて、那桜は恨めしく見つめた。
「後ろめたいから……それに……」
 言葉を濁すと、和惟が首を傾けた。
「それに?」
 ほっとしたから。そんな本音を口にしてしまえば本当に悪女になりそうだ。いや、思った時点で最悪なんだろう。自分でも消してしまいたくなるような嫌な気分で、いまは考えたくないと思う。那桜は横に首を振った。
「泣きたいのは果歩のほう。……どうして果歩と? あのときだめになったんじゃなかったの?」
「那桜に責められるなんて心外だな。那桜のためということに偽りはない」
「果歩とは……」
 どこまでいったの、と続けるのをためらうと和惟はそっぽを向いてせせら笑い、また那桜を向いた。
「聞いてなかったのか。少なくとも、おれがだれかにイカされたことはない。ついでに、そういう意味ではあの別荘の夜から那桜以外の女には触れてない」
 またほっとした。その気持ちを見透かされているようで、じっと見つめてくる和惟の目を怖く感じた。それを紛らそうと那桜はべつの大事を持ちだした。
「果歩が……『あの人には気をつけて』ってやっぱり有沙さん? 手を引けって何があるの?」
 驚きもなく問いかけた那桜を見て和惟は目を細めた。
「知ってたんだな」
 那桜の質問には答えず、和惟は逆に説明を求めてきた。
「立矢先輩のことも調べはついた?」
 遠回しな返事に、和惟は気に喰わないといった表情を浮かべる。那桜は手もとに目を落とすと、バッグの口を閉じながら続けた。
「気をつけなくちゃいけないのは有沙さんで、“香堂姉弟”じゃない。立矢先輩は裏なんてなくてあのままの人。だから教えてくれたん――」

 バッグを斜めにかけたとたん、和惟は背後から那桜を片羽固めにした。関節がわずかも動かせないように左腕を絡めとられ、(ひたい)を手のひらが覆って後頭部が和惟の胸に押しつけられる。
「和惟っ」
「云っただろう。やすやすと出しゃばられて、おれが平気だとは思うな。認めていいのは拓斗だけだ。その拓斗も――だらしないっていうんなら」
 そこで途絶え、左腕が解放されたかわりに右頬を支えられ、那桜は顔を斜めに上向けられる。
 強引すぎてわけのわからなくなるキスがまた襲ってきた。見せつけたキスよりも抵抗心が薄れるほど執拗で、和惟の舌と蜜が口のなかを侵蝕する。
 和惟が顔を上げた。
 拓斗の息苦しくなるキスとは違う、甘味料を舐めさせられているような満腹感が残る。そう拓斗と比べてしまったところで那桜はふと我に返った。
「拓兄がいないところで、しないで、って云ったのに!」
 息を切らしながら詰った。真上から細くした目が睨むように注がれる。
「怖がるなんて那桜らしくないからだ。なんでここまで来て止まる? 那桜がやらないなら一心同体であるおれのばんだろう」
「どういう――」
 最後まで云えず、回れ右をさせられて始まったのは正面からの長い長いキスだった。いつもみたいに無理やり那桜の顔を持ちあげてではなく、頭の後ろを軽く片手で支えながら和惟は躰を折るようにかがめて顔を傾けている。こういう形は覚えているかぎりはじめてだ。
 愛してる。そう音になるよりもくちびるから沁みこんでくる気がした。
「那桜、やって」
 キスがあまりに長すぎて、くちびるの感覚が麻痺している。くちびるが離れたことに気づかなくて、意思が戻らないうちに和惟は那桜の手を自分のものに添わせた。
 それから和惟の手は、お尻を隠すくらいの丈のチュニックをたくし上げ、ルーズなロールアップジーンズのおへそ辺りをまさぐる。ウエストの締めつけが緩んだかと思うと、和惟の手が忍びこんできた。
 繊細な突起をかすられて腰が小さく飛びあがるのに伴い、那桜の手に力が入って和惟が呻いた。顔を傾けたままの和惟の息が那桜のくちびるにかかる。

「もっとだ」
「だめっ」
 拒否した言葉はつぶやくようで説得力に欠ける。けれど――。
 あ、あっ。
 那桜の快楽加減を熟知した和惟の指先がそこをふるわせる。すでに充血していて痛くはなく、ただ快楽が発生した。
 応えたくない! 内心で強く叫びながらもこれまで止められなかった。けれど。いままでとは違う。どんなに怖くても拓斗の、あの公園でしたキスを――互いの気持ちを大切にしたい。
「やっ、もういい! 拓兄っ」
 和惟から離そうとした手はそのまえにつかまる。那桜の口もとで薄らとした笑い声が漏れる。
「拓斗は来ないって云ってただろう」
 背中を引き寄せられたかわりに那桜の手は自由になったものの、和惟のもう片方の指が躰の中心を引っ掻くように動いた。
「あ、ああ……うくっ……ぃやっ」
「おれを引き止めるくせに。おれの最優先が何か確かめたからもういいって? 那桜、那桜の躰はおれを嫌がっていない。知らないだろう、本当に嫌だったら反吐(へど)が出る。在り処が決まってるなら尚更だ。義務でやる不快さを知ってるか。されたくもないのに弄られて粟立つ。那桜、それを消して」
「だめなのっ。拓兄しか――」

 云い終わるまえに、壊れるかと思うほど戸と枠のぶち当たる音がした。
 ハッと顔を振り向ける那桜と違い、和惟は少しも慌てずにかがめていた背を起こした。
 和惟の手が離れて、那桜は躰ごと入り口を向く。立ちすくんでその眼差しを受けとめた。
「那桜お待ちかねの拓斗だ。よかったな」
 拓斗に対してか那桜に対してか、背後からのこけにしたような声が那桜に耳鳴りを起こさせた。

BACKNEXTDOOR